中世における鎌倉街道のひとつ、鎌倉街道・中の道(なかのみち)古道を下永谷(しもながや。横浜市港南区)から北鎌倉まで、旧跡に立ち寄りながらおよそ11kmを歩く。
3.大船(青木神社入口)から北鎌倉
このページではJR大船駅笠間口・大船駅東口バスターミナルから歩いて10分の青木神社入口交差点(横浜市栄区)から離山富士見地蔵尊(鎌倉市)、浄土真宗成福寺・厳島神社(鎌倉市)、水堰橋(すいせきばし。鎌倉市)を経てJR横須賀線・北鎌倉駅までを歩く。
青木神社入口。この辺りで横浜市栄区から鎌倉市に入る。
交差点を右折して道なりに進むと、大船(おおふな)駅東口バスターミナル、JR大船駅笠間口(かさまぐち)。
交差点の角には「鳩サブレー」でお馴染みの豊島屋(としまや)の新工場(大船工場)。令和5年(2023)8月に完成したばかり。
かつては資生堂鎌倉工場が操業していた。
先へ進むと、古道の道すじは芝浦メカトロニクス敷地内で一旦消滅している。
大船郵便局北側(旧資生堂前)信号を通過し、大船郵便局前信号で右折。
川の上に桟道を渡した「砂押川(すなおしがわ)プロムナード」を進む。
大船郵便局角で古道の道すじに復帰。
松竹通り信号を横断。
通りの名はその昔、松竹大船撮影所(現在は鎌倉女子大大船キャンパスなど)があった頃の名残り。
斜め十字路を横断。
芸術館通り信号を横断、一方通行を逆方向へ。
狭い道が続く。
画面右の角を入ると一段低くなって大船小学校裏門の前に出るあたり。
小学校一帯は昔は水田、更に昔は湿地帯、太古は入江。
この左手、三菱電機体育館などの建物が建ち並ぶ一段高いあたりは昔は離山(はなれやま)のひとつ「長山」だった一帯。中の道古道はその山すそを通っていた。
今でいえば先に歩いてきた笠間(青木神社)のあたりがその雰囲気に近いだろうか。
参考
「鎌倉の史跡めぐり(上)」
「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」
二車線の斜め十字路を横断して、そのまま一通を逆方向へ。
離山(はなれやま)富士見地蔵尊の建つ五差路まで来た。
祠の裏側の馬頭観音(ばとうかんのん)。文化十年(1813)と刻まれている。
五輪塔(ごりんとう)が数基並べてある。どれも基礎にあたる層(地輪・ちりん)が無く四層しかない。あるいは砂利で埋まっているのか?笠の層が五輪塔の火輪(かりん)ではなく宝篋印塔(ほうきょういんとう)のそれを重ねている塔もある。
離山富士見地蔵菩薩像。瑞々しい生花のほか千羽鶴も供えられ、管理がとても行き届いている。
地蔵像は元々は離山(はなれやま)のひとつ、地蔵山にあった。地蔵像が山頂に据えられたのは元禄の頃(1700年前後)で、以後地蔵山と呼ばれるようになったという。
離山とはかつてこのあたりにあった三つの小山。北から順に腰山(旧松竹大船撮影所の一帯)、長山(旧ガスタンクと三菱電機体育館などの一帯)、地蔵山(地蔵堂のある一帯)と呼ばれていた。室町期の高僧・道興による「廻国雑記」には文明18年(1486)初冬に鎌倉を訪れた際の記録として『はなれ山といへる山有り まことにつづきなる尾山も みえ侍らねば』と書かれている。
あらましを記した解説文。新しい碑には更に詳細な解説が刻まれている。
大正のはじめ(1912頃)には腰山がセメント用の泥岩に利用するために壊された。その後、大船の田んぼを埋め立てる田園都市計画のために昭和13年(1938)に三菱あたり(長山)を残して崩され、昭和16年(1941)頃まで残っていた部分は第二次大戦のときに全部崩されて海軍造兵部の工場敷地(現在の大船中学校あたり)の造成に利用された。
山を下ろされた地蔵像は昭和58年(1983)の道路拡張により現在地に移された。また解説文には元々の山頂には十三か所の塚があった、とある。祠の裏に集められている五輪塔や馬頭観音はおそらくそれらの塚に建っていたものなのだろう。
昭和6年(1932)修正の二万五千分一地形図(スタンフォード大学が公開する地理空間情報のサイトを参照)によると地蔵山は中の道古道と松竹離山通り、離山信号から中道交差点信号までの通りに囲まれたあたりにあった。標高は36mとある。碑文にある最高約50mの山は腰山のどこかではないだろうか。昭和6年の地形図に腰山の東隣の山が残っているが(そのまた一部が現在も鎌倉女子大の裏山として残っている)その標高が50mほどある。崩された腰山の跡には競馬場が作られている。競馬場があったというのも驚きだが、その跡が松竹大船撮影所となり、その後は撮影所が一部分ずつ順を追って商業ビル、鎌倉芸術館、そして完全閉鎖後の鎌倉女子大と変遷していった。
参考
「かまくら子ども風土記 中」(平成五・1993年三月発行)
「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」
「鎌倉の史跡めぐり(上)」
「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」
地蔵尊の面する五差路は二車線の道路を横切り、向かって右手の道へ。
大船中学校の校地角の植え込み辺りの信号で、二車線の道路を斜めに横断。
現役の円筒形郵便ポスト。
横須賀線踏切まで来た。左手の成福寺(じょうふくじ)へ。
成福寺の山門は茅葺の四脚門。
石仏石塔は六地蔵や宝篋印塔残欠(ほうきょういんとう ざんけつ)、五輪塔などが建ち並ぶ。
浄土真宗・亀甲山法得院成福寺(きっこうざん ほうとくいん じょうふくじ)。創建は貞永元年(1232)。開山は成仏(三代執権北条泰時の末子、俗名泰次)。初め天台宗の僧であったが真宗の開祖・親鸞に帰依して改宗した。
裏山には亀の窟(かめのいわや)と呼ばれる岩屋があって、成仏はそこで念仏修業をしたという。遠目には幾つかの岩屋があるので、近くに寄れそうなところを寄ってみたがどれがその岩屋かはちょっと分からなかった。檀家でもないのでそれ以上深入りするのは遠慮。
親鸞聖人像。
浄土真宗は鎌倉新仏教の六宗のなかでは意外と中世における鎌倉の市中とその隣接地に寺院がない。これは禅宗の曹洞宗もそうなのだが、先発の浄土宗や臨済宗と比べて後発の浄土真宗や曹洞宗が権力層への布教に後れを取ったか(西日本の真宗の総本山はなかなか凄いのだけれど、そもそも鎌倉は幕府の滅亡後に権力中枢という意味では衰微してしまったということもある)、その気が無かったということだろうか。同じく後発でも踊る時宗や破壊力の強烈な日蓮宗は庶民に根強い人気があった印象なので、さしもの悪人正機説もそうした支持層に割って入る余地があまりなかったのかもしれない。あとはよく言われるように小田原北条氏の時代に北条氏と真宗の間でも色々とあったことが江戸時代まで尾を引いたこともある。
七百年近くにも渡って滔々と続いた中世と比べて二百年足らずの激流の近代以降は、社会がそれまでと比較にならないほど激変してしまったので、こと仏教界に関しては近代の夜明け以前の状況が現代でもそのままにある、といった感じだろうか。
忠魂碑(ちゅうこんひ)。東郷平八郎の書とある。
傍らの戦病没者芳名碑には筆頭に南雲忠一(なぐも ちゅういち)海軍中将(碑の肩書は戦死後に昇進した大将)の名があった。艦隊派の論客として条約派の井上成美(いのうえ しげよし)大将(肩書は最終時のもの)と激しくやり合ったという南雲中将は、海軍機動部隊(南雲機動部隊とか南雲艦隊とか呼ばれた)の長官として大戦当初に華々しい戦果を挙げたという印象がある。おや、南雲中将は鎌倉に所縁があったのか、と調べてみたらお住まいが鎌倉で墓所は円覚寺黄梅院とあった。
では忠魂碑が元はどこにあったのかと思えばGoogleMAPに「元は近くの小坂小学校にあったのが大戦後に移されたらしい」という情報を書き込んでくださった方がいらした。当時の世情に目を向けると、戦後に行政が忠魂碑を公費を支出して公有地から移設・慰霊することに対しては「憲法の定める政教分離原則に違反し違憲である」と訴える訴訟が箕面(みのお。大阪府)や長崎で提訴されている(いわゆる忠魂碑訴訟)。
この碑がこちらに移されたのも、そうした世情のなかで碑が棄損されることなく安らかな祈りの場として碑に向かい合って欲しいという思いから実現されたのだろうな、と思う。よもや、辛かった時代の賛美でもあるまい。事象の一面だけを増幅しすぎてしまうと、殊の外生きづらい世の中になってしまう。
厳島神社へ。社殿は山門を出て、木賊垣(とくさがき)で目隠しされた成福寺敷地角の東側から裏山に登っていくとある。こうした竹垣が寺社や邸宅の建て込んだ路地で至る所に見られるのが、いかにも鎌倉らしい。
参道の石段。まあ、先ほど登ってきた青木神社よりはだいぶ楽かな。
途中に建つ庚申塔(こうしんとう)。
大きな舟形の庚申塔は案内板によると阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)が種子(しゅじ。梵字)で刻まれている。造立は寛文十年(1670)。種子で阿弥陀三尊を刻んだ庚申塔としては鎌倉で最も古い、とある。
元はこの後で訪れる鎌倉街道中の道古道・水堰橋(すいせきばし)の北側にあったそうだ。先に見てきた笠間庚申塔(阿弥陀如来像の庚申塔)も延宝八年(1680)と江戸時代前期。古くは上流階級のものだった庚申信仰が庶民に広まり始めた初期の頃の庚申塔がこの界隈には残っている。
案内板には三猿は雄雌雄と並んでいる、とある。うーん。しかるべきところをよく見れば区別がつく、ということか。知らんけど。
小さな石柱の一方は「庚申供養塔 寛政十二年(1800)九月吉日」と刻まれている。下部に三猿が彫られている。この庚申塔は上部に彫られている丸い模様がくっきりと目立つ。これは月(三日月)と雲、日(太陽)と雲ということで、庚申の夜は月が出て日が昇るまで夜通し起きていましょう、ということを象徴的に表しているそうだ。
もう一方には「青面金剛童子」と刻まれている。これはフルネームで刻んだよ、といったニュアンスなのかな。ちょっと珍しい。
次の鳥居をくぐると社殿。
厳島神社社殿。
社殿の建つ小山は成福寺の裏山で元々は境内の一部だった。山号は「きっこうざん」だが地元の人たちには「かめのこやま」と呼ばれたといい、宅地造成で北側が無くなるまでは山全体がちょうど亀の甲羅のかたちをしていたそうだ。
地理院地図(電子国土Web)の空中写真(1961〜69)では造成前の山が確認できるが、その後の写真(1974〜78)では現在の姿になっている。造成によって社殿が元々の頂上から移動するまではもっと多くの(大小七段の)石段があったそうで、先の庚申塔も三か所目の石段を登ったところにあったのが現在の鳥居のところに移された、ということだった。
古くは応神天皇を祭神とする八幡さまが祀られた寺の鬼門除けのお宮だったというが、関東大震災(大正12・1923)により八幡社は倒壊。小袋谷(こぶくろや)公会堂のところにあった吾妻社、門前の踏切の向こう側にあった弁天社も倒壊したため昭和になって三社を相次いで合祀。小袋谷の鎮守であった弁天さまを主神とし、全国的に弁財天社が神仏分離で厳島神社と改められていたことにならって厳島神社となった。それぞれの社が勧請された年月は不明となっている。
参考
「かまくら子ども風土記 中」
「深く歩く鎌倉史跡散策 下」
踏切を渡り、成福寺を振り返り見る。
踏切を渡れば、鎌倉に向けた中の道古道歩きもいよいよ残りわずか。
小袋谷(こぶくろや)公会堂を通過し、水堰橋(すいせきばし)に到着。小袋谷川(境川水系柏尾川支流)に架かっている。
橋のたもとには「せゐ志くばし」と刻まれた比較的新しそうな石柱が立っている。この橋は鎌倉を出入りする武士がここで隊列を整えたという伝承があり、せいぞろい→せいしく→すいせき、と変化したという説がある。
ここは鎌倉の台(だい)と小袋谷の界となっているところ。辻は鎌倉街道・上の道(かみのみち)方面への分岐となっており、街道が交わるこの界隈は鎌倉時代には紅花や駿馬の市が立つ場所だった。
「かまくら子ども風土記 中」によるとここに堰を設けて川の水を灌漑用水に使ったときがあり、隣村同士で水争いが起こったこともあった、とある。現在の橋の名はその堰から来ていると考えられそうだ。
ここまで歩いてきた中の道はここから山ノ内、巨福呂坂(小袋坂)切通を経て鶴岡八幡宮に至るが、鎌倉側から見れば鶴岡八幡宮から水堰橋までは「山ノ内路」とも称する。したがって「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」にもあるように水堰橋が中の道の起点・終点という見方もできる。
橋のたもとに建つ、観音像を彫った道標。享保十二年(1727)とあり、「右とつか道 左藤さわ道」と刻まれている。江戸時代には東海道藤沢宿、戸塚宿から小袋谷を経て鎌倉入りする往還として人々が往来した。
水堰橋から北鎌倉駅方面に向かう。
少し先の青看板に出ている左折分岐(小袋谷交差点)は現在の鎌倉街道の道すじ。横浜方面から来た道は鎌倉女子大岩瀬キャンパスの前で左折。小袋谷交差点を経て北鎌倉から鶴岡八幡宮へと向かう。
台やまもみじ公園を過ぎて、台から山ノ内へ入っていくあたり。
JR横須賀線・北鎌倉駅に到着。横浜市営地下鉄ブルーライン・下永谷駅からここまで、およそ4時間かけて歩いてきた。今回はこれにて終了。こうして歩いてみると、歴史ロマンが盛りだくさんでなかなか興味深い古道歩きだった。では駅前の豊島屋で鳩サブレーでも買って帰るとしますか。
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