まちへ、森へ。

旧東海道、戸塚から藤沢へ

3.旧住友家俣野別邸と旧モーガン邸跡

 

2.戸塚宿から大坂、原宿、影取へはこちら。

 

 

旧東海道を戸塚宿から藤沢宿に向けてのまち歩き。戸塚の影取(かげとり)、東俣野(ひがしまたの)と過ぎて国道1号・藤沢バイパスと東海道旧道の分岐を旧道沿いに進んできた。ここで旧住友家俣野別邸を観に行くため、スズキの販売店の角を右に入っていく。

 

 

 

俣野別邸庭園へのアプローチ。

 

 

 

突き当りが俣野別邸庭園の内苑。大きな案内板が出ている。

 

 

 

案内板。外苑の先行公開(平成25・2013)に続いて、俣野別邸の建つエリアが内苑として整備された。

 

 

 

正門。

 

 

 

旧住友家俣野別邸。現在の建物は旧建物が平成21年(2009)3月に不審火により焼失した後、平成28年(2016)3月に再建された建物。

 

旧建物は昭和14年(1939)の築。施主は住友家第十六代吉左衛門(友成)、設計は佐藤秀三。

 

当時の住友家本邸は住吉(兵庫県住吉村。現神戸市東灘区)にあり、関東には東京の麻布別邸、そして横浜市戸塚区(合併前は旧鎌倉郡大正村)に俣野別邸が建てられた。
財閥創業家の生活が敗戦により激変する以前、戦前の頃までは関東に滞在の折には平日を麻布で、そして休日は欧米流に田園生活(カントリーライフ)を満喫すべく俣野で過ごしたのだろう。俣野別邸庭園の外苑は境川の河岸段丘の下段にあたるエリアで現在は公園として整備されているが、当時は農場だったという。

 

 

 

邸内の展示室に展示されている、旧建物の正面。

 

旧建物は平成16年(2004)7月に、昭和期の住宅建築としてはおそらく初めてとなる国の重要文化財に指定された。しかし一般公開に向けた整備途上の平成21年(2009)3月に原因不明の不審火により焼失。その大半を焼失してしまったため、平成23年(2011)に重文指定は解除された。
weblio辞書にアーカイブされている指定当時の国指定文化財等データベース(文化庁)には「旧住友家俣野別邸は、住友営繕の系譜をひく佐藤秀三の代表的作品であり、昭和前期モダニズムの影響下における、ハーフティンバー・スタイルを基調とした洋風折衷住宅建築として重要である。また、食堂を中心としたコンパクトな平面構成に特徴があり、大邸宅建築における平面計画の変化が示されている点にも歴史的意義が認められる。郊外住宅の在り様を物語る屋敷地とともに、保存を図る」とあった。

 

 

 

主屋正面二階の外壁は、柱や梁を外壁の表面にのぞかせるハーフティンバー様式。ドイツ北部やイギリス、北欧などアルプス以北のヨーロッパで目にする建築デザイン。

 

 

 

事務棟。屋根は一見してスペイン(スパニッシュ)瓦を用いたスパニッシュ様式かと思ったが、館内展示室のモニター解説画面によると、用いられている瓦は「S字瓦」(スペイン瓦を基にして日本で考案された洋瓦)ということだった。
外壁は下見板張り(したみいたばり)。この下見は板の下辺と上辺を重ね合わせないドイツ下見のようだ(館内のモニター解説画面では説明文にイギリス下見のそれが用いられていた)。

 

 

 

車寄せ。洋館によく見られるアーチを用いた四角張ったポーチではなく、屋根と一体化した庇を大きく張り出している。その姿はどこか、社寺建築の「流れ向拝(こうはい)」を思わせる。

 

邸内見学は有料。玄関に入って脇の控室で受け付けを済ませる。

 

 

 

扉を開けると、そこは吹き抜けの空間が大きく広がる階段ホール。

 

 

 

階段には踊り場が設けられている。

 

 

 

二階展望室(展示室1)。洋館に見られるベイウィンドウ(張り出し窓)よりもさらに滑らかなフォルムの半円形を大きく配列した窓は、この建物を象徴する空間。

 

 

 

広々とした芝生の庭を見下ろす。戦前期は華麗なる一族がガーデンパーティーに興じていたのだろう。

 

 

 

北丹沢方面。この日、富士山は霞んでいて見えなかった。

 

 

 

入場券の半券。空気の澄んだ冬場であれば、このように見える。

 

 

 

暖炉のスペースも復元されている。

 

 

 

上段(じょうだん)の間を設けた数寄屋風(すきやふう)書院のような、あるいは中柱(なかばしら)を立てた茶室のような、フローリングの居間(展示室4)。天井は船底天井になっている。ここは和の寛ぎをオフタイムに取り入れた和洋折衷の空間。

 

窓の外にはバルコニー。

 

 

 

バルコニー。左手に見える南棟の瓦は全てオリジナルのものが再利用されているとのこと。不審火により大半を焼失してしまった旧俣野別邸であるが、一般公開に向けた整備途上だったため別途保管されていたであろう部材などが残っていたのは幸いだった。

 

 

 

水回りの配置は完全に洋式。バスタブで体を洗うタイプで上にシャワーがついている。ドボンと浸かってフー、という湯舟ではなかったのだな。外国人ゲストを意識したのだろうか。

 

 

 

二階廊下。天井は屋根の勾配そのままに垂木(たるき)をのぞかせた、ちょっと山小屋風の田園郊外住宅にふさわしい雰囲気。

 

 

 

廊下の窓から見下ろす車寄せ。

 

 

 

一階食堂。窓の外はバルコニー。新型コロナ禍の2020年10月現在はバルコニー(テラス)のみがオープンカフェ「ひだまりガーデン」として利用されている。

 

 

 

花鳥の彫刻があしらわれた食堂の天井。カントリーライフスタイルにふさわしい遊び心が随所にちりばめられている。

 

 

 

居間。ヘリンボーン(ニシンの骨の意。和名では杉綾織・すぎあやおり)模様のフローリングが張られている。現代ならばクラシックな感じだが昭和初期の日本という時代背景を思えば、まさしくモダニズムだ。

 

 

 

居間に再現された暖炉のスペース。

 

 

 

居間の照明。オリジナルのものが保管されており無事だった。スリットの様な透かし模様は昭和初期に流行したアールデコの意匠とのこと。こういった模様もアールデコの特徴の一つと分類されているようだ。

 

 

 

間仕切りの建具にも照明と同様な意匠が見られる。

 

 

 

居間の向こうはサンルーム。

 

 

 

サンルームからの庭。

 

 

 

食堂から南棟へ。庭に面した廊下は和風住宅を意識した広縁になっている。

 

 

 

和室。「付書院(つけしょいん)」が設けられている。

 

 

 

和室の隣りに洋室。明らかに和室との連続性を意識したことが感じられる。

 

 

 

洋室には床の間の床脇(とこわき)に見られるような「違い棚」。右側の壁は押板(おしいた。床の間の原型)を思わせる意匠。和洋折衷がここにもある。

 

 

 

南棟のサンルーム。

 

 

 

サンルームからの庭。

 

 

 

居間(展示室5)。障子の間仕切りが和風。

 

 

 

ガラスブロックの窓。

 

 

 

奥に見える部屋には蒸気を通したパネルで温めるセントラルヒーティングに用いられた、スチームヒーター。この部屋は外の作業から戻ってきたときの乾燥室にでも使っていたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

広縁からの庭の眺め。手前に設えられた藤棚と睡蓮の水盤。

 

 

 

食堂・居間の隣りの階段ホールから見る玄関の床。木製タイルが敷き詰めてある。

 

 

 

続いて事務棟へ。廊下の左手奥にはグッズ販売の窓口がある。

 

 

 

事務棟の和室。

 

 

 

こちらは純和風の広縁。

 

 

 

広縁に面した、坪庭。

 

 

 

最後に書庫へ。古民家のような太い梁が用いられている。

 

 

 

書庫は旧建物の中で唯一、火災を免れて残った部分とのこと。

 

 

 

見学を終了し、通用口から外へ。

 

 

 

事務棟の和室部分の外観。光線の加減で葺かれている瓦が洋瓦のS字瓦であることがわかる。

文化庁国指定文化財等データベースの過去データでは構造形式の記載が洋館にもよく用いられた日本瓦である桟瓦(さんがわら)葺となっていたが、この建物の大半はS字瓦のようであった。邸内の解説モニターでは南棟の瓦はオリジナルのS字瓦を用いておりその他の瓦もオリジナルから型を起こして復元したとあったので、旧建物が桟瓦だけで葺かれていたということではないようだ。少なくとも現在の外観はスパニッシュスタイルの屋根を持つといっていいだろう。もっともS字瓦は洋瓦のスペイン瓦を基にした(いわば洋瓦風の)日本瓦であるから和風である、という論理も成り立ちうるかもしれない。

 

 

 

芝生の庭へ。

 

 

 

主屋の背面。二階切妻屋根の軒桁を斜めに支える筋交いのような部材が外観のアクセントになっている。

 

 

 

藤棚のある南棟。

 

 

 

展示室に展示されていた、旧建物の背面。

 

国の重要文化財に指定された建物は焼失してしまったが、再建された建物は僅かながらでも残された部材を用いて復元された。日本の文化財保護行政のポリシーに照らせば再建された建物は指定文化財にはならないのであろうが、施主、建築家が目指した精神性は改めて形となって蘇った。その遺伝子は脈々と受け継がれているといってもいい。

 

 

 

俣野別邸庭園を後にして、旧モーガン邸跡に向かう。ここは「鉄砲宿」信号とバス停付近。

 

 

 

バス停そばの、横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図。

 

 

 

歴史案内板の、鉄砲宿と影取池の昔話。人々それぞれに伝承されてきた昔話は細部に様々な違いがあるも、おおむね次のように伝わっている。

 

昔、遊行寺近くの大鋸(だいぎり)の名主である森家が大蛇を飼っていた。ところがこの大蛇、何しろ大食いだったのでたまりかねた森家は大蛇を離れた池に捨てることにした(大蛇が気遣って自ら去った、という伝わり方もある)。捨てられた大蛇は思案の末、池の水に映る旅人の影を取って米や酒を巻き上げることにした。旅人が池の傍らに来ると影が消えて所持品が無くなるのを村人は不思議に思っていたが、池の大蛇の仕業であると突き止め大蛇を始末することにした。しかし大蛇は鉄砲を向けられると姿を隠してしまう。
そうしたある時、江戸から鉄砲撃ちの名人がやって来た。村人の頼みで名人は大蛇を仕留めようとするも上手くいかないでいたところ、大蛇が森家で「おはん」と呼ばれていたことを村人から聞き及び、池のほとりで「おはん」と声を掛けた。大蛇は懐かしい主が迎えに来たと思い込み、姿を現してしまう。そこを名人に仕留められてしまった。

 

「影取池」は大蛇が行く人の影を取った池、「鉄砲宿」は名人が投宿した地と伝承されている。影取池の場所は近年の研究成果によると影取諏訪神社の裏手に残る谷筋の雑木林のあたりではなかったか、とされているようだ。
参考「戸塚の歴史散歩」「影取池と大鋸(藤沢市教育文化センターウェブページ)」

 

 

 

戸塚区から藤沢市に入る。

 

 

 

大きな桜の木と理容店のポールが立っている角を左に入っていくと、旧モーガン邸跡。 角には藤沢方面から歩いてきた場合なら目に入る小さな案内も立っている。

 

 

 

突き当りには屋敷林。

 

 

 

旧モーガン邸跡の外門。

 

 

 

J.H.モーガンは、大正から昭和初期に日本で活動したアメリカ人建築家。アメリカの建築会社の社員として来日、丸の内ビルなどを手掛けたのちに独立し東京に事務所を構えた。
関東大震災後の大正15年(1926)には横浜に事務所を移転。横浜で数々の建築を手がけた。モーガン建築で現存するものとしては山手111番館(旧ラフィン邸)、山手聖公会、べーリックホール、根岸競馬場一等馬見所(一等スタンド)などがある。また閉館したホテルモントレ横浜(山下町。旧ザ・ホテルヨコハマ)の敷地に建っていたアメリカ領事館、関東学院中学校旧本館(南区三春台。平成28・2016年に解体。外観を復元して再建される予定)もモーガンによる建築。

 

藤沢市大鋸(だいぎり)の地に建てられた旧モーガン邸は昭和6年(1931)築。日本人女性の石井たまのと結婚し文字通り日本に(山手外国人墓地に)骨を埋めたモーガンの邸宅は、オレンジ色の桟瓦を葺いたスパニッシュスタイルの外観を持ちつつも内部は床の間のある部屋などで構成された和洋折衷住宅だった。

 

幾人かの人の手を経たのち建物敷地の保存のために(財)日本ナショナルトラストが取得し、修復後に一般公開されることになっていたが平成19年(2007)、20年(2008)の相次ぐ不審火により焼失。現在は再建に向けた活動が行われている。

 

 

 

現存する中門の画像。

旧モーガン邸、旧住友家俣野別邸が焼失した2000年代は「失われた20年」と称される時代の真っただ中だった。そのような時代のなか、記憶に残っているだけでも大磯の旧吉田茂邸(こちらは平成28・2016年に再建され翌年より一般公開されている)、金沢区富岡東の旧川合玉堂(日本画家)別邸が不審火による焼失の憂き目にあっている。形あるものの儚さとは言え、これらの近代建築は閉塞感の漂う殺伐とした世の中で余りにも残念なことになってしまった。

 

 

 

旧モーガン邸跡を後にして旧東海道を藤沢方面に進んでいくと遊行寺坂上バス停。遊行寺坂を下り始めれば藤沢宿の入口・江戸見附跡は近い。
藤沢宿をたどり歩く前に藤沢橋まで下り、遊行寺(時宗総本山清浄光寺)惣門へ向かう。

 

 

4.時宗総本山遊行寺

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