まちへ、森へ。

横浜つながり、早春の熱海

令和六年(2024)二月、建国記念の日の三連休最終日。

午前中は見頃を迎えた熱海梅園の観梅へ。熱海梅園は明治19年(1886)、横浜の実業家である茂木惣兵衛(もぎ そうべえ。茂木家は生糸貿易、伊勢佐木町・野澤屋百貨店の経営などで知られる)らによってその原型が開園した。
熱海梅園の観梅のページ

 

旧日向家熱海別邸(ブルーノ・タウト「熱海の家」)

 

午後からは日本に唯一残るブルーノ・タウトの建築「旧日向家熱海別邸(きゅう ひゅうがけ あたみべってい。施主は貿易商・日向利兵衛)」を見学(要予約)する。

 

タウトが内装を手掛けた地階部分は昭和10年(1935)完成。平成18年(2006)に国の重要文化財に指定された。
先行して建てられた二階建ての上屋部分は渡辺仁(わたなべ じん)が手掛けた。渡辺は銀座和光ビルのほか、震災復興のシンボルとなった横浜山下町・ホテルニューグランドの設計で知られる。

戦時色が次第に濃くなっていく昭和初期。ソ連に事務所を構えた時期があったことや労働者階級に親和性のある建築を手掛けたことが親ソ派とみなされ、ナチスから逃れるように来日したブルーノ・タウト。世界で活躍した彼の作品は、日本ではただ一件、熱海の別荘建築が残るのみとなっている。

 

 

JR熱海駅前からはバスターミナルの側道を通り、交番前の信号を渡った先を伊豆山方面へ。東横インの先の信号で右手の狭い道に入り、急な坂道を登っていく。

 

坂を登り詰めると日向別邸への案内板が立っている。

 

 

 

階段を下りていくと、海が目の前。相模灘が大きく広がっている。この画面右手に旧日向別邸が建つ。ここまで熱海駅から徒歩で10分足らず。

 

 

 

旧日向別邸・上屋の玄関。この二階建ての建物は渡辺仁の設計。

 

見学はインターネット予約のみの完全事前予約制。入館料は1000円(2024年2月現在)。人数限定の見学者にスタッフの方が同行して解説するようになっており、曜日限定かつ一日数回のシフト制になっている。

 

 

 

案内板。
上屋の前には眼前に海を見渡す芝生の庭があるが、この庭は人工地盤。鉄筋コンクリート造の地下構造物を地下室とし、その屋上が庭園となっている。

 

地下室とはいえ崖地の傾斜地を造成しその土留めとして造られたコンクリート躯体は、海に面した側が開放感のある大きな窓となっているので地下という感じはしない。現代における地下室マンションみたいなイメージ。

 

 

 

建物内は個人で楽しむ限度で撮影することができるが、インターネット上に公開しないで下さいとの制約がある。そこで上屋建物の居間から、庭越しの海を一枚。水平線に伊豆大島が霞んで見える。立木に重なるように初島(はつしま)もちょろっと見える。
この庭が鉄筋コンクリート造の地下室の屋上部分となる。

 

 

 

一般に配布されているリーフレット(チラシ)の表面。画像は地階の社交室。右下に回り階段の手すり(竹製)が見える。

 

 

 

リーフレットの裏面。画像は右上から時計回りに上屋玄関の外観、地階の社交室、地階の洋風客間・上段、和室に隣接するベランダ、和室。

 

 

始めに上屋の居間でガイダンスビデオを視聴。ガイドさんから概要の解説や注意事項の伝達がなされる。
この建物は老朽化が酷かったため、平成30年(2018)から令和4年(2022)まで保存修理工事が行われた。ガイドさんによるとそれ以前は上屋は危険なため見学できず、屋上の庭にも出ることができなかったそうだ。

 

1.上屋の見学

 

ガイダンスビデオの視聴を終えたら組を分けて上屋の一、二階(渡辺仁設計)を見学する。上屋部分は文化財の登録や指定はないようだが、そう遠くないうちに登録有形文化財にはなるかもしれない。

 

玄関を上がってすぐの広々とした居間は天井が格子状の格天井(ごうてんじょう)になっており一部に明かり取りの窓がある。
居間には床(とこ)を設えた三畳の上段(小上がり)が設けられている。磨いた丸太を床柱(とこばしら)とし落し掛けの横木には竹を用いた、数寄屋風書院(すきやふう しょいん)の造り。
上段の上がり框(かまち)はスライド開閉式のスリットになっており、温泉の蒸気を引き込んで暖房に用いていたそうだ。この仕掛けは建物の随所に見られる。とはいえ泉質に塩分が多かったため配管がすぐに腐食し、用を為さなくなってしまったらしい。

 

浴室は床に伊豆石が敷き詰められ、壁の腰には淡い青緑色の織部焼の方形タイルが張られている。天井は船底天井で、竹をすのこ状に並べた湯気抜きが設けられている。竣工当時の水栓は失われ、保養所時代のものらしきカランがついている。
ガイドさんが比較的柔らかい伊豆石とおっしゃっていたが、自分の中では比較的軟らかく加工しやすい鎌倉石に対して伊豆石は硬め、との認識だった。そんなことをガイドさんと喋りつつ「以前、『軟らかいって、石ってもんはみんな硬いんだよ』というつっこみがありましてね」などという話を思い出しながら談笑。

 

生活空間となる主人室、主婦室は簡素な造りだが、床の間の床框(とこがまち)に竹を配したり、作り付けの物入れの扉に木材で市松模様をあしらったり、所々に瀟洒な遊び心がみられる。使用人を呼び出すためのブザーのボタンなどは、いかにも昭和初期の別荘建築らしい。雲板を貼った半間(はんげん)の神棚が設えてあったが、これは新しそうですね、などと喋りつつ各部屋を観て廻る。

 

二階から見える一階の屋根は軒側が銅板葺きで棟側に瓦が葺かれている。瓦は青緑色の織部焼の瓦を用いていたというが、現在ではもう生産できないとのこと。保存修理の際に瓦の一部を交換する必要があったが、見えにくいところを色合いを似せた瓦で代用したそうだ。

 

 

 

続いて地下室(ブルーノ・タウト設計)の見学。地下室部分は趣向を凝らした三つの間(社交室+アルコーブ、洋風客間、日本間+ベランダ)がひと続きになっている。

 

2-1 上屋からの階段、地階の社交室+アルコーブの見学

 

上屋から階段を下りていくと、その視線の先の壁には細竹を縦繁にあしらった火灯窓(かとうまど。花頭窓)が大きく開いている。回り階段には竹を曲げた手すりが備えられている。

火灯窓は火灯口(かとうぐち)とともに鎌倉時代中期に始まる禅宗様建築で用いられた形式。火灯口は時代が下ると茶室の茶道口(茶室に客を迎える亭主が茶事を執り行う際に出入りする出入口)などにも採用された。
例えば横浜本牧の三溪園に移築されている臨春閣(旧紀州徳川家巌出御殿。国指定重文。移築に際して雁行型に配置し直されたことで「東の桂」と称される)の一階「天楽の間」「次の間」から二階「村雨の間」への上り口には大きな火灯口が開いている。望楼としての役割も果たしたであろう村雨の間へ通じる火灯口は、来客に一種の高揚感をもたらす効果を生じさせたと察するに十分な存在感がある。
三溪園臨春閣見学のページ

こうしてみると階段を下りていってまず初めに目に飛び込んでくるこの火灯窓は、往時の客人を特別な空間にいざなう視覚効果を感じさせるに十分な仕掛けと云えまいか。

 

社交室は、回り階段を下りるとすぐ。緩やかなカーブと真っすぐな直線を描くように煤竹を用いて吊るされた裸電球の照明(現在はLED)が印象的。どこか祭り屋台の立ち並ぶ雑踏を思い出させる。
天井は桐の板張り。その方向も縦に斜めにと変化を持たせている。竣工時は桐の白さが際立ったはず。壁は淡い黄色の漆喰の塗り壁。これらが相まって、明るい感じの空間に仕上げられた。
窓には京町家などで夏の設えとして見られる夏障子(なつしょうじ。簀戸・すど)の意匠が取り入れられた。その一部はオリジナルが残っているとのこと。外側はオリジナルは雨戸だったが保存修理工事後はアルミサッシとなっている。
床材はガイドさんによるとその一部に虎斑(とらふ)入りのブナ材(だったかミズナラだったか)が用いられているそうだ。水気の多いブナを建材に用いることが珍しく、木材を扱う貿易商だった日向利兵衛らしいこだわりの遊び心が感じられた。

 

社交室に隣接するアルコーブはタウトのデザインによる椅子やドイツ人学者の監修で復元されたソファーなどが置かれている。
アルコーブの壁には細い竹がびっしりと張られている。これは玄関脇にも見られた木賊垣(とくさがき)のデザイン。節の当たる部分は節を削らずに隣り合う竹の側を削って窪ませ節の方を生かすという、手の込んだ細工をしている。
アルコーブの床はヘリンボーン(ニシンの骨の意味。杉綾織、矢筈貼)模様に貼られており、昭和初期に流行したアールデコ建築のモダニズムを感じさせる。

昭和初期の別荘建築は、こうした和と洋の融合を意識したデザインが盛んに用いられた。同様の事例は旧住友家俣野別邸(横浜市戸塚区。オリジナルは昭和初期の別荘建築としては初の国指定重文建築だったが不審火により焼失してしまった。その後に忠実に再建されている)でも見られる。当時のライフスタイルが時代の要請としてこうした建築を生み出したのであろう。
旧住友家俣野別邸見学のページ
タウトという人は日本滞在のごく短期間でこれを感じ取って施主のためにこれを成し遂げたのであるから、やはりすごい。

 

2-2 洋風客間の見学

 

社交室に続く間は洋風客間。旧日向別邸のシンボルともいうべき、腰掛けともなる五段の階段を設けた上段の空間は客人に海の眺望を楽しませるための仕掛け。そのための工夫として向かいの窓は折り戸になっている。折り戸を広げれば屏風のように、畳めば絵画のように海の眺望を楽しむことができる。

タウトが日本において感銘を受けた建築の一つが桂離宮。桂離宮古書院月見台とそこから見る池との一体感は、自然と建築の共生と一体化というタウトの思想とぴたりと合致したはず。客間から眺められる海との一体感はまさにこの思想が形となって現れたもの。

絹織物を染色したワインレッドの壁も斬新な印象。染料はタウトがドイツから取り寄せた。上段の天井は明り取りのように切られた格子状の埋め込みの照明となっており、柔らかな間接照明の風合いを醸す。
広間の天井はオリジナルは青みがかった漆喰だったというが、保存修理工事の際に再現することができずに白いクロス貼りとなった、とのこと。一部でも残してくれればよかったのだが。その天井だが、白い部分が周辺部分よりも高く持ち上がった折り上げ天井(おりあげてんじょう)になっている。持ち上げる部分の装飾はシンプルだがアールデコを感じさせる。
洋風客間と社交室を隔てる欄間(らんま)は縦のスリットが密に入ったデザインだが、その色合いは洋風客間の側が濃い茶色なのに対して社交室側は明るい黄土色になっており、各部屋の色彩テーマに沿った色になっている。

 

2-3 日本間+ベランダの見学

 

洋風客間に続くのは日本間。洋風客間と連続性を持たせた階段が設けられた。その色合いはベンガラ色。壁は鶯色。
階段脇には床(とこ)も設けてあるが、デザインは斬新。床脇の明り取りとして設けられる狆潜り(ちんくぐり)は脇の壁部分が天井まで取っ払われている。そこはドイツ人のタウト、狆どころかドーベルマンでも潜れそうだ。ひとくちに書院といっても、かっちりとした書院造の枠を超えて随所に遊び心をちりばめた数寄屋風書院であるならば、これもありだと思う。
上段の天井には照明がない。行燈のような照明器具が置かれ、ほのかな明かりだけとなる。置かれていた照明器具は、施主の日向利兵衛とタウトを結び付けるきっかけとなった、タウトのデザインによる電気スタンド。
畳敷きの広間の天井は竿縁天井(さおぶちてんじょう)。天井板に神代杉が用いられている。部材には本当にこだわっているようだ。
立派だったのは欄間。伝統的な格調高い書院造に用いられる、筬欄間(おさらんま。筬という細い部材を縦に密に組んでいる)がはめられている。しかも通常の筬欄間に見られる横の桟がない。縦の桟だけなのに90年近く経っても狂いの無い見事な筬欄間は「どうだい、桂離宮の筬欄間にも負けないよ」というプライドを感じさせる。

タウトは来日して日本各地の建築を見聞、桂離宮に深い感銘を受けた。新御殿の上段の書院とか欄間とか、様々なところから着想を得てこの建物の設計に向かっているはず。ガイドさんの解説によるとタウトは内装の施工にあたり宮大工の佐々木嘉平の協力を得ている。佐々木嘉平は中世以前の伝統建築としては南関東に二棟しかない国宝建築の一つである正福寺地蔵堂(室町中期の禅宗様仏殿。東京都東村山市。因みにもう一棟は鎌倉・円覚寺舎利殿)の復元を手掛けた人物。

日本間に隣接するベランダは床が黒瓦の四半敷(しはんじき。方形の床材を斜め四十五度に敷き詰める)となっている。黒瓦の四半敷は禅宗様の仏殿に多く見られる。この辺りもこだわりを感じる。

 

 

 

火灯窓に始まり黒瓦の四半敷に終わる。和の要素はこうした禅宗様仏殿建築の要素に書院造、数寄屋風書院の融合。洋の要素にアールデコ建築のモダニズム。そしてお祭りの雑踏や町家に見られるような庶民の暮らしの賑わい。
西洋人の単純な日本趣味として片づけてしまうには何か足りない、もっと深い思想というか理念というか、そういったものを感じさせた建物だった。

 

この建物が完成した直後、来日からわずか3年余りの日本滞在を経てタウトはトルコに向かう。折しも日本がドイツとの急接近を図っていた頃。そして建物完成から3年後、日向利兵衛は没する。日向家の手を離れた建物は企業役員の保養所として活用されていた。その後、老朽化による解体の危機に瀕していたが平成16年(2004)に都内の女性篤志家の厚意によって熱海市に寄付され、生き永らえた。

こうした人々の思いを紡いでいった先で、現在こうしてこの建物を見ることができることの僥倖を思う。

 

 

 

内部見学を終え、最後は庭園へ。保存修理工事にあたり、軽量の土を用いてコンクリート躯体の負担を軽減したそうだ。オリジナルの作庭には日向利兵衛の娘婿である造園家・田村剛(たむら つよし)が関与しているという。

 

今回の訪問はブルーノ・タウト設計の重要文化財もさることながら横浜のホテルニューグランドを設計した渡辺仁設計の別荘建築も興味深かった、などとガイドのスタッフさんと雑談。重厚な近代洋風建築とは趣の全く異なる純和風部分が大部分となる小振りな別荘建築を、資産家の依頼とはいえよく引き受けたもんですね、などと会話を交わす。ガイドさん曰くニューグランドには何度か行っているそうだが建築関係のイベントは熱海からだと京都だったり東京だったりで、横浜は随分と行っていないな、とおっしゃっていた。新横浜までならともかく、関内などの旧市街地となるとそれなりに時間がかかるし、まあそうだろうな、とも思う。

 

 

 

ガイドさんが教えてくれたのだが庭園から見上げたすぐ隣、大きな庇の建物は「ATAMI海峯楼(あたみ かいほうろう)」というラグジュアリーホテル(元は企業のゲストハウス)で、隈研吾(くま けんご)さんの設計だそうだ。竹や木をふんだんに用いた最近の作風より少し前(1995・平成7)の作品となる。

 

隈さんの講演の記録を見ると、そこに造られた「水/ガラス」という作品は眼下の建物がブルーノ・タウトの作品であることを知った隈さんがタウトをオマージュ、海との一体感をイメージして設計したという。隈さんは少年の頃からタウトという建築家がいることを知っていた、という話は今回事後的に検索で確認した「建築家・隈研吾さん、生まれ育った大倉山への深い思いを語る」(2022年9月、横浜市・港北公会堂にて)という講演の記録でいろいろと見ることができた。

隈さんが少年だった頃の大倉山は今でいう里山だらけで、こどもの遊び場はそういったところだった。隈さんは愛知万博(愛・地球博)絡みの仕事にかかわったことが、大人目線で里山への関心を高めるきっかけの一つだったようだ。少年期には近代的でモダンなものに憧れたのが、年齢を重ねてから竹や木といった素材に傾倒していったのは大倉山での少年期の記憶によるところが大きかったのでは、と感じられた。

 

このページでは余談となってしまうが、講演のなかで隈さんは大倉山記念館(旧大倉精神文化研究所)に対する思いもつらつらと語られている。私もあの建物を見学したあと、設計した長野宇平治は依頼主である大倉邦彦の東西精神文化の融合というコンセプトを汲み、宇平治の時代の研究成果の集大成として持てる知見を一つの建物に融合させたのではあるまいか、といった趣旨のページをサイト内に作ったりもした。
大倉山記念館見学のページ
講演記録の中で、隈さんが日本の近代建築をまとめる「新建築」という本の編集委員をなされたときにどうしても大倉精神文化研究所を入れたい、と主張して実現してくださったというくだりがあったが、自分の見方があながち的外れでもなかったことはちょっと嬉しくもある。

 

午後2時半から4時までの予定時間を10分ほど過ぎて、熱海駅へ。
帰りは新幹線を使うつもりでいたのだが、熱海駅の新幹線券売機は長蛇の列。しまった、三連休の最終日だからこうなることも考えておかねばならなかった。結局予定していた便より一本後、30分遅れの便になってしまった。

 

それでも熱海から新横浜までは30分足らず。相鉄新横浜線への乗り換えは6分しか時間が無かったが小走りで移動したら何とか間に合った。乗ってしまえばあっという間に西谷から相鉄本線へ。
在来線なら熱海から30分だと小田原まで。本数も新幹線と大差ない。そこから小田急ロマンスカーにタイミングよく乗れたとしても、その先が長い。新横浜線開業のおかげで相鉄沿線から熱海方面への日帰りは本当に便利になった。

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