まちへ、森へ。

異文化との邂逅、浦賀・久里浜

3.浦賀奉行所跡、川間ドック、燈明崎・燈明堂へ

 

2.浦賀の渡船と浦賀ドック、西叶神社、愛宕山公園はこちら。

 

 

愛宕山公園から公園入口へ下りて戻る。

 

 

 

愛宕山公園から浦賀番所跡へ。

 

 

 

船番所跡。

 

 

 

番所は浦賀奉行所の一部署であり、「廻船改め」が行われた役所。享保五年(1720)伊豆の下田番所が廃止され浦賀に移転した。

 

江戸湾を出入りする船は大名の船であれ商人の船であれ地廻りの船であれ、必ず浦賀で検査を受けることになる。箱根が陸路の関所であるなら、ここは「海の関所」であった。

 

 

 

陸軍桟橋。第二次大戦の終戦後、外地からの引揚船を降りた引揚者がこの地で故郷への第一歩を踏んだ。

 

 

 

よこすか浦賀病院の側に立つ番所跡の案内板。

 

 

 

番所跡から奉行所跡(浦賀役所跡)へ向かう。

 

 

 

浜町町内会館。源氏の家紋でもある「笹竜胆(ささりんどう)」の紋が玄関上の妻壁(つまかべ)にあしらわれている。

 

 

 

浜町町内会館そばの、為朝神社。

 

 

 

為朝神社は江戸後期の文政年間(1818〜1830)創建。源為朝(みなもとのためとも)を祀る。祀られている木像は海から漂着した、と伝わる。

 

為朝は平安末期の武将。源義朝(みなもとのよしとも)の弟で頼朝(よりとも)の叔父にあたる。この時代の大男は六尺(180cm)と形容される例が多いが為朝はそれを上回る七尺(210cm)近い巨体をもち強弓で鳴らした。
粗暴ゆえに持て余されて都から九州に追放となったが、そこで鎮西武者を束ねてしまい「鎮西八郎」と呼ばれた。一方で兄の義朝は東国で坂東武者を束ねていた。
保元の乱(1156)では上皇方に参戦し、天皇方に付いた兄の義朝や平清盛らと大いくさを繰り広げる。その強弓で武者を二人まとめて射抜くなど縦横無尽に暴れまわり清盛を震え上がらせたが、戦には破れてしまい伊豆大島に流された。その伊豆七島でも荒武者ぶりを発揮してまたしても大男達を束ねたが、ついに討伐の院宣が下り大軍に攻められて最後は自害した。

数々の強弓伝説を残した為朝。その一つに伊豆大島から放った矢が「六角の井」(鎌倉飯島、逗子小坪)まで届いた、などというものもある。
保元の乱での活躍から琉球に渡る伝説までを描いた曲亭(滝沢)馬琴の作品「椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき・鎮西八郎為朝外伝)」は江戸期の庶民にも人気を博し、芝居の演目にも登場した。江戸時代後期にもなって、為朝がここ浦賀でも祀られたのはそうした時代背景もあってのことだろうか。

 

 

 

「椿説弓張月(文化5・1808年刊)」より「為朝舩を射て忠重を溺らせ」
画は葛飾北斎。波頭の描写がまさに北斎。

 

画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

 

棟にあしらわれた「笹竜胆」の紋。

 

 

 

向拝(こうはい。せり出した屋根)の下、蟇股(かえるまた)の彫り物。

 

 

 

「浦賀の虎踊」の解説板。

 

 

 

川間町内会館の前を過ぎていく。

 

 

 

浦賀奉行所(浦賀役所)跡。

 

 

 

浦賀奉行は遠国奉行(おんごくぶぎょう)の一つ。享保五年(1720)の下田から浦賀への番所の移転に伴い下田奉行が廃止され浦賀奉行が創設された(下田奉行は幕末に再設置される)。
これは幕政を不安定化させる軍事的要素が時代とともに後退し、東回りの廻船による経済活動も活発化したことに伴う措置であった。番所が下田のままでは東北からの廻船が番所を通らずに江戸湾に入ることができるため、積荷を検査することが出来ない。

 

浦賀奉行所では地域における政務一切のほか、海防(江戸の防衛)や廻船改め(積荷の検査、掌握)といった事務を取り仕切った。浦賀奉行所はここ浦賀役所を中心に、浦賀番所、三崎役宅、下田用所、江戸役所といった部署によって構成された。三崎や下田はそれぞれの地区の内政の他に浦賀に寄港できなかった難破船の処理を行い、江戸は幕府との連絡を担った。

 

嘉永六年(1853)のペリー来航時はペリー一行を応接する大役を担い、浦賀奉行はそれ以前にも増して要職となっていく。

 

 

 

現在では遺構として奉行所を囲む堀の石垣が見られる。

 

この地に建っていた住友重機川間(かわま)社宅は取り壊されることになっている。復元成った箱根の関所のように浦賀奉行所は復元されるだろうか。今後の展開が待たれる。

 

 

 

奉行所跡を後にして川間ドックへ。

 

 

 

シティマリーナヴェラシスのあたり。

 

 

 

フェニックス(カナリーヤシ)並木の向こう側にドックがある。

 

 

 

「川間(かわま)ドック」。旧石川島造船所浦賀分工場船渠(せんきょ)。

 

 

 

レンガ壁、ドック底へ下りる階段がはっきりと見える。

 

 

 

このドックは明治33年(1900)の竣工。先に見てきた浦賀駅近くの「浦賀ドック」とともに日本に二例しかないレンガ造ドックとして、その姿を今に残す。

 

当初は石川島造船所(IHIマリンユナイテッドを経て現在はジャパンマリンユナイテッド)の施設であったが、受注競争で疲弊した石川島が浦賀から撤退することになり浦賀船渠に譲渡された。浦賀船渠は浦賀重工業となり、のちに住友重機と合併。昭和58年(1983)に造船所は閉鎖され、平成元年(1989)よりヨットハーバーとして住友重機の関連会社であるSHIリゾート開発がドックを管理していた。現在はユニマットプレシャスが所有。

 

 

 

燈明堂へ。

 

 

 

開発予定地に沿って進んでいく。

 

 

 

このあたりは開発計画があり、「お知らせ板」の平面図を見るとドックの壁ぎりぎりに重なるように建物が計画されている。そうなると、ドックはこのまま保存されるのではなくいったん解体されるのかもしれない。もしそうだとしたら開発の過程で復元されるということだろうか。
※令和三年(2021)10月に参加した「浦賀ドック・千代ケ崎砲台跡見学バスツアー」でバスガイドさんが川間ドックは「ダイビング体験施設として活用される」という話をされていた。事業者の経営判断に敬意を表したい。

 

 

 

まもなく燈明崎。

 

 

 

燈明崎に到着。

 

 

 

 

 

 

 

燈明崎の案内板。

 

 

 

燈明堂は江戸時代初期の慶安元年(1648)、浦賀湊の入口にあたるこの地に設置された。
明治2年(1869)横須賀造船所の建設責任者であったヴェルニーにより観音崎に西洋式灯台(観音埼灯台)が設置されたのに伴い、明治5年(1872)に廃止された。

 

 

 

燈明堂へ。

 

 

 

平成元年(1989)に復元された燈明堂。

 

 

 

対岸は房総半島。

 

 

 

燈明崎の海岸。

 

 

 

 

 

 

 

観音崎。

 

 

 

浦賀城址(東叶神社の明神山)が見える。

 

 

 

小田原北条氏の水軍拠点、浦賀城址。

 

 

 

風光明媚な燈明崎の海岸は、東京湾南部の原風景。

 

 

4.西浦賀から吉井・眞福寺、怒田城址、久里浜へ

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