まちへ、森へ。

三浦半島の最南端「岩礁のみち」をゆく

夏の暑さもすっかり止み、まち歩き日和となった令和二年(2020)秋のお彼岸。「関東ふれあいの道 三浦・岩礁のみち」を歩く。

 

1.間口漁港から剱埼灯台へ

 

 

京急・三浦海岸駅から京急バス「海34系統」剱崎(つるぎざき)ゆき又は「海35系統」三崎東岡(みさきひがしおか)ゆきに乗車して15分、松輪(まつわ)バス停が今回のルートの起点。横浜駅からは「三浦半島1DAYきっぷ」を利用する。

 

時刻は午前9時45分ごろ。まずはバス停からバスの来た道を戻り、奥に見えるコンビニから右手へと入っていく。
新型コロナウィルス禍にみまわれたこの年、9月半ばになって気温はすっかり落ち着き秋の気配を感じられるものの、この日の天候は台風接近の影響であいにくの曇天。

 

 

 

台地上に広がる、広大な畑。貨物船の浮かぶ東京湾を隔てて対岸は房総半島。

 

三浦半島南部の広々とした台地は、海底が隆起を繰り返しながら形成されてきた海岸段丘。太古から隆起と浸食、隆起と浸食を繰り返し、現在の大きく開けた台地と複雑に入り組んだ海岸線が出来上がった。

 

 

 

松輪間口(まくち)漁港への道案内。

 

 

 

剱埼(つるぎさき)灯台の頭が見える。

 

 

 

一帯は夏はスイカ、冬は青首大根の一大生産地。温暖な気候に恵まれた三浦では温室に頼らずとも露地栽培で一年中何らかの農作物を生産している。

 

三浦の地場野菜として古くから知られた「三浦大根」は現在では生産量はごくわずかなようだ。消費者に人気が高く消費量の多い青首大根が市内生産量のほぼ九割九分を占め、三浦産の大根の主流となっている。
ちなみに三浦市の大根は全国市町村別収穫量、出荷量で第一位となっている。

 

参考・三浦市中学校郷土学習資料「私たちの郷土三浦」

 

 

秋のお彼岸のこの時期には、大根の作付けが始まっていた。

 

 

 

緩やかに下ってゆく。

 

 

 

大浦海水浴場への分岐。

 

 

 

間口漁港に到着。剱崎(つるぎざき)への道標が立っている。

 

 

 

剱崎へ向かう前に、漁港近くの大浦山海蝕洞窟に寄ってみる。

 

 

 

三浦市南下浦町(みなみしたうらまち。旧三浦郡)松輪地区にある漁港は松輪漁港とも総称されている。

 

松輪といえば東日本を代表する高級ブランド鯖の「松輪サバ」。これからの季節、秋から冬にかけて脂の乗り切った旬を迎える。そんな時期であればお昼どきにどこかでサバ定食を食するのもいいかも。

※帰りがけの宮川町から三浦海岸駅へ戻るバスの車中、江奈漁港から坂を登っていった先の剱崎バス停(松輪バス停の一つ手前)あたりで車窓の右手に「松輪サバ」と書かれた青い幟が出ているのを見かけた。剱崎バス停付近には松輪サバのコース料理の店「輪中(わなか)」、釣船棒面丸による経営の飲食店「ぼーめん」がある。事前に確認の上、帰りに途中下車して立ち寄ることもできそうだ。

 

 

 

崖地の裾(太古の海岸線)に弥生〜古墳時代の住居跡遺跡となる海食洞窟があるはずだが、草ぼうぼうでちょっと見た目にはわからなかった。
この一帯の洞穴遺跡からは漁撈具が出土しており、その頃から何らかの魚が食べられていたというわけだ。古代人もサバを食っていたのか?

 

奥のコンクリート階段から海岸線に出てみる。

 

 

 

白黒の縞がくっきりと出ている地層。白はシルト(泥岩)、黒はスコリア(砂礫岩)の層となる。この岩礁を回り込んでいった向こう側は大浦海水浴場。

 

 

 

漁港あるある、ニャンコの朝集会。「にゃー」と声を掛けたら逃げられた(泣)。間が悪かったかな。

 

 

 

間口漁港から剱崎へと向かう。

 

 

 

途中、民家のフェンス沿いにアサガオに交じってハイビスカスが咲いていた。ハイビスカスが地植えで育つのだから、三浦は温暖だ。

 

 

 

松輪漁村センター。JFの以前のHPでは松輪支所となっていたが、みうら漁協の組織再編により現在は南下浦支所松輪販売所(県水産関係団体名簿より)となっている。

 

 

 

漁港沿いの道を進む。

 

 

 

 

 

 

 

堤防脇のコンクリート階段から「岩礁のみち」へ。

 

 

 

間口港灯台。

 

 

 

常緑樹(たぶん南方系のタブノキ)の生い茂る崖地。

 

 

 

剱崎へ。

 

 

 

 

 

 

 

ここで海岸を離れて灯台へ。こちらの道には道標はない。

 

 

 

 

 

 

 

折り返すように車止めの先の石畳を登る。

 

 

 

剱埼(つるぎさき)灯台に到着。

 

 

 

案内板。

 

剱埼灯台の初代は明治四年(1871)の建造。江戸幕府と諸外国との間で灯台を建造する条約が結ばれたことに基づき、明治政府に招かれた灯台技師のリチャード・ヘンリー・ブラントンにより建造された。ブラントンは灯台のほか横浜開港場の街づくりにも深くかかわっている。

 

 

 

関東大震災(大正12・1923)による倒壊を経て、現在の建物は二代目。

 

 

 

入口頭上の初点プレート。旧字体で「剱埼燈臺 初點 明治四年一月十一日 震災改築 大正十四年七月一日」とある。

 

 

 

海側へ廻る。

 

 

 

こちらには英文入りの初点プレート。

 

 

 

眼下には間口漁港と大浦山(29.4m)。

 

 

 

皇太后陛下行啓記念碑。背面には時の逓信大臣、灯台局長の名とともに建碑の年である昭和十六年(1941)の文字が刻まれている。

 

 

 

灯台から再び海岸へ。

 

 

 

車止めまで戻り、谷伝いにおりていく。

 

 

 

剱崎無線方位信号所(光の灯台を補完してきた、電波の灯台)のアンテナ。

 

 

 

トイレ前。

 

 

 

降りていく途中にある「矢の根井戸」。

 

 

 

案内板。

 

平安末期の武士、源為朝にまつわる強弓伝説がここにも残っていた。七尺(210p)近い巨体から繰り出される強弓で鳴らした為朝の伝説は鎌倉「六角の井」(和賀江島の近く)に同様の伝説が伝わっているが、剱崎の井戸は誤って飛んできた矢が落ちたところ、となっている。
保元の乱(1156)では鬼神の如き奮戦ぶりで清盛を震え上がらせた伝説の荒武者は、浦賀奉行所跡(横須賀市)近くの為朝神社でも祭られている。

 

 

 

 

 

 

 

「岩礁のみち」道標。「岩礁のみち」から剱埼灯台への道案内はこちらに記されていた。

 

 

2.剱埼灯台から江奈湾へ

page top