1.鶴ケ峰からこども自然公園(大池公園)まで
鎌倉街道中の道(なかのみち)古道を歩くまち歩き。このページでは畠山重忠終焉の地となった鶴ケ峰(横浜市旭区)から本宿町を経てこども自然公園(大池公園)までを歩く。
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鎌倉街道中の道古道歩き

令和六年(2024)5月下旬の週末、なまった足腰の足慣らしに、久々のまち歩きへ。今回は中世における鎌倉街道のひとつ、鎌倉街道・中の道(なかのみち)古道を鶴ヶ峰(つるがみね。旭区)から下永谷(しもながや。港南区)まで、およそ12kmを歩く。

 

1.鶴ケ峰からこども自然公園(大池公園)まで

 

このページでは鶴ケ峰(畠山重忠終焉の地)から本宿町を経てこども自然公園(大池公園)までを歩く。

 

 

スタートは鶴ケ峰駅入口交差点。時刻は朝9時半ごろ。
相鉄線(そうてつせん)鶴ケ峰駅北口から水道道(すいどうみち)に出て鎧橋(よろいばし)の方向へ、駅からおよそ400m進むと厚木街道(県道横浜厚木線)と交差する。

 

角には鎌倉古道(中の道)の案内標柱が立っており柱には「←秩父方面 鎌倉方面→」と記されている。中の道の行く先である古河(下総国)〜小山(下野国)ではなく敢えて上の道(かみのみち)連絡道を経由した秩父方面が記されているのは、もちろん鶴ケ峰が畠山重忠終焉の地で知られているからだろう。
なお、ここから厚木街道・国道16号(八王子街道)鶴ヶ峰交差点を経て鶴ヶ峰配水池(旧浄水場)に上がっていく道が中の道(〜中山〜二子の渡し〜岩淵の渡し〜下野国・栃木県方面)あるいは上の道への連絡路(秩父方面)古道への道すじとなる。
まち歩き・鶴ケ峰界隈、畠山重忠公史跡群のページへ

 

 

 

交差点の向こう側には畠山重忠公碑とその案内柱が立っている。

 

 

 

鶴ケ峰駅入口交差点から鎌倉古道・中の道を鎌倉方面へ。
手前の左右方向の道が水道道(左が鶴ケ峰駅方面)、右奥に延びる道が厚木街道で相鉄線・二俣川(ふたまたがわ)駅方面へと続く。

 

横断歩道の正面、郵便ポスト左側の狭い道へと進む。

 

 

 

右手は旭区役所(旭区総合庁舎)の入口。

 

 

 

道なりに進んでいくと、左手の植え込みあたりに畠山重忠公首塚。

 

 

 

供養地蔵を祀る木造の祠は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(令和四・2022年1月〜)オンエア前に新調された。

 

 

 

更に進み、黄色の車止めポールの先へ。

 

 

 

右手の区役所駐車場の白い格子フェンスと左手の鎧の渡し緑道入口のステンレスの車止めの間、画像の左右方向に帷子川(かたびらがわ)の旧河道が流れ越場橋という橋が架かっていた。白いフェンスのあたりに立つ二本の案内標柱は「鎧の渡し」「首洗い井戸」の跡を示す標柱。

 

 

 

進んでいくと、ハイツカタビラ前。ここを右へ進むと三合橋(みつあいばし)から厚木街道、フードマーケットマム(旭区四季美台)の前に出る。

三合橋の架かる位置は、かつては大きく蛇行した帷子川旧河道と二俣川(帷子川支流。水源のひとつは希望が丘水の森公園の湧水池)の合流点だった。
まち歩き・二俣川駅前から希望が丘水の森公園のページへ。

 

蛇行した帷子川旧河道の下流側は現在は埋め立てられていて区役所駐車場、鎧の渡し緑道、鶴ヶ峰公園となっており、現在の帷子川とは捷水路(しょうすいろ)トンネル下流側付近でつながっていた。一方で旧河道の上流側は現在も川のままだが、川の蛇行は改修されており現在の帷子川の捷水路トンネル上流側へとつながっている。そして三合橋付近で支流の二俣川が合流していた。
というわけで、三合橋から現在の帷子川との合流点までは昔は帷子川(旧河道)だったのだが、現在では支流である二俣川の一部という扱いになっている。

中の道古道は左へ行く。

 

 

1974〜78頃の鶴ヶ峰付近空中写真(文字加工はサイト管理者) 拡大版はこちら
画像出典・地理院地図(電子国土Web)

 

「鎌倉殿の13人」にも出てきた鶴ヶ峰という地名は吾妻鑑(あづまかかがみ。鎌倉幕府の史書)に「鶴嶺」の名がみられる。こちらは配水池(旧浄水場)のある小高い丘を含む現在の鶴ヶ峰本町あたりを指している。
帷子川については旭区郷土史によると『明治時代になってから帷子川と呼ばれるようになったが、それまでは二俣川の一支流であったので地元の人はただ「川」としか呼んでいなかった』とある。江戸時代後期編纂の新編武蔵風土記稿 巻之八十八 都筑郡之八 領名未勘 川井村の川の項には『二俣川の一の水元なり上川井村の内小名大貫谷よりの清水合して一流となり東の方今宿村へ達す』とある。(国立公文書館デジタルアーカイブ資料参照)
帷子川の下流は昔から帷子川であったが、上流は昔は二俣川の扱いだった。その昔、「鶴ケ峯」の麓を流れる川は現在の帷子川も含めて「二俣川」だった。

 

なお二俣川村であるが、横浜市の第六次合併(昭和14年・1939)直前の当地域は神奈川県都筑(つづき)郡都岡(つおか)村大字今宿(いまじゅく)であった(出典Wikipedia)。隣接する四季美台は二俣川村だった。他方で新編武蔵風土記稿では「旧跡古戦場」は巻之八十三 都筑郡之三 神奈川領 二俣川村に記載されている。首塚、六塚、駕籠塚、矢畑、旧跡矢箆ケ淵(やのがふち)などは都筑郡之二 神奈川領 今宿村に載っている。当地に限らず近代以前の村々は近隣との併合と分離を繰り返しており、古戦場跡は広範囲にわたるので、その地はかつての二俣川村一帯という扱いでよいかと思う。

 

 

 

古道を踏切の方へと進む。

 

 

 

ネイビーブルーの車両が来た。直通先の都内の人たちにとっては相鉄といえばこの色、というのが定着しつつあるだろうか。薄緑色の時代を知るものとしては相鉄もここまで来たなと思うと、なかなか感慨深い。

 

 

 

踏切を渡って八百藤の角を右に入っていく。

 

 

 

二又の分岐を右へ右へと進んでいき、町内会掲示板のあたりで崖下に二俣川を見下ろす。崖はかなり深く、ざっと10mはあろうか。奥にタカナシ乳業の建物が見える。

 

 

 

急傾斜地であることを示す標識。

 

この先の十字路でいったん古道の筋を逸れて、タカナシ乳業の側から回り込んでいく。

 

 

 

突き当りの丁字路。正面に本宿(ほんじゅく)小学校。右手はタカナシ乳業の敷地。

 

 

 

タカナシ乳業・本社工場の裏門。そろそろ、「横濱馬車道あいす あいすくりん」が美味い季節になってきた。

 

突き当りの丁字路を左折して進む。

 

 

 

しばらく進むと、神奈川坂の案内標柱が立っている(本宿小学校の校地角の向かいあたり)。

 

『神奈川往還の途中にある坂ということでこの名がついたという。神奈川往還は厚木と神奈川宿を結ぶ街道で、厚木街道とも呼ばれていた。本宿がちょうど中間にあたり、休み処や店もかなりあったようだ。屋号で、この神奈川坂あたりには「マンジュウ屋」「チョウチン屋」「タビ屋」などがある。』(旭区郷土史より引用)

ここにいう神奈川往還とは相州道とも称する古道で厚木街道、神奈川道ともいう。相州道は中世から江戸時代にかけての物流拠点であった神奈川湊、旧東海道・神奈川宿から各地に延びる「神奈川道」のひとつ。旧東海道・芝生追分(しぼう おいわけ。西区保土ケ谷区界)から町田、八王子に向かう八王子道(八王子街道。現在の国道16号に概ね重なる)、恩田川(おんだがわ)南岸あるいは北岸を経由して八王子に向かう神奈川道、綱島(つなしま)から稲毛(いなげ)、溝口(みぞのくち)を経由して府中へ向かう神奈川道などがあり、相州道もそうした神奈川道のひとつ。

相州道の起点は保土ケ谷区岩間町、旧東海道の大門通り(だいもんどおり)。「武蔵国榛谷御厨(はんがや みくりや)総鎮守」神明社そばの交差点には古東海道(中世以前の東海道)と相州道との分岐を示す新しい石柱標が立っている。横浜ビジネスパーク、星川小学校前(横浜新道入口、保土ケ谷公園の下)を経て、いったん水道道に合流。上星川駅前から西谷浄水場に登り、水道みち向台公園から陣ヶ下渓谷に下って「みずのさかみち」を登り返す。旭区に入り三反田稲荷(右保土ヶ谷道 左神奈川道の道標あり)六十六部地蔵塔(野口農園前)を過ぎて新幹線を越えたら本宿町に下っていく。この最後の坂が「神奈川坂」と呼ばれた。
参考 市民グラフヨコハマNo.97「横浜近世の九街道をゆく」(1996)

なお市民グラフヨコハマに相州道の記事を執筆された田代博先生は山岳展望マニアにはつとに知られた存在。山岳展望のバイブル「展望の山旅」シリーズを始め、ダイヤモンド富士に関する著作も多い。市民グラフヨコハマでも先生の執筆は数多い。最近ではラジオなどで山ネタが放送される際によくゲスト出演されていたのだが、思いもよらぬ訃報に接することとなってしまい、もう幾年かになる。

 

 

 

正面に相州道・神奈川坂。右手は鎌倉古道・中の道。

 

鎌倉古道に戻る前に、古道沿いに広がる「鶴ヶ峰ふれあいの樹林」に寄っていく。

 

 

 

カーブミラーの立つあたりに小さな入口。

 

 

 

樹林の中へ。

 

 

 

小さいながらも気持ちのいい森。その地形は割と平坦。

 

 

 

案内図。一部加筆加工はサイト管理者
横浜市の「ふれあいの樹林」は「市民の森」と同じ性格のものだが、概ねその規模が小振りなものが指定されている。
鶴ヶ峰ふれあいの樹林は広さおよそ2ヘクタール(100m四方×2)。

 

 

 

イベント広場。

 

 

 

鎌倉古道に戻り、坂を登る。

 

 

 

登り切って、東海道新幹線をまたぐ陸橋へ。

 

 

 

横浜市内を通過する新幹線は丘陵の複雑な地形を突っ切っていくため、高架もあればトンネルもあり、深い堀割状のところもある。

 

陸橋を渡り、そのまま直進。

 

 

 

タカナシ乳業の手前、二俣川を見下ろす崖地のあたりからここまで、古道は起伏こそあるもののほぼ一直線に延びてきた。
住宅地を一直線に突っ切るここの道は本宿町と川島町の町境であり、昔は「長堀通」と称されていたようだ。古道の尾根道は路面を掘り下げた凹道であることが多く、堀の字があてられてそのように呼ばれるケースも多かったらしい。
参考「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」

 

 

 

左手は川島農園の栽培収穫体験ファーム、突き当りが左近山団地2街区。突き当りを右折。

 

 

 

二俣川駅前のタワーが見える。

 

 

 

右手に桜公園。横断歩道を渡る。

 

 

 

団地棟と東京電力パワーグリッド神奈川建設センターの間の道を進む。

 

 

 

保土ヶ谷バイパス陸橋(南本宿橋)。こちらは新幹線の陸橋と違って古道の筋に沿った架けられ方をしている。

 

 

 

ここは南本宿インターのあたり。二俣川駅前のタワーも見える。

 

 

 

橋を渡ったら直進。

 

 

 

左手に寿々き(七が三つの喜)園芸店。

 

 

 

少しばかり、古道の風情。

 

 

 

右手からY字路を合わせ、左手へ。

 

 

 

駐車場を過ぎて。

 

 

 

右手の空地に庚申塔が建っているので、このすぐ先を空地の反対側に回り込んでみる。

 

 

 

墓地の手前に建っている庚申塔。庚申講中 宝永元 申 天 十二月吉日、と刻まれている。旭区郷土史には区内における相当な数の石塔を調査した記録が載っているのだが、この庚申塔は記載がなかった。

 

宝永元年(1704)の十干十二支は甲申(きのえ さる)。時は富士山の宝永噴火(宝永4・1707)の少し前の頃。

 

 

 

バス通り(保土ケ谷二俣川線)を横断した先に古道は続く(車の流れが途切れないのであれば左手の少し先に横断歩道あり)。

 

 

 

右手の駐車場内に石塔が建っている。

 

 

 

霊馬大明神と道標。オリジナルのものと新しく刻んだもの(たぶんレプリカとして)で計4基。オリジナルのものは字が風化して非常に読みづらい。こちらも区郷土史に記載がない。

 

霊馬大明神って、何だろう?他所ではあまり見かけない。よくある馬頭観音(労働を担った飼い馬を供養した石塔)とは違うのだろうか。それとも神仏習合でこうなったか。よくわからん。

 

 

 

住宅街を抜けていくと、こども自然公園(大池公園)の森が見えてきた。

 

 

 

畑の角を右折。

 

 

 

突き当りはこども自然公園を縦断する道。
ここは相鉄線二俣川駅の南、こども自然公園(大池公園)。場所は駐車場とバーベキュー広場の外側あたり。道の向こう、歩道側に案内板が立っている。

 

 

2.こども自然公園(大池公園)から上柏尾まで

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