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旧東海道、戸塚から藤沢へ


2.戸塚宿から大坂、原宿、影取

1.戸塚宿界隈、先人たちの縁はこちら。



戸塚宿・上方見附を後にするとすぐに始まる、旧東海道の大坂(おおさか)。




坂は延々と続く。




「戸塚警察署下」の信号。




信号を過ぎたら次の横断歩道の一つ先を右手に入り、箱根駅伝の戸塚中継所に寄り道。




箱根駅伝のコースとなるのは東海道の新道。復路8区→9区(1月3日)の戸塚中継所はトヨタカローラの販売店。




その名もずばり「カローラ神奈川 戸塚中継店」。




こちらは往路2区→3区(1月2日)の戸塚中継所。古谷商事の駐車場に接してシウマイ弁当の崎陽軒売店やラーメン店のカミカゼが軒を連ねている。




釣具店タックルベリーの店名も「戸塚中継店」。




旧東海道に戻り、大坂上で反対車線へ。




坂はまだまだ続く。




やがて旧道と新道が合流。




新道大坂上。街路樹のケヤキも色づき始め。




大坂松並木の案内板。




以前、戸塚の松並木を描いた浮世絵(狂歌入り東海道)の比定を「不動坂ではないか」としてみたのだが、こうしてみるとやっぱり迷ってしまう。

定説が大坂上の付近というのであれば、それでいい。それでも敢えてあれやこれやと妄想するのもまち歩きの楽しみの一つ、ということで。




沿道に植えられた現代の松は伸びた枝が密になっている。松の手入れはその手間が大変だ。




昭和中期ごろの大坂上付近の松並木。旧道(戸塚駅方面)分岐の青看板の位置は現在とは異なるが、おそらく汲沢町第二歩道橋あたりから見た逆方向(東京方面)ではないだろうか。
画像出典「戸塚区史」




「西横浜国際総合病院前」バス停の隣りにある「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」。




碑石の由緒。

「お軽勘平(おかる かんぺい)戸塚山中道行(とつか やまなか みちゆき)の場」とは天保四年(1833)、江戸河原崎座にて上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」三段目の裏として付け加えられ初演された清元(きよもと。江戸浄瑠璃の一派)による所作事(しょさごと。舞踊劇)「道行旅路の花聟」(みちゆき たびじのはなむこ。「落人」という通称がある)の一場面。

主君の切腹というお家の一大事に腰元のお軽との密会に耽っていた早野勘平は主君への不忠義を恥じ死んで詫びようとするも、お軽に促されてひとまずお軽の故郷である山崎(京都)に向かうことにする。
鎌倉から落ちゆくお軽と勘平が桜や菜の花咲く戸塚の山中で展開する舞踊劇が江戸庶民に大人気を博し、同時に戸塚の名を世に知らしめた。
(忠臣蔵は舞台の設定を江戸から南北朝期の鎌倉に変えている。何故かって、江戸城松の廊下の刃傷沙汰を堂々と芝居にしたら、お咎めどころでは済みませぬから)



「忠臣蔵三段目」香蝶楼豊国画



「書画五拾三駅相模戸塚落人之追手」芳虎画

戸塚山中道行の場、お軽と勘平を追ってきた鷺坂伴内(さぎさか ばんない。高師直(吉良上野介のカモフラージュ)の家来でお軽に惚れていた)が二人に追い付いた場面。

画像出典・二点とも国立国会図書館デジタルコレクション




枯れてしまった松もちらほらと目につく。




日本橋から46kmのキロポスト。




吹上(ふきあげ)。元の歩道を迂回する。




高速横浜環状南線・戸塚インターチェンジの建設工事に伴う道路の「切り回し」が完了している。




吹上バス停。




移動された吹上交差点の工事現場フェンス越しに横浜薬科大学の図書館棟(旧横浜ドリームランド・ホテルエンパイヤ)がちらりと見える。




工事が進む、横環南(よこかんみなみ)戸塚IC。




原宿一里塚跡の案内柱。

江戸から11番目の一里塚(およそ44km。現在の国道1号と旧東海道では道筋が重ならないところも多いので先ほどのキロポストとは距離が合わない)。「吹上の一里塚」とも呼ばれた。




浅間(せんげん)神社入口の案内柱。




道を隔てて、浅間神社の参道鳥居。画面右方向の奥に参道が延びていく。道路に対して参道の付け方が今一つ不自然なのは、このお社が家康による旧東海道の建設よりも先にこの地にあったからであろう。

区が整備している歴史案内柱には浅間神社は戦国時代の永禄年間(1558〜1570)の頃に当時盛んだった富士浅間信仰をもとに勧請されたとあり、境内には樹齢600年を超える椎の木が多数あるとの記述がみられる。鳥居の背後の木もかなり大きい。
樹齢600年といえば相当なものなのだが、樹齢に関しては市の名木古木指定リストによると浅間神社のスダジイは樹齢240年のものが六本となっている。案内柱の数字は伝承などの情報が混じったのだろうか。なお、600年越えのシイとなると戸塚では吉田町の東峯八幡大神(とうのみねはちまんだいじん)のスダシイ(640年)が名木古木リストに載っている。




原宿町第二歩道橋の脚元に大運寺の案内柱。




道を隔てて、大運寺(だいうんじ)。

浄土宗唐澤山大運寺は慶長元年(1596)の創建。これは家康による東海道の新道建設のすぐ後の頃となる。
天正18年(1590)の小田原合戦の後に関東に移封された家康が北条氏の江戸小田原往還のうち藤沢〜保土ヶ谷の区間で旧道に代わる新道の建設に着手したのは天正19年(1591)。これは支城の玉縄城(たまなわじょう)を経由させる必要が無いこと、旧道(遊行寺〜玉縄城〜笠間〜小菅ヶ谷小学校付近〜南舞岡〜永野小学校付近〜南高校〜最戸〜弘明寺〜保土ヶ谷)では秀吉との万が一に備えた大軍の移動が不可能だったことなどが理由として考えられる。

案内文には「境内にはかつて観音堂、庚申堂がありました。また境内にあった弘法池は、今は大正団地内にあり、池の中の窟にあった弘法大師作といわれる石地蔵は現在本堂に移され、その複製品が窟に祀られています」とある。昔は団地の敷地も境内地だったのだろう。




歩道橋からの大運寺。




国道1号は原宿交差点の手前でアンダーパスとなる。




原宿交差点。環状4号と交差する。

環状4号を右折し大正中学校地の側を奥へと進むと「ウィトリッヒの森」。深谷交差点から宇田川沿いに下りて遡ると「まさかりが淵市民の森」
左折して田谷方面へ進むと「田谷の洞窟」と呼ばれる田谷山定泉寺・瑜伽洞(ゆがどう)




「聖母の園入口」付近の松並木。




浮世絵さながらの「影取の一本松」がすっと立っている。




絵になる立ち姿。旧街道松並木の松はかくありたい、と思わせる。
ここでコンビニの角を左折して、ちょっと寄り道。




コンビニの角から200mほど進むと、湘南クッキー自動販売機がある。




クッキーの自販機とは、ちょっと珍しい。湘南クッキーは賞味期限まで数か月のアウトレット商品を自販機で売っている。




試しに、お得な四種(ピーナッツキャラメルとバター、アーモンド入りココア、アーモンド入りバター、バターとココア)の詰め合わせ(300円)と酒のつまみみたいな変わり種の「じゃこ瓦」(100円)を購入。
お子さん受けしそうな可愛らしいパッケージデザインの割にはコーヒー・紅茶の時間に合いそうな、風味豊かで(特にバター味)ちょっと本格的な味わい。




東海道に戻り、影取町の交差点。

左へ行くと立体交差の関谷インターを経て玉縄城(たまなわじょう。戦国時代の小田原城の支城)城下の城廻(しろめぐり)、日比谷花壇大船フラワーセンター(旧称県立フラワーセンター大船植物園)方面。




左側は側道のような東海道旧道。
真ん中はこの先でアンダーパスとなる国道1号藤沢バイパス、右側はこの先でアンダーパスの上をまたぐようにして再び旧道沿いに合流する。




諏訪神社。




案内柱によると、創建年代は不詳だが明治40年(1907)に山谷(さんや)仲町から当地に移転し周辺が鉄砲宿と呼ばれていたことから武神の諏訪大明神を勧請した、とある。
神奈川県神社庁のウェブサイトには「当地字名を鉄砲宿と称し、鉄砲の練習場であったのに因み、武神を勧請したものと伝えられる」とある。

そこで山谷仲町の地名を手掛かりに「新編相模国風土記稿 巻之百十四 鎌倉郡之三十六 西見庄 山谷新田」にあたってみると、この辺りは村岡郷玉縄(たまなわ)領に属し城廻(しろめぐり)村のはずれだったが江戸前期の元禄の頃に藤沢宿や玉縄領の人々により新田開発が行われた、とあった。そして山谷新田の小名として影取や中町の名、村の鎮守として諏訪社(片瀬村常立寺持)が見られる。

玉縄といえば小田原北条氏の初代早雲の頃からの支城である玉縄城。城廻は玉縄城下の工匠(玉縄番匠)の居住区であった。玉縄城には城内の最も高い所に早雲により東国武人の信仰が篤かった武神の諏訪大明神が勧請されている。これらと併せて推測すると、山谷仲町に鎮座していた頃の諏訪神社は小田原北条氏あるいは玉縄北条氏配下の地侍の流れをくむ一族によって新田開発の後に勧請されたのではなかろうか。




諏訪神社のクスノキ。




市の名木古木リストによると樹齢100年とやや若いが、幹回り(目通周)4.0mの堂々たる大木だ。




藤沢バイパスのアンダーパス。




アンダーパス沿いから分かれて旧道を進む。




スズキのお店の先を右手に入っていくと今回のまち歩きの目的地の一つ、復元された旧住友家俣野別邸の建つ俣野別邸庭園。ここで俣野別邸庭園に立ち寄り邸内を見学していく。

3.旧住友家俣野別邸と旧モーガン邸跡




旧東海道をさらに進むと「鉄砲宿」信号とバス停。




バス停そばの、横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図。




歴史案内板の、鉄砲宿と影取池の昔話。人々それぞれに伝承されてきた昔話は細部に様々な違いがあるも、おおむね次のように伝わっている。

昔、遊行寺近くの大鋸(だいぎり)の名主である森家が大蛇を飼っていた。ところがこの大蛇、何しろ大食いだったのでたまりかねた森家は大蛇を離れた池に捨てることにした(大蛇が気遣って自ら去った、という伝わり方もある)。捨てられた大蛇は思案の末、池の水に映る旅人の影を取って米や酒を巻き上げることにした。旅人が池の傍らに来ると影が消えて所持品が無くなるのを村人は不思議に思っていたが、池の大蛇の仕業であると突き止め大蛇を始末することにした。しかし大蛇は鉄砲を向けられると姿を隠してしまう。
そうしたある時、江戸から鉄砲撃ちの名人がやって来た。村人の頼みで名人は大蛇を仕留めようとするも上手くいかないでいたところ、大蛇が森家で「おはん」と呼ばれていたことを村人から聞き及び、池のほとりで「おはん」と声を掛けた。大蛇は懐かしい主が迎えに来たと思い込み、姿を現してしまう。そこを名人に仕留められてしまった。

「影取池」は大蛇が行く人の影を取った池、「鉄砲宿」は名人が投宿した地と伝承されている。影取池の場所は近年の研究成果によると影取諏訪神社の裏手に残る谷筋の雑木林のあたりではなかったか、とされているようだ。
参考「戸塚の歴史散歩」「影取池と大鋸(藤沢市教育文化センターウェブページ)」




戸塚区から藤沢市に入る。




大きな桜の木と理容店のポールが立っている角を左に入っていくと、旧モーガン邸跡。




遊行寺坂上バス停。遊行寺坂を下り始めれば藤沢宿の入口・江戸見附跡は近い。

藤沢宿をたどり歩く前に藤沢橋まで下り、遊行寺惣門から遊行寺へ。


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