令和7(2025)年3月上旬の週末、二週連続して田浦梅の里(田浦梅林。横須賀市)へ。
さらには梅林探訪と併せて、田浦の谷戸と尾根歩きへ。旧温泉谷戸(田浦泉町)と月見台(城の台、しろんだ)の旧市営住宅リノベーション事業の地および両者を結んで浦賀道(うらがみち)古道の道すじ(按針塚から大田坂・十三峠、横須賀線ガード・田浦3,4丁目まで)を歩く。
1.JR田浦駅からのの字橋、十三峠・大田坂を経て田浦梅の里(田浦梅林)へ


田浦梅の里への最寄り駅となる、JR横須賀線・田浦(たうら)駅南口。
横須賀軍港への路線として横須賀線が開通したのは明治22年(1889)だが、田浦駅が開業したのは明治37年(1904)。ちょうど日露戦争を戦っていた頃で当初の駅舎は海側(軍港のある現在の北口側)だけだった。国道が開通するのは昭和2年(1927)。浦賀みち沿いの集落があった谷戸側に街が広がって形成されていくのはそれ以降となる。
参考:田浦をあるく(田浦地域文化振興懇話会。横須賀市公式サイトに掲載)


駅ホーム(上り方面)の、田浦トンネル。「田浦トンネル他、横須賀線の格子帯付き煉瓦トンネル群」として近代土木遺産(土木学会)にリストアップされている。
田浦駅ホームは三浦丘陵の尾根に挟まれた谷戸あいに設けられており、ホーム両端がトンネルになっている。ちなみに神奈川県内では塔ノ沢駅(箱根登山鉄道)もホーム両端がトンネル。塔ノ沢駅の画像はこちらのページ。


イギリス積(イギリスづみ。レンガの長手(ながて。長辺)を並べた段と小口(こぐち。短辺)を並べた段を交互に積む)のトンネル坑門(こうもん。出入口)。上部に格子帯と呼ばれる装飾を施しており、近代土木建造物らしい凝った造り。
下り線のこちら側は横須賀線開通当時(単線で開通)のトンネル。「田浦をあるく」によると当初は総煉瓦造だったトンネルは、電化工事(大正14・1925年)に伴って側壁の大部分がコンクリート造に改築されている。なお上り線側は大正13年(1924)に複線化されたときに造られたもの。


こちらは下り方面の、七釜(しっかま)トンネル。三つの坑門が並んでいる。こちらは日本遺産(文化庁)「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴」の構成文化財となっている。七釜の名は本来の字名(あざな)である「失鎌(しっかま)」の響きが鉄道(蒸気機関車)にとって「釜を失う」に通じ良くないと嫌われ、七釜の字があてられたそうだ。
このように田浦駅はホーム両端がトンネルに挟まれているため、11両編成の列車は先頭1両と2両目の一番前のドアがトンネルにかかってしまう。そのためトンネルにかかったドアからは乗降できない(鉄道業界用語でいう「ドアカット」。その昔、80年代後半のころ東横線の代官山駅でも「前一両のドアは開きません」なんてやっていたような記憶が蘇ってきた)。


出発した下り電車(久里浜行き)がトンネルに入っていく。
初めて田浦で降りる人は、ドア上の液晶モニターや車内放送に気を付けておかないと、列車の前寄りに乗っていた時に降りようとしたら「トンネルに入ってしまった」と慌ててしまうかも知れない。


近くに寄ってみる。


中央は最も古い、明治22年(1889)の開通時に掘られた下り方面のトンネル。ただし大正14年(1925)の電化工事に伴って大幅に改造された。その姿は昭和初期ごろまでに建設されたトンネルに多く見られる「ブロック積み」(石やコンクリートブロックを積む)になっている。
これは元の大きな画像を見る限り石ではなくコンクリートブロックのようだ。大正末期ごろは既にコンクリートブロックが実用化していたのか。横浜港の築堤工事で石に代わって麻袋詰めコンクリートが国内の港湾工事で初めて用いられたのが明治24〜25年(1891〜92)。横浜港導水堤(高島水際線公園)の画像はこちらのページ。技術の進歩は日進月歩だ。


右側は大正13年(1924)に複線化された際に掘られた、上り方面のトンネル。田浦トンネルと同様にイギリス積の煉瓦積トンネルとなっている。


そして左側は昭和18年(1943)のコンクリート造トンネル。細かい筋が入っているが、ブロック積みではなくコンクリートを打設しているようだ。更なる技術の進化が見られる。
このトンネルは海軍の要請により軍港(長浦地区の軍需部・倉庫)への物資輸送の引き込み線として造られたもので、サイズも大きい。現在では引き込み線自体は大半が失われてトンネルが残っている。


1945〜50年の航空写真。赤文字加工はサイト管理者。倉庫群に引き込み線が延びているのが分かる。
画像出典:地理院地図(電子国土WEB)


田浦駅南口に立っている案内板(赤文字、赤青矢印の加工はサイト管理者)拡大版はこちら
今回は梅林への一般的なルート(青矢印で示した梅林入口まで平坦な道のりのルート)ではなく、起伏の大きい浦賀道(うらがみち)古道の尾根越えの道(赤矢印で示した道)を行く。
JR田浦駅南口からバスロータリー、16号田浦駅入口(横須賀方面)〜16号田浦駅入口(横浜方面)へ。信号を右折して田浦駅バス停の先でトンネルを直進せず、トンネルの手前を左折して尾根越えの道へ入る。


駅前広場を出て最初の信号(田浦駅入口。国道16号横須賀方面)のところに梅林への案内が出ている。ただ、この案内に従うとこの先で国道16号を歩道橋で渡らないといけない。


次の信号(国道16号横浜方面)を渡って右折、田浦駅バス停を過ぎてトンネルの手前まで進む。今回はトンネルの手前で左折して、狭い道へ入っていく。
ここでトンネル内を進んでいくのが梅林への一般的なルート。梅林入口までは谷戸みちを歩く平坦な道のりとなる。


狭くて緩やかな坂を登っていく。


この辺りは昭和30年代か、あるいはそれよりも前かもしれない石積みの擁壁が多く目につく。


この古びた石垣は一部がブラフ積み(長く切った石の長辺と短辺を交互に並べてレンガのフランス積みのように積む。明治初期の横浜山手から広まった)で積まれている。昭和40年ごろまでの宅地造成では各地で用いられていたようだが、これはもっと古い、戦前期のものかもしれない。


「のの字橋」まで来た。橋の下をくぐり、橋へ。


ループの中は田浦1丁目公園になっている。左手に階段の近道があるが、ここは車道を登り「のの字橋」を渡る。


ループをぐるりと一周。


のの字橋の正式名称は十三峠(じゅうさんとうげ)陸橋。
地元では「のの字橋」と通称されるこの橋は、「田浦をあるく」では「のの字橋」を含めた坂全体で「のの字坂」と紹介されている。
「田浦をあるく」によるとこの坂は「戦前、城の台砲台を築き、物資を運び上げるためにつくられた道路である。道をつなぐ陸橋を「のの字橋」(いわゆるループ橋)といい、はじめは橋も木製であったという」と紹介されている。


地理院地図(電子国土WEB)・年代別の写真を参照すると1945〜1950年の航空写真では画像が粗く現在ののの字坂・のの字橋の線形ははっきりとは確認できない。とはいえ、とりわけループの上部あたりで細い道筋がうっすらと見えるようでもある。
「田浦をあるく」の記述は発行元が懇話会というくらいだから古老への聞き取り調査によるものであろう。記憶が定かであるかの問題はあるが、その内容は史実と整合性があるように思える。


これが1961〜1969年の航空写真となると、現在の線形がはっきりとわかる。そして尾根上の台地に月見台住宅が造成されている。
砲台については、田浦には戦時中に防空砲台として海軍警備隊の田浦高角砲台(第一高角砲大隊。10センチ連装2基ほか。人員91人)、田浦山機銃砲台(第三高射機銃中隊。25ミリ連装2基。人員21人)が配備されている。
参考:新横須賀市史 別編 軍事
画像で確認できる痕跡が砲座の跡であれば、その大きさからしてそこに高角砲10センチ連装が設置されていたのではないだろうか。


ショートカットの階段が合流。


さらに登る。


海が見える。田浦駅北口のマンション、海上自衛隊・船越地区の赤白鉄塔、そして住友重機のゴライアスクレーンを一望。


尾根筋に上がった先、大きな木の生えているあたりが十三峠。


案内の標柱があり田浦梅林方面へ下っていく階段状の坂道がある(大田坂。おったざか)。大田坂を十三峠へと上がり、尾根筋を按針塚方面へと辿っていく道は浦賀道の古道の道すじ。
江戸から東海道保土ヶ谷宿、金沢、追浜(おっぱま)を経て浦賀に至るこの道は「東の浦賀道(うらがみち)」と称される。この峠が浦賀みちにおける難所のひとつ。
他方、東海道戸塚宿から鎌倉、逗子、葉山を経て浦賀に至る道が「西の浦賀道(うらがどう)」と称され、そちらが幕府の公道となった。
参考:『浦賀道』を歩く(横須賀開国史研究会「史跡めぐり」。横須賀市公式サイトに掲載)


「田浦をあるく」では『長善寺わきの大田坂をあがり、尾根道を右にとり安針塚へと向う道がつづくこのあたりを、十三峠という』としている。一方で地理院地図で「十三峠」と地図上に表示されるのは、ここではなく浦賀道をたどった先、鹿島台の手前あたり。近くには十三峠公園も造られている。
十三峠の名は諸説あるようだが、定説はないようだ。「田浦をあるく」では『保土ヶ谷より13番目の峠ということで名づけられたという説や、峠に十三仏をまつった寺か神社があってそれにちなんだもの、あるいは十三塚の信仰にまつわる説などがある』と記されている。
個人的に思うのは、浦賀道が田浦に入って太田坂から尾根に上がる最初の鞍部(あんぶ。尾根を越えて反対側に下る山道が通ると峠と呼ばれることが多い)がここで、浦賀道古道はここから按針塚、浦賀方面へ尾根筋を緩く上下しながらたどっていく。その途中でいくつもの鞍部(里道の通る峠)を通過していくことになるが、たくさんあるのでそれらをひっくるめて「十三峠」となった、なんてこともあり得そう。ただの妄想ではあるけれど。その場合は「十三」に具体的な数的意味はなく「沢山の」というくらいの意味なのかもしれない。あるいは難所の連続だから九と四を合わせて十三、とかね。


急な下り坂。


今でこそコンクリート階段だが、昔はトレッキングコースとか登山道とかで遭遇する鎖場(くさりば)あるいはロープが張られている崖地みたいな難所だったのだろう(この界隈で言うなら田浦梅の里から三浦アルプストレッキングコースに入り、乳頭山の手前の崖地とか。乳頭山山頂下のロープ場の画像はこちらのページ)。徒歩でも大変だが馬で越すとなると厄介な道だ。


途中の崖地に石碑が建っている。


石碑は「道六神」と刻まれた石塔。
「田浦をあるく」によると、道六神とは道祖神のこと。これは天保十二(1841)と刻まれている。民間信仰のひとつである道祖神は村はずれの街道沿いなどに祀られることも多く、悪霊などが集落に入って来るのを防ぐことを願って建てられた。
時は異国船が浦賀あたりにボツボツ出没し始めた頃(モリソン号事件は天保八・1837年)であり、道祖神を祀ることで浦賀から田浦の集落に入って来る、悪霊ならぬ招かれざる何かをこの峠で食い止めることを願ったか。


階段が終わり、坂を下ったこの先で突き当りを左折する。その突き当りが田浦駅から梅林への一般的なルート(平坦な道)との合流点。


「ホタルの住む川」に沿って進み、京急のガード下をくぐる。


ガード下のすぐ先に「田浦梅の里」案内板あり。


こちらの案内板のルートはいくつかある梅林入口のうち急登のルート(男坂)。今回はここを登っていく。
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