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横浜ベイサイド、昂る秋の一日


2.海上自衛隊フリートウィークの大さん橋、赤レンガパーク

1.2019CS開幕前の横浜スタジアムはこちら



日本大通から象の鼻パークへ。




象の鼻パークからの、みなとみらい。




令和元年(2019)の10月、大さん橋(おおさんばし)、赤レンガパークでは海上自衛隊観艦式(フリートウィーク)が開催された。
大さん橋に停泊する、信号旗の満艦飾も華やかな護衛艦「いずも」。甲板は一般公開に訪れた人々で賑わっている。

この日も関内駅前では防衛のための武力を整え有事法制を整備することを「戦争をしたがる」と捉え、「横浜に空母はいらない」と演説する方たちがいた。我が国は思想の自由が保障されているのだから、それぞれの論者は多数の共感を得るべく大いに議論を重ねたらいい。




現在進行中の東シナ海を巡る緊迫した世界情勢の中、起こりうる不測の事態に備えて領海における離島防衛を支援するための小型空母は時代の流れの中で必然的に登場した。おそらくは対艦ミサイルに対する防衛のためのイージス艦を伴って、米海軍の「空母打撃群」に類似した運用がなされるのだろう。とはいえ米海軍の大型原子力空母が大編成の機動部隊を艦載して先制攻撃型の空母打撃群を構成するのとは、その性格が異なる。




自衛艦旗(旭日旗)が翻る。

今回のラグビーワールドカップでも「やはり」というべきか、隣国で旭日旗に対する批判が繰り返された。
そもそもの認識として、そうした主張を繰り返す知識人諸氏には、事実の誤認については訂正する気が全く無いようだ。「旭日旗」が「ハーケンクロイツ」と同じ「戦犯旗」であるという、あの論理である。


そもそも旭日旗は明治の近代海軍整備以来旧海軍の軍艦旗として掲げられ、現在では海上自衛隊の自衛艦旗として掲げられている。第二次大戦後のアメリカ占領下で警察予備隊(現自衛隊)が新たに整備された以降もファシズムを憎むアメリカの側から使用を禁止されることなく、旭日旗は艦船に掲げる旗として存続し続けた。
一方で近代ドイツの海軍は長らく「鉄十字旗」が軍艦旗として用いられてきた。これがナチス政権下では「ハーケンクロイツ(鉤十字)旗」に取って代わられ、現在の国防軍では近代よりも前からのドイツの国章であった「黒い鷲」の紋章が軍艦旗に用いられている。こうした経緯に照らせば旭日旗が特定の政治的思想を掲げたナチス政権下におけるシンボルと「同じ」でないことは明らかとなる。

大体、第二次大戦頃に日本政府の全体がナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)政権のようなファシズムであったかも、子細に突き詰めてみれば疑わしい。その主義主張もさることながら、ヒトラーに刃向かう者はたとえ国民的英雄のロンメル将軍であっても死の外なく、総統の一挙手一投足に幹部たちが陶酔しきっていたナチスドイツとは様相が異なる。たしかに東条首相と憲兵隊の関係はヒトラー総統と親衛隊のそれになぞらえることができようが、日本の場合はそれに尽きないもっと大きな緊張関係が水面下でうねっていたように感じる。またドイツと日本が表面上はニコニコと握手していても、腹の底では互いをどう思っていたか。せいぜい「敵の敵は味方」程度のドライな関係に過ぎない。そもそも当時のドイツと日本の一般人レベルにおいてありがちな意識がどのようなものであったかは、ジブリ映画「風立ちぬ」あたりでも観てみれば漠然と感じ取ることができよう。

開戦直前期に首相を務めた海軍出身の米内光政(よない みつまさ)や海軍大将の山本五十六(やまもと いそろく)がバリバリのリベラル(自由主義者)であったことは、気合を入れて歴史を学べばすぐに分かることである(現在用いられている「リベラル」という用語は時代とともに明らかに変容して旧来の意味を失いつつあり同列には語れない。現在の俗に言うリベラルは旧来は別の用語で表現されていた)。要はいろいろな思想の人間が主導権を取るべくせめぎ合っていたのである。面倒くさいのであれば「ジパング」(かわぐちかいじ原作)あたりのアニメを眺めてみるのもいい。


「何言ってんだ、この人は?」と思われた向きには、阿川弘之によるノンフィクションの記録文学「米内光政」を是非一読してほしい。
阿川弘之氏は阿川佐和子氏の御父上。佐和子氏に言わせれば「トンデモ親父」だったようではあるが、かの漱石先生だって「トンデモ親父」という点では似たようなものだろう。御家庭内における御親族の評価は第三者の立ち入る領域ではないし、むろん作品の社会的な評価を左右するものでもない。


対米英開戦を語るときに避けて通れない、相次ぐ海軍軍縮条約における英米日の艦艇比率問題は、ざっくりと捉えるならば日本が英米の保有数を下回ることを「統帥権干犯だ、けしからん」ととらえるのか、無尽蔵な工業力を持つ怪物のような相手に対し「こちらが縛られる代わりに一番怖い相手を縛っておける」ととらえるのか、であろう。そしていわゆる「艦隊派」が前者で「条約派」が後者となる。時代の荒波の中、条約派は次第にその立場を追われていくようになる。
大陸の戦線を拡大していった陸軍に対して、海軍では条約破棄・艦隊増強を志向する「艦隊派」と「条約派」がせめぎ合っていた。陸軍は軍令機関(幕府で言えば侍所)である参謀本部が強大化し、佐官など中堅の士官が実権を握ることで軍政機関(幕府で言えば政所)である陸軍省の将官が次第にお飾りになっていく。一方の海軍は陸軍に同調しがちな軍令部に対して海軍省の大臣、次官、軍務局長が条約派の牙城となって強硬派の方針に頑強に抵抗していく。
この辺りの経緯については阿川弘之による提督三部作の一つ「山本五十六(上)」に詳しい。
ロンドン軍縮会議予備交渉の海軍首席代表に任ぜられた山本五十六は軍政家として物事の時間軸、空間軸を大きく捉えて俯瞰する能力に長けていた。この頃のアメリカには圧倒的工業力を背景とした冷淡なまでの強気、イギリスにはアメリカとの歴然とした差に焦燥感を隠せぬ弱気が見られる。「山本五十六(上)」では首席代表としての活動のほか、主に海軍航空本部長の時代(ジブリ「風立ちぬ」の頃)、海軍省次官の時代が書かれている。
そして海軍省次官のときに、それまで佐世保、横須賀の鎮守府司令長官や連合艦隊司令長官などを歴任していた米内を海相ポストに引っ張り出している。学業に秀でた者は年度毎に多数輩出されるが、米内の歴史的一大事に対峙する胆力は持って生まれた不世出の才としか言いようがない。

昭和天皇が「開戦回避」の信念のもと条約派に肩入れしていたのは、よく知られているところである。だからといって事は「天皇大権があるのだから御聖断で開戦を阻止すればよかったのだ」などという単純なものでもない。老獪な陸軍重鎮たちが若輩の昭和天皇を「ああいう天皇サンは困る」といった挙句「陛下御乱心」などと理由をつけて退位させてしまい都合の良い宮様でも後に据えるなどされたりしたら、それこそ元も子もない。幕末期の孝明天皇のように、お健やかでいられたのが突然亡くなられた、ということもあり得ないではない。まして、そのような事態に陥った時に二・二六事件の反乱軍相手でもあるまいし海軍が陸軍を「反乱軍」と見なして議事堂・陸軍司令部もろとも長門の艦砲射撃で葬り去る、などという荒業ができるはずもない。
統帥権に関しては「米内光政」の文中に見られる、ある海軍将校の考え方が参考になる。それによると明治の時代はあれでよかった、という。明治政府の実権を握った官僚たちはみな維新の時に戦闘経験を持っていた。武士が官僚になっても文(官僚)に武の心得があり、むしろその文が武(軍隊)の領分を侵す恐れがあった。だから、軍部の権は独立させ、文と武を分けて天皇のところで締めくくる、それでよかった。しかし大正時代になると天皇は病弱、国際関係は複雑化する。軍備の必要は質量ともに増大し、軍人が軍事上の立場からそれを要求する。明治天皇の側近のような剛直の臣はもういない。そうなると統帥権独立という制度は不適当である。必ず弊害が生じるので大正昭和のある時期に考え直さなくてはいけなかった。天皇機関説はこうした問題の解決に資する解釈論ではなかったか、と。
天皇機関説とは当時の憲法学における通説であった天皇主権説に対する有力説である。主権者を国家(=法人)と捉え、国権の最高機関として天皇を位置づける。内閣は天皇を輔弼する。天皇が統帥権を行使するのは天皇の一身に専属する主権としてではなく、内閣の輔弼を受けながら行使する最高機関の権能としてである、との説明が可能になる。
しかしこの説は通説たる地位を築けなかった。批判の理由は「神聖な天皇を侮辱するか」「天皇を機関車の如きに例えるとは何事か」といったものである。論者が法学者でなかったとしても、これはもはや法律論の体をなしていない。喧嘩の言いがかりである。万事これだから当時のアメリカ人から「日本人の精神年齢は低い」と言われたのだろう。日本の軍国主義などヒトラーのファシズムのような大そうなものではない、全く以て幼稚なものだと。迷惑な話だ。自由闊達な議論の大前提となる自由主義が抑圧されるから、こんな謂れのない言いがかりをつけられることになる。

対英米開戦も辞さず、という陸海軍の強硬派が陛下の意向に逆らってまで開戦に突き進むことができたのは他でもない、国民世論の後押しがあったからである。
たしかに戦前期の総選挙ではデモクラシーの花開いた大正〜昭和初期の流れで大衆政党も躍進しており軍部暴走に反発する世論は大いにあった、とも言われている。しかし庶民の心情は「威張りくさる軍は嫌い、私腹を肥やす財閥も嫌い、もっと下々の民に良い暮らしをよこせ」という単純なところに収斂するのではないか。現代人が選挙時にとる「政治家なんてどれも似たり寄ったりで信用できない、それより景気を何とかしろ」という行動以上に当時の人々が国際情勢を睨んで大陸で戦線を拡大する陸軍・海軍軍縮条約破棄により際限ない軍拡に走った海軍に批判的な投票行動をとっていたとでもいうのだろうか。
そうした国民の意識の根底にあるのは、横柄な米英に首根っこを押さえられて悔しい、屈辱的だ、日本をなめるな、米英何するものぞ、という風潮。開戦前夜には破竹の勢いで勢力を拡大していたナチスドイツとの同盟を「バスに乗り遅れるな」と急き立てる風潮。そして、それを煽った報道機関。さらには右翼や青年将校らの「米英が怖いか。条約派は国賊だ、暗殺してしまえ」、という風潮。

現代の世の中では戦前は軍国主義だった、軍部が反発する国民を抑圧し民主主義はなかった、という見方がまかり通っているがそれは真逆であろう。無かったのは開戦直前期の自由主義(リベラリズム)であり、民主主義(デモクラシー)があったからこそ「民の声」を背景に軍部が増長したのである。世論の総意が「軍部が平和を望まれる陛下の御意向を蔑ろにするとは何事か」というのであれば、あのような開戦前夜の空気にはならなかった。それもまた民主主義である。だからこそ、民主主義は恐ろしい。衆愚政治と紙一重である。世論が(背後に何らかの意図をもってなされる)報道・言論の煽りを受けて沸騰するときほど、そこから何歩も引いた冷静さがなければ時局を見誤る。
そもそも、国力という己の分を超えて自分を高く置き、不当な圧力だ、すべてが英米本位だ、けしからんと毒づいてみても何も始まらない。国民の皆が「耐え難きを耐え、忍び難きを忍」ぶのは、本当はいつの時世に必要だったのか。また、現代の世の中において当時を振り返ってみて「軍靴の足音が迫り暗雲が漂っていた」などと論じ、そこまでの過程をすっ飛ばしているのも分析として片手落ちである。現在の国民が担う「主権者」としての責務・重みを自覚しないまま他人事(悪いのは軍隊だ、それさえなければ事は全て平和裏に解決する)として事の表層をなぞっているだけに過ぎない。


以下では「米内光政」の大筋を、※の私的雑感を多少交えながら概観してみる。
艦隊派の勢力が伸長する時流の中にありながら昭和11(1936)年12月に連合艦隊司令長官に任ぜられ、しかしながら翌年2月に船を下りて林銑十郎内閣の海軍大臣に就任することとなった米内光政は、かねてからマキャベリズム(政治目的のためには反道徳的手段の選択も厭わない、強権的な権謀術数主義)の権化の如きヒトラーのドイツに信を置いていなかった。英米が忌み嫌っているナチス・ドイツと手を組んで、いったい日本にどんな利益があるのか。ドイツは日本に対して好意というよりはむしろ乗じ易き国として味方に引き入れ利用しようとしているだけ、と考えていた。実際、ヒトラーの著書「マイン・カンプ(わが闘争)」では日本人は想像力の無い劣った民族、しかし小器用で自分らの手足として使うのは便利な国民、とされていた(当時の日本語版では日本民族蔑視の部分は抜けていたが、条約派のエリート将校たちは原文で読んでいた)。自由主義派の重鎮である元外交官の石井菊次郎は「ドイツあるいはプロシャと同盟を結んだ国で同盟により利益を受けたもののないことは顕著な事実である。ドイツ宰相ビスマルクはかつて、国際同盟には一人の騎馬武者と一匹の驢馬とを要する、そうしてドイツは常に騎馬武者でなければならぬといった」と警告を発した。米内、山本五十六、井上成美(いのうえ しげよし)といった上層部、彼らの先輩、彼らに仕えた士官。志を一つにしていた軍人は、決して少なくはなかった。
※政界内にもドイツ嫌いの親米派(というよりは知米派)は結構多かった。例えば第二次近衛内閣の外相として三国同盟の締結に動いた外交官出身の松岡洋右(まつおか ようすけ)も、その実はドイツ嫌いである。松岡はドイツやソ連など鼻から眼中になく、アメリカとの開戦をいかに回避するかを最終の目標としていた。その上で三国同盟にソ連を巻き込んでアメリカをけん制する方策を探っていたという。もちろん、寝業師のようなこのやり方には懐疑的な人も多かった。ともあれ、松岡は日ソ中立条約の締結までは成し遂げている。東のソ連を睨みながらも西の英国との万が一を念頭に後顧の憂いを断つために独ソ不可侵条約を結んだヒトラー、後の独ソ開戦を睨みながら東への不安を見透かして(その実ソ連も日本の目を南方(アメリカ)に向けさせようとしていた)日ソ中立条約に漕ぎ着けた松岡。海千山千の駆け引きが交錯した。
参考「開戦と終戦をアメリカに発した男  戦時外交官加瀬俊一秘録」福井雄三著。
確かに松岡は天才だった。しかし、自分の考えを理解しない周囲の人々を「莫迦」呼ばわりしかねない孤高の天才は、自分の味方を作ることができない。人が人たる以上、人の世の中は人の心の動静、浮沈で回っているといっていい。そしてそれが時として、人間社会の醜悪さをさらけ出す。かくも「人の道」は恐ろしい。人望が無かったことは、松岡の最大の弱点だった。彼の賛同者を沢山作っておけば、おそらく歴史は変わっていたであろう。とはいえ、第二次大戦が和平で終わっていたとしても、その先の歴史はもっと凄いことになっていたかもしれない。松岡が失脚してしまったこともまた、時代の運命であろう。

米内が平沼騏一郎内閣の海軍大臣に在ったとき、ドイツは煮え切らない日本の態度にいらだちを示し始めていた。煮え切らないようように見えるのは海軍が反対するからであり、陸軍は海軍の態度にいらだっていた。命を付け狙われる危険にさらされていた米内だが「日独伊の海軍が英仏米ソの海軍と戦って勝算はあるか」の問いに「勝てる見込みはありません。大体日本の海軍は米英を向こうにまわして戦争するように建造されておりません。独伊の海軍に至っては問題になりません」と明答し、三国同盟締結を阻止。そうなると陸軍が陸相辞任、内閣総辞職の手に打って出ることは必至だったが、事態は急転直下。平沼内閣はドイツが日本とドイツの共通の敵であったはずのソ連と「まさかの」独ソ不可侵条約を締結したことにより「複雑怪奇なる欧州新情勢」の言を残して総辞職するに至った。しかし米内に言わせれば近代期のドイツがしばしば条約や信義を無視するのは古くからよく知られた事実であり、今更驚いてみても仕方のないことであった。ともあれ、三国同盟締結に向けた熱はいったん冷める。
※日本の戦国時代をその後の研究成果も踏まえてしっかり学んでいる現代人にすれば、この程度のドイツの不信義は、日本でも豊臣、徳川、北条、伊達らの戦国末期には日常茶飯事であったことから容易に想像がつく。洋行の経験豊富な外交官や海外駐在武官は相手国の文化、気質を知り尽くしているが、エリートでありながらそうではなかった人も多かったのが、互いの国の研究が現代ほど深まっていなかった当時の限界だったのだろう。それにしても徳川の泰平の世を長きにわたって謳歌してきた日本人は、ペリー以降八十年程度の期間では戦国武人たちが持っていたような研ぎ澄まされた外交感覚を取り戻すことはできなかったのか。

後を受けた陸軍出身の阿部内閣成立時には米内は隠居役の軍事参事官に退く。その直後、ドイツのポーランド侵攻により第二次大戦が勃発するも、三国同盟に調印していなかった日本は自動参戦しなくて済んだ。阿部内閣の組閣に際し、平沼内閣における米内海相の次官を務めていた山本五十六は次期海相に内定していた吉田中将の次官として留任を希望。吉田の弱みを知り尽くしている山本が何としても開戦を回避するために自分を、という序列や慣行を無視しての主張であった。しかし米内はこれを受け入れず、山本を連合艦隊司令長官として洋上に送り出す。これは「無理に山本を持ってくると、殺される惧れがあるんでね」という理由であった。
阿部内閣の組閣に際して陛下からは「憲法の条章を遵守しなくてはいけない。外交は英米と協調の方針をとり、財界に急激な衝撃を与えてはならない。陸軍大臣には梅津か畑を選ぶこと。それ以外の者は、たとい陸軍三長官の決定でも許さない」という異例の御注意があった。外相には知米派の野村を起用。元老の西園寺公望には評価されたが、陸軍は「弱体内閣」「当て馬内閣」と非難し、はやくも倒閣運動が始まった。

畑陸相は公家の近衛文麿を再び担ぎ出そうとする。近衛がこれを固辞し「池田成彬(いけだ しげあき。三井財閥総帥、元日銀総裁、元蔵相。大磯の別邸は西園寺公望の旧別邸を取得して建てられた)さんでどうだろうか」というと畑は「挙国一致の強力内閣が欲しい時、強いて池田なんかを出せば、再び二・二六事件のようなことが起こることを憂慮する」と近衛が震え上がりそうな意見を述べる。世論は次期内閣は畑、という見方が大勢であった。しかし、その裏をかくような大命が米内に下った。侍従長から至急参内するようにとのお召があった時点では、これを辞退するつもりの米内であった。しかし後年「陛下の「朕、卿に組閣を命ず」の御声に、電気に打たれたように「暫く御猶予を」となって、とても拝辞できる状況ではなかった」と語っている。米内と志を同じくしていた将校は、米内さんの首相拝命は一つ間違えば殺される、そのことで日本の前途に光明が見出されるようなことは到底起こりえない、なぜ受けたのか心外だった、と振り返りつつ「おそらく陛下の御声が米内さんの耳にはきっと「米内、頼むよ」と言われたのと同じに聞こえたんでしょうね」と述懐されている。
組閣と同時に米内は予備役編入を願い出て、現役を去る。自分が海軍の制服を着ていてはいたずらに陸軍を刺激するばかりだから、ということのようだった。留任する畑陸相に対しては陛下の「米内に協力するよう」と特別の御諚があった。しかし陸軍による倒閣の動きは早く、報道機関も米内内閣に対しては「革新色に乏しい」「国民が何か割り切れないものを感じている」といった論調であった。
米内は首相秘書官に「そもそも日本の海軍を英米の六割でおさめてあるのは、相手が万一攻めてきたとき、近海にこれを迎え撃って国を守るためだけの軍備だからだ。それを近ごろ、主戦論者とかそういう人たちが、こっちから攻めてかかりそうな動きを見せている。もしそんなことをしたら、日本は亡びるぞ」「陸軍がさかんに精神論をやる。そりゃ精神の無いところに進歩も勝利もない。しかし、海軍は精神だけで戦争はできないんだよ。工業生産の量、機械の質、技術の良し悪しがそのまま正直に戦力に反映する。国民精神総動員とか、陸軍のような大和魂々々々の一本槍で海のいくさはやれないんだ」と語っている。
※明治の世の中にバルチック艦隊を打ち破った東郷元帥の精神論は日本の窮地を救ったが、この時すでにそのような時代にはなかった。伝統は革新を伴うものでなければ理念として存続し得ないこともまた、真実である。

ヨーロッパ戦線はドイツが破竹の勢いを見せ、近衛文麿の新体制運動が始まり、右翼団体による米内暗殺未遂事件が起こり、陸相辞任によって米内内閣は倒閣する。
※日本近代史では「何もしなかった」と空白扱いされている米内内閣だが、そもそも米内の信念を実行に移しうるような情勢では、全くなかった。ここで五・一五や二・二六のように米内を失えば、終戦間際の日本は「日本の将来のために」と歯止めをかける重鎮を欠いたまま、さらなる原爆の追い打ちやコロネット作戦(相模湾上陸作戦)の実行など、もっと凄惨なことになっていたかも知れない。

米内内閣が倒れたらあとは近衛公に、という陸軍の筋書き通りに事は進み、報道機関は「さらば旧体制よ」という論調であった。三国同盟条約案を本会議にかける前、陛下は近衛に「この条約ができたら、国民はさぞ難儀をするだろうな」「ここまできたらやむを得ない。総理大臣はこの重大な時機にどこまでも自分と苦楽を共にするか」と確かめたうえ、沈痛な面持ちで裁可の内意を与えられた。天皇の憂慮に近衛は強いショックを受け脳貧血を起こしたという。
米内は海相時代に「ヒトラーやムッソリーニは一代身上だ。つぶれたところで元々で、どうということは無い。日本の皇室はちがう。それとこれと手を結ばせようなんて、とんでもない話だよ」と秘書官に語っていた。その秘書官は三国同盟調印の報に「英国の朝野をあげて共に天を戴かずと思っているナチスと、これで日本は運命を共にすることに決まった。天皇さまがヒトラー、ムッソリーニと心中なさるのか」と涙をこぼしたという。
※そして、国の行く末を憂いてどんなに戦争に強硬に反対していようとも、「もはやこれまで」とあらば祖国や大切な人々を守るため「かくなるうえは」と悲壮な覚悟で戦に挑むのも、武人・軍人の宿命である。


司令長官の山本も南洋で戦死し戦局が悪化の一途をたどるなかでの、米内の海相復帰と終戦に向けた動きは「米内光政」のその後の展開を一読されることに委ねたい。
※この時米内によって井上成美が海軍省次官という表舞台に再び引っ張り出される。井上成美を主人公としたもう一つの提督三部作「井上成美」を併せて読めば、当時の様子が更なる深みをもって迫って来る。なお、「井上成美」は他の二作と比べると提督本人の伝記という一面に加えて提督と少なからぬかかわりを持つ様々な人々をストーリーに絡めており、歴史の表舞台から離れた一面を垣間見ることができる。

戦後、占領軍により陸海軍軍人政治家の摘発が始まる(法に基づかない裁判の公平性以前の問題として、勝軍による敗軍の将の断罪は戦国の世以来の武人の習いともいえる)。「米内にはいつ声がかかるか」という風潮のなか、アメリカの諜報能力の凄さがわかるエピソードがある。
幣原喜重郎内閣が組閣されるにあたり、海軍大臣の人事にGHQからクレームがついた。幣原は「実は吉田君(吉田茂外相)がきょう司令部にサザーランド参謀長を訪ねたところ、どうも豊田大将では駄目なんだ。病気なら実務は次官が担当することにして、名前だけでもいい。それがGHQの意向でもあるから、何とか留任していただけないか。拝辞されると内閣は成り立たぬかも知れない」と米内に懇願する。健康状態が芳しくないため海相は他に譲りたいと考えていた米内だが、それならば仕方がないと受諾する。その旨を秘書官が組閣本部に伝えに行った際、幣原は米内の秘書官に次のようなことを語っている。
私はかつてアメリカ大使館の参事官に「かつての日本には山本権兵衛や加藤友三郎のような海軍出身のすぐれた政治家がいたのに今はそういう人材が一向見当たらない」と言われた。だから「いや、そんなことなはい。米内光政がいる」と答えておいた。自分はそのことをすっかり忘れていたのだが、三年後阿部内閣が総辞職した時アメリカのある友人が「次の首相は米内海軍大将に内定したそうだがほんとうか」と電話をかけてきた。そんなうわさは聞いたことがなく不思議に思っていたが、その通り米内内閣が実現した。重大な国家機密がアメリカに漏れているのではないだろうか、これを打電したのは駐日大使に違いないと感じ、後日冗談半分に「どこから米内の名前を嗅ぎ出した?」と大使に尋ねると「君からだ」と言う。「いつか君は米内の名を挙げて参事官にこういうことを言ったそうじゃないか。爾来我々は米内について、生い立ち経歴丹念に調べ上げた。その結果に基づいてこの次あたり米内が出てくる番ではないかとワシントンへ予測電報を打ったのだ。大統領に、君は次の総理大臣を予言できるまでの日本通になったか、と喜ばれたよ」と。
GHQの戦犯追加指定により文官の政治家、思想家、皇族までもが指名されていくなか、GHQの軍政部少佐が九州大分に米内の元秘書官を訪ねた折には「米内大将については自分たちの方で生い立ちからすべてを調べてある。命を張って三国同盟と対米開戦に反対した事実、終戦時の動静、全部知っている。米内提督が戦争犯罪人に指定されることは絶対にありえない」と語り、秘書官に対して「君、米内提督の伝記を書かないか。書いて東大の図書館へ寄贈してはどうか」と勧めたという。日本が英語を「敵性言語」として全国民から遠ざけようとしていたとき、アメリカは日本の国情を丸裸にして分析していた。

広島、長崎と続いてもなお、国の再建に欠かせぬ人材を死地に追いやり国を亡ぼすことさえも厭わぬかの如き強硬派の「二千万特攻論」も叫ばれたなかで終戦のための工作に力を尽くしていた米内にとって、ポツダム宣言受諾の以後に絶えず心にかかっていたのは天皇の地位は果たして安泰かという問題であった。
終戦直後の10月、天皇の処遇を巡ってアメリカ側に様々な意見が交錯する中で、米内はトルーマン大統領が「日本人民が自由な選挙で天皇の運命を決定する機会を与えられるのはいいことだと思う」と記者団に語ったという外電に「これなら大丈夫だ。機会があったらマッカーサーにも質してみようと思っているが、これで国内の混乱もおさまる。日本再建の道が開けるよ」と語っている。マッカーサーの「近く日本の陸海軍は解散することになるが同じ軍人として同情を禁じ得ない」との思いで設けられた懇談の機会に米内が「陛下の退位についてどうお考えですか」と聞くとマッカーサーは「それはあなた方日本国民自身が決める問題ではないでしょうか」と言明した。
※これに先立ちマッカーサーが陛下と会見したおり、天皇が命乞いにくると思っていたところエンペラーともカイゼルとも感じの違う人が「自分の一身なぞどうなってもいいから、国民を助けてほしい」と言うのを、「世界の歴史にかつてこのような君主がいたのを私は知らない」と感銘を受けた話は有名だが、アメリカ側は事前に全てを調べ上げていたのだろう。単に占領下の統治に利用しうるというだけなら、処刑を求める強硬派を説き伏せて戦争責任を不問にすることができたとは思えない。マッカーサーとしては心の片隅にあった一抹の疑念を会見によって完全に払拭したのだろう。これは演技ではない、天皇の偽らざる本心からの言葉である、と。

「誇り高き帝国海軍の葬式を出す」事後処理ののち海軍省が廃省となると米内は自然廃官となった。宮中に召された米内に陛下は「米内にはずいぶんと苦労をかけたね。これからは会う機会も少なくなるだろう。健康に呉々も注意するように。これは私が今さきまで使っていた品だが、きょうの記念に持ち帰ってもらいたい」と筆も墨も未だ濡れている硯箱に自ら蓋をして渡された。退出した米内は、声を殺して泣いたという。後年、米内の元秘書官が元書記官長を訪ねたおりには元書記官長が「君、お上が時々仰るんだよ。米内内閣をつぶしたくなかったネ、あの時もう少し米内の内閣が続いていたら、この戦争に突入しなくてすんだかもしれないネと、よくそう仰るんだよ」と感慨深げに話してもいる。


だいぶ脱線してしまったが、ここで話を戻す。

「戦犯旗」ひいては「戦犯国」という概念も、概念としてのいい加減さはぬぐえない。そもそも「戦犯」は戦争当事国の勝者によって「戦争犯罪人」として軍事裁判で裁かれた敗戦国側の自然人を指す。それは戦前から規定されている各種の戦時国際法に照らして犯罪行為を行った者に加えて、連合国間での合意により枢軸国側の戦争指導者を特に処罰の対象としたことによって、その存在が説明される。
そうであれば「旗」や「国」が「戦犯」であるという発想は、そこに何らかの責任を問わんとする場面では、有り得ない。少なくとも法律を生業とする専門家が用いる用語ではない。それは、恨(ハン)の文学という文学作品的な表現でしかない。国が負う責任は、戦後処理の過程の中で戦争当事国間の合意により敗戦国として負うことになった責任である。「戦犯国」「戦犯旗」という表現には、そうした責任を超えた明確な悪意(害意)を感じる。

文学の中で読者の共感を得ようと発信することは表現の自由の範疇にとどまる限り、好きにされたらよい。中国共産党の抗日映画のようなものであり、それに読者が共感を覚えるかという問題だ。しかし、それを紛争化して司法に準じた役割をになう仲裁機関に持ち込むことで我が意を意図するがままに実現しようとするのであれば、この問題はそうした何らかのサンクションを伴う解決には全く馴染まない問題であることを指摘しなければならない。「己が不快極まりないから」「我々の正義が阻害されるから」という理由で制限される筋合いのものではないのである。

旭日旗は「差別と結びつき得る」という主張がある。しかし、逆に日本国内で「差別的」とされるおぞましい主張をくり返す品位を欠いた人々が旭日旗を掲げること自体が苦々しいし、迷惑極まりない。
かかる主張が掲載されていたニューズウィーク誌(日本語版)では、南アフリカにおける白人優位の象徴だった「スプリングボクス」のジャージが、差別される側だったネルソン・マンデラ氏が身に着けることで新たな意味を与えられ負の歴史を乗り越えようとしている、という趣旨の記述がみられる。だからこそ差別と結びつき得る旭日旗はラグビー会場にふさわしくない、と綴る。
ならば何故、差別されてきたと主張する側の民族が自らの事実認識に拘泥したメッセージを発信し続けるのか。旗というアイコンを憎しみのシンボルとして晒し上げ、歴史を乗り越える気概もなく現代においても自分たちのみが清廉であるかのごとく高らかに誤った(発信者の意図に沿った)メッセージを繰り返す者に対して、あたかも腫物を触るかのごとく「(迷惑極まりない数パーセントの)差別的集団が振りかざす旗だから世界中から同類に見られる」と萎縮する方が、やましくないにもかかわらず世界に向けて誤ったメッセージを発することになる。
筆舌に尽くしがたい人生を送った末に到達したマンデラ氏の「ボクスのジャージを身に着ける」覚悟と「戦犯旗」論者の主張とを同列に考えることこそ、マンデラ氏に対する冒涜である。「ボクスのジャージ」など見たくもないという黒人や我々の「ボクス」がスポイルされたと恨む白人も一定数はいるであろうことは、想像するに難くない。しかし、現在ボクスのジャージに袖を通す代表の黒人選手たちやそこに憧れを抱く少年たち、そしてボクスに熱い声援を送る多くの人々は彼らの祖父母、曾祖父母の代には無かったであろうニュートラルな気持ちで「ボクスのジャージ」に向き合っている。参考になるかと思うので「インビクタス 負けざる者たち」(クリント・イーストウッド監督)もぜひご覧になってみてほしい。


いろいろ書いてしまったが、言いたいことは一つ。「自分たちにとっては与り知らぬはずの憎しみを後付け的にこじらせたままに相手を誹謗中傷する意図で声高に持論を強弁することはもう止めていただきたい」に尽きる。そこから始めなければ、新しい関係を築いていくことはできない。
別に旭日旗を好きになってくれとは言わない。嫌いであってもそれはそれで仕方ない。旭日旗にプライドを持ってくれと言っても、無理なものは無理だ。要は感情論を越えたところで明らかに「やり過ぎている」のである。そもそも旭日旗がスポーツイベントの場で殊更に問題視されるようになったのは、一体いつの頃からだったであろうか。




ピア象の鼻・観光船のりば。









小型空母とはいえ、さすがにデカい。




象の鼻パークから赤レンガパークへ。トラス橋を渡っていく。




大さん橋客船ターミナルと象の鼻防波堤、マリンタワー。




新港ふ頭・赤レンガパークからの「いずも」。




港内クルーズ船が「いずも」の近くまで寄っている。




新港ふ頭には海上保安庁の巡視船「あきつしま」。




赤レンガパークで開催された海上自衛隊観艦式「フリートウィーク」。




海軍カレーを始め、様々なテントが並ぶ。




赤レンガパークから見る、「いずも」の雄姿。




海上保安庁・横浜海上防災基地。




新港ふ頭の「ハンマーヘッドクレーン」。




香淳皇后の歌碑。




「ララ」物資の記憶が刻まれた記念碑。




新港ふ頭をゆく。右手の建物は整備の進む複合施設「横浜ハンマーヘッド」。




クレーン一帯は「ハンマーヘッドパーク」として開放される。




「横浜ハンマーヘッド」に新たに整備される「新港ふ頭客船ターミナル」。




新港ふ頭に停泊する護衛艦「むらさめ」。

「むらさめ」は旧海軍の駆逐艦「村雨」の名を受け継いだ。駆逐艦「村雨」の碑は、横須賀市鴨居(観音崎の近く)に建碑されている。




ネーミングライツ(命名権)により「カップヌードルミュージアムパーク」と名付けられた、新港パーク。




満艦飾の「むらさめ」。




水際をゆく。




「むらさめ」とハンマーヘッドクレーン。









橋を渡り、「パシフィコ横浜」へ。









「パシフィコ横浜」を抜けて臨港パークへ向かう。




ヨコハマ グランド インターコンチネンタルホテルの玄関前を過ぎる。




港内遊覧船のりばの「ぷかりさん橋(みなとみらい桟橋海上旅客ターミナル)」




ホテル棟。




パシフィコ横浜・国立大ホール。




対岸の瑞穂ふ頭(ノースピア)に変わった艦艇が停泊している。

調べてみると、この船はアメリカ海軍の高速輸送艦「グアム」。海軍に売却される前はハワイの高速フェリー会社が保有していた高速双胴船だったそうだ。




臨港パークに設けられたラグビーワールドカップ2019・横浜ファンゾーンへ。


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