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続・関内界隈の近代建築


平成27年(2015)のお盆休み、JR桜木町駅をはじまりに、生糸貿易や外洋航路の運行などにまつわる、商港横浜を支えてきた建築遺産などを訪ねてまちを歩く。




JR桜木町駅から弁天橋を渡ってすぐの、旧横浜銀行本店別館。みなとみらい線を利用する場合であれば、隣接するアイランドタワー高層棟が馬車道駅出口と直結している。




旧建物は昭和4年(1929)築。設計は西村好時(1886〜1961)。現在は横浜創造都市センターとして文化芸術活動の拠点となっている。

半円形のバルコニー、お皿のような柱頭飾りを持つトスカナ式オーダーの4本の列柱がひときわ目を引く。




横浜銀行本店が平成5年(1993)みなとみらいに竣工した超高層ビルに移転する前は、この地の本店本館(昭和35・1960〜)・別館(昭和55・1980〜)で本店営業部の業務が行われていた。

本店の移転後、区画の整理が行われて本町通り(ほんちょうどおり)からY字に分岐してみなとみらい方面へ向かう「みなとみらい大通り」が新設される。もともと本町通り沿いに建っていたこの建物は、背後にそびえる横浜アイランドタワー高層棟(再開発ビル)の建設にあわせて別館バルコニー部分が曳家により移設復元された。

さらに遡るとこの建物は、元は第一銀行横浜支店であった。

第一銀行(のちの第一勧業銀行。現みずほ銀行)は、国立銀行条例に基づく日本初の民間商業銀行となった第一国立銀行(明治6・1873年開業)の流れをくむ銀行。第一銀行が昭和46年(1971)の合併により第一勧業銀行となった後は、横浜支店業務は近隣の店舗に集約されこの建物は他の銀行の支店となっていた。

ちなみに横浜銀行は第一次大戦後の生糸恐慌で破たんした銀行を整理する役割をもった横浜興信銀行を母体とし、横浜を拠点とした第二銀行(旧第二国立銀行)がのちに合流している。
横浜銀行が、規模が大きいとはいえ神奈川県を地盤とする地方銀行であるのに、飛び地のように群馬県に複数の支店を擁するのは、上州(群馬県)が生糸の一大生産地であったことから多くの顧客を有していたことが大きい。




設計者の西村は第一銀行本店・支店をはじめとした多くの銀行建築を手掛けてきた。この建物と同様、建物の角に列柱が並ぶファサードをもった旧第一銀行本店、大阪支店の建物は既に無い。そういった意味でもこの建物は貴重。




みなとみらい大通りの向かい側へ。左は旧帝蚕倉庫(株)事務所、右は復元された旧生糸検査所。




旧帝蚕(ていさん)倉庫事務所(生糸検査所付属倉庫事務所)。大正15年(1926)築。設計は明治後期に山下町に建築事務所を設立した遠藤於菟(えんどう おと。1866〜1943)。現在は北仲(きたなか)BRICKとして文化芸術の活動拠点になっている。

この建物は北仲界隈の生糸貿易関連の近代建築で唯一、現物保存されることになった。

帝蚕倉庫(株)の成り立ちは、第一次大戦後の生糸恐慌から蚕糸業者を救済する機関として設立された帝国蚕糸(ていこくさんし。大正9・1920年設立)と関連する。帝国蚕糸が救済目的を達成して解散したのち、その残余財産の活用として政府により生糸専用倉庫が建設された。その倉庫の運営のために、蚕糸業者により大正15年(1926)に設立されたのが帝国蚕糸倉庫(株)ということになる。




旧帝蚕倉庫(生糸検査所付属倉庫)C棟。事務所棟と同時期の大正15年築。

こちらは解体ののち事務所棟の背後の位置に復元されることになっている。当初は曳家が検討されたが建物の老朽化のため叶わなかった。オリジナルとしてはこれが最後の姿となる。
なお帝蚕倉庫は全部でA〜Dの4棟があったが、A棟は隣接する第二合同庁舎(旧生糸検査所)の再開発時に解体。B、D棟は今度の北仲再開発で解体された。




レンガの柱の上部には桑の葉、蚕をモチーフとした紋章が見られる。




旧生糸検査所。旧建物は遠藤於菟設計、大正15年(1926)築。旧建物は再開発で取り壊される直前までは横浜農林水産合同庁舎であった。

万国橋通り側の正面玄関へ回る。




立派な車寄せが設けられた正面玄関。

現在は高層棟に中央省庁の出先機関が入居する横浜第二合同庁舎(平成5・1993築)となっており、その低層部に旧建物が復元された。ちなみに横浜地方合同庁舎(第一合同庁舎)はマリンタワーのそばに建つ。




正面玄関の上を飾る紋章は、蚕蛾(カイコガ)、桑の葉、菊の御紋があしらわれている。

生糸検査所(きいとけんさしょ。通称キーケン)とは輸出生糸の品質検査を行う機関。設立されたのは明治29年(1896)。
大正12年(1923)の関東大震災を経て大正15年(1926)に、本町通り・日本大通り(にほんおおどおり)の角地(現横浜地方検察庁敷地)から北仲の現在地に移転してきた。

明治日本の近代化に必要であった外貨を獲得する手段としての生糸輸出貿易は、生糸の品質管理が輸出先に対する信用力を高めるためにも絶対必要であった。しかし当初は日本人商人が品質検査で後れを取ったため、検査技術を持つ外国商会に有利な商慣習を強いられ取引の実権を握られていた。

当時の日本における生糸貿易の大半を占めていた横浜では、外国商会による不利な商取引を改善すべく横浜商人が政府の後押しで明治6年(1873)、生糸改(きいとあらため)会社を設立。
明治14年(1881)には原善三郎(三溪の義祖父)・茂木惣兵衛・渋沢喜作(栄一の従兄)に三井物産・三菱を加えて政府に対し請願の出された連合生糸荷預所(きいとにあずかりしょ)が開設され、すべての生糸取引はそちらを通させるよう試みられる。しかし生産者、貿易商、外国商館の利害がそれぞれ激しく対立し、荷預所を通す試みは必ずしも成功しなかった。
そうした流れを受けて開設に至ったのが、明治29年の官立の生糸検査所であった。

明治29年(1896)という年は、横浜の生糸貿易にとっても、後で見るように海運にとっても、一大転機となるエポックメイキングな年となった。


旧生糸検査所を後に、万国橋通りから海岸通りへむかう。




交差点まで戻り万国橋通りの反対側へ渡る。万国橋通り〜馬車道(ばしゃみち)と、本町通りの交差点に立つ石造風建築は旧富士銀行(元安田銀行)横浜支店。昭和4年(1929)築。設計は安田銀行営繕課。

柱頭がシンプルなドリス式(ドーリア式)オーダーの列柱、半円形アーチ窓が見られる。このスタイルは旧安田銀行の各地の支店で見られたという。再開発に伴い解体・復元される建物が多い中、この建物は当初からの建物が残っている。現在では銀行ではなく東京芸術大学大学院映像研究科が利用している。




旧生糸検査所の建物は、震災復興建築としては相当の規模を持ち、出先機関でありながら本庁にも劣らぬ威容を誇った。万国橋通りの反対側から眺めると、その一端を感じることができる。

万国橋通りを海岸通四丁目信号で右折、海岸通りへ。




海岸通りを少し行くと、石造風の重厚な建物が見えてくる。




横浜郵船ビル。日本郵船横浜支店、日本郵船歴史博物館が入居している。昭和11年(1936)築。設計は和田順顕(わだ じゅんけん。1889〜1977)。




複雑な柱頭飾りを戴くコリント式オーダーの列柱が16本ずらりと並ぶ、古典主義様式の壮麗な外観。

この建物が竣工した時、時代は既に昭和に入っているが、銀行建築などと同様まだまだ古典主義の装飾は幅を利かせている。官公庁に帝冠様式が見られたり、シンプルなアール・デコ装飾の建築が見られたりと、赤レンガ・石造中心の明治・大正期を経て昭和初期の近代建築はまさに百花繚乱の趣きがある。




館内へ。博物館エリア入場口より手前にはミュージアムショップが併設されている。内部は西洋的な流線型の梁(昭和初期に流行した、アール・デコの意匠)が見られる。

日本郵船は、世界における海運業の主導権を握るべく郵便汽船三菱会社と共同運輸会社(三菱に対抗する国策会社)が合併して明治18年(1885)に設立。日本国内の沿岸航路、アジアの外洋航路などを運行し、徐々に力をつけていった。
現在では、一般にはクルーズ船の運航のほか横浜のシンボルである戦前からの貨客船「氷川丸」の所有会社として馴染み深い。

明治時代、遠洋定期航路は海軍力に加えて多数の商船を保有する欧米列強の独壇場であった。
何としてもそこに割って入りたい日本は、政府の後押しもあって、明治29年(1896)日本郵船が念願のロンドン定期航路を開設。いよいよ世界をつなぐ海へと乗り出していく。さらにはシアトル、メルボルンの定期航路が次々に開設された。また鶴見の京浜臨海部開発で知られる浅野財閥の総帥浅野総一郎も東洋汽船を設立、明治31年(1898)にサンフランシスコ航路を開設した。
こうして横浜港は欧米航路の日本における中心となり、明治中期以降の数次にわたる築港工事により整備が着々と進んでいった。

安政の開港(1859)以来40年、先に見た生糸貿易といい海運といい、明治20年代までは外資に押されっぱなしであった日本は明治30年代(1897〜)に入ると大躍進を遂げることになる。ちょうど日清戦争(明治27年・1894)に勝利し、不平等条約の改正に向けて着々と歩みを進めているころである。




海岸通をさらに進むと、横浜税関。旧建物は昭和9年(1934)築。平成15年(2003)に中庭部分に大がかりな増築がなされているが、旧建物の外観はほぼ完全に残った。

三連アーチの堂々とした立派な車寄せが見られるが、それでもこちらは建物の裏手。




税関は港を向いた面が正面となる。現在の庁舎(旧建物部分)は三代目。

横浜税関の前身は幕末開港期(安政6・1859年)の幕府による運上所(うんじょうしょ)。明治新政府による幾度の組織変更を経て、明治5年(1872)に税関という名称となった。
当時の税関は函館、横浜、新潟、大阪、神戸、長崎の六箇所。横浜との関連では明治35年(1902)に新潟税関が廃止され横浜税関の新潟税関支所(のちに東京に移管)に、昭和28年(1953)には海から空へと時代が移る中で横浜税関の東京税関支署が廃止され東京税関として独立している。




税関から象の鼻パーク、臨港線プロムナードを経て、山下公園へ。




山下公園のインド水塔。昭和14年(1939)築。
関東大震災(大正12・1923)の際、横浜市がインドをはじめとした外国人商人の救済策を講じたことに対する返礼としてインド商組合より寄贈された。




イスラム建築風ドーム下の天井には、草花をモチーフにしたインド文様風のモザイク模様が見られる。




目に染みるような、青々とした芝生。




氷川丸。昭和5年(1930)、横浜船渠(よこはませんきょ。後の三菱重工横浜造船所。現在では日本丸係留ドック、ドックヤードガーデンが保存されている)において建造された、当時最新鋭の貨客船。全長およそ160m、総トン数およそ12,000トン。船客定員およそ300人。

氷川丸は同規模の姉妹船2隻とともに、北太平洋を横断するシアトル航路に投入された。戦時中は海軍に病院船として徴用され幾度か機雷に接触するも沈没は免れる。戦後は復員船を経て再びシアトル航路に就航。昭和34年(1960)に引退、翌年より山下公園に係留される。

なお、日本郵船は北太平洋の花形航路であるサンフランシスコ航路にも浅間丸級(総トン数およそ17,000トン、船客定員およそ800人)の新造船三隻を同時期に投入している。これは昭和初期、世界的に不況の中でアメリカ、カナダの海運会社との競争に打ち勝つことに国家威信がかかっていたという時代的な背景がある。




氷川丸では、在りし日の豪華客船の華やかな内装を今に見ることができる。Bデッキ(一等食堂など)からAデッキ(一等客室、社交室など)へ上がる中央階段。




一等特別室。秩父宮殿下(昭和天皇の弟宮)、勢津子妃殿下が外遊から御帰朝のおり利用された。外国定期航路の時代を活躍した豪華客船の船内は、こちらのページへ。




氷川丸を後に、山下公園から県民ホール前へ。再び近代建築めぐり。

県民ホール横を抜けていく前に、先に山下公園通りを左折して旧英国七番館へ。




旧英国七番館(現在は創価学会戸田平和記念館)。大正11年(1922)築。
元はイギリス系商社(バターフィールド&スワイヤ商会)の建物であった。




二階にはいわゆる洋館のようなベイウィンドウ(張り出し窓)。建物の規模は三分の一ほどに縮小されたものの、関東大震災(大正12・1923)を耐えた貴重な建築として保存され今に残されている。

県民ホールまで戻り、先を行く。




県民ホールの裏通り(水町通り)に建つ、インペリアルビル。昭和5年(1930)築。設計は川崎鉄三。

この建物は外国人専用の長期滞在型アパートメントホテルとして建てられた。当時としては斬新なフロアごとの総ガラス張りの壁面は、カーテンウォール(建物の荷重がかからない取り外し可能な壁)の先駆的事例として価値が高いという。




インペリアルビルのエントランス周りは昭和初期の建築らしい、アールデコの幾何学的なデザインが見られる。




神奈川芸術劇場・NHK横浜放送局の通りへ。




芸術劇場敷地の角に、旧横浜居留地48番館の遺構がある。




イギリス系商社(モリソン商会)だったこの建物は、明治16年(1883)の築。山下町が横浜居留地であった時代(〜明治32・1899)におけるレンガ造建築の唯一の遺構であり、横浜最古のレンガ建築でもある。




建物は関東大震災(大正12・1923)で二階部分を喪失し、のちに区画整理で平面の面積も縮小した。現在、外壁は耐火構造になっている。




建築当初はレンガの外壁に漆喰が塗られていたと想定されるが、保存工事を施した現在は内壁にモルタル塗がみられる。




入口アーチ上部のキーストーン(要石)。「48・四十八番」と刻まれている。一見すると元の姿を想像しにくいこの遺構が今こうして再開発著しいエリアでポツンと保存されているのは、これが決め手となったのだろう。




レンガは同じ段に長手(ながて)と小口(こぐち)が交互に積まれるフランス積(フランスづみ)。内部には屋根の骨組みとなったトラスが展示されている。これは震災後の改修時に造られた部分で、平成13年(2001)の保存工事まで利用されていた。




芸術劇場の壁面に掲示された案内板。 案内板拡大版。

旧居留地48番館から本町通り(ほんちょうどおり)へ。




本町通りを少し行くと、古典主義様式の建物が見える。




旧露亜銀行横浜支店。大正10年(1921)築。バーナード・M・ウォード設計。現在は「la banque du LoA(ラ・バンク・ド・ロア)」という結婚式場となっている。
かつては銀行街でもあった本町通りの、旧横浜居留地エリアにおける外国資本(ロシア・フランス)銀行の唯一の遺構。それと同時に震災前の貴重な建築でもあり、保存復元工事が施されて(平成23・2011年竣工)建築当初の形が残されている。

正面一階玄関周りはシンプルな柱頭のドリス式オーダーの装飾柱(ピラスター)に三角の破風(ペディメント)。二階から三階にかけてはくるっと巻いた柱頭飾りのイオニア式オーダーの二本の円柱を内側に、同じくイオニア式オーダーの装飾柱が外側に配列されている。総じて重厚感のある古典主義様式のファサードとなっている。




案内板。この建物は大震災でも崩れ落ちなかった。




本町通りを先へ進む。旧横浜市外電話局(現横浜都市発展記念館・横浜ユーラシア文化館)の建物が見えてきた。




逓信省営繕課の設計による昭和4年(1929)築のこの建物は、外壁が微妙に濃淡の異なるこげ茶色のタイル張り。




建物のエントランスには、ヴォールト天井(カマボコ形の天井)が用いられている。なおエントランスはみなとみらい線日本大通り駅の出口と直結している。




すぐ隣りには旧横浜商工奨励館(現横浜情報文化センター)。旧建物は横浜市建築課による設計、昭和4年(1929)築。平成12年(2000)に改修・高層棟増築がなされた。




日本大通り側入口に回り込む。旧玄関周りは古典主義風のデザインだが装飾柱には昭和初期らしいアール・デコの幾何学模様が施されている。




一階玄関ホール。




玄関ホールの天井デザインは西洋風と東洋風の意匠の折衷。




重厚な正面階段。三階に上がれば、旧貴賓室が公開されている。




三階へ。




旧貴賓室。和の意匠がふんだんに用いられている。




柱と梁の継ぎ目あたりに見られる、社寺建築の肘木(ひじき)風の意匠。両側の入口ほかドア上の欄間(らんま)には組子(くみこ)があしらわれている。




天井は、社寺・御殿建築に見られる格子状の格天井(ごうてんじょう)。鳳凰が描かれている。シャンデリアのデザインも東洋風。




旧商工奨励館は関東大震災(大正12・1923年)からの商工業の復興を奨励する目的で、震災により焼失したアメリカ領事館の跡地に建てられた。開館時には復興状況の御視察に昭和天皇が行幸された。その際、陛下は旧貴賓室で御休息されている。

旧貴賓室の木部、飾り金具、天井照明器具は創建時のものが修復再使用されている。天井画は創建時のものが模写された。




三階階段ホールの照明。




鳳凰が描かれている。




二階ホール。こちらは梁と柱の継ぎ目に流線型の曲線を多用している。これもアール・デコのデザインの特徴のひとつとされる。




一階。保存された旧商工奨励館と、増築された高層棟の境目。

再び、日本大通りへ。




日本大通りを挟んだ向かいには、横浜地方裁判所が建っている。平成13年(2001)に高層棟に建て替える際、低層部分にスクラッチタイルの旧庁舎(昭和5・1930年築)が復元された。
城砦風でもありながら角の取れた丸みを帯びた中央部のデザインに、昭和初期らしいアール・デコの要素が感じられる。




日本大通りを横浜公園へ進むと、旧三井物産横浜ビル(現KN日本大通ビル。ケン・コーポレーションの所有)。

日本大通りより山下町側は、元は外国人居留地。明治32年(1899)居留地の制度が廃止され、この地はやがて日本屈指の商社の商港横浜における生糸貿易拠点となった。




正面玄関。
この建物は我が国で最初の全鉄筋コンクリートビルとされる。第一期の竣工は明治44年(1911)。設計は生糸検査所(北仲)の設計でも知られる遠藤於菟(えんどう おと)。西洋において全鉄筋コンクリートビルが建設されてから、10年と遅れぬ頃の建築。昭和2年(1927)にほぼ同じ意匠で増築された。

明治16年(1883)に一度は生糸輸出から撤退していた三井物産であったが、横浜の拠点を支店に格上げし明治29年(1896)から再び生糸輸出に乗り出した。

それまで、明治20年代までは不平等条約や不公正な商慣習のもとで資金力のある外国商会に圧倒されていた生糸輸出貿易であったが、明治29年に先に見てきた官立の生糸検査所が現在の横浜地方検察庁の地(裁判所の隣り)に完成。このあたりが横浜における生糸貿易の一つの転機といってもいい。

明治30年代になると三井物産や横浜生糸合名会社(政府支援による生糸輸出会社から独立した明治26・1893年創設の会社)、およびそれまでの外国商会への売込みから明治34年(1901)に直接の輸出へと乗り出した原商店の活躍がはじまる。

そして明治45(1912)にはついに生糸輸出の取り扱いは国内商社が外国商社を凌駕するまでになった。商社は横浜の生糸取引所、ニューヨークの生糸取引所で豊富な資金力を背景に積極的に売買を仕掛け、日系商社はニューヨークの拠点でも現地商社と互角に競争ができるまでになった。
そのような頃、この洗練された近代的なオフィスビルは完成した。




正面に向かって左側が第一期の建築。戦前を代表するオフィスビルとして名高いこの建物は、明治期の建築でありながら公共建築や銀行のような華美な古典主義装飾のない化粧煉瓦タイルのシンプルな姿。それゆえに昭和初期の建築を思わせるし、またそうした建築の先駆となったともいわれる。

なお、この事務所棟に接して、かつては鉄筋コンクリート柱とレンガ壁を併用したタイル貼り外壁の生糸倉庫棟が建っていた。部分的に鉄筋コンクリートをテストしてから全鉄筋コンクリートの事務所棟建設につなげたとされ学術的には技術の変遷を示す非常に貴重な建物であったというが、保存への同意が得られず平成27年(2015)に解体された。人の目を引きつける装飾のない簡素で実用的な建物ゆえの悲哀を感ぜずにはいられない。




横浜公園から尾上町通り(おのえちょうどおり)へ。JR桜木町駅方面へ歩いていく。




しばらく歩いていくと、左手に指路教会(しろきょうかい)が建っている。大正15年(1926)築。設計は竹中工務店。

現在の教会堂は、教会の由緒によると関東大震災(大正12・1923年)で倒壊した先代の教会堂(明治25・1892年築)に代わって建てられた。
先代の教会堂は、山手の教会や海岸教会と異なって、まだ外国人居留地が存続していた時代(〜明治32・1899年)に居留地の外(日本人街)に敷地を求めて建てられた、ということになる。安政の開国(1859)からおよそ30年、社会も少しずつ変わってきていることを思わせる。

案内によれば、先代の教会堂がこの地に建つ前、指路教会のルーツは居留地39番館ヘボン博士邸(山下町グランドホテル裏)の米国長老教会(明治7年・1874創立)に求められる。「指路」の名は「シロ」の当て字。「シロ」とは旧約聖書におけるメシアすなわち平和を来らす者を意味する。ヘボン博士の母教会である「Shiloh Church」の名が採られた。




その姿はフランスにおける初期のゴシック建築風。正面玄関には頭の尖ったアーチ窓のバラ窓。アーチの両側にはコリント式オーダーの列柱が四本ずつ見られる。

指路教会をあとに尾上町通りを先へと進み、大江橋を渡ってJR桜木町駅へ。


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