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三溪園の四季〜初夏〜


このページでは新緑の季節の訪問記に加えて各建築の由緒、臨春閣の障壁画、原富太郎(三溪)氏がこの庭園で目指したところについて多少なりとも触れていくことにしたい。

内苑

御門  臨春閣(内部公開)と障壁画  亭しゃ  旧天瑞寺寿塔覆堂

蓮華院(内部公開)  春草廬  聴秋閣と新緑の渓谷歩道公開  月華殿  金毛窟  天授院

外苑

旧燈明寺三重塔  旧東慶寺仏殿  旧矢箆原家住宅  旧燈明寺本堂


原三溪氏の思いその1  原三溪氏の思いその2  旧松風閣と善三郎・富太郎について




園内案内図。 案内図拡大版


立夏の頃



青葉の季節を迎えた正門。大型連休がやってきた。




これぞザ・三溪園の景観。




懸崖松そばの藤棚。




鶴翔閣(かくしょうかく・旧原邸)。




旧燈明寺(とうみょうじ)三重塔。




まだ朱塗りであった頃の、観心(かんしん)橋。現在では往時の白木の橋に架け替えられた。




ツツジ咲く、池畔の涵花亭(かんかてい)。









御門(ごもん)。もとは京都東山・西方寺にあった。明治末期から大正初期にかけて、西方寺境内の一部が市電敷設に伴う道路拡張のため区画整理にあい、その際に解体された門を移築した、とされる。









薬医門(やくいもん)の構造。桁(けた)が梁(はり)から突き出ている分、屋根が前にせり出した印象になる。














内苑は、かつての原家私庭(プライベートエリア)。数寄屋風書院建築や茶室などで構成されいる。

原三溪こと原富太郎(はら とみたろう。1868〜1939)は岐阜県厚見郡佐波村(あつみぐんさばむら。現岐阜市柳津町・やないづちょう)の生まれ。生糸貿易・製糸場経営をはじめとした各種事業を手掛ける実業家にして、茶人。書画を嗜み、建築・庭園に優れた審美眼を発揮した。昭和33(1958)に至り、内苑は一般公開されるようになった。

なお外苑は、遡ること明治39年(1906)に「遊覧御随意 三溪園」として、一般公開されている。

三溪の義祖父である原善三郎(はら ぜんざぶろう)や茂木惣兵衛(もぎ そうべえ)など開港初期の大富豪たちは野毛山(のげやま)にあった大邸宅の庭園を催事の折には一般に開放していた。これは開港後の歴史が浅く壮麗な大名庭園や神社仏閣の境内を持たない横浜に市民の憩いの場となる公園が希少だったためであった。

全国の社寺境内や大名庭園(水戸偕楽園や金沢兼六園、高松栗林公園など)は明治6年(1973)の太政官布告「公園の設置」によっていち早く正式に公園となった。一方、東京の財閥が所有するところとなる都内の私有庭園(六義園や清澄庭園など)が公への寄付を経て一般に開放されるようになったのは大正末期から昭和の初めにかけてであった。

富太郎による三溪園の開放は、私的な庭園を昼夜を問わず広く公に開放し以て公衆の利益に資するという考え方の、日本における先駆けであった。当然、周囲には心無い者に荒らされないかと心配する声もあった。が、記録に残されている「三溪の土地は勿論余の所有たるに相違なきも、その明媚なる自然の風景は別に造物主の領域に属し、余の私有には非ざる也・・・」という言葉には、富太郎の公人たらんとする思いが感じられる。この思想は後(大正7年・1918)に設立される庭園協会関係者の共感を呼び、記念すべき第一回の視察旅行の地に三溪園が選ばれている。




臨春閣(りんしゅんかく)の玄関わきに、牡丹(ボタン)の花。




臨春閣(りんしゅんかく)玄関。臨春閣は第二次大戦時空襲により甚大な被害を受けたが、戦後解体修復工事とそれに伴う調査が行われた。その結果、前身は紀州徳川家の別荘建築(巌出御殿・いわでごてん)であったと結論付けられ、これが現在の通説となっている。

この時は「新緑の古建築公開」で、内部が一般公開されていた。立派な唐破風(からはふ)の玄関から、中へ。

なお、屋内の障壁画は複製。原本は三溪記念館に収蔵、随時展示。
臨春閣・月華殿の障壁画は、昭和51年(1976)より11年間に渡る障壁画保存事業がはじまっている。新たな別の障壁画も中島清之(なかじまきよし)氏・中島千波(なかじまちなみ)氏により制作されている。




玄関棟から見る第一屋「鶴の間」「瀟湘(しょうしょう)の間」。




第一屋「鶴の間」。障壁画は狩野周信(かのうちかのぶ。1660〜1728)筆「鶴図」。

右隣は「瀟湘の間」。









第一屋「瀟湘の間」。障壁画は狩野常信(かのうつねのぶ。1636〜1713)筆「瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)」。瀟湘八景とは中国山水画の画題。日本においても多くの画家に好まれ多数の作品が描かれている。欄間(らんま)は浪形(なみがた)。

正面の隣室は「花鳥の間」。




第一屋廊下からの、裏庭。




第一屋「花鳥の間」。障壁画は狩野探幽(かのうたんゆう。1602〜72)筆「四季花鳥図」。




第一屋「台子(だいす)の間」。台子とは、茶道具を置く棚のようなもの。水屋(みずや。茶事の準備をする場所)の上にある引違戸には蓮の茎が使われている。

正面の隣室は「鶴の間」。









第二屋「琴棋書画(きんきしょが)の間」。障壁画は狩野探幽(かのうたんゆう。1602〜72)筆「琴棋書画図(きんきしょがず)」。琴棋書画とは中国の古来よりの嗜みで音楽・囲碁・読書・掛軸。こちらも多数の作品の題材となった。

左隣は「浪華(なにわ)の間」。




第二屋「浪華の間」。障壁画は狩野永徳(かのうえいとく。1543〜1590)筆「芦雁図(ろがんず)」と伝わる。欄間は殿上人筆「浪華十詠(和歌)」。

奥は、一段高い「住之江(すみのえ)の間」(上段の間)。障壁画は狩野山楽(かのうさんらく。1559〜1635)筆「浜松図」と伝わる。




浪華の間越しに眺める、庭園。新緑の中の、亭しゃ(木へんに射。ていしゃ)。




庭園と、第三屋。第三屋は、二階建て。




第三屋からの庭園。




第三屋「天楽(てんがく)の間」と「次の間」。障壁画は、天楽の間が狩野安信(かのうやすのぶ。1613〜1685)筆「四季山水図」。次の間が雲沢等悦(うんたくとうえつ)筆「山水図」。
欄間には、雅楽器の笙(しょう)などが配されている。次の間には禅宗様建築の窓などに用いられる火灯窓(かとうまど)を元にした火灯口(かとうぐち)の意匠が見られる。




この意匠は、二階「村雨(むらさめ)の間」へ上がる階段の昇り口に用いられている。




第三屋から、庭園へ。




第三屋と、第二屋。




秀吉ゆかりの瓢箪文(ひょうたんもん)手水鉢(ちょうずばち)。




内苑の象徴ともいえる臨春閣は、第一屋と第二屋、第三屋とあわせて、雁行型(がんこうがた)に配置されている。
三溪が歳月を費やして、屋内から見る庭園や遠景の三重塔との均衡に熟慮を重ねたうえで、移築の際この配置となった。その配置ゆえに、京都・桂離宮の御殿になぞらえて「東の桂」と称される。




臨春閣の平面図。
右下から玄関、第一屋、第二屋、第三屋と第三屋の二階。

紀州徳川家別荘(巌出(いわで)御殿)の時代は、第一屋が来客・家臣の控えの間、第二屋が面会の間、第三屋が奥の間であった。第三屋は、元は第一屋の背後にあった。




亭しゃ(木へんに射。ていしゃ)は京都・高台寺の観月台を模してこの地で造られた。









旧天瑞寺(てんずいじ)寿塔(じゅとう)覆堂(おおいどう)。元は京都大徳寺内に建てられていた。ここに移築される前はずいぶんと傷んでいた、という。内苑において三溪が思いを込めていちばん最初に移築した建物。

この建物は豊臣秀吉にゆかりのある桃山建築の仏堂。秀吉が母・大政所(おおまんどころ)の長寿を願い建てた寿塔(生前墓)を納めるためのもの。




竹林の向こうに、蓮華院(れんげいん)。三溪が、大正6年(1917)に建てた茶室。戦前は現在の春草廬の位置にあった。
今回は、蓮華院も公開された。




蓮華院小間(こま)。二畳中板(にじょうなかいた)の茶室。ちょっと暗いが、天井は蓮の茎。上部が曲線を描く出入口は火灯口(かとうぐち)といって、亭主の出入りする口。
二畳中板とは、二畳間の畳の間に板を渡してある間取り。




蓮華院広間(ひろま)。六畳の茶室。床柱(とこばしら)は天平年代の古材、と伝わる。




蓮華院土間(どま)。中央の太い円柱は宇治平等院鳳凰堂の古材、と伝わる。




蓮華院土間。




蓮華院の平面図。
手前左が二畳中板の小間。手前中央が六畳の広間。手前右が土間。




庭園の、奥へ。




春草廬(しゅんそうろ)。春草蘆のうち左側部分は元々は九窓亭(きゅうそうてい)と呼ばれ月華殿に付属した建物であった。戦前は右側の三溪による増築部分(水屋と広間)を含めて臨春閣の裏手にあり白雲邸とつながっていた、という。

九窓亭は、織田有楽斉(うらくさい。1547〜1621)の構想によるものと伝わる、三畳台目(だいめ)の茶室。
台目とは一畳と半畳の間くらいの大きさの台目畳(だいめたたみ)のこと。したがって三畳半よりちょっと大きく四畳より少々小さい、といった間取り。




春草蘆の平面図。
平面図左側の、横T字部分が元の九窓亭。上のでっぱりが床(とこ)、下のでっぱりが台目畳。
右側の大きな部分が三溪が増築した水屋と広間。両側一体で春草蘆と名付けられた。

蓮華院や春草廬の位置が戦前戦後で移動しているのは、戦時中の戦火を避けて解体保存されていたためであった。戦後、園内が復旧していく過程で現在の配置に落ち着いた。




聴秋閣(ちょうしゅうかく)。徳川家光ゆかりの楼閣建築。二条城内に建てさせた三笠閣が前身といわれる。

この建物の移築を最後に、三溪自らによる古建築の移築はなされていない。大正12年(1923)に発生した関東大震災からの横浜復興事業に全精力を傾けたためであった。




玄関から、上の間(かみのま)の床(とこ)を見る。




渓流に沿って、非対称の建物を巧みに配置。




この先、渓谷の遊歩道は、期間限定で新緑の大型連休・紅葉の11月末〜12月初旬に、一般開放される。



















渓谷の遊歩道からの眺め。これも、三溪の美意識から生まれた景観。




月華殿へ。














傾斜地に建つ、月華殿(げっかでん)。徳川家康ゆかりの御殿建築。大名の伏見城来城の際の控え所であった。

伏見城は秀吉に代わって家康が天下を取ったのちことごとく建物が建て替えられたが、すぐにその役割を終えて廃城となった。その際に多くの建物が寺院などに払い下げられたというが、三室戸寺金蔵院から移築されたこの建物もそういったものの一つと伝わる。




金毛窟(きんもうくつ)。三溪が、大正7年(1918)に建てた、一畳台目の茶室。
月華殿に付属する茶室として建てられた。





天授院(てんじゅいん)。
江戸時代初期、鎌倉建長寺近くに建てられた旧心平寺(しんぺいじ)地蔵堂と考えられている。内苑における原家の持仏堂として三溪の養祖父善三郎が祀られ、そしてのちに三溪自身の位牌が祀られている。




内苑の回廊が取り払われたのは戦禍による延焼を防ぐためであった。




三溪記念館の中から窓越しの眺め。


この後は、内苑を出て、外苑(がいえん)へ。




睡蓮池。ちらほら花が始まっている。




外苑は、三溪が早くから一般に向けて開放した庭園。急速な近代化が進む時代にあって、神社仏閣や住居など生活に身近な建築を来園者に見てもらうことで日本人が失ってはならない国民性を顧みることができる、という考えのもとに構成された、という。
ただ残念なことに、幾つかの建物が震災や戦災などで焼失してしまった。

横浜都市発展記念館(外部サイト)」には「横浜絵葉書データベース」「本牧」のページにかつての三溪園外苑の彩色絵葉書が掲載されている。




池の畔にはこんな注意書きが。鯉に餌をやるときは胸ポケットに気をつけましょう。




拾えなくてごめんニャーか、それともこの子が落としたのか?




三重塔の建つ小高い山の上へ。




松風閣(しょうふうかく)からの眺め。現在の建物はコンクリート造の展望台。

旧松風閣は、三溪の義祖父にあたる原善三郎がこの地を購入したのち明治20年(1888)頃に別荘として建てた、木造・レンガ造の建物。善三郎は野毛山(のげやま。現在の野毛山公園)に豪奢な洋館の邸宅を構えており、この地は別荘であった。

眼下に、三溪園南門を出てすぐ、本牧(ほんもく)市民公園の上海横浜友好園が見える。首都高湾岸線の向こうには根岸湾のコンビナート。

この崖下は、公園も含めてすべて埋立地。
善三郎の別荘が建っていた往時は無論のこと、昭和40年代に埋め立てられるまでは崖下に海が迫っていた。




丸窓が中国風の意匠。




文明開化の初期を生きた洋風好みの善三郎に対して、三溪(富太郎)は和風好みであった。旧松風閣に和風建築を増築し、やがて正門付近にのちの本邸となる鶴翔閣を建ててゆく。
なお、善三郎の息子は早世しており、富太郎は孫娘の婿として迎えられた。




松風閣の遺構。関東大震災で倒壊してしまった。




穴だらけの奇岩がすぐそばに置かれている。これはおそらく太湖石(たいこせき)。
太湖石は中国庭園で好んで用いられる(大師公園・瀋秀園を参照)。善三郎が手掛けた旧松風閣の趣向からして、おそらくは三溪ではなく善三郎が置いたものであろう。




旧燈明寺三重塔。三溪園の象徴として、園内いたるところから目にすることのできる山の上に建つ。三溪氏の深層にある情景がこの建物の移築に結実した、とも言われている。

戦時中、空襲により大きな被害を受けたが、戦後解体修理により復旧した。




山の下へおりて、外苑庭園へ。




下りたところに、林洞庵(りんどうあん)。




初音茶屋。




梅園の臥竜梅(がりょうばい)も、すっかり新緑。




外苑の渓流。




茅葺の、旧東慶寺(とうけいじ)仏殿。明治以降寺勢が衰微してしまった鎌倉東慶寺より移築された。




寒霞(かんか)橋越しに、横笛庵(よこぶえあん)。






待春軒は、現在は茶店としてその名を残している。




外苑の一番奥まったところに建つ、合掌造。飛騨の豪農(庄屋)であった矢箆原(やのはら)家の旧住宅。
御母衣ダム(みぼろダム。昭和36・1961年完成)の底に沈む運命にあった建物が三溪の没後に移築されているが、三溪が目指した外苑のコンセプトに合致してのことであろう。


世界遺産で有名な飛騨の白川郷は主として白川村の一帯であるが、この旧矢箆原家住宅は隣りの荘川村にあった。
白川郷は明治8年(1875)、庄川(しょうかわ。富山湾に注ぐ一級河川)上流域にあった下白川郷の村々が白川村に、上白川郷の村々が荘川村(現高山市)になった。
荘川村の中でも最も豊かな村であったとされるのが江戸期の旧岩瀬村。養蚕や金・銅の地下資源に恵まれた豊かな集落であった岩瀬で最も富裕であった矢箆原家は、飛騨随一の豪農であった。その富裕ぶりは他村のどんな豪農たちも及ばない、と盆踊り唄に唄われていたようだ。




板の間の客間は村の有力者の会合に使われた。




違い棚のある床脇・扇の透かし彫りの欄間などが見られる書院造の座敷は、この家に武家階級の役人が訪れていたことを物語る。

近在の古民家では、このような立派な書院造の江戸期古民家は都筑区勝田町の関家住宅ぐらいでしか見られない。




階段は急勾配。









合掌造としては白川郷・五箇山でよく見られる切妻ではなく、入母屋。よく見ると、妻壁に火灯窓の意匠があしらわれている。




旧燈明寺本堂。
朽ち果て廃屋同然となったのち解体保存されていたが、三重塔の縁もあって昭和62年(1987)にこの地に移築された。
背後に桜の山を従えたこの位置への移築は、桜の季節の大池・観心橋越しに見る景観や三重塔の山上から見下ろす景観など、外苑の新たな魅力をつくっているのではないだろうか。




現在旧燈明寺本堂が建つあたりに、かつて建っていた皇大神宮。




大池ほとりの、観心(かんしん)橋へ。









しょうぶ園の季節は、これから。


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