まちへ、森へ。

猿島から走水、観音崎めぐり

5.県立観音崎公園・観音崎砲台跡(その2・明治前期)、観音埼灯台

 

4.県立観音崎公園・観音崎砲台跡(その1・明治後期)はこちら。

 

 

明治後期の大浦堡塁跡あたりを整備して設けられた「戦没船員の碑」の広場。続いて、明治前期(〜明治20年ごろまで)の第三砲台(旧第四砲台)跡へ向かう。

 

 

 

道案内あたりから海辺の「展望園地」へ下りていく分岐。

 

下りた先の展望園地には明治後期の砲台跡である南門砲台の痕跡がわずかに残っている。今回の砲台跡巡りにおける時代の括りとしてはそちらを先に見るべきであろうが、便宜上そちらは後回しにする。

 

 

 

「海の見晴らし台」への分岐となる隧道(トンネル)。「海の見晴らし台」の手前に第三砲台跡がある。

 

 

 

トンネルアーチのレンガ積。アーチの内側表面は曲面を描く構造物に一般的に用いられる小口積(こぐちづみ)。このトンネルも第三砲台と同時期に整備されたものだろう。

 

 

 

トンネル出口。

 

 

 

左手は殆どがコンクリートで塞がれた兵舎か、あるいは掩蔽部(えんぺいぶ。待避所)か。時代としてはフランス積が用いられたはずだが、イギリス積となっているのは後の時代に増築されたということだろうか。

 

 

 

砲台へと進む。

 

 

 

第三砲台跡。明治15年(1882)起工、17年竣工。28p榴弾砲が四門据えられた。

 

第三砲台は日清戦争(明治27・1894)、日露戦争(明治37・1904)のいずれも戦備についた。関東大震災(大正12・1923)で被災し、大正14年に除籍。

 

 

 

すぐ左手には横墻(おうしょう。砲座裏の待避所)・弾薬庫。手前の道を左手へと進むと「海の見晴らし台」に至る。

 

 

 

下部は傷みがみえるもののフランス積がはっきりと見られる。上部は壁面のみならずアーチ天井部分にまでフランス積が用いられているのがちょっと珍しい。

 

 

 

砲座周りの石積はブラフ積。

 

 

 

砲座に上がる。

 

 

 

胸墻(きょうしょう。砲座を囲む壁)。

 

猿島砲台では埋没していて非公開のため見ることができなかった、明治前期の石造による砲座の姿。

 

 

 

砲座からトンネルを振り返り見る。

 

 

 

「海の見晴らし台」。

 

 

 

西浦賀・久里浜方面。

 

 

 

トンネルを抜けて戻り、第二砲台・第一砲台跡への道を進んでいくと、分岐がある。

直進する道は現在は第二砲台跡・旧東京湾海上交通センターへ通じるように整備されているが、古い地形図に見る要塞の時代は旧第三砲台への物資搬入路であり、旧第三砲台で行き止まりだった。
旧第三砲台は立入禁止区域の小高い山の上にある(現在は海上自衛隊警備所敷地のため立入禁止)。そこは明治19年(1886)に竣工した28p榴弾砲二門の砲座があった。しかし28p榴弾砲の遠戦砲力を十分生かせないということで砲台は明治26年(1893)に廃止された。そこには現在でもフランス積の構造物が良好に残っているという。現在では砲台跡に浦賀水道を通過する外国軍艦への礼砲用の砲が三門据えられている。

 

右手へ下る道は、要塞の時代は下りていった先を登り返すと第一砲台で行き止まり。下りたところの分岐(現在は旧東京湾海上交通センターの門があり立入禁止)からトンネルを抜けていった先が第二砲台で行き止まり。現在では第一砲台跡から先に観音埼灯台、第二砲台跡(旧東京湾海上交通センター)へと続く道が整備されている。

参考「新横須賀市史 別編 軍事」

 

 

 

パークセンター前の案内図(赤文字、緑線による補足はサイト管理者)。 案内図拡大版
このマップは公式ウェブサイト掲載のマップよりも砲台跡の位置の記載が詳細になっている。

 

 

 

右手へ下り第一砲台跡、観音埼灯台、第二砲台跡へと巡っていく。

 

 

 

下った先を登り返す。

右から合流してくる車道は現在は「観音崎通り」として拡幅され、パークセンター(弾薬本庫)前からトンネルを抜けてきて海上自衛隊観音崎警備所(第四砲台(旧第五砲台)跡)、「展望園地(南門砲台跡)」、ビジターセンター、浦賀方面へと通じている。
要塞の時代はそのうち各砲台までの道が整備されており、弾薬本庫から弾薬を供給する運搬路だったようだ。

 

 

下りきったところは旧東京湾海上交通センターの門(立入禁止)。

門の向こうのトンネルが第二砲台への弾薬供給路となろう。この門前から今来た道を戻って登る道筋が弾薬本庫から旧第三砲台(海上自衛隊警備所敷地)、第三砲台(「海の見晴らし台」)、大浦堡塁(「戦没船員の碑」)への弾薬供給路であろう。

 

 

 

第一砲台跡へ向けて登っていく。

 

 

 

第一砲台跡に到着。明治13年(1880)に第二砲台起工から10日遅れで起工、17年竣工。24pカノン砲を二門装備した。

 

 

 

右側の砲座。

 

第一砲台は日清戦争(明治27・1894)には戦備についたが、日露戦争(明治37・1904)では先に見てきた観音崎・三軒家砲台や千代ヶ崎砲台(西浦賀・久里浜)が建設されたので戦備につかなかった。関東大震災(大正12・1923)よりもだいぶ前の大正4年(1915)に除籍されている。

 

 

 

24pカノン砲。
画像出典「新横須賀市史 別編 軍事」

 

 

 

こちらは猿島の管理棟展示パネルにみる千代ヶ崎砲台(西浦賀・久里浜)の地下弾薬庫・掩蔽部跡。明治25年(1892)に起工し28年に竣工した。装備は28p榴弾砲六門、15p臼砲四門、12pカノン砲四門、7p野砲四門。

 

千代ヶ崎砲台は時代が下って技術的に進歩した要塞の地下施設がよく残っている。しかし傷みも目立つため通常非公開となっており、見学できるのは事前申込制の見学会に参加する場合のみ。
※現地待機のガイド付きで常時公開されるようになった。ガイドツアーに参加しての見学はこちらのページへ

 

 

 

砲座の間に弾薬庫。

 

 

 

砲座をつなぐトンネルのアーチ上部にフランス積が確認できる。

 

 

 

トンネル内の壁にも補修前のものらしきフランス積の古そうな煉瓦が見える。

 

 

 

 

 

 

 

左側の砲座。

 

 

 

要塞の時代、弾薬供給路としての道はここまでだった。

 

 

 

第一砲台から観音埼灯台へ向かう。

 

現在ではこうして行き来できる砲台跡と灯台だが、要塞の時代には軍事機密のヴェールに包まれた砲台と灯台とを行き来する必要性はほぼゼロだった。軍人はともかく灯台守にとっては砲台はすぐ近くにありながら全く縁のない、立入の出来ない場所だったはず。

 

 

 

灯台が見えた。

 

 

 

岩盤を削って切通しが造られている。往時はこの岩が砲台と灯台を隔てていたのだろうか。

 

 

 

観音埼灯台に到着。この灯台は見学料を納めれば灯台に登ることができる。

 

 

 

観音埼灯台の建設計画は幕末期に遡る。大政奉還により明治新政府が樹立された後も、幕府が航路の安全確保のために諸外国との間に交わした西洋式の灯台建設の合意は新政府に引き継がれた。

 

建設の責任者となったのは幕末の頃から横須賀製鉄所(造船所)建設の責任者であったフランス人技師レオンス・ヴェルニー。初代のレンガ造灯台(明治2・1869年点灯)は我が国初の西洋式灯台となった。

 

 

 

現在の灯台は三代目。初代は大正11年(1922)の大地震により亀裂を生じ、二代目に建て替えられた。しかしその二代目はわずか半年後の大正12年(1923)9月、関東大震災で崩壊。大正14年に三代目が完成した。

 

 

 

わずか六か月の命となった、幻の二代目。なお初代の姿は展示室で見られるが、そちらの展示物は撮影できない。

 

 

 

初代の観音埼灯台。
(清親画「日本名勝図会 観音崎」 明治30年出版)
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

 

展示されている霧笛と、古いレンズ。

 

視界の利かない濃い霧の発生時に音で船に灯台の位置を知らせた霧笛。レーダーやGPSの技術革新により各地の霧笛はその役割を終えた。哀愁たっぷりの霧笛の音は、もう生で耳にすることはない。

 

 

 

観音埼灯台点灯の碑「點燈明治己巳(つちのと み)年正月元日 II FEVRIER 1869」。

 

和暦はまだ旧暦、西暦は新暦。新暦(2月2日)はフランス語表記になっている。和暦が新暦に切り替わるのは明治5年の年末。

 

 

 

「初點 明治二年一月一日 改築點燈 大正十二年三月十五日」の初点プレート。「初點」「點燈」といった旧字が時代を感じさせる。

 

 

 

塔身の狭い螺旋階段。

 

 

 

レンズ。

 

 

 

浦賀水道の眺めがいい。風も強い。眼下に海上自衛隊警備所(第四砲台跡)の敷地を見下ろす。

 

 

 

沖をゆくコンテナ船。

 

 

 

灯台の隣に建つ、旧東京湾海上交通センターのレーダー塔。

 

 

 

ズームでとらえる横浜みなとみらい。

 

 

 

灯台を後にして、第二砲台跡(旧東京湾海上交通センター)へ向かう。

 

 

 

こちらも要塞の時代の後に付けられた道。

 

 

 

こちら側にも岩盤を削った切通しがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

到着。

 

 

 

 

 

 

 

東京湾海上交通センター(東京マーチス)は平成30年(2018)に千葉・東京・川崎・横浜各港の交通管制室を統合。新センターは横浜・北仲通(きたなかどおり)に置かれることとなり、観音崎の旧センターは無人化された。

 

 

 

旧センターの建物は第二砲台跡のうち北側(左翼)の三砲座を解体・造成して建てられた。建物に面した壁は砲座の胸墻(きょうしょう。砲座を囲む壁)をコンクリートで塞いで再利用したもののようだ。

 

 

 

南側(右翼)の砲座へ。

 

 

 

砲座跡。24pカノン砲が据え付けられた。

 

 

 

砲座の胸墻。

 

 

 

砲座の間に弾薬庫。

 

第二砲台は明治13年(1880)の起工、明治17年竣工。東京湾要塞の砲台で最も古く、日本初の近代砲台でもある。
第二砲台は日清戦争(明治27・1894)、日露戦争(明治37・1904)のいずれも戦備についている。関東大震災(大正12・1923)で被災し、大正14年に除籍された。

 

 

 

隧道(トンネル)は弾薬本庫から第二砲台までの物資搬入路。入口脇の石段が右翼の山上に設けられた観測所と指令所に通じている模様。

 

さらに標高の上がった山頂には旧第三砲台(明治明治19年竣工、26年廃止。現在は海上自衛隊警備所敷地として礼砲を設置)が設けられて大浦堡塁の側から延びてきた道が砲台に通じていた。

 

 

 

トンネルの出口は先に見た旧東京湾海上交通センターの門へと通じている。

 

 

 

内部に亀裂が入っている。

 

 

 

第二砲台は六つの砲座が段々に下がって配置されており全国的にも珍しいという。この形状ゆえに第二砲台は「だんだん砲台」と通称された。

 

 

 

案内板。
観音崎砲台で最も古い状態を残す第二・第一砲台と最も新しい状態が残る三軒家砲台との比較からは、機能的に改良されていった砲台の変遷を見ることができる。

 

 

 

旧センターの裏手に回り海沿いの「観音崎園地」へと下りていく。

 

 

 

 

 

 

 

ジグザクの下り。

 

 

 

園地のバーベキューエリア。

 

 

 

 

 

 

 

権現洞窟。

 

 

 

権現洞窟は海食洞。古くはここが海岸線だった。

 

 

 

洞窟の由緒。
諸国を行脚した行基の伝説がこの地にも伝わっている。洞窟には行基が退治した大蛇の霊が祀られている。
また走水(はしりみず)は日本武尊(やまとたけるのみこと)の妻・弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)が東征伝説の途上で荒れ狂う走水の海を鎮めるために入水した伝説の地。その霊を祀るため、行基によって十一面観音が納められた、とされる。

 

 

 

下から見上げる観音埼灯台。

 

終戦を迎えるまで「東京湾要塞地帯」として軍の管理の下に一般人の立ち入りが厳しく禁じられていた観音崎。古い地形図を見る限り、灯台守が灯台に入る道は海沿いのこの道が唯一の道だったようだ。

 

 

 

観音寺跡。

 

 

 

案内板。

 

行基が洞窟に納めた観音像は「観音崎」の地名の由来となった。江戸時代にはこの地に建てられていた観音寺が海上安全の霊地として海事関係者に篤く信仰された。
明治の世になって東京湾要塞が構築されるに伴い、観音寺は近隣の亀崎(駆逐艦「村雨」の碑のあたり)に移転。その観音寺も火災により今は失われ、三浦三十三観音霊場札所としての寺務は眞福寺(吉井)が代行している。

 

 

 

海岸沿いをゆく。

 

 

 

浜の先がフェンスで遮られている。その先は海上自衛隊警備所の敷地。先ほど観音埼灯台の上から見下ろしてきた。

 

 

 

磯の先に見える、海上に突き出たコンクリートの円筒形構造物は観音崎聴測所の円形ケーソン。

 

聴測所とは潜航する潜水艦のスクリュー音やエンジン音を聴いてその方向を測定する施設。陸軍科学研究所によって昭和12年(1937)に完成した。あの辺りは海上自衛隊警備所の管理地となる。

 

参考「新横須賀市史 別編 軍事」

 

 

 

海上自衛隊・観音崎警備所のゲート。

一般人立入禁止となるこの敷地内に、第四砲台(旧第五砲台)跡がある。
第四砲台は明治19年(1886)の起工、20年の竣工。24cm臼砲四門が据えられた。日清戦争では戦備についたが、日露戦争では戦備につかなかった。
大正12年(1923)には関東大震災で被災するも、復旧。とはいえ要塞砲台の主力は千代ヶ崎、剣崎、城ヶ島、大房岬(たいぶさみさき)、洲崎といった東京湾の入口付近に据えられた射程距離の長い砲塔砲台へと移っていった。砲塔砲台は軍縮条約により廃艦となった戦艦・巡洋艦の主砲塔を転用した砲台であり、大正末期から昭和初期にかけて整備された(剣崎の砲塔は口径が小さいので副砲塔か?)。

 

そうした流れの中、観音崎の諸砲台のうち第四砲台だけは廃止・除籍されずに残り大正15年に「観音崎砲台」と改称される。そして昭和20年(1945)の終戦まで存続した。
第四砲台が終戦まで除籍されなかったのは、至近に聴測所といった重要施設があったからだろうか。

 

 

隧道(トンネル)入口。コンクリートの構造物がある。

 

 

 

隧道内。壁面に見えるコンクリート構造物の痕跡は昭和3年(1928)に造られた電灯付属施設(のちに観音崎聴測所の自家発電所と燃料庫に改築)だろうか。

 

 

 

トンネルを抜けると「観音崎通り」に合流。

 

 

 

車止めの柱も灯台型。

 

 

 

「展望園地」のトイレ。

 

 

 

トイレの裏手。石造、コンクリート造の構造物がちょこっと頭をのぞかせている。

これらは南門砲台の関連遺構だろうか。砲座は展望園地からレストラン、ボランティアステーション、自然博物館あたりにかけて配置されていたようで、遺構は全くと言っていいほど残っていない。このときは気付かなかったのだが、花壇が砲座の一つを利用しているようだ。

 

南門砲台は明治25年(1892)に起工、26年竣工。12pカノン砲四門、9pカノン砲四門が据えられた。小型の9p砲は上陸を試みる舟艇を射撃するため。砲の備えは日清戦争(明治27・1894)には間に合わず、日露戦争(明治37・1904)で戦備についた。関東大震災(大正12・1923)の被害は甚大で、大正14年に除籍された。

 

 

 

案内板。
観音崎は異国船が頻繁に来航するようになった江戸時代後期から海防の要衝となった。古くは文化9年(1812)に観音崎台場が築造されている。

 

 

 

展望園地でしばし船を眺めていると自動車専用船が航行していった。
「おやっ?」と見覚えのあったイルカのマークの船は、この日横浜の大黒(だいこく)埠頭から出港した「トランスフューチャー7」。ちょうど前日、横浜港で日本初となった外国船籍豪華客船の四隻着岸の日に本牧埠頭の横浜港シンボルタワーからこの船も目にしたばかり。観音崎公園で偶然にもこのタイミングで再会することとなった。

 

 

 

観音崎自然博物館。

 

 

 

多々良浜。

 

 

 

案内板。

 

 

 

 

 

 

 

最後に駆逐艦「村雨」の碑を訪れる。

 

観音崎大橋入口の信号を過ぎた少し先で、擁壁沿いに左へ入る道がある。その角の少し先(逆方向から来れば手前)に駆逐艦村雨の碑の案内板がある。

 

 

 

県道沿いの案内碑と案内板。

 

 

 

 

 

 

 

左へ入っていく。

 

 

 

三浦三十三観音霊場第十四番札所・観音寺跡。その向こう側に駆逐艦村雨の碑が建つ。

 

 

 

観音寺跡の案内板。

 

 

 

現在はひっそりと小さな祠が建つのみであるが、先に「観音崎園地」で見たとおり「観音崎」の地名の由緒となった観音寺。本尊だった十一面観音は弟橘媛命の走水入水伝説とも深い関係がある。

 

 

 

駆逐艦村雨の碑。浦賀水道を静かに見守っている。

 

 

 

鴨居港。広い意味での横須賀港に含まれる漁港。

 

 

 

 

 

 

 

鴨居港信号から内陸側に少し進むと鴨居バス停。ここからバスに乗車、京急浦賀駅へ。

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