まちへ、森へ。

関内界隈、近代西洋建築めぐり

みなとみらい線馬車道(ばしゃみち)駅から山下公園まで、主に本町通り(ほんちょうどおり)沿いに関内(かんない)地区の近代建築を見て歩く。

 

 

馬車道に面して建つ、古典主義(ネオ・バロック)様式の神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金(しょうきん)銀行本店)。明治37年(1904)築。妻木頼黄(つまきよりなか)設計。

 

ドーム部分は関東大震災(大正12年・1923)で焼失し長らく復元されなかったが、昭和42年(1967)に行われた博物館への改修の際復元された。
神奈川県立歴史博物館のウェブサイトには震災で壊滅した横浜ほか県下各地の画像資料が多数掲載されている(デジタルミュージアムのページ)。

 

横浜正金銀行(のちの東京銀行。三菱東京UFJ銀行を経て現在は三菱UFJ銀行)は、急速に近代化するかつての日本にあって、世界でも屈指の外国為替銀行として隆盛を誇った。この建物は、町全体がのちの関東大震災や焼夷弾の降り注ぐ大空襲、焼け残った街の占領軍による長期接収で辛酸を舐める以前、明治・大正期にあって今以上に栄華を誇った横濱の、いわば生き証人でもある。

 

左奥には損保ジャパン日本興亜馬車道ビルが見える。

 

 

 

旧建物(旧川崎銀行横浜支店。大正11年・1922築)の外壁は歴史博物館と並んで一体的に馬車道の景観を作っていたため、平成元年(1989)にガラス張りのビルに再開発される際、石造りの部分を低層に復元した。以降に多く見られる同様の再開発の先駆けとなった建物。

 

 

 

例年11月初頭に行われる「馬車道まつり」馬車・人力車試乗会のページへ。

 

 

 

歴史博物館の玄関上部。ピラスター(装飾柱)の上部にコリント式の重厚な柱頭飾りが見られる。その上には大きな三角のペディメント(破風)。

 

 

 

入口から振り返ると「開港記念会館みたいなあれは、何だ?」という塔が見える。これはカサ・デ・アンジェラという結婚式場。すぐ近くにそびえるジャックの塔をオマージュしたのだろう。

 

正面に見える石造風の建物は旧富士(安田)銀行横浜支店。現在は東京芸術大学大学院映像研究科校舎として利用されている。

 

 

 

馬車道側の入口。喫茶店や資料室、ミュージアムショップを利用するだけなら入館料なしで入館できる。

 

 

 

入口を入ってすぐの、ステンドグラス。

 

 

続いては本町通り(ほんちょうどおり)沿いに、開港記念会館へ。

 

 

 

途中にある、三井住友銀行横浜支店(旧三井銀行横浜支店)。昭和6年(1931)築。設計は三井本館も担当したアメリカの建築事務所。
くるっと巻いた柱頭飾りをもつイオニア式オーダー(柱)をあしらったデザインが特徴。

 

本町通りはかつて銀行街として多くの銀行が軒を連ねていた。銀行合併による統廃合が進んだ中、この建物はいまだ現役の銀行として稼働している。

 

 

 

開港記念会館。大正6年(1917)築。福田重義原案設計。

 

ドーム下の通用口にはお皿のような柱頭飾りのトスカナ式オーダー(柱)があしらわれている。

 

 

 

かつてはその名を「開港記念横浜会館」といった。現在もアーチ窓の上に見られる表記はその当時のままである。

 

外観は赤レンガと花崗岩をとりまぜた辰野式と呼ばれる、古典主義を自由にアレンジしたスタイル。

 

 

 

現在は中区公会堂として利用されている。講堂や会議室以外は自由に出入りして見学できる。

 

玄関ロビー。イオニア式オーダー(柱)が見られる。

 

 

 

 

 

 

 

大きなアーチ窓。

 

 

 

一階の講堂入口。

 

 

 

講堂。ほぼ毎日団体利用が入っており普段は見学できないが、月に一度だけ見学可能な一般公開の日がある。

 

 

 

滑らかな曲線を描く梁と、シャンデリア。

 

 

 

 

 

 

 

講堂内全体が丸みを帯びたデザインになっている。

 

 

 

二階広間。「咸臨丸(かんりんまる)の威風」・飯塚羚児(いいづかれいじ)画。
修好通商条約批准のための日本使節団を乗せた黒船ポーハタン号に随伴し、アメリカに渡る姿をイメージして描かれたもの。

 

 

 

資料コーナーの、ステンドグラス。中央に鳳凰と市章「ハマ菱」。両側は「呉越同舟」「箱根越え」。初代は震災で焼失し、現在のものは昭和2年(1927)に復旧したもので、平成に入って大ががりな補修がなされた。

 

 

 

塔へ通じる、らせん階段。

 

 

 

柱から梁にかけての半円アーチが交差する、ロマネスク(ローマ風)様式のデザインを用いた二階広間。

 

 

 

廊下は、床がバリアフリー対応床に改修される前のタイル張りの床が一部見えるようになっている。

 

 

 

特別室(旧貴賓室)。

 

 

 

貴賓室の、かつての天井。象嵌細工の鳳凰や折り上げ天井など、和の意匠も取り込まれていた。

 

 

 

中央階段のステンドグラス。黒船ポーハタン号が描かれている。こちらも昭和2年(1927)のもの。激しい空襲を生き延びた。

 

 

 

終戦後、意気揚々と、しかし慎重に、厚木から横浜へ隊列をなして乗り込んできた進駐軍。東京湾の沖合、戦艦ミズーリ艦上での降伏文書調印式ではかつてペリーが江戸湾上で掲げた古びた星条旗が再び掲げられた。

戦勝国として続々と横浜に乗り込んできたアメリカ軍であったが、この星条旗を掲げた黒船ポーハタン号のステンドグラスの前では姿勢を正し、敬礼した者もあったという。彼らはここで思いもかけず星条旗を目の当たりにし、何を思ったのだろうか。

 

 

 

中央階段から、一階へ。

 

 

 

一階廊下。

 

 

続いて、県庁へ。

 

 

 

県庁本庁舎。昭和3年(1928)築。小尾嘉郎(おびかろう)原案設計。

 

四代目となるこの庁舎は和を強く意識した、和洋折衷の帝冠様式(ていかんようしき)。正面は日本大通りに面している。
知事が実際に執務する庁舎としては、大阪府庁舎本館に次いで古い。

 

なお関東大震災(1923)で倒壊した三代目は、大正2年(1913)築のレンガ造り・イオニア式オーダー・尖塔をもつ大屋根を特徴としたネオ・バロックの壮麗な庁舎であった、という。

 

 

 

玄関ホール。

 

 

 

「宝相華(ほうそうげ)」の装飾灯。宝相華とは唐草文様の一種で極楽に咲くとされる花。

 

 

 

シャンデリアには県の木イチョウの葉があしらわれている。天井のデザインには、梁を支える肘木(ひじき)をモチーフにした和の意匠が取り入れられている。

 

 

 

 

 

 

 

大会議場(旧議場)。現在では予算委員会などに利用されている。

 

この部屋をはじめ、旧貴賓室や知事室が休日の一般公開日に見学できる。

 

 

 

 

 

 

 

天井は、和の意匠を取り入れた格天井(ごうてんじょう。格子を組んだ天井)。中央は折上格天井(おりあげごうてんじょう)になっている。

 

 

 

舞台の壁など、至る所に日本建築における「釘隠し」の金具デザインが取り入れられている。

 

 

 

赤絨毯の文様は県の花ヤマユリ。

 

 

 

この部屋も肘木がデザインに取り入れられている。

 

 

 

こちらは旧貴賓室。天皇陛下の御座所としても使用された。天井は格天井。

 

 

 

この部屋のシャンデリアは戦前のオリジナルのものが現存している。こちらも宝相華の文様。

 

 

 

暖炉。桐の紋があしらわれている。

 

 

 

扉にも宝相華。

 

 

 

肘木。旧議場のそれと比べ、より一層装飾が細かい。

 

 

 

歴代知事の肖像。

 

 

 

入口の欄間(らんま)には「左近の桜(さこんのさくら)」「右近の橘(うこんのたちばな)」があしらわれている。京都御所正殿(紫宸殿・ししんでん)前庭のそれをモチーフにしており、天皇陛下の御座所ともなった部屋にふさわしい装飾。

 

 

 

こちらは知事室。先の二部屋と比較すると割とシンプル。

 

 

 

 

 

 

 

玄関ホールと同じく、肘木のデザインが用いられている。

 

 

 

至る所に宝相華の文様。

 

 

 

塔に通じる階段。

 

 

 

屋上から見上げる、キングの塔。

 

屋上は休日の一般公開日のほか、開庁日はいつでも出入り自由。程よい距離感で旧市街をぐるりと一望することができる展望スポット。

 

 

 

海岸通り沿いには、緑青のドームを冠したクイーンの塔がそびえる横浜税関。右奥には赤レンガ倉庫。

 

 

 

日本大通り側から向こうを見れば、大桟橋(おおさんばし)が海に延びている。

 

 

 

海岸通り沿いの、横浜貿易会館。

 

 

 

中央に見える緑の屋根は、開港資料館旧館(旧英国総領事館)。
開港資料館は日本大通りと海岸通り、開港広場の三方から出入りできる。

 

 

 

日本大通りと本町通りの角に建つ、旧横浜商工奨励館(横浜情報文化センター)。高層棟が増築されており、放送ライブラリーや日本新聞博物館などが入居する。

 

 

 

かつて本庁舎の軒先を飾っていた、テラコッタ。

 

 

 

本町通り沿いに、ジャックの塔を擁する開港記念会館。塔の奥に見える高層ビルは、横浜メディア・ビジネスセンター。神奈川新聞社やテレビ神奈川(TVK)などが入居する。

 

 

 

県庁新庁舎の向こうにランドマークタワー。

 

 

続いて、税関へ。

 

 

 

昭和9年(1934)築。設計は大蔵省営繕管財局工務部。

 

緑青のイスラム寺院風ドームの塔をはじめ、正面三連アーチの玄関ポーチなど、さまざまな様式を取り混ぜた建築。

 

 

 

資料展示室は入場無料。

 

 

 

展示室内部。

 

 

 

初代庁舎(明治6・1873年築)は現在の県庁本庁舎の位置にあって、のちに神奈川県に譲渡され二代目県庁舎として利用された。
二代目庁舎(明治18・1885年築)は関東大震災(1923)で倒壊した。

 

 

 

三代目庁舎は、現在の旧建物部分。

 

 

 

四代目は、旧建物部分と増築された新しい部分をあわせて。

 

 

ここからは令和四年(2022)11月に行われた税関庁舎公開時のもの。

 

 

3F、旧特別会議室。創建当時は貴賓室だった。

 

 

 

旧総務部長室。創建当時は貴賓室次室だった。

 

 

 

天井壁際の装飾。金属のような光沢のある銀色に塗装されている。

 

 

 

旧税関長応接室。創建当時は税関長付属室だった。

 

 

 

床の壁際にあしらわれた寄木張り装飾。

 

 

 

旧税関長室。

 

 

 

旧税関長室にも寄木張りの装飾がある。
税関庁舎は第二次大戦終戦後の昭和20年(1945)から8年間、連合国軍に接収されていた。

 

 

 

接収当時の机が残っている。
厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥は当初、東京に移転するまで連合国軍総司令部(GHQ)が置かれていた税関庁舎で執務にあたっている。

 

 

 

大日本帝国憲法下における税関長の大礼服。手前は勅任官用。前身頃に五七桐の刺繍が施されている。奥は奏任官用。

 

 

 

税関7Fの展望テラス。当日の見学順路としてはこちらが先となっていた。
この日の大さん橋には郵船のクルーズ船「飛鳥II」が接岸していた。

 

 

 

税関埠頭として明治末期に築造された新港ふ頭に建つ赤レンガ倉庫。

 

 

 

県庁のキングの塔は、堂々たる帝冠。

 

 

 

テラスから見上げるクイーンの塔は、優美なフォルムで魅せる。

 

 

 

3Fの旧税関長室へと移動する途中、撮影スポットから捉えるクイーンの塔。

 

 

 

三階から階段で一階へ。

 

 

 

市松模様のタイル。

 

 

 

1F資料展示室に設けられた神奈川運上所の展示。イメージキャラクターのカスタム君は麻薬探知犬のラブラドール・レトリバーがモデル。

 

 

続いて、都市発展記念館へ。

 

 

 

旧横浜商工奨励館(横浜情報文化センター)に隣接する、こげ茶色の外壁が旧横浜市外電話局(横浜都市発展記念館・横浜ユーラシア文化館)。都市発展記念館の一階にみなとみらい線日本大通り駅の出口がある。

 

「横浜都市発展記念館(外部サイト)」のウェブサイトは震災前の古き横浜の画像資料が充実している(横浜絵葉書データベースのページ)。

 

 

 

都市発展記念の一階。エントランスの、ヴォールト天井(カマボコ型天井)。

 

 

 

 

続いて、開港資料館へ。

 

 

 

開港資料館旧館(旧英国総領事館)の、日本大通り側入口(西門)。

 

「横浜開港資料館(外部サイト)」のウェブサイトも明治・大正期の横浜の画像資料が充実している(閲覧室でご覧になれる資料・画像資料のページ)。

 

 

 

日本大通り・海岸通り・開港広場に囲まれた敷地。さすがに大英帝国の総領事館とあって一等地を押さえている。

 

案内図左側の海岸通り側は新館が建っているため、通りからは旧館に気づきにくい。旧館の記念ホールと中庭は自由に出入りできる。

 

 

 

昭和6年(1931)築。設計は英国工務省。

 

この建物は昭和47年(1972)までイギリス領事館として使われていた。

 

 

 

 

 

 

 

旧館一階の、記念ホール。休憩室として、入館料なしで利用できる。

 

 

 

記念ホールに展示されている、幕末(1865年)の横浜。

 

開港(1859年)から6年経っているが、スタジアムの建つ横浜公園の前身である彼我公園(ひがこうえん)はまだなく、その場所には堀で隔てられた港崎(みよざき)遊郭が見える。日本大通りもまだ整備されていない。イギリス波止場もまだ真っ直ぐで、カーブした防波堤の象の鼻波止場もまだ形成されていない。

 

現在のJR・市営地下鉄関内駅あたりにある吉田橋で隔てられた関内(関所の内側)地区は、完全な出島状態だった。

 

なお、右上の野毛(のげ)地区にこのころからすでに町が形成されているところも目を惹く。野毛地区に隣接する野毛山(のげやま)は、西洋人が居宅を構えた山手に対して茂木惣兵衛(もぎ そうべえ)・原善三郎(はら ぜんざぶろう。原三溪の養祖父)といった日本人実業家たちがのちのち居宅を構えていく。彼らの邸宅は後に関東大震災(1923)で山手同様壊滅し、その跡はやがて野毛山公園(動物園)となっていった。

 

 

 

旧館から、中庭へ。

 

 

 

中庭にそびえる、玉楠(たまくす)の木。関東大震災(1923)で幹を焼失したが、残った根の部分から新たに芽が出て現在の姿をつくっている。

 

 

 

ペリー上陸図。この絵に描かれた嘉永七年(1854)当時の玉楠の木が、まさに中庭の玉楠の木として根を張り今を生きている。

 

 

 

中庭に面した旧館入口。両脇のコリント式オーダー(柱)と、その上のヴォールト天井(カマボコ形の天井)が印象的。

 

 

 

公共の水道栓であった獅子頭共用栓(ししがしらきょうようせん)が置かれている。

 

 

 

開港資料館から、開港広場へ。

 

 

開港広場から、山下公園通りを経てホテルニューグランドへ向かう。

 

 

 

ホテルニューグランド旧館。昭和2年(1927)築。渡辺仁設計。

 

関東大震災で壊滅した関内地区の復興のシンボルとして開業。

 

 

 

旧館二階に設けられた、かつてのロビー。
階段を上ったロビーの先は、バンケットルーム(宴会場)に通じている。休日のこの日は従業員や利用客、見学客が行き交い賑わっていた。

 

 

 

時計の上には、羽衣をまとう天女の織物。

 

 

 

 

 

 

 

シャンデリアは二つ巴(ふたつどもえ)があしらわれた釣り灯籠をイメージした、和の意匠。

 

 

 

 

 

 

 

東洋と西洋が融合した、クラシックホテルらしさが漂う。

 

 

 

AD1927と刻まれた、紋章。

 

 

 

大震災(1923)で倒壊した、グランドホテル(アメリカ山公園の案内板より)。外国資本でありニューグランドとの直接のつながりはない。

 

 

続・関内界隈の近代建築へ
日本大通り・山下公園通りの黄葉へ

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