令和七年(2025)の4月中旬から下旬へと移ろう頃。つつじの最盛期を迎える季節、「文京つつじまつり」が開催される根津神社(東京都文京区)の「つつじ苑」へ。つつじ苑にはおよそ100種、3000株のツツジが植えられている。
根津神社つつじ苑・文京つつじまつり


根津神社の最寄り駅のひとつ、東京メトロ南北線東大前駅・1番出口。つつじまつりの案内看板が出ている。本郷通りを看板の矢印の方向に進み、すぐ右折。


右折して進み、道なりに左折していく。右手から正面にかけては東大本郷・弥生キャンパス。このあたりの建物は農学部。


浄土真宗本願寺派・西教寺(さいきょうじ)。寛永年間(1624〜1644)に湯島にて創建され、現在地には元禄二年(1689)に移転した。
朱塗の門は、代々にわたって老中や大老を務めた姫路藩主・酒井雅楽頭(うたのかみ)家の上屋敷中庭に幕末のころ建てられたものが、明治期に移築された。鐘楼も江戸時代の築とされる。いずれも震災や戦災を免れ、こうして現存している。
なお横浜杉田(旧杉田梅林)、横須賀西浦賀、江の島など各地をまち歩きしていて度々その名を目にした江戸琳派の大家・酒井抱一(さかい ほういつ)は、徳川四天王と謳われた酒井氏の主たる家系のひとつである雅楽頭酒井家の出身。文人として名を成した抱一は武家の、それもかなり上流の家の出身だった。


マンサード屋根(マンサール屋根、ギャンブレル屋根。腰折れ屋根)のレトロモダンな建物は、昭和初期頃の建築だろうか。


東京大学地震研究所の門。門の脇に石のオブジェが置かれている。これは地震研の旧建物の外壁飾りだそうだ。
ここ東大弥生キャンパスに本部を置く地震研は、その研究テーマ(地震、火山)の性格から関連施設が全国各地に置かれている。三浦半島・油壷(新井城址)を歩いたときには、地震研の地殻変動観測所という施設があった。


日本聖公会・東京聖テモテ教会の角を右折。
日本聖公会は幕末から明治初期における日本の高等教育に多大なる影響を与えた。安政の開国(1859)と同時期に来日したチャニング・ムーア・ウィリアムズ(のちに日本聖公会の初代主教となる)は立教大学を創設。大隈重信は長崎でウィリアムズに英学を学び、教育者としての聖公会との関わりは深い。福沢諭吉は英国国教会(イギリスの聖公会)のバブリックスクールをモデルとして慶応義塾を創設した。東大の前身である開成学校でも聖公会の宣教師が教鞭をとっている。


新坂(しんざか。案内板には「権現坂」「S坂」とも呼ばれる、とあった)を下っていく。
それぞれの名前の由来は案内板にあった。曰く、新坂は本郷通りから根津谷に下る新たな坂道として造られたことから。権現坂は根津権現の表門に下る坂なので。S坂は森鴎外の小説「青年」に現れる一節に因んで。


根津神社・表参道口に到着。
何か、つつじ苑に入園する人たちの列が凄いことになっている。


長蛇の列は鳥居前から不忍通り(しのばずどおり)に出て根津駅(東京メトロ千代田線)方面まで続いていた。週末とはいえ、ツツジを見に来る人がここまで多いとは予想外だった。
列の最後尾から鳥居前まで、かかった時間はおよそ15分。


鳥居前からつつじ苑入口までは、列を何度か折り返しながら進んでいく。ここからさらに15分。


境内案内図。
根津神社が遷座したこの地は徳川綱重(甲斐・甲府藩主。五代将軍綱吉の兄、六代将軍家宣の父)の下屋敷だったところ。
下屋敷は一般的には大名家のプライベートな別荘で鷹狩りに出るときなどに利用する。江戸城本丸に近い上屋敷は江戸における大名公邸、中屋敷は江戸在住の(人質の)妻子を住まわせる私邸といった使われ方をしていた。
家宣が綱吉の養子となって御世継ぎと定まったのを機に屋敷地が根津権現(旧社地は千駄木の団子坂北、元根津)に寄進され、宝永三年(1706)に社殿などが造営された。


神橋と楼門。
楼門は造営された当時より現存する建物のひとつ。国指定重文となっている。都内の数多の社寺が震災や戦災により焼失したなか、よくぞ生き延びた。


つつじ苑の入場者は神橋の隣りに設けられた橋へ。


白い鳥居をくぐった左手がつつじ苑入口。奥には千本鳥居。


入苑待ちの列から見るつつじ苑。
つつじはこの地が徳川綱重の屋敷地(六代将軍家宣の生誕地)であった時にキリシマツツジが植えられたのが起こりという。当時のつつじは上州舘林から移植された。そこから数えるのであれば三百年以上の歴史がある。戦後の復興を経て現在はおよそ100種、3000株のつつじ苑となった。


冠木門(かぶきもん)をくぐり、苑内へ。入苑料は500円(2025年現在)。


色とりどりの、華やかなつつじ苑。


小高い丘の上に洋館が見える。由緒の案内板は園路を上がった上に立っていた。




つつじ苑にはキリシマツツジ(ホンキリシマ、ベニキリシマなど)やクルメツツジ、ヒラドツツジ(オオムラサキなど)といった多様な園芸品種のほか、ゴヨウツツジ(シロヤシオ)といった山地の野生種も植栽されていた。見た目にも、とても華やか。










洋館は明治30年ごろ、生地貿易商を営む渋谷(しぶたに)正吉により建てられた。建物は国の登録有形文化財になっており、登録時に「弥生正緑館(やよいしょうろくかん)」と命名された。
案内文には一階は洋間三十畳ほどの広間、二階は純和風(案内文に床の間を設えた、とあるので数寄屋風書院だろうか)とある。
接客空間を洋間にしてその他の空間を和風にする和洋折衷の造りは明治期から昭和の戦前期にかけて貿易商の邸宅で盛んに用いられた。横浜戸塚の旧住友家俣野別邸は昭和期の住宅建築としては初めて国指定重文建築となった(現在の建物は不審火による焼失後にオリジナルに忠実に再建されたもの)。洋館と和風建築を一体化した洋館付和風住宅もその一例で、横浜根岸に現存する旧柳下家住宅は内部が公開されている。










千本鳥居も潜っていこうかと思ったが、一寸混んでいたので楼門へ。


鮮やかな朱塗の楼門。


舞殿(まいでん)。つつじまつりの期間中には奉納演芸が舞台で披露された。


唐門(からもん)から拝殿へと続く、こちらも参拝者の長い列。


社殿を囲む透塀(すきべい)。こちらも造営当時のものであり、唐門、西門とともに国指定重文となっている。


権現造(ごんげんづくり)の社殿。参拝者が参拝するのは拝殿。その奥に幣殿(へいでん)、本殿と連なる。拝殿、幣殿、本殿それぞれが国指定重文。


西門。


千本鳥居の先には乙女稲荷。
あの舞台で夕暮れ時などに雅楽や能・狂言などが演じられたら、さぞかし優雅だろう。観覧スペースはほとんど無いに等しいのだけれど。








庚申塔(こうしんとう)。六基の庚申塔が道路拡幅などの理由でこちらに納められている。横並びでなく、ぐるりと六面で並んでいるのがちょっと珍しい。
三面六臂(さんめんろっぴ。顔が三つ、腕が六本)の青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が彫られたものは、案内文によると寛文八年(1668)のもの。
この裏側にある梵字が刻まれたものは寛永九年(1632)のもの、とあり文京区内に現存するもので年号が明らかなものでは最も古い。都内で最も古いのは足立区花畑にある元和九年(1623)のもの、とある。
青面金剛像の左隣りは観音像。庚申塔に彫られる仏像は青面金剛が圧倒的に多いが、庚申信仰が上流貴族のものだった時代(大河ドラマ「光る君へ」にもその描写がありました)を経て庶民に広まり始めた初期のころ(1600年代前半〜)は阿弥陀如来や地蔵菩薩、観世音菩薩なども彫られていた。これも初期のころのものだろうが、元号が欠損していたらしく案内板にも記されていなかった。
鎌倉街道中の道古道を歩いてみると、横浜笠間(栄区)から鎌倉市小袋谷あたりにかけて阿弥陀如来の像や梵字が彫られた庚申塔(1600年代後半のもの)が見られる。


駒込稲荷。狛犬は、お狐さま。


つつじ市が立っていた。


つつじ苑の列に並ばずとも、ツツジは遠目に眺めることができる。
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