まちへ、森へ。

旧東海道を戸塚から藤沢へ

4.時宗総本山遊行寺

 

3.旧住友家俣野別邸、旧モーガン邸跡はこちら。

 

 

旧東海道、遊行寺坂上バス停。

 

 

 

遊行寺坂を下っていく。箱根駅伝の中継でも度々その名を耳にする、遊行寺坂。江戸の昔は道場坂と呼ばれていた。

 

 

 

遊行寺坂一里塚跡。江戸から数えて12番目。

 

 

 

近代以降、坂は勾配を緩めるために切り下げ(掘り下げ)られて切通し状になっている。江戸時代の一里塚は当時の路面だった崖の上にあった。

 

 

 

諏訪神社。
この付近に江戸見附跡があって(案内は反対車線側)、見附からが宿場町となる。

 

 

 

元日には「遊行上人御参拝上人自らお札の授与がございます」とある。

 

諏訪神社は遊行寺の創建(正中二・1325)に先立つ正応二年(1289)の創建。遊行寺四世呑海上人遊行の途次、信州諏訪大明神を山中鎮護のため勧請したのが始まり、とされる。現在は遊行寺と諏訪神社は旧東海道で隔てられているが、かつては一つの山でつながっていた。現在地に移されたのは元禄十二年(1699)。
参考「かながわの神社」

 

 

 

諏訪神社の参道も階段になっている。これも道が切り下げられた結果、こうなったのだろう。

 

 

 

藤沢橋。
江戸時代にはこの位置に橋はない。この位置に架橋されたのは近代期、関東大震災後の大正14年(1925)。

 

 

 

右折して遊行寺橋へ。

 

 

 

江の島弁財天道標。

 

この道筋は旧東海道藤沢宿から分岐する「江の島道」(江の島弁財天への参詣道)であり、かつてこの辺りに起点となる江の島弁財天一の鳥居が建っていた。

 

 

 

「東海道五拾三次之内 藤沢」(保永堂版)初代広重画

 

江の島弁財天一の鳥居が大きく描かれている。大鋸橋(だいぎりばし。現在の遊行寺橋)の奥に宿場町の家並と遊行寺が描かれている。

 

画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

 

角を右折。

 

 

 

赤い欄干の遊行寺橋。旧東海道の道筋はこちらとなる。

 

 

 

橋を渡っていくと奥に大きな冠木門(かぶきもん)が見える。

 

 

 

時宗総本山・藤澤山(とうたくさん)無量光院清浄光寺(むりょうこういん しょうじょうこうじ)の惣門(総門)。遊行寺公式サイトによると、明治以降は「黒門」と称されている。
貫(ぬき)の中央に見える時宗の宗紋は「折敷に三文字(おしきにさんもじ。隅切り三・すみきりさん)」。一遍上人の出身一族の家紋に由来する。

 

清浄光寺は鎌倉末期の正中二年(1325)、開祖の一遍上人から数えて四代目の弟子にあたる遊行四世呑海(どんかい)上人により創建された。世間一般的には近世以降の通称となる遊行寺(ゆぎょうじ)の方が、はるかに通りがいい。
初めは清浄光院と称したが延文元年(1356)に清浄光寺と改称。呑海以降、遊行上人は各地の遊行から引退すると藤沢山に住んで藤沢上人と称した。
参考「神奈川の東海道(下)」

 

 

 

「東海道名所之内 ふぢさは遊行寺」五雲亭貞秀画

 

貞秀は幕末の絵師。横浜開港場を上空から眺めて描いた「御開港横濱之全図」といった鳥瞰絵図でも知られる。
手前に江の島弁財天一の鳥居と大鋸橋(遊行寺橋)、奥に遊行寺が描かれている。惣門は現在の冠木門とは異なり屋根を架けた門、奥には楼門(仁王門)の山門が描かれている。

 

 

 

「東海道名所図会六巻 藤沢清浄光寺」

 

 

画像出典・二点とも国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

 

石畳の参道は「いろは坂」と呼ばれる。

 

 

 

真徳寺赤門。

 

 

 

遊行寺公式サイトによると、真徳寺はもともとは遊行寺の四つの塔頭(たっちゅう。寺院内の寺院)から成っていた。赤門はその頃からの俗称であった。時を経て、昭和の戦前期に四つの塔頭が合併し真徳寺の寺号に改められた。

 

 

 

真浄院。

 

 

 

真浄院も遊行寺の塔頭。創建は遊行寺とほぼ同時期で、遊行寺山内の筆頭寺院となった。

 

 

 

この石門は山門跡となる。貞秀の錦絵にも描かれた楼門の山門は明治13年(1880)に焼失。楼門に掛っていた「藤澤山」の扁額(公式サイトによると東山天皇の直筆による勅額)は本堂内にある。

 

 

 

境内案内の絵図。
藤嶺学園藤沢の藤嶺とは藤沢山のこと。

 

 

 

大銀杏。
案内板によると樹高21m、幹回り710pとある。昭和57年(1982)8月の台風で地上6m辺りで幹が折れてしまったといい、それ以前は31mの樹高があった。
樹齢は台風による折損時の部材の年輪測定では250年だったが、根元の外周から生えた若木が成長し元の木が枯れて空洞となることもあるので元来の樹齢は不明とせざるを得ない、とある。

 

 

 

本堂。関東大震災(大正12・1923)で倒壊したのち昭和12年(1937)に復興した。

 

 

 

本堂の向拝(こうはい)回り。

 

 

 

時宗開祖の一遍上人像。

 

一遍と鎌倉・藤沢とのかかわりは、片瀬の旧蹟「一遍上人地蔵堂跡」が知られている。八代執権北条時宗に鎌倉入りを拒絶された一遍は片瀬に滞在。踊念仏を重ねたのち、京へと向かった。

 

質素な身なりで全国を遊行し、時宗の教えを踊念仏で広めた一遍。各地に御縁を持ったのであろうが、それらの内ここ藤沢の地が弟子によって総本山の地となり御縁が深まった。

 

 

 

俣野大権現。

 

俣野大権現として祀られているのは遊行寺を開山した呑海の実兄である俣野の地頭・俣野五郎景平(またのごろう かげひら)。俣野氏は相模国鎌倉郡俣野を本拠とした、坂東平氏の一門・鎌倉氏を祖とする鎌倉党の一族。鎌倉時代の末期に広大な敷地と堂を寄進することで総本山としての基礎創りに多大なる貢献をした。

 

 

 

駐車場の奥(道路側)に、あまり目立たない小さな石塔が建っている。
これは室町時代の前期、応永25年(1418)に造立された「藤沢敵御方(てきみかた)供養塔」。国指定史跡となっている。

 

造立のきっかけは上杉禅秀(うえすぎ ぜんしゅう)の乱(1416〜1417)。室町幕府の関東統括機関である鎌倉府の長官にあたる第四代鎌倉公方の足利持氏に対して、補佐役の関東管領を務めた上杉家の一族である上杉禅秀が起こした反乱である。
反乱は関東各地の武士を巻き込んで拡大、長期化した。結果として、室町幕府の援軍を得た持氏とその支援者が大攻勢をかけて禅秀を自害に追い込み反乱は決着。勝者の持氏が敵味方の区別なく戦乱で命を落とした人馬を弔うために、時の遊行上人を頼って供養塔を造立したとされる。

 

こうした敵味方の区別のない供養塔の国内における事例としては最も古いものとされ、大正15年(1926)に国指定の史跡となった。

 

 

 

梵鐘。

 

鋳造は室町前期の延文元年(1356)。
鋳造から時を経ること百数十年、戦国時代の永正10年(1513)に遊行寺は三浦道寸と伊勢宗瑞(北条早雲)の抗争のもと兵火により全焼の憂き目にあう。梵鐘は北条方に持ち去られて陣鍾として使用され、後々に寿昌寺(小田原市)に移された。この頃の遊行寺は荒廃しきっており、遊行上人は引退後に藤沢に住むことなく本尊は駿河国長善寺(静岡市)に移されている。

 

やがて鐘は江戸前期の寛永3年(1626)に再興なった遊行寺檀信徒の尽力によってこの地に取り戻された。
鐘一つとっても、そこにはドラマがある。

 

 

 

中雀門(ちゅうじゃくもん)。安政6年(1859)に建立された、向唐門(むかいからもん)の四脚門(しきゃくもん)。関東大震災で倒壊したものの引き起こされて再建され、境内で最も古い建物となる。

 

 

 

この門は唐破風(からはふ)に皇室とのゆかりを示す「菊の御紋」をあしらった勅使門(ちょくしもん。天皇の使者を迎える門)となる。

 

 

 

中雀門の隣りは寺務所の門となる黒門。現在の門は黒くないが、ここに建てられていた門は近世以前から黒門と称されていた。

 

 

 

御番方(ごばんかた)。関東大震災で倒壊した後に古材を用いて再建された。こちらは檀信徒の受付窓口となる。

 

 

 

放生池(ほうじょうち)。
放生池は生き物を放って殺生を戒める儀式の放生会(ほうじょうえ)に用いる池として寺院に造られている。

 

 

 

遊行寺の放生池では江戸五代将軍綱吉による生類憐みの令発布に際し、江戸市中の金魚・銀魚が集められて放生された。

 

 

 

本堂脇から百間(ひゃっけん)廊下をくぐり、宇賀神社へ。

 

 

 

宇賀神社。宇賀弁財天を祀る。
案内板及び公式サイトによると遊行寺の宇賀神には徳川の祖とされる有親、その子である泰親に所縁の伝承があるという。

 

 

 

宇賀弁財天は日本古来の神である宇賀神(うがじん)と仏教に由来する七福神の弁財天が習合した神。宇賀神、弁財天ともに水神信仰と結びつくという共通点がある。

宇賀神は財をもたらす福神として信仰されてきた。近在の社では鎌倉の銭洗弁財天(宇賀福神社)が著名。大磯の旧大隈重信邸(明治記念大磯邸園)でも古河財閥邸時代に建碑された宇賀大神の碑を目にした。
宇賀神の姿は頭部が人頭の、とぐろを巻いた白蛇で表される。そして宇賀弁財天は琵琶を持った弁財天像が頭上に宇賀神像を載せて一体化した姿で表されることが少なくないようだ。あるいは宇賀神そのものの姿で宇賀弁財天を表すこともあるようで、相模七福神の弁財天(座間市・龍源院の弁財天)は宇賀神の(蛇の)姿をした弁財天像が奉安されていた。

 

今回の探訪では鳥居の先はスズメバチ営巣のため立ち入り禁止、となっていて祠やその奥の銭洗弁財天に近づくことはできなかった。

 

 

 

歴代上人御廟所。

 

 

 

中央正面のひときわ大きな無縫塔(むほうとう。卵塔)が開山塔すなわち遊行四世呑海の墓となる。

 

 

 

続いて長生院(ちょうしょういん)へ。

 

 

 

長生院は遊行寺の塔頭。

 

 

 

本堂には「小栗堂」の扁額が掛かる。

 

長生院は、歌舞伎や浄瑠璃の演目で人気を博した「小栗判官・照手姫(おぐりはんがん・てるてひめ)」の照手姫が夫亡き後出家して長生尼と号し、この処に草庵を結んで過ごしたという所縁がある。

小栗判官・照手姫の伝説は日本各地に伝わっている。その細部において伝説ごとに幾つかの違いが見られるが、遊行寺(長生院)に伝わる伝説はその中でも代表的なものということになろう。
なお「新編相模国風土記稿 巻之百三 鎌倉郡之三十五 山之内庄 大鋸町 清浄光寺 支院 長生院」には長生院略縁起と鎌倉大草紙(室町前期の関東を記録した軍記物語)のあらすじが紹介されている。そして「縁起は全く後に付合せし物にて『大草紙』に記す所信據(しんきょ。信じて拠り所とすること)とすべし」と当時の知見に基づいて編著者なりに評価している。

 

 

 

小栗判官・照手姫の墓所はお堂の裏手にある。

 

 

 

小栗判官の墓。近世以降に見られる折衷的な様式の宝篋印塔(ほうきょういんとう)。

 

 

 

小栗判官・照手姫の伝説のあらましが記された案内板。こちらのあらましは伝説に一部史実を重ね合わせているようだ。

坂東平氏の一族として常陸国(茨城県)小栗の領地を治めた小栗氏の十四代目となる小栗満重は室町前期の応永30年(1423)、鎌倉公方第四代足利持氏と一戦を交えるも敗れて小栗城を落とされた。そこで満重は三河国(愛知県)の一族を頼って子の助重、十勇家臣らと落ち延びていく。途中、相模国俣野(戸塚区東俣野)の山賊横山大膳の館で歓待を受けるも、事を図った大膳に毒を盛られて家臣ともども殺されてしまう。一行は野に打ち捨てられてしまうが、時の遊行上人の手によって手厚く埋葬された。
ただ一人、訳あって大膳の屋敷に仕えていた照手姫の手助けによって難を逃れた助重は熊野本宮・湯の峰温泉に浴して恢復。満重の死後十余年を経て結城合戦(1441)に幕府方の将として活躍した論功により小栗領に復する。助重は非業の死を遂げた父と十勇家臣の追善のため藤沢山に入りその墓を営んで供養した、と伝わっている。

 

 

 

照手姫の墓。宝篋印塔と五輪塔を折衷したような様式になっている。

照手姫は相模国小原の美女谷(旧相模湖町の底沢地区)にて生を受けたという伝説がある。照手姫の父は、元は北面の武士(院の御所を警護する武士)だった。しかし父母が相次いで世を去り、照手姫は横山大膳のもとに拾われていた。

 

 

 

名馬鬼鹿毛(おにかげ)の墓。

鬼鹿毛は大膳の元で飼われていた人喰いの荒馬。大膳は初めに満重がこの馬を乗りこなすことができずに噛み殺されてしまうであろうと目論んで乗馬するよう仕向けたが、満重は難なく乗りこなしてしまった。大膳の屋敷があったとされるあたり(「聖母の園」の裏山、「ウィトリッヒの森」を含む一帯の森)は、かつて鬼鹿毛山と呼ばれていた。

 

 

 

小栗判官照手姫対面の図 国貞改め二代豊国画

 

小栗判官の病気が平癒し美濃国(岐阜県)垂井宿の萬屋に照手姫を訪ねて久しぶりに夫婦対面する場面(錦絵の表題による。伝説で登場する古代〜中世の東山道の青墓宿が近世の中山道の垂井宿と変えられているのは当時の人々に馴染みのある地名にするためか)。

助重を逃がした照手姫は大膳の屋敷を逃げ出すも追手に捕らえられ、侍従川(じじゅうがわ。朝比奈峠付近から金沢区六浦の海へと流れる)に投げ込まれたが六浦(新編相模に野島ヶ崎とある)の漁師に救われる。しかし漁師の妻に妬まれて人買いに売り飛ばされてしまう。各地を転々と売り飛ばされ、やがて美濃国の青墓宿に流れ着いた。
一方満重は大膳に毒を盛られるも閻魔大王により蘇生され、夢で閻魔大王のお告げを受けた遊行上人に救われる。上人はお告げに従って瀕死の満重を熊野の湯まで民衆に「功徳を得られる」と車を引かせて送り届けさせる。満重は恢復し、幕府に訴え出て常陸国小栗の所領を回復。国元に帰ると兵を引き連れて横山大膳を討つ。満重は遊行上人へのお礼のため遊行寺に詣でて家臣の菩提を弔った。そしてついに照手姫が青墓宿で下働きをしていることを突き止める。

 

 

 

「伊呂吉由縁藤澤(いろもよしゆかりのふじさわ)六巻」(柳亭種彦作 歌川国貞画)より小栗判官と照手姫
文政四年(1821)に出版された草双紙合巻の挿絵。作者の柳亭種彦(りゅうてい たねひこ)は代表作「偐紫田舎源氏」(にせむらさきいなかげんじ。ニセ紫式部によるパチモン光源氏とは江戸っ子が食いつきそうなタイトルだ)で知られる当代きっての人気戯作者。彼の手により小栗判官・照手姫伝説は脚色された読み物となった。

 

画像出典・二点とも国立国会図書館デジタルコレクション

 

柳亭種彦が小栗判官照手姫の数々の伝説からどのように着想を得て脚色したのかは知らないが、元ネタの伝説は各地に様々に伝わっていた。

相模原に伝わる伝説では横山は土豪の横山氏となる。横山氏は武蔵国横山を本拠とした武蔵七党の一族で、武蔵国南部から相模国北部にかけてを一族が支配した「横山党」の中心的な家。伝説の舞台は相模原台地の西縁、相模横山(横山丘陵)となる。照手姫は横山将監何某の娘で、出生は姥川源流(姥沢)の水源地あたり。小栗満重と夫婦の契りを交わしたことが父の怒りに触れてしまい、姫が投げ込まれた川は相模川となる。一帯は相模原市によって「照手姫伝説伝承地」として整備されている。
伝承地の南、相模原市当麻(たいま)は一遍上人の修行道場・当麻山無量光寺(たいまさん むりょうこうじ)が遊行寺に先駆けて開かれた地。遊行二世信教、三世智得の御廟所は無量光寺にある。度重なる戦乱の故に古文書が現存しないとしても、遊行上人が要所に絡む小栗判官照手姫伝説が相模原の地で伝承されていく素地は十二分にあるといえる。

 

説経「をくり」(鎌倉期〜江戸前期に演じられた説経節・説経浄瑠璃の曲目)では、熊野に向かう車に乗せられ人々の手で引かれていった満重(遊行上人により餓鬼阿弥と名付けられた)が青墓宿に差し掛かった時、下働きをしていた照手姫(常陸小萩と名を変えていた)が餓鬼阿弥を夫の小栗とも知らずに亡き夫の供養とばかり五日の休みをもらい、近江大津まで車を引いていく。そして大津で後ろ髪を引かれる思いで餓鬼阿弥と別れ青墓宿に帰ってゆくという、何ともドラマチックな展開となっている。

参考
藤沢を知る「小栗判官・照手姫」(藤沢市教育センターウェブサイト)
照手姫伝説伝承地(相模原市ウェブサイト)
説経「をくり」の離陸(瀬田勝哉)

 

遊行寺散策のあとは、藤沢宿歩きへ。

 

5.旧東海道・藤沢宿

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