三溪園〜梅雨
平成25年(2013)の夏至の頃、三溪園で行われた重要文化財建築全十棟一斉公開を観に行く。古建築の様式や内装について細見し、花菖蒲も鑑賞。併せて南門で再入場券を受け取ってから三溪園に隣接する本牧市民公園・上海横浜友好園を観に行く。
梅雨の季節、いっとき雨がやんだ。
いつもの景観に、花菖蒲が彩りを添える。
御門から内苑へ。
この年は、特別に重要文化財建造物全10棟一挙公開の企画が催された。普段は見ることのできない建物の内部を一気に見られる、めったにない貴重な機会。
園内案内図 拡大版
1.臨春閣(りんしゅんかく。旧巌出御殿)
第一屋「瀟湘(しょうしょう)の間」
浪形(なみがた)の透かし彫りが施された欄間(らんま)。
第一屋の裏庭に、身代わり灯篭。
第二屋「浪華の間」越しの、亭しゃ(木へんに射)。
第二屋の広縁(ひろえん。廊下)から眺める、前庭と第三屋。
高欄(こうらん。手すり)越しに眺める、州浜(すはま)。
第二屋「住之江の間」の床(とこ)に床脇(とこわき)。床脇には天袋(てんぶくろ)のほか、袋棚(ふくろだな)として用いられている地袋(じぶくろ)。
床脇側の壁は、書院造の多くにおいては帳台(ちょうだい。寝室)との仕切りに帳台構え(ちょうだいがまえ。帳台に通じる扉。いわゆる武者隠し)が見られるところであるが、住之江の間は裏庭の見える広縁(廊下)と接しており障子で仕切られた明るく開放的な造りとなっている。
地袋の引き戸に細密な螺鈿(らでん)細工の装飾が施されているのが目を惹く。
臨春閣は紀州徳川家別荘「巌出御殿(いわでごてん)」がその前身であると考えるのが通説であるが、住之江の間は臨春閣で最も格式の高い上段の間(じょうだんのま)。手前の浪華の間よりも框(かまち)の分だけ床(ゆか)が高い。
床(とこ)に向かって左側に設けられている書院は、広縁側に棚板が張り出すかたちの付書院(つけしょいん)ではなく、よりシンプルな平書院(ひらしょいん)。
欄間(らんま)は書院造の伝統的形式である筬欄間(おさらんま。桟(さん)という細い棒材を縦にびっしりと配した欄間)ではなく、数寄屋の遊び心が見られる色紙をはめ込んだ欄間。
今回は重文建築が一挙に公開されたので、各棟の床の間(とこのま)の比較も興味深かった。
格式の中にも軽快さを取り入れた数寄屋風書院(すきやふうしょいん)の臨春閣、とことん崩した数寄屋造(すきやづくり)の極みともいえる聴秋閣、実直な書院造(しょいんづくり)の旧矢箆原家(やのはらけ)住宅など、それぞれの特徴がよく出ていた。
「住之江の間」の天井。
隣の「浪華の間」と比較すると分かるが、竿縁(さおぶち)天井の竿縁が、通常の平行ではなく卍(まんじ)型に配されている。
紀州候謁見の間という、臨春閣(巌出御殿)全体で最も格式の高い部屋であるが、オフタイムのくつろぎの場である別荘建築ゆえか格式を重んじた折上格天井(おりあげごうてんじょう。天井を持ち上げた形の格子状の天井)ではなく、軽快な意匠。かといって単なる竿縁にとどめないところが数寄屋風書院の本領発揮といったところか。
床(とこ)や床脇、襖には武家らしい重厚感を漂わせつつも、天井や書院、欄間には軽快な意匠を取り入れるあたりが瀟洒な数寄屋風書院と評される所以。
住之江の間から眺める、裏庭。
住之江の間の広縁(廊下)天井。垂木(たるき)と直交する細竹に垂木と平行の細竹を入れて、さりげなく格子状にしている。また、梁に海老虹梁(えびこうりょう)の意匠が見られる
海老虹梁とは、もともとは鎌倉時代に伝わった禅宗様(ぜんしゅうよう)の建築に見られる弓なりに反った梁(はり)のデザイン。ここ三溪園の古建築では外苑の旧東慶寺仏殿にその特徴がよく表れている。
また、禅宗に限らずさまざまな宗派のお堂あるいは神社建築の向拝(こうはい。せり出した屋根)にも見ることができる。
今回は臨春閣、旧東慶寺仏殿ともに公開されたので見比べることができた。こちらはほっそりとした華奢なデザイン。
第三屋「天楽(てんがく)の間」。
となりの「次の間」に、火灯口(かとうぐち)の意匠をあしらった二階への昇り口が見える。
火灯口の意匠は一般的には茶室の通い口(亭主の出入口)などに見られるが、そのルーツは禅宗様の建築に用いられた「火灯窓(かとうまど)」のデザイン。
火灯窓もやはり旧東慶寺仏殿に見られる。そしてこちらも宗派を超えたお寺のお堂、あるいは一般建築にも取り入れられた。三溪園でも聴秋閣の二階や旧矢箆原家(やのはらけ)住宅の入母屋屋根の妻壁に見られる。
欄間(らんま)には笙(しょう)、縦笛(たてぶえ)の篳篥(ひちりき)、横笛(よこぶえ)の高麗笛(こまぶえ。狛笛)に龍笛(りゅうてき。横笛・おうてき)といった雅楽の楽器があしらわれている。高欄(こうらん。手すり)をかたどった装飾には朱塗りが施されている。
天楽の間の、床(とこ)に床脇(とこわき)。床脇の違い棚は、一方の棚に地袋の袋棚が用いられている。
床框(とこがまち)の色が欄間の高欄の色に合わせてか、朱色というのがとても珍しい。雅(みやび)な華やかさを引き立たせる。
秀吉ゆかりの、瓢箪文手水鉢(ひょうたんもんちょうずばち)のつくばい。
第三屋二階・村雨(むらさめ)の間の外観。高欄の束(つか。短い柱)に雲形(くもがた)状の板が添えられている。桂離宮新御殿の高欄にもみられるデザイン。
2.月華殿(げっかでん)
月華殿広縁の高欄越しに眺める、渓流の庭。
竹の間と、檜扇(ひおうぎ)の間
檜扇の間の、床(とこ)。床脇や書院を伴わない簡素な床ではあるが、しっかりと畳床(たたみどこ)になっている。
欄間(らんま)には菊花の透かし彫り。
月華殿に付属する茶室の、金毛窟(きんもうくつ)。こちらは三溪が増築した。
3.天授院(てんじゅいん)
格天井(ごうてんじょう。縁を格子状に組む)の、お堂。原家の持仏堂(じぶつどう)として移築された。須弥壇(しゅみだん)には、三溪の位牌が安置されている。
天授院から聴秋閣へ。
4.聴秋閣(ちょうしゅうかく)
内部には上がれないので外から鑑賞する。
高欄付の濡縁越しに眺める、渓谷遊歩道。
木製タイルが四半敷(しはんじき。斜め45度)に敷かれた玄関から見る、上の間(かみのま)。
茶席としても使える上の間には、付書院(つけしょいん)、床(とこ)、床脇(とこわき)が設けられている。
明かり取りとなる付書院は通常見られる意匠とは大きく異なり、幅四分の三間(けん)ほどの小さな床(とこ)に対して斜めに大きく設けられている。
床脇(とこわき)。地袋(じぶくろ)の上に引き戸が設けられて戸棚のような意匠になっている。
袖壁(そでかべ)に開いた、明かり取りの開口部のデザインにも、火灯口が用いられている。
地袋の手前の畳が台目畳(だいめたたみ。四分の三畳くらいの大きさ)のサイズになっており、そこが点前座(てまえざ。茶事における亭主が茶を点てる空間)ということになろうか。ただ、炉は切られていない。茶席としても使える空間ではあるが風炉(ふろ。夏季に利用する炉)を使う季節に限られるということか。
台目畳の左側の壁に望楼への出入口がちらっと見える。これが茶道口の代わりとなろうか。
上の間の天井は、左右非対称ゆえ複雑な形。
次の間。こちらにも、こちらの棚板の下は地袋(じぶくろ)になっている。隅には棚が配されている。
聴秋閣の平面図。
通常は大型連休と紅葉の時期にだけ公開される渓谷遊歩道が、今回は特別に公開されていた。
これもまた、三溪園を象徴する景観。
5.春草蘆(しゅんそうろ。旧九窓亭)
春草蘆の露地(ろじ。茶室の庭)。
苔むす庭に佇む、茶室。
春草蘆の傍らに置かれた、伽藍石(がらんいし)。東大寺礎石と伝わる。
にじり口から見る、春草蘆・九窓亭(きゅうそうてい)の床(とこ)。
窓から見ると亭主の出入口が左右に。右手の火灯口を用いた茶道口が、台目畳(だいめたたみ)に通じている。台目畳の手前に、炉が切られている。
亭主が茶をたてて客をもてなす点前座(てまえざ)となる、台目畳の空間。釣棚(つりだな)と、下地窓(したじまど)が見える。
平面図左側の、横T字部分が元の九窓亭(重文に指定されている部分)。上のでっぱりが床(とこ)、下のでっぱりが台目畳。
右側の大きな部分が三溪が増築した水屋と広間。両側一体で春草蘆と名付けられた。
深く苔むした、つくばいの手水鉢(ちょうずばち)。
6.旧天瑞寺(てんずいじ)寿塔(じゅとう)覆堂(おおいどう)
唐破風(からはふ)の下に細密な彫刻が施されている。桃山建築らしい華やかさ。
唐破風のすぐ下の蟇股(かえるまた)には鳳凰、その下の大きなそれには羽衣をまとった天女。
扉には人の体を持つ鳥の姿。極楽浄土にすむ鳥で、迦陵頻伽(かりょうびんが)というそうだ。
内部は、天井の壁際が曲線を描いて持ち上がったかたちの、折上格天井(おりあげごうてんじょう)。軽快な数寄屋風書院が多い三溪園内苑の古建築にあって、重厚さを醸している。
元は堂の内外に極彩色(ごくさいしき)が施された、華やかなお堂だったという。
竹林に佇む茶室・蓮華院(れんげいん)への園路に咲く、斑入りガクアジサイ。
内苑から外苑へ。
7.旧燈明寺(とうみょうじ)三重塔
中世の密教(天台宗)寺院の塔であるこの塔の建築様式は、古代以降日本で独自に発展した様式である和様(わよう)。
なお、この時代、塔はお釈迦さまの舎利を納める建物という古来からの意義よりは、いわば寺院のシンボルとしての要素が強かった、という。形式も五重塔よりは三重塔や多宝塔が多かった。
塔の組物(くみもの)は本堂よりも複雑。滑らかな曲線を描く肘木(ひじき)などが三つ組まれた三手先(みてさき)で、尾垂木(おだるき)がぬっと伸びている。
和様では軒下の垂木は四隅まで平行に並べられている(平行垂木)。なお禅宗様の場合は四隅が放射状に並ぶ(扇垂木)。
折上格天井(おりあげごうてんじょう)。この天井は格子状に組まれた格縁(ごうぶち)の中にさらに細かい格子が組まれた、折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)になっている。
中央には太い四本の丸柱(四天柱・してんばしら)。
須弥壇(しゅみだん)の上がさらに折上格天井になっている、二重折上格天井(にじゅうおりあげごうてんじょう)。すなわち、須弥壇の位置が最も尊い座、ということ。
心柱(しんばしら)は二層目よりも上にあり、見えない。このように心柱を初重(しょじゅう)天井裏で止めることは中世においては一般化していた形式、という。
須弥壇(しゅみだん)。
観心橋を、見下ろす。
三重塔の山から下りた外苑の梅園にある、臥竜梅。
ただいま、巡回中。
寒霞橋。
8.旧東慶寺(とうけいじ)仏殿
中世ではなく江戸初期の建築であり、屋根は江戸時代に描かれた絵図に見られる軒が反った入母屋(いりもや)ではなく茅葺の寄棟(よせむね)である。
分厚い茅葺屋根の軒下に見える垂木(たるき)は禅宗様(ぜんしゅうよう。唐様・からよう、ともいう)の特徴である扇垂木ではなく平行垂木。
ともあれ、全体的には禅宗様のお堂の特徴がよく現れている。
なお杉田の東漸寺釈迦堂は、鎌倉の円覚寺舎利殿に見られるような禅宗様におけるごく初期の様式が細部にわたって復原されている。
まず、お堂の内部には床板が張られていない。基壇(きだん)の上に敷き詰められた瓦が床になっている。
また、仏殿の骨格となる主屋の柱が大胆に省略されているのも、禅宗様が伝来するまでの和様には見られない特徴。なお、細い角材の柱や筋交いはあとから補強のために入れられたもの。
格天井(ごうてんじょう)。
これは中世以降の寺院建築によく見られ、特定の様式の特徴というわけではない。むしろ禅宗様では、鎌倉・円覚寺舎利殿に見られるような平面的な板張りの鏡天井(かがみてんじょう)のほうが多い。この建物は江戸時代初期の建築であり様式の折衷化が進んでいるのだろうか。
一方、壁と天井の際に見られる組物(くみもの)は、禅宗様の特徴として柱の上だけでなく柱と柱の間にもびっしりと並べられている。
須弥壇(しゅみだん)。
こうして見ると、床の瓦は斜め45度に敷かれている(四半敷。しはんじき)のがわかる。
骨格となる主屋の柱(画面左)とひさし状の裳階(もこし)を支える柱(画面右)をつなぐ梁には、禅宗様の最も目立った特徴である湾曲した海老虹梁(えびこうりょう)が用いられる。
本来の柱が省略されているところは、太い梁に海老虹梁がじか付けされている。
内部は外陣(げじん。礼拝の空間)と内陣(ないじん。仏さまの空間)の区別がなく、全体でワンフロアとなっているのも禅宗様の特徴。
祈願や祈祷よりは禅修行が主体の禅宗のお堂ゆえの構造であろうか。
屋根を支えている主屋の柱は四隅と正面、背面に立てられ側面の柱が省略されている。ここの下にも補強のためにあとから角材が二本入れられているのが見える。
壁は、それまでの和様が白塗りの土壁であるのに対して、板壁が縦にはめられている。
禅宗様と和様の床の違いがよくわかる、平面図。
火灯窓(かとうまど)。これもやがて時代が進むと宗派を超えて取り入れられていく。
9.旧矢箆原家住宅(きゅうやのはらけじゅうたく)
ここだけは常時公開されている。
合掌造(がっしょうづくり)の古民家。屋根のかたちは白川郷・五箇山に見られる切妻(きりづま)ではなく、合掌造としては珍しい入母屋(いりもや)。
三角の妻壁には火灯窓の意匠があしらわれている。近世になると、宗派を超えた様式として、また仏教建築以外の一般建造物にも、火灯窓のデザインは好んで取り入れられた。もっとも、通常の古民家ではまず考えられないのでここにもこの家の勢力を垣間見ることができる。
座敷側の、外観。
手前の座敷側には外側に張り出した出格子(でごうし)が設けられている。すぐ右隣りが座敷の玄関。さらに右奥が生活空間。
床(とこ)が設えられた、座敷の玄関。代官など身分の高い階級の客を迎えるときにのみ利用された。
座敷が生活空間よりも高く作られているため、玄関の上り口は式台(しきだい)の段差が大きい。
玄関のとなりに、広間。こちらにも床(とこ)が設えてある。向かって右隣りに、座敷が続いている。
広間・中の間・奥座敷。
豪農とはいえ、身分制度の厳しかった江戸時代にあたかも武家屋敷のような三つ間続きの座敷を備えているのだから、矢箆原家は村の相当な有力者であったことがうかがえる。
中の間に隣接して、仏間。
奥座敷。この建物の中で、最も格式が高い間。さすがに床柱(とこばしら)こそ角柱ではないが本格的な書院造となっている。
日本的美意識を表現する言葉として「真・行・草(しん・ぎょう・そう。書体でいう楷書・行書・草書に相当する)」という呼び方があるが、この床の間は「真」のスタイルをかっちりと表現している。
幕府の役人など身分が高い来客は、床(とこ)を背にして上座(かみざ)に座る。
もっとも、豪農の住宅建築であるから大名の別荘建築である臨春閣のように奥座敷が框(かまち)の分だけ高い上段の間になっているわけではない。
一間半(いっけんはん)の大きな床(とこ)に、平書院(ひらしょいん)ではなく広縁側に棚板が張り出した付書院(つけしょいん)が配されている。書院障子は中寄りの二枚が開けられていた。
付書院の広縁(廊下)側は、床(とこ)の裏側に設けられた上雪隠(かみせっちん)に通じている。そこは身分の高い来客専用のお手洗い。
床脇(とこわき)には、天袋(てんぶくろ)と、違い棚(ちがいだな)。
床柱と壁の間に見られる明り取りの開口部は狆潜り(ちんくぐり)といって、床脇に飾られる調度品を明るく見せるためのもの。
欄間(らんま)は書院造において一般的な筬欄間(おさらんま。細い棒材を縦にびっしりと並べたデザイン)ではなく、扇の透かし彫りが施された欄間。かっちりした書院とはいえお武家さんの書院ではないので洒落た遊び心が見られる。
天井はこの時代の名主・庄屋の建築であればありうる竿縁天井(さおぶちてんじょう)。
一方、こちらは生活空間。
板敷の客間には囲炉裏(いろり)がある。村の有力者が集まるときは、ここが利用されていた。
柱時計の架かっている壁の、時計に向かって左側は「ちょうだ」に通じている。「ちょうだ」とは帳台(ちょうだい。寝室)のことで、壁(戸)が書院造に見られる帳台構え(ちょうだいがまえ)の意匠になっている。
客間のとなりに台所・居間。こちらにも囲炉裏がある。家人の生活空間。
この建物には土間(どま)の竈(かまど)というものがない。横浜市域に点在する近在の古民家では土間にかまどが設けられているが、この建物があった地方(飛騨地方・荘川)では専ら囲炉裏で煮炊きがなされていた、ということ。
水屋(みずや)。水を舟に引き、ここで料理の準備が行われた。
急勾配の階段で二階へ上がる。
生活用品や農機具が展示されている。
茅葺の大きな屋根は、囲炉裏の火を絶やさず屋根裏をいぶし続ける手間がかかる。
生活空間の玄関に相当する、「うまや」の土間。
10.旧燈明寺(とうみょうじ)本堂
こちらは密教(天台宗)のお堂(のちに日蓮宗に改宗)であるが、若干の宋様式(禅宗様)も加味された中世における和様(わよう)の特徴がよく現れている。
なお、鎌倉時代に始まった日蓮宗は法華経を本義とするところが天台宗と趣意をひとしくしているゆえ建築の形式も両者は似たものとなっている、という。
入母屋(いりもや)造・流れ向拝(こうはい。せり出した屋根)付の屋根。
向拝の柱と壁の間によく見られる海老虹梁(えびこうりょう)は、この建物にはない。
こちらは様式の折衷化が進んだ近世以降の神社仏閣建築によく見られる、向拝の海老虹梁。
組物(くみもの)は禅宗様とは異なり、柱の上だけに見られる。
堂正面の窓は、連子子(れんじこ。縦の棒材)を用いた連子窓(れんじまど)。火灯窓と異なり、直線的な四角い窓。
床板が張られた堂内の、手前は外陣(げじん。礼拝の空間)。菱格子欄間(ひしごうしらんま)・格子戸で仕切られた奥は、内陣(ないじん。仏さまの空間)。本来ならば、内陣の中に参拝者は立ち入ることはできない。本堂としての役割を終えたこの建物であるからこそ、内部を見学することが叶う。
平面図を見ると、和様と禅宗様の違いがよくわかる。なお、禅宗では本堂に相当する建物を仏殿ということが多い。
外陣の天井部。太い梁がまっすぐに伸びる。内陣の天井の延長である板張りと、その周りに庇(ひさし)の垂木(たるき)が見える。中世の和様建築では参拝者が滞留する外陣の空間は広くとられている。
海老虹梁のように湾曲していない、まっすぐな梁。
須弥壇には燈明寺十一面観音菩薩立像の複製。
内陣の天井部は、梁などの構造材をそのまま見せ、その上に天井が見える組入天井(くみいれてんじょう)であるが、この建物では天井板はよく見られる格天井(ごうてんじょう)のような格縁(ごうぶち)ではなく禅宗様に見られる鏡天井のような板になっている。
中世以降は寺院建築には梁の下に格天井(ごうてんじょう)が張られることも多いが、このお堂はそれよりも時代が遡った様式をとっている。
重文建築めぐりの後は、花菖蒲が最盛期のしょうぶ園へ。
半夏生(ハンゲショウ。半化粧)も花を付けた。もうすぐ夏至。
八つ橋から、大池越しの鶴翔閣(旧原邸)。
南門からいったん園外へ。
空が晴れ渡ってきたので、かつての海側の断崖を見に行く。
南門から、再入場券を受け取っていったん園外へ。
現在の南門付近は、かつては海に向かって大きく開けた谷だった。海が埋め立てられてコンビナートが林立したため、その目隠しのために築山が築かれた。
三溪園南門。
三之谷(さんのたに)の地形をもとに原富太郎は雅号を「三溪」と名乗り、富太郎の庭園が三溪園となった。
かつて、オレンジ色に輝くこの断崖を黒船に乗ったペリー一行は「マンダリン・ブラフ」と呼んだ、という。
南門を出てすぐの本牧(ほんもく)市民公園には、大きな睡蓮池が広がる。納涼台に代わって現在あるのは、睡蓮池の上を渡るコンクリート桟橋。
それでも南門の左右は、昔のままの断崖。
向かって右側の崖上には外苑の展望施設・松風閣がある。
そしてさらにその奥、旧矢箆原家住宅の建つ奥の高台にかつては六角堂(望仙亭・ぼうせんてい)も建っていた、という。
外苑を撮ったこの写真の建物うち、今も残るのは横笛庵。待春軒は茶屋に名前のみ残されている。
現在、崖下にあるのは本牧市民公園内の上海横浜友好園。横浜市と上海市の友好都市締結15周年を記念して、平成元年(1989)開園した。
池の中に建つのは、湖心亭。かつての六角堂が、姿を変えて崖上からここに下りてきた、と見えなくもない。そういえば三溪の義祖父・善三郎が建てた原家別荘であった旧松風閣は細部のデザインに中国趣味を取り入れた建物であった、という。
玉蘭庁。
湖心亭、玉蘭庁とも屋根の軒の反りがとても大きい中国の様式。かの地の職人が建築に携わっている。
庭園の様式は、江南様式。江南とは長江(揚子江)の南の意味で、上海市もその一帯に位置する。
中国の南北朝時代、江南地方にも王朝が成立することで、華北地方に比べて山水(さんすい)の風光明媚な江南地方には自然の借景を巧みに取り入れた独自の庭園文化が次第に発展していった、という。
向かって左側の崖。大きな池越しに断崖を眺めると、かつてここが海だったことの名残りを感じさせる。
この庭園もまた、背後の断崖を見事に借景として取り入れている。
夏至に近い頃の昼下がりでこの色合い、もしも秋冬の夕刻にここを訪れれば、西日を浴びてオレンジ色に照らされるであろう見事な「マンダリン・ブラフ」が、きっと見られるのだろう。
先ほど受け取った再入場券で、再び三溪園内へ。
青空に映える三重塔。
観心橋と、旧燈明寺本堂。
梅雨の合間に、皐月晴れが広がった。
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