令和7年3月上旬の週末、二週連続して田浦梅の里(田浦梅林。横須賀市)へ。
さらには梅林探訪と併せて、田浦の谷戸と尾根歩きへ。旧温泉谷戸(田浦泉町)と月見台(城の台、しろんだ)の旧市営住宅リノベーション事業の地および両者を結んで浦賀道(うらがみち)古道の道すじ(按針塚から大田坂・十三峠、横須賀線ガード・田浦3,4丁目まで)を歩く。
3.田浦梅林から泉町・旧温泉谷戸住宅〜浦賀みち古道往復〜旧月見台住宅
1.JR田浦駅からのの字橋、十三峠・大田坂を経て田浦梅の里(田浦梅林)へはこちら


田浦梅林の泉町側梅林入口。こちらは急登の散策路(男坂)入口。田浦梅林・旧田浦梅林はこちら


谷戸(やと)の奥方向へ少し進むと、だりの田橋を渡ってゆるやかな階段の道(女坂)入口。


谷戸の奥へ。


三浦丘陵の谷戸は多摩丘陵の谷戸と比べると全般的に狭くて深く、急峻な印象。


左手に急な階段。


白い柵が現れ、ちょっとばかりカントリーな雰囲気に。


なかなか小洒落た感じ。


アーティスト村。ここはかつての市営温泉谷戸住宅。
温泉谷戸については以下に「田浦をあるく」(田浦地域文化振興懇話会。横須賀市公式サイトに掲載)を引用する。
『もともとこの奥谷は、「矢落」(やおち)という地名であった。温泉谷戸の名は、昔、谷戸奥の市営住宅近くを流れる小川にかかる橋のたもとに鉱泉がわいたためだ。高熊川源流の山(昔は矢落山といった)の麓で、高熊川に沿った旧道横に1メートル四方の鉱泉の湧き出ている浅い井戸があった。鉱泉を利用して、明治の頃には温泉宿が開業され、皮膚病やあせもに効くということで、一時期、繁盛する。(中略)しかし、関東大震災で地形が変わって湯が出なくなったり管がこわれたりで、大正の終わり頃には温泉宿もお風呂屋さんも廃業し、温泉場はなくなってしまった。』
それでも地元の古老の話として昭和に入ってしばらくの間は、鉱泉の利用はあったそうだ。
ところで「矢落」という地名についても「田浦をあるく」に解説があった。こちらもやっぱりというか、三浦半島一帯に幾つかの伝説が残る平安後期の武者「鎮西八郎」こと源為朝の強弓伝説だった。当サイトでも和賀江島・小坪の六角の井とか剱崎の矢の根井戸などの史跡を訪れたことがあるが、物理的にあり得ない距離で矢が飛んでくる伝説がこうもあちこちにあると、昔の人たちにとって為朝という人は役行者(えんのぎょうじゃ)か弘法大師並みに史実を超えたシュールでハイパーな存在だったのだ。


市営温泉谷戸住宅は戦後の高度経済成長が始まった昭和30年代半ば(1960年ごろ)に建てられた公営住宅だが、住宅としての役割を終えたのちに取り壊される予定だった。それが市の方針により地域交流に意欲的なアーティストを誘致して地域コミュニティの活性化を目指す、という新たな役割を担うこととなった。
「HIRAKU」(YOKOSUKA ART VALLEY HIRAKU)とは「アーティスト村」の愛称。芸術家の創作活動の場であると同時に地域に開かれたワークショップが行われる場ともなっている。


先ほどの急な階段まで戻る。階段下で標高20m。ここから谷戸の尾根に上がる。
ちょっとこれは、凄い階段だ。


途中には安針塚方面、塚山公園への案内が出ている。今回のまち歩きでは谷戸から浦賀みちに上がって、按針塚まで行ってみる。


振り返ってみると手すりがあっても吸い込まれてしまいそうな、足がすくむレベル。


傾斜が緩くはなったが、まだまだ階段が続く。


ようやく登りきる。ここで標高77m。一気に60m近く上がってきた。先の田浦梅林・泉町側入口(男坂)と同じくらいの標高差だが、登り始めの傾斜はまったく違う。


谷戸の奥も田浦泉町なら、明るく開けた尾根も田浦泉町。
田浦泉町のイメージは田浦梅林へのアクセス絡みで谷戸の印象がどうしても強いが、尾根筋の泉町の人たちにとっては田浦梅林は「ちょっとサンダルをつっかけていってくる」様な距離感ではないのだろう(そもそも梅林入口からの急登はサンダル履きで行くようなところではないのだけど)。


柑橘と早咲きの桜。冬から春へと移ろう景色。


尾根に上がってからも、結構登っていく。


田浦梅の里は谷を隔てた向こう側。


二又の分かれ道まで来た。この辺りで標高およそ118m。階段上から更に40mも登っている。左方へ行くと大田坂(おったざか)方面への浦賀みちに合流(ただし、かなり先)。


右折して按針塚方面への浦賀みちへ。「この先車両通り抜けできません」の立て札がある。道幅というよりは路面の凸凹が酷かったので、車の底をこすってしまうということだろう。


茂みの向こうに十三峠給水塔がちらっと見える。


今現在の浦賀みちよりも古道っぽい雰囲気。


浦賀みちの道すじに出た。


右折して、まずは浦賀みちを按針塚方面へ。


ふじもとファームの野菜販売スタンド。かなり本格的な設備。


この辺りが地理院地図、そしてそれを基にしたであろうグーグルマップで表示される、十三峠(じゅうさんとうげ)。
なぜこの地点が地理院地図で十三峠と表記されるのか、正直よく分からない。峠という地形は、一般的には尾根上の鞍部(あんぶ。低くくぼんだところ)を、尾根を挟んだ山裾の里から登って来た道が乗越す(のっこす。乗り越えていく)ところ。そうではなかったとしても、奥多摩などでよく見られる「ドッケ」(尾根あるいは稜線上のピークのひとつ)が訛って(転じて)「とうげ」となったケース(東丹沢七沢の「関東ふれあいの道・順礼峠のみち」にある物見峠)もある。
上の画像の奥まったところの枝道はグーグルマップでは「十三峠ショートトレイル」と表示されている。


入っていった先は、地理院地図では途切れている道が沢に落ちていって山中町の集落に通じているようにも見える。この道が尾根を乗り越える里道として存在していたのかもしれない。上の画像の少し手前(ふじもとファームの前あたり)には尾根の反対側(長浦町側)に下る里道もある。いずれも地理院地図の年代別の写真でかなり古い時代から集落を確認できる。一応、峠の地形と言えなくもない。
とはいえ、浦賀みちの本筋である田浦町の谷戸みちから大田坂を登って尾根みちに上がるルートのちょうど尾根に上がったところを十三峠とする方が、主要な往還における名の付け方としては正道のように感じられる。「田浦をあるく」でも「十三峠」を「長善寺わきの大田坂をあがり、尾根道を右にとり安針塚へと向う道がつづくこのあたりを、十三峠という」と紹介している。だから大田坂上の標柱に(十三峠)と表記されているのだろう。
十三峠の名は諸説あるようだが、定説はないようだ。「田浦をあるく」では『保土ヶ谷より13番目の峠ということで名づけられたという説や、峠に十三仏をまつった寺か神社があってそれにちなんだもの、あるいは十三塚の信仰にまつわる説などがある』と記されている。
個人的に思うのは、浦賀道が田浦に入って太田坂から尾根に上がる最初の鞍部が十三峠で、浦賀道古道はそこから按針塚、浦賀方面へ尾根筋を上下しながらたどっていく。
その途中でいくつもの鞍部(里道の通る峠)を通過していくことになるが、たくさんあるのでそれらをひっくるめて「十三峠」となった、なんてこともあり得そう。ただの妄想ではあるけれど。
その場合は「十三」に具体的な数的意味はなく「沢山の」というくらいの意味なのかもしれない。あるいは難所の連続だから九と四を合わせて十三、とかね。


携帯電話の基地局、資源リサイクルの事業所と過ぎていくと、


やって来たのは十三峠公園。
噂にたがわず、本当に何もない(笑)。これは公園というよりは駐車スペースだね。


唯一の公園らしい遊具は、公園アニマルズ。
もし今でも「空から日本を見てみよう」(テレビ東京)をやっていたら、「くもじい、山の中にヤツらが潜んでいますっ」「よ〜し、くもみ、網をもてぃ。捕獲じゃ」「ていっ」「バサッ(捕獲音)」とかやられそうだ。こいつは、何歳かな?


鹿島台に到着。


さっそく登ってみる。


これは眺めがいい。横須賀本港・米軍基地の空母「ジョージ・ワシントン」が見える。
『浦賀道』を歩く(横須賀開国史研究会「史跡めぐり」。横須賀市公式サイトに掲載)では十三峠を『浦賀道最大の難所で、急な山坂の連続である。(中略)十三峠からの眺めは素晴らしく、安藤広重も、この峠を旅し「浦賀道田浦山中」「毛見(逸見)の山中風景」などを描いている。安針塚近くの鹿島台が後者のスケッチ場所と推定されている。』と紹介している。
「田浦をあるく」では『広重の「田浦の里」』で『嘉永6年(1853)広重は三浦半島にも足を運び、「武相名所旅絵日記」に「大津」、「浦賀総図」、「三浦の郷」、「毛見(逸見)の山中風景」、「田浦の里農家に休足」と「浦賀道.田浦山中」などを描いた。(中略)眺めのすばらしい十三峠は、広重も描いている。「浦賀道田浦山中」は古道の浦賀道をたどり、昼なお暗い難所の山道を越えて十三峠の山頂に立ち、眼下に繰り広げられた風光明媚の眺望、遠くつらなる房総の山々に目をうばわれ足をとめて描かれた絵である。』と紹介している。


「広重武相名所旅絵日記」裏表紙の地図。十三峠給水塔の前後の尾根上からの眺め(図15)が「田浦の里 山中風景」、鹿島台からの眺め(図16)が「毛見の山中風景」と比定されている。
同書が刊行されたのは昭和51年(1976)。「広重と旅絵日記−序文にかえて−」のなかで、同書の編者は個人の所蔵物から発見された広重の古書画を閲覧する機会を得たとき(昭和48・1973年5月)の興奮を綴っている。


毛見の山中風景
画像出典 二点とも「広重武相名所旅絵日記」楢崎宗重編
上の鹿島台からの写真(米軍基地あたり)は広重の「毛見の山中風景」の右半分に相当する。


鹿島台を下りて先へ進むと、富士見台。


頂部。森戸川源流部の二子山山系を眺める。


季節や時間帯が良ければ、富士山はあの辺りに見られるようだ。直線距離にして、およそ83km。手前の山々が近すぎる分、距離の割にはずいぶん小さく感じてしまう。


富士見台から浦賀道の続きに戻り、按針塚へ。


高台に上がらなくとも、浦賀道からでもこの眺め。


この日はランドマークタワーが良く見えた。ここ数年来でザ・タワー横浜北仲(約200m)、ベースゲート横浜関内(竣工時約167m)など新たな超高層ビルが立ち上がっている。


奥の石積み階段を按針塚へ。右手の階段は富士見台から下りてくる階段。


三浦按針夫妻の供養塔。
按針については浦賀駅から東浦賀のページであれこれと書いたので、ここではネット配信(2024年2月〜)のドラマ「SHOGUN 将軍」について触れてみる。
三浦按針(ウィリアム・アダムズ)をモデルとしたジョン・ブラックソーンを主人公とするフィクション小説をもとに製作されたTVドラマ「SHOGUN」(1980、アメリカ。YouTubeへリンク)。日本でも民放で放映されたこのドラマは、2024年にリメイク版が公開された(「SHOGUN 将軍」(ディズニープラス公式による本予告。YouTube)。
主演の真田広之さん(吉井虎永役。モデルは徳川家康)はプロデューサーも務めている。前作と比較してよりリアルに戦国時代が描かれたリメイク版はアメリカで話題をさらい、ほぼ全編日本語であるにもかかわらずドラマ部門で権威ある賞のエミー賞、ゴールデングローブ賞で作品賞、主演男優賞をはじめ多くの部門を受賞した。
今回の作品は前作と比べるとジョン・ブラックソーンよりも吉井虎永の方が主役として比重が大きくなった印象がある。とはいえ、ブラックソーンもストーリーの要所で充分に存在感を発揮していた、と感じられた。
あくまで原作の小説を基にしたドラマなので西洋人目線の日本観を払拭し切れていない面も、確かにある。しかし、そうした点を原作に忠実なフィクションのエンターテインメントと割り切ったうえで観れば、描かれた細部、文化を背景とした質感の素晴らしさには「真田さん、よくぞここまで」と感じ入るものが、多々あった。
ここで浦賀道を引き返し、大田坂方面へ。


泉町の谷戸から上がって来た道の分岐まで戻った。


左方向へぐるっとカーブしながら按針塚方面へ向かう道を振り返る。昔はもっと山深い景色だっただろう。


長浦三丁目公園まで来た。


公園の一角(並び)に建つ、開拓記念碑。
裏面に「十三峠開拓農業協同組合」、開拓に携わったであろう人々の名、「昭和三十二年一月」の日付が刻まれている。


現在の地理院地形図。十字カーソルに重ねた赤い点は開拓記念碑の建つ位置。


昭和20年〜25年(1945〜1950)の航空写真。
尾根、斜面には山林が広がっている。田浦泉町、長浦三丁目の谷戸には古くから集落が開けている。


昭和36年〜44年(1961〜1969)の航空写真。
尾根上の台地に畑が開墾された。谷に向かう斜面がのっぺりしているのは茅場としての利用だろうか。


最新(令和3年。2021)の航空写真。
畑地の宅地化が進んでいる。傾斜地などが森林に戻っている。
画像出典 四点とも地理院地図(電子国土WEB)


左手の擁壁は十三峠給水塔への進入路の擁壁。この辺りで標高およそ119m。給水塔の建つ地点がこの辺りの浦賀道沿いでは最も標高が高い、133.0m(三角点)。


ここまで、山の斜面を切り開いて通されたであろう痕跡を感じられる道をたどってきた。この辺りで標高およそ106m。


この辺り、切り開かれた当時の痕跡を感じさせる。標高およそ85m。


こういったコンクリート製の、鉄道沿いでよく見られる柵は里山の里道でも時おり見かけることがある。


この辺りは標高およそ74mだが両脇がかなり高い。わざわざ積み上げたというよりは、昔からの山道を勾配を緩くするために随分と切り下げたのではないだろうか。


左から右へと大きくカーブしていった先、奥に今回のもう一つの目的地である旧田浦月見台住宅が見える。


海上自衛隊横須賀基地(長浦港)がチラチラと見える。


このときいた船は、敷設艦「むろと」(艦番号483)。特殊な任務に就く艦で、いつもいるわけではなさそう。


十三峠に到着。この辺りで標高およそ64m。左手を下る坂が浦賀道の続きで、大田坂(おったざか)という。
尾根筋の道の奥が、旧田浦月見台住宅。尾根を挟んで大田坂の反対側の谷戸に下りる道が「のの字橋」になっている。
ここからは大田坂を下り、浦賀道の続きを国道16号・横須賀線ガード下付近まで歩いたもの。


急な下り坂。


今でこそコンクリート階段だが、昔はトレッキングコースとか登山道とかで遭遇する鎖場(くさりば)あるいはロープが張られている崖地みたいな難所だったのだろう(この界隈で言うなら田浦梅の里から三浦アルプストレッキングコースに入り、乳頭山の手前の崖地とか。画像はこちらのページ)。徒歩でも大変だが馬で越すとなると厄介な道だ。


途中の崖地に石碑が建っている。


石碑は「道六神」と刻まれた石塔。
「田浦をあるく」によると、道六神とは道祖神(どうそじん)のこと。これは天保十二(1841)と刻まれている。民間信仰のひとつである道祖神は村はずれの街道沿いなどに祀られることも多く、悪霊などが集落に入って来るのを防ぐことを願って建てられた。
時は異国船が浦賀あたりにボツボツ出没し始めた頃(モリソン号事件は天保八・1837年)であり、道祖神を祀ることで浦賀から田浦の集落に入って来る、悪霊ならぬ招かれざる何かをこの峠で食い止めることを願ったか。


階段が終わり、坂を下った先は突き当り。浦賀道は右折する。左折すると田浦梅の里(田浦梅林)泉町側の梅林入口。


浄土宗西林山長善寺。開山は永禄元年(1558)。長善寺には明治の初期、田浦学舎(現在の田浦小学校の前身)が置かれた。


「田浦をあるく」によると『ここは浦賀道の難所・十三峠の山越えに備える所であった。享保年間(1716〜1736)に祀られたというお地蔵さまが、山門正面にある。浦賀街道を往来する旅人が「旅の安全」や「家内安全」を願って、お参りしたという。』
浦賀道は山門前を進み二泉自治会館の入口を過ぎて、カーブミラーのある突き当りを右折する。


なおカーブミラーのある丁字路を左折して画像奥へと進むと田浦梅林(旧梅林)への道。京急ガード下の先も随所に案内が出ている。
浦賀道は画像の手前方向へ。


しばらく進んだ先、理容室の角を左手に入っていくと田浦小学校。同校の校舎は横須賀市立の小学校では最も古いコンクリート校舎となる。
古い歴史を持つ田浦小学校も、少子化による児童数減少のなか令和七年(2025)三月末で廃校となる。とはいえ統合先の長浦小学校も、学区が隣接する船越小学校も明治初期の私塾を前身とする歴史の古い学校となる。


庚申塔。
一番左の三猿が大きく彫られた舟形のものは文字の風化が著しい。南無阿弥陀仏と刻まれた六字名号塔を挟んで、右の二つは庚申塔の文字が刻まれた塔。
右二つの内寄りの方は台座に小さく三猿、頂部には月に雲(月輪と瑞雲)・日に雲(日輪と瑞雲)が彫られている。これは庚申の夜は月が出て日が昇るまで夜通し起きていましょう、ということを象徴的に刻んでいるそうだ。そういえば大河ドラマ「光る君へ」でもそんなシーンがあった。そちらは平安の上流貴族社会の話だが、江戸時代にはそうした風習が庶民にまで広まっていた。


御嶽稲荷。
御嶽稲荷は元々は浦賀みちを辿っていったこの先、静円寺(国道16号と横須賀線ガードが交差するあたり)境内にあったそうだが、明治期の神仏分離により当地に移されたとのこと。


国道16号までもう少し。


16号に出てすぐ、フルーツ店の並びの馬頭観音堂。「田浦をあるく」によると、幕末から明治にかけて建てられた。向かって右の奥二つは「馬頭観世音」「馬頭観世音菩薩」と文字が彫られた馬頭観音。


一番左は三面八臂(さんめんはっぴ。顔が三つ、腕が八本)の馬頭観音像。左から二番目は一面二臂の馬頭観音像だが、日に雲、月に雲も彫られているので庚申塔でもあるのだろうか。
庚申塔は青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)や青面金剛の文字あるいは庚申塔の文字が彫られるのが一般的だが、初期(江戸時代前期)のものは阿弥陀如来像が彫られたものもある。これもその例に倣ったものか。


横須賀線ガード下。16号から分かれて成福寺門前(画面右方向)へと進んでいく道が浦賀道の続きとなるが、成福寺の先は宅地開発により古道の道すじは消滅している。


ガード下の田浦小学校PTA・しろんだ会の掲示板。
「しろんだ」とは地元の人たちによる「城の台」の呼び方。こうして土地の古い読み方が現在も使われているわけだが、田浦小学校が廃校になったら「しろんだ会」も無くなってしまうのだろう。


こちらは田浦駅から谷戸みちを緩く登って来ると現れる「のの字橋」。橋の銘板に刻まれた正式名称は十三峠陸橋。
「田浦をあるく」によるとこの坂は「戦前、城の台(しろんだ)砲台を築き、物資を運び上げるためにつくられた道路である。道をつなぐ陸橋を「のの字橋」(いわゆるループ橋)といい、はじめは橋も木製であったという」と紹介されている。


地理院地図(電子国土WEB)・年代別の写真を参照すると1945〜1950年の航空写真では画像が粗く現在ののの字坂・のの字橋の線形ははっきりとは確認できない。とはいえ、とりわけループの上部あたりで細い道筋がうっすらと見えるようでもある。
「田浦をあるく」の記述は発行元が懇話会というくらいだから古老への聞き取り調査によるものであろう。記憶が定かであるかの問題はあるが、その内容は史実と整合性があるように思える。


これが1961〜1969年の航空写真となると、現在の線形がはっきりとわかる。そして尾根上の台地に月見台住宅が造成されている。
砲台については、田浦には戦時中に防空砲台として海軍警備隊の田浦高角砲台(第一高角砲大隊。10センチ連装2基ほか。人員91人)、田浦山機銃砲台(第三高射機銃中隊。25ミリ連装2基。人員21人)が配備されている。
参考:新横須賀市史 別編 軍事
画像で確認できる痕跡が砲座の跡であれば、その大きさからしてそこに高角砲10センチ連装が設置されていたのではないだろうか。


尾根筋に上がった先、大きな木の生えているあたりが十三峠。


大田坂の上、尾根を先へと進むと旧田浦月見台住宅。
田浦月見台住宅は高度経済成長期の昭和30年代半ば(1960年頃)に市営住宅として建設された。その役割を終えて全ての入居者が退去、無人となってからは「天空の廃墟」などと呼ばれていたようだ。いずれ取り壊される予定であったところ、官民連携で再生されることなった。
市と民間企業(エンジョイワークス)の連携による再生コンセプトは職住一体型の「なりわい住宅」。「ヴィンテージ&クリエイティブ」をテーマにリノベーションが着々と進行している。


案内板上には河津桜だろうか、早咲きの桜。


造成地の擁壁の上に平屋が並んでいる。
月見台住宅が建設される前、このあたりは畑地だった。戦時中には兵舎や砲台が造られ、一般の人は立ち入りが出来なかった。
鎌倉時代には幕府の有力御家人である秋田城介(あきたじょうのすけ)景盛(安達景盛)・義景親子の下屋敷があったと伝わっている。この台地を「城の台」というが土地の人たちは「しろんだ」と呼んでいる。
月見台という風雅な名称は、この安達景盛にまつわる伝承が関係するようだ。ざっと筋を追うと、景盛が城の台で月見の宴を催した。唐衣が弾く琴の音に誘われ、小姓に化けた狐が音色に聴き入っていたがその正体がばれてしまい斬られてしまった。狐の亡骸は祀られ、白狐稲荷となった。
参考「田浦をあるく」城の台(しろんだ)、白狐(しろぎつね)稲荷
令和七年(2025)3月現在は関係者以外立入禁止。ちょうどリノベーション工事の真っ最中。


外側を回り込んでみる。思いもよらず、城址めぐりにもなってしまった(城郭遺構は全くないが)。


外壁をはがして補修中の建物。


もう少し寄ってみる。


これらの住宅群が近いうちに生まれ変わる。


のの字橋の方には戻らずに尾根の先へと進み、階段を下りて田浦駅へ。


階段状に敷石が並べられた通路。


長い階段を下りていく。






国道16号(横須賀方面車線)。


奥の横断歩道が田浦駅入口。
JR田浦駅に到着したら今回のまち歩きは終了。起伏の大きい三浦丘陵の谷戸から尾根への上り下りもさることながら、歴史的にもなかなか興味深いまち歩きだった。
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