まちへ、森へ。

横浜開港場からみなとみらい、新旧水際線あるき

3.新港埠頭・新港プロムナードからハンマーヘッドパーク

 

2.大岡川河口護岸、北仲通水際線プロムナードはこちら

 

 

万国橋のたもとから新港埠頭(しんこう ふとう)水際線の「新港プロムナード」へ。

 

新港埠頭は税関波止場が手狭になったことから税関機能の拡充のために計画される。日本初の本格的な係船岸壁埠頭として明治38年(1905)に第一期埋立が竣工した。

 

 

 

クラシックな万国橋(昭和15年竣工)の向こうにそびえるランドマークタワー。

 

 

 

逆さ「クイーン」の塔(横浜税関)が水面に映える。

 

 

 

水際線から赤レンガ倉庫前へ迂回。

 

 

 

奥に「大さん橋国際客船ターミナル」。

 

 

 

トラス橋は「新港橋梁」。大正元年(1912)年、横須賀の浦賀船渠(うらが せんきょ)で製造された。リベット結合による鉄道橋は国産としては初期のもの。
かつての鉄路は現在では山下公園から税関波止場・象の鼻パーク、赤レンガ倉庫を結ぶ「山下臨港線プロムナード」として整備されている。

 

 

 

橋台の一部にレンガ積みが残っている。煉瓦は「イギリス積み(長手を並べた段と小口を並べた段を交互に積む)」で花崗岩の角石(すみいし)をあしらっている。

 

 

 

かつての「二号物揚場(ものあげば)」を間近に見る。この二段式の物揚場は明治38年(1905)に竣工するも関東大震災(大正12・1923)で被災し修復されたもの。
参考「横浜港の土木遺構−新港埠頭について(1)−」(ウェブ公開論文)

 

 

 

物揚場は艀(はしけ)などの小舟を係留して荷揚げする施設の一つで、岸壁よりも水深の浅いものをいう。

 

 

 

対岸は「象の鼻パーク」。

 

 

 

そして目の前に「象の鼻」防波堤(旧イギリス波止場)。
二号物揚場の先、旧一号岸壁の外側を三角に突き出すように埋め立てられたレンガ敷きの広場は昭和中期以降に拡張されたかつての「D号荷さばき地」。

 

 

 

新港橋梁を振り返り見る。かつての物揚場・荷さばき地・上屋(うわや。一時保管倉庫)跡は、石とレンガで舗装され広々とした「赤レンガパーク」となっている。

 

 

 

旧二号岸壁。こちらは荷さばき地が拡張された際に上から被せられた岸壁。元々の旧二号岸壁は明治38年(1905)に竣工し新港埠頭では最初期の岸壁となる。
視線の先に「シーバス(水上バス)」の「ピア赤レンガのりば」が見える。

 

 

 

「ピア赤レンガのりば」の前に設置されたオブジェ「かもめハープ」。(社)横浜青年会議所が創立50周年(2001)を記念して寄贈した。

 

 

 

旧二号岸壁の石積部分。こちらは明治38年竣工当時の姿。
華やかな後輩の赤レンガ倉庫の陰で、先輩にあたる石積遺構が関東大震災(大正12・1923)にもよく耐えて残っている。
奥から延びていくコンクリート岸壁は震災を経て補修された三号岸壁。
参考「都市の記憶−横浜の土木遺産」「横浜港の土木遺構−新港埠頭について(1)−」

 

 

 

右は赤レンガ倉庫2号館(煉瓦二号上屋。明治44・1911年築)、左に1号館(煉瓦一号上屋。大正2・1913年築)。

 

 

 

右突堤の旧四号岸壁はかつて北米航路の客船が接岸した横浜港の主要ターミナルだった。現在は海上保安庁が利用している。

 

 

 

客船の出航に合わせて運行された「岸壁列車」が到着した、旧横浜港(よこはまみなと)駅のプラットホーム遺構。

 

 

 

「海上保安資料館横浜館・北朝鮮工作船展示」へ。
同館は「我が国周辺を取り巻く海上警備の現状と重要性を国民の皆様に広く知っていただくことを目的に」建設された、と案内されている。

 

 

 

工作船船体。
展示の撮影は受付で申し出るようになっており、無断撮影は禁止となっている。

 

 

 

回収された武器。

 

 

 

 

 

 

 

小型舟艇。

 

 

 

工作船の内部。

 

 

 

「九州南西海域における工作船事件」は平成13年(2001)12月に発生。不審船は巡視船・航空機による停船命令を無視して逃走を続けたため威嚇射撃を行うも武器で反撃してきたため正当防衛射撃で応戦。その後不審船は爆発を起こして自沈した。

 

翌年、政府は調査の上で船体引揚げを決定。鹿児島、船の科学館(東京お台場)にて順次一般公開ののち、平成16年(2004)12月より海上保安資料館横浜館にて一般公開されている。工作船の国籍は回収品、日朝首脳会談における発言から特定された。
参考「海上保安資料館横浜館パンフレット」

 

 

 

海上保安資料館から「ハンマーヘッドパーク」へ。ハンマーヘッドクレーンが先端に建つ左突堤は後期工事により明治44年(1911)に埋め立てが完了した。

 

平成の「みなとみらい」再開発により左突堤は客船ふ頭として整備がなされた。そして令和元年(2019)、「新港ふ頭客船ターミナル・CIQホール(税関・出入国管理・検疫施設)」「インターコンチネンタルホテル横浜Pier8」も入居する複合ビル「横浜ハンマーヘッド」が竣工する。

 

 

 

海上保安庁・横浜海上防災基地の右突堤のたもとに建つ、香淳皇后御歌碑とララ物資記念碑。
「ララの品つまれたる見てとつ国のあつき心に涙こぼしつ あたゝかきとつ国人の心つくしゆめなわすれそ時はへぬとも」

 

 

 

戦後の混乱期にアメリカの救済事業団体が救援物資を日本に送った。それらの物資は6年間送られ続け、新港埠頭(敗戦による接収中はセンターピアと呼ばれた)で陸揚げされる。

 

香淳皇后御歌は昭和天皇皇后両陛下がララ倉庫に行幸行啓された際に詠まれた和歌。

 

 

 

海上防災基地。奥に見える岸壁は関東大震災に耐えたもう一つの石積岸壁である明治44(1911)年竣工の旧六号岸壁だが、海上保安庁敷地内のため一般人は許可なく立ち入りできない。
手前(旧七号岸壁側)には令和二年(2020)に完成したばかりの「新港ふ頭さん橋」。水上交通の小型船が利用する。

 

 

 

ハンマーヘッドパークへ。この通路は旧七号岸壁沿い。

 

 

 

桜木町駅発着の横浜市営バス「あかいくつ(観光スポット周遊バス)」「ピアライン」を利用したときに最寄りとなる「ハンマーヘッド」バス停。

 

 

 

横断歩道を渡って「ハンマーヘッドパーク」へ。

 

訪問時には直進した先にある「新港埠頭8号バース(旧八号岸壁)」周辺は工事中のため柵で囲われ立ち入りできなかった。
Googleマップでは8号バースのエリアに「トール号殉難の地」が表示される。

トール号とは第二次大戦期のドイツ海軍仮装巡洋艦(商船を改造し民間船に偽装した巡洋艦)「トール」。戦時下の昭和17年(1942)11月、当時海軍の管理下にあった新港埠頭左突堤(旧七号岸壁〜十一号岸壁)に入港していたトールは、八号岸壁に停泊していたドイツ油槽船ウッケンマルク号に接舷して係留されていたところウッケンマルク号の気化ガスへの引火による大爆発に巻き込まれ、六号岸壁に停泊していたドイツ貨客船ロイタン号(元オーストラリア貨客船ナンキン号)、海軍に徴用され七号岸壁に停泊していた第三雲海丸ともども弾薬の誘爆による大爆発を起こして沈座した。
このうちナンキン号とトールには数奇な運命があった。爆発事故に先立つ昭和17年5月、オーストラリア海軍に徴用されていたナンキン号はコロンボ(セイロン島)に向かう途中でトールに拿捕され、横浜港まで回航される。その後はドイツ船として働き、ほんの半年ほど経ったのちに自らを拿捕したトールと偶然にも時を同じくして横浜・新港埠頭に入港し、運命を共にしたことになる。

 

このトール号、ナンキン号をめぐっては、興味深い二冊の書籍がある。
トール号については「横浜港ドイツ軍艦燃ゆ」(石川美邦著)、ナンキン号については「赤いポピーは忘れない 横浜・もう一つの外人墓地」(遠藤雅子著)。

 

 

「横浜港ドイツ軍艦燃ゆ」はジャーナリストである著者が横浜税関にて由緒不明の大量のガラス乾板が発見されたことに対する興味から始まる。
同書にはトールが入港(爆発事故に巻き込まれる前、最後の入港)した際の日独海軍関係者の動向、爆発事故当時を知る港の関係者や地元小中学生だった人達の生々しい証言、爆発事故死を免れた乗組員たちの箱根芦之湯・松坂屋への長期逗留、ドイツ人犠牲者にまつわる二つの墓所(山手、根岸の外国人墓地)の関連、根岸の墓碑の失われた銘板の復刻までの道のりといった内容が綿密な取材に基づいて克明に記されている。そして芦之湯の人々や根岸墓地周辺の児童生徒らによる、現在に至るまでの草の根から大使館レベルまでの心温まる日独の交流が綴られている。
また日本人犠牲者の中に商用で埠頭を訪れていた俳優・竹中直人氏の母方祖父が含まれていたことにも言及されている。この件はNHK「ファミリーヒストリー」竹中直人氏の回でも紹介された。

 

 

「赤いポピーは忘れない 横浜・もう一つの外人墓地」はノンフィクション作家である著者が英連邦戦没者墓地(保土ケ谷区狩場町)にエリザベス・グリソン(スチュワーデス、マーチャントネイビー)というオーストラリア人女性の墓を見つけ、英連邦捕虜の中に女性がいたことに対する興味から始まる。
著者の初期調査により、グリソン女史が収容先の福島の修道院で亡くなったこと、元はナンキン号の乗員であったことが判明する。ナンキン号の詳細を知るために著者がオーストラリアにまで調査の手を広げた結果、ナンキン号が船長の知らぬ間にオーストラリア軍の機密書類を普通郵便として積んでいたこと、機密書類が拿捕時に船長による破棄の手続きから漏れてドイツ軍の手に渡ったこと、機密書類はミッドウェー海戦の前に日本海軍の暗号がアメリカ軍により解読されていた事実が記されていたこと、オーストラリア政府がアメリカから提供された機密情報を敵国に渡らせた大失態を隠すためにナンキン号消息不明の事実を本国で隠し通したこと、ドイツ士官が傍受のリスクを冒してまで本国に打電したにもかかわらず日本には直ちに事実を伝えなかったこと、ドイツ側がナンキン号乗員乗客の引き取りを日本に依頼しながら詳細について沈黙し日本側も通常の「捕虜および抑留者」ではなく「極めて特異な事例」として引き受けたこと、その結果としてナンキン号乗客乗員が福島で過酷な処遇を受けたこと、が明らかにされていった。

 

著者は国の事情に翻弄されたナンキン号乗客乗員の過酷な運命を記録にとどめるとともに、ドイツと日本の同盟とは一体何だったのかと投げ掛ける。オーストラリア軍に撃沈されたドイツ船に捕虜として乗っていたノルウェー人将校はオーストラリア軍の尋問に「我々の見た限り日本人とドイツ人は互いに毛嫌いしているようだ」と答えたという。
たしかに組織人としての制約を離れた個々人のレベルでは人間的な暖かい交流が多かったことも疑いない。しかしながら組織人として上意下達のもとに行動する立場において日独両国は互いに不信感を抱えたドライな関係だったこともまた、紛れもない。己の利、もっと言ってしまえば己の義のために利用できるものは利用してやろう、というだけだった。そもそも日独は互いに地理的距離があまりにも遠すぎるゆえ軍事同盟を有効に機能させるには端から無理があった。

 

 

ドイツ船爆発事故は甚大な被害を生じた大爆発事故であったにもかかわらず厳重な報道管制が敷かれ、ほとんど報じられることはなかった。これは日本国内のドイツ船上での事故のため敵国諜報機関の関与の可能性があったからである。折しも日本中を震撼させたスパイ事件「ゾルゲ事件」が司法省から発表され大々的に報じられたばかりの頃であった。しかしながら事件性の決定的な証拠が得られぬままに戦局は悪化し、原因究明がなされぬまま爆発事故は世間から忘れられていった。
「赤いポピー〜」の著者はナンキン号を所有していたオーストラリアの汽船会社の社史を交渉の末に入手。社史はナンキン号が拿捕されたあと他の乗員乗客とは別に川崎の捕虜収容所に収容されていた一等航海士のコメントを掲載していた。一等航海士は捕虜として鶴見の製粉会社で作業に従事し爆発事故をそこで知ったが、捕虜仲間のノルウェー人が後日「あれを仕掛けたのは仲間のノルウェー人だ」と証言した、という。証言の信憑性という観点からこれを鵜呑みにする訳にはいかないが、かと言って取るに足らないとして切り捨ててしまうにはどこか引っかかるものもある。

 

 

 

右突堤・旧五号岸壁の先に延びる桟橋に停泊する、海上保安庁の巡視船。

 

「トール号殉難の地」である8号バース(旧八号岸壁)には、事故を伝える祈念碑はない。これは岸壁という場所柄による規制の問題、日独伊三国軍事同盟を背景にした事故であるという点など種々の課題があって実現に至らなかったそうだ。
参考「横浜港ドイツ軍艦燃ゆ」

 

 

 

左突堤・9号バース(旧九号岸壁)の先に延びる桟橋。9号バースへの大型船の着岸のために延長されている。

 

 

 

新港埠頭のシンボル、ハンマーヘッドクレーン。

 

 

 

案内板。
左突堤の完成に合わせて導入された荷重50トンの起重機は、その形状から「ハンマーヘッドクレーン」と呼ばれている。こうした巨大なイギリス製クレーンが日本に5基導入された。
案内板の各地の他には横須賀、呉の海軍工廠に導入されたがいずれも撤去された。長崎(荷重150トン)、佐世保(荷重250トン)は造船所のクレーンとして用いられている。したがって埠頭の荷役専用として用いられたクレーンは横浜のみということになる。大正三年(1914)の導入から、新港埠頭での荷役がコンテナふ頭の増強に伴ってその役割を終えた平成13年(2001)までの長きにわたって稼働し続け、現在も稼働可能な状態で保存されている。

 

関東大震災では旧一、二、六号岸壁以外は地崩れをおこしたが、クレーンの基礎部に被害は生じなかった。これはクレーンの基礎に埠頭岸壁工事で用いられたニューマチックケーソン工法のケーソン(函)を流用して、基礎を頑強に作ったためとされる。

ニューマチックケーソン工法とは地下水の多い地盤を掘削する際に底部に作業室を設けたケーソンを沈め作業室に高圧の空気を送り込んで掘削面からの地下水の浸入を高気圧で防ぎながらドライ環境を確保して地盤を掘削、構築物を設置していくという工法。日本では新港埠頭の築造工事で初めて採用された。
工事で使われたケーソンは記念のために保存すべしという意見もあったというが、クレーンの基礎としてそのまま沈設されることとなった。結果的にはそれが功を奏して、巨大なクレーンが震災による破壊から守られたことになる。
参考「横浜港の土木遺構−新港埠頭について(1)−」「近代日本の港湾整備における2種類のケーソン技術の導入と展開」

 

 

 

クレーンに付けられた銘板。コーワンス・シェルドン社の銘、1913の年号などが刻まれている。

 

 

 

ハンマーヘッドテラスからのハンマーヘッドデッキ、クレーン。

 

 

 

テラスからの9号バース(旧九号岸壁)。大型客船が接岸できるターミナルとして再生された。
昔は十号岸壁、十一号岸壁が延びていた水際線は平成の時代に再開発により「みなとみらい21新港地区」として埋立地が拡張され「新港パーク」(カップヌードルミュージアムパーク)として生まれ変わった。

 

 

 

平成の時代に誕生した「新港パーク」の水際線。「カップヌードルミュージアム」の進出に伴ってネーミングライツで「カップヌードルミュージアムパーク」と名を変えた。
令和の時代になると運河で隔てられた「みなとみらい中央地区」が「女神橋(人道橋)」でつながり、「臨港パーク」までの水際線が一体化した。

 

 

 

テラスを下りてパークの水際線へ。

 

 

4.新港パークから臨港パーク〜高島水際線公園へ

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