まちへ、森へ。

材木座から小坪へ、海の鎌倉

3.和賀江島から住吉城址、小坪飯島公園(逗子マリーナ)

 

2.浄土宗大本山光明寺はこちら。

 

 

光明寺裏山の展望台から海へと下っていく坂を下りていくと、海岸沿いに駐車場がある。

 

 

 

案内板。

 

 

 

駐車場沿いを先へ進み国道134号の下をくぐる。

 

 

 

海岸に出るところの高みに、新しい碑と案内板が立つ。

 

 

 

和賀江島(わかえじま)は現存する日本最古の築港遺跡。

 

材木座海岸は古くから和賀江津(わかえのつ)と呼ばれ、鎌倉幕府成立後は幕府の湊として多くの船が出入りした。ただ外洋に面しているため波風は荒く、難破する船も多かった。そこで船着き場と防波堤を兼ねて島を築くこととし、第三代執権北条泰時(ほうじょう やすとき)の時代となる貞永元年(1232)に石を積み上げた島が竣工した。

 

鎌倉周辺の石は凝灰岩で侵食に弱いため、丹沢山系の相模川や酒匂川(さかわがわ)を川の流れでゴロゴロと運ばれてきた硬い深成岩(御影石など)さらには伊豆周辺の海岸などから火山岩の安山岩といった、侵食に強い膨大な量の石をわざわざ運んできて積み上げるという、一大土木工事だった。

 

 

 

高みからの和賀江島。

 

 

 

遠くに稲村ヶ崎、江の島。ウィンドサーフィンのセイルが海原に広がり、華やかな鎌倉の海らしい光景。

 

 

 

浜の奥に見える岩の上には古い碑が立つ。

 

 

 

こちらの碑は大正13年(1924)の建碑。

 

碑の建つ岩は鎌倉石(凝灰岩)のよう。一方で手前の磯の岩は侵食されてゴロゴロと丸くなった硬い岩のようだ。とすると、この一角の磯は和賀江島に積まれた岩が長い年月の間に波に洗われ崩されながら現在の位置に溜まってできたものか。

 

 

 

和賀江島の背後に江の島、稲村ヶ崎。

 

 

 

材木座・由比ヶ浜のパノラマ。 拡大版

 

この一角にゴロゴロの岩が吹き溜まりのようになっている。完成当時の和賀江島はどれくらいの規模だったのだろうか。

 

 

 

浜の奥からコンクリート階段で上がり、六角の井へ。このあたりは鎌倉時代、吾妻鏡(あづまかがみ。幕府の史書)が記された頃からすでに「飯島」とよばれていた。そして道を隔てた反対側は三浦(逗子)の「小坪(こつぼ)」となる。

 

鎌倉幕府が成立する以前から、鎌倉には律令国家時代の東海道(古東海道)が通っていた。
京から延びて来た道は片瀬、腰越あたりから七里ヶ浜沿いを進み稲村ヶ崎の荒磯を伝って鎌倉に入った。鎌倉からは三浦半島方面へと進み、走水(はしりみず。横須賀市)から海を渡り上総(かずさ。千葉県)へと続いていった。

 

鎌倉から三浦方面へ至る道は、名越(なごえ)のあたり(鎌倉時代に名越切通となった)を通っていたのではないかと推定されている。そしてもう一つ、小坪の荒磯を通っていく小坪路(こつぼじ。こつぼみち)も古東海道の道筋として有力な候補の一つといわれる。

 

 

源頼朝が打倒平家の旗を掲げ、石橋山の合戦で敗れてから勢力を立て直すまで関東各地では頼朝につき従う勢力と平家に従う勢力の戦が頻発した。
ここ小坪から由比ヶ浜にかけては、先に見てきた三浦義明(みうらよしあき)が衣笠城(横須賀市)で討死するよりも少し前、三浦氏の一族である和田義盛(わだよしもり)と畠山重忠(はたけやましげただ)の軍勢が合戦を繰り広げた舞台となった(小坪合戦・由比ヶ浜合戦)。

 

伊豆で旗揚げした頼朝に加勢すべく西へ向かった三浦一族。しかし、折からの悪天候に阻まれ酒匂川(さかわがわ。小田原市ほか)の手前で「石橋山合戦で頼朝敗走」を知る。やむなく引き揚げる途中、由比ヶ浜・小坪のあたりで畠山重忠の軍勢に追いつかれた。
ただ、敵味方とはいえ元々姻戚関係にある三浦と畠山。いったんは和平が成立した。ところが、事情を知らずに救援に駆け付けた和田義茂(よしもち。義盛の弟)が畠山勢に矢を射掛けてしまい、小競り合いが勃発した。こうして戦となった小坪合戦では畠山勢により多くの犠牲者を出した末に、両軍が退くことで終結した。
この合戦の顛末は「衣笠合戦」へとつながっていく。

 

参考 「鎌倉歴史散歩」奥富敬之著。

 

 

 

案内板。

 

井戸の別名「矢の根井戸」は平安末期の武士、源為朝(みなもとのためとも。頼朝の叔父)の強弓伝説にちなむもの。
為朝にまつわる史跡は関東ではあまり多くはないようだが、横須賀の西浦賀には為朝を祀った「為朝神社」が建っている。

 

 

 

「六角の井」は覆屋で覆われている。中に残る古い井戸は石が八角形に積み上げられている。そのうち六角分が鎌倉(飯島)の分、残りが小坪の分ということで六角の井と呼ばれるそうだ。海に近い鎌倉にあって、良い水の得られる貴重な井戸だったのだろう。

 

 

 

六角の井から左の道を進むと、正覚寺・住吉神社。一帯は戦国時代前期の城であった住吉城址となる。

 

 

 

正覚寺への石段。
正覚寺の建つ地は光明寺を開山した良忠が鎌倉にやって来て最初に滞在し浄土宗を広めた地。初め悟真寺(ごしんじ)と称し、戦国時代に戦火で焼けたのち正覚寺として復興した。

 

 

 

正覚寺は修繕工事中だったようで、境内には御邪魔せずに引き返す。

 

 

 

石段の隣りには住吉神社へ上がる坂道。

 

なお、石段下の右手奥(六角の井から右手の狭い道を進んだ先)には住吉城址の案内板がある。

 

 

 

住吉城址の案内板。 拡大版。
逗子マリーナの埋立地が広がる以前、小坪が断崖の迫る磯であった頃の写真が見られる。

 

住吉城址は戦国時代の初期、関東に進出してきた伊勢宗瑞(いせそうずい。北条早雲)が相模を平定すべく三浦道寸・道香(どうすん・どうこう)兄弟と戦ったところ。

 

鎌倉時代初期の御家人であった三浦氏は宝治合戦(宝治元年・1247)により執権北条氏に滅ぼされる。しかしその後生き残りの傍流が三浦氏を再興した。
室町時代には京の幕府内の勢力争い、あるいは鎌倉公方と関東管領の勢力争いに加担し浮き沈みをくり返し、やがて扇谷上杉氏(おうぎがやつ うえすぎし。相模国守護)の元で勢力を伸ばす。その三浦氏は嗣子に恵まれない時期に扇谷上杉氏の子(道寸)を養子として迎えた。しかし実子が誕生すると、やはりというべきか争いが起こり、結局は養子であった上杉出身の道寸が三浦氏の家督を手中にした。

 

こうして三浦氏の当主となった道寸はやがて北条早雲と対決。拠点とした岡崎城(平塚市)を攻め落とされた道寸は住吉城まで退くも、住吉城を守備した道香は早雲に敗れて自害。さらに逃れた道寸も最後は新井城(三浦市三崎。三崎城)で早雲に攻め滅ぼされた。早雲の手中に落ちた三崎城は小田原北条水軍の拠点となっていく。

 

そうした戦国初期の歴史を伝えた住吉城址は、周辺開発が進み今では住吉神社周辺にわずかに痕跡を残すのみ。

 

 

 

住吉神社への坂を上がり、右手に入る。
擁壁がコンクリートではなく野面積(のづらづみ。自然の石をそのまま積み上げる)風の石垣というのが、城址の雰囲気にマッチしてかっこいい(もちろん住吉城の時代は石垣が築かれるには早すぎるが)。ここは曲輪(くるわ。城の区画)だったのだろうか。

 

 

 

正覚寺本堂の屋根越しの、鎌倉の海。

 

 

 

山道へ。

 

 

 

住吉神社の石段。

 

 

 

住吉神社。おそらくは住吉城の鎮守だったであろうとされる。

 

 

 

神社境内は狭い平場になっている。崖には「くらやみやぐら」と呼ばれたかつての隧道が口を開けている。これらは住吉城の遺構の一部と考えられる。ここを通って曲輪(くるわ)を行き来したのだろう。

 

 

 

境内から眺める、江の島。

 

住吉城址の案内板辺りまで戻る。

 

 

 

パームツリーが立ち並び、リゾート感あふれる小坪。
プールは逗子市の「小坪飯島公園」。そして奥には「逗子マリーナ」のリゾートマンション(コンドミニアム)。

 

 

 

小坪飯島公園の海辺沿いへ。

 

 

 

小坪飯島公園からの和賀江島。

 

 

 

稲村ヶ崎、江の島。

 

 

 

パームツリーの並木はまるでアメリカ西海岸か、カリブ海か。

 

こんな海辺で聴きたくなる、ヴァイオリンセクションが艶やかな音色を奏でるマルチニーク島(カリブ海のフランス海外県)のフレンチクレオール「Malavoi(マラヴォワ)」の「Syracuse(シラクーザ)」、「La case a Lucie(ラ カーズ ア ルシィ)」(YouTubeへリンク)。

 

Pipo Gertrude(ピポ ジェルトリュード)が歌う「シラクーザ」は「Marronnage」(1998)に収録された、艶っぽいサルサ・アレンジの曲(サルサはプエルトリコ系のダンス音楽)。飛んでいきたい美しい所として「シラクーザ(イタリア・シチリア島の古代都市)」や「バビロン(メソポタミアの古代都市)」などに混ざって、歌詞の中にさりげなく「フジヤマ」がでてくる。すごいぞ、富士山。

 

「ラ カーズ ア ルシィ」はそれより以前、ボーカルがRalph Thamar(ラルフ タマール)の時代の曲。軽やかなカリプソのリズムを奏でる。そちらは日本盤もリリースされた「Jou ouve(ジュ ウヴェ)」(1988)にも収録されていたのでFMなどで聴き覚えがある人もいるかもしれない。なおその頃にはすでにPipoがボーカルとなっているが、CDのクレジットには再収録となるこの曲のボーカル(Chant)はRalph Thamarと記されている。

 

海辺の似合う邦楽は、それこそ枚挙にいとまがない。時代を追って、ジャンルを超えて、それだけで膨大な一ページが出来上がってしまう。
そんな中ここはひとつ「ようこそ、夏の王国へ」(高中正義withCINDY(楽園ガールズ)、「夏・全・開」より。YouTubeへリンク)などはいかがだろうか。トロピカルカリプソクラブで「パッシュワリワリ、スイカワリワリ♪」なんてね。「EYELANDS」の爽快なフュージョンサウンド、「CUBAN HEELS」のアフロキューバンなジャズとのセッションもまさしく、夏全開。

 

80年代といえば当時ハマったのは大滝詠一「カナリア諸島にて」。「A LONG VACATION」をテープに録音していつまでも、いつまでも聴き続けていたのが懐かしい(自分は当時中学生だったのだけど、寺尾聰「Reflections」とヘビーローテーションで聴いていた)。しかし、当時は知る由もなかったのだけど大滝さん、「恋はメレンゲ」(ドミニカ共和国のメレンゲというダンス音楽がベース)とか「ナイアガラ・ムーンがまた輝けば」(アフロキューバンなクラーベのリズムが心地いい)とかパン・カリビアンな音楽への造形、70年代だというのに凄い。日本でこうしたメロディー、リズムが一般化したのは自分が学生だった時分、ワールドミュージックブームが起こった頃だったと思う(第一次ラテンブームのときはメレンゲとか聴かれていたのだろうか?)。さすが師匠。それにしてもこんなに手軽に聞けるようになるとは、いい時代になったもんだ。(リンクはYouTube)

 

 

 

パームツリーの中に一本混じるクロマツは、それでも和の情緒をしっとりと醸す。惜しいことに、少し前までかすかに見えていたフジヤマはもう完全に見えなくなってしまった。

 

 

 

松の枝越しの和賀江島。宋との貿易船が行き交った鎌倉時代の息吹を、微かながらも感じさせる。

 

 

 

吹き抜ける潮風も心地よい、小坪。

 

 

 

遠き鎌倉の世に、思いを馳せつつ。

 

飯島からは鎌倉駅までバスでも良いし、歩いてもそう遠くはない。

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