まちへ、森へ。

旧東海道権太坂から戸塚宿へ

2.境木地蔵尊から焼餅坂、品濃坂、不動坂を経て戸塚宿江戸方見付へ

 

保土ケ谷二丁目・東海道旧道から権太坂を経て境木地蔵尊へはこちら

 

 

境木(さかいぎ)地蔵尊前の信号。武蔵国(保土ヶ谷)と相模国(戸塚)の境の地。標高およそ72m。

 

 

 

信号から旧東海道・焼餅坂へ。
旧道の東海道は新道の東海道(国道一号)と比べると、権太坂の先も細かな起伏が連続する。

 

 

 

木々が生い茂り、権太坂と比べると往時の雰囲気をまだまだ残している焼餅坂。マンションの側は歩道が整備され、新たに松が植えられている。

 

 

 

焼餅坂(牡丹餅坂)の案内板。 

 

音だけ聞くと「んーっ、もうっ」のやきもちみたいだが、焼餅坂の名の由来は旅人が休憩する茶屋が軒を並べ焼餅を売っていたことによる、とある。
こちらの絵は、立祥(二代広重)作「東海道五十三駅 戸塚 焼餅坂」。

 

案内板に見られる2000年ごろまでの写真では、道幅も往時のそれに近い。切通として切り下げられた崖が道の両側に迫り、木々が鬱蒼と生い茂っていた。都市部の古道が狭い道幅のままその姿を保ち続けることは、やっぱり難しい。

 

 

 

五雲亭貞秀「末広五十三次 戸塚」。画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

 

大名行列がぞろぞろと焼餅坂を下っていく。画面には「境木俗ニやきもち坂」と記されている。

 

 

 

広重の「東海道五十三次細見図会 保土ヶ谷」(部分)。画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

 

帷子橋から元町(保土ヶ谷宿)、権太坂、境木。その先は品濃坂、平戸、柏尾、大山道分岐あたりまでを俯瞰した図が描かれている。

 

 

 

坂を下りきったあたり、目の前には東戸塚・オーロラシティのタワー。

 

 

 

坂を上り返す。この坂は新編相模国風土記稿・巻之百一鎌倉郡巻之三十三によれば「谷宿坂」。資料によっては品濃一里塚を挟んで谷宿坂と向こう側の坂ともに「品濃坂」とされている。

 

添え木で支えられた大きな古木。屋敷稲荷ともども祀られているらしく、小さな赤い鳥居が見える。こういった何気ない風景が、古道を風情豊かにしている。坂の奥にはこんもりした緑も見える。

 

 

 

坂を上りきったあたりの、品濃(しなの)一里塚。こちらは西の品濃側の塚。

 

 

 

道を挟んだ反対側にも大きな塚。こちらは東の平戸(ひらど)側。

 

街道の両側に往時の塚がそのまま残されているのは、県内ではここだけ。都市化が進む神奈川県内の旧東海道にあって、往時の塚が対のまま、まさに奇跡的に生き残った。

 

 

 

案内板。

 

 

 

道を回り込んで、平戸側の一里塚へ。塚は小さな公園(一里塚公園)になっている。
向こう側のこんもりとした緑は品濃側の塚。そちらもやはり公園となっている。

 

 

 

塚の向こうにそびえるタワー。公園で遊ぶちびっ子たちにも、気にも留めなかったこの小山が江戸時代から生き残る一里塚であることを意識する日が、いつかきっと来るのだろう。

 

 

 

旧東海道へ戻り、先へと進む。

 

 

 

東戸塚駅・オーロラシティに通じる、市道環二を跨ぐ陸橋。小さなお堂は福寿観音。

東戸塚駅は昭和55年(1980)、当地の実業家・福原政二郎の尽力により開業した。東戸塚駅一帯の街は福原氏を中心とした民間活力によって開発されている。福寿観音はそうした街づくりの実現に対する感謝の思いを込めて建立された、とされる。

 

 

 

旧街道の反対側に広がる、平戸(ひらど)果樹の里。一帯は横浜市の農業振興策である農専地区(農業専用地区)の指定を受けている。地域の果樹農家により育てられた「浜なし」のもぎ取りを体験できる。

 

 

 

標高60m前後の尾根筋となるこのあたりは、右手(西側)の建物が切れるあたりならばどこからでも富士、大山が望める。

 

 

 

分岐まで来たら、右へ下っていくと旧東海道の続き。

 

 

 

植え込みに埋もれるように案内板がある。

 

旧東海道を先へと進む前に、左手へ折れて平戸果樹の里をもう少し歩く。

 

 

 

尾根の西側に開ける展望。富士山、大山、丹沢を一望。

 

 

 

広重の「五十三次名所図会(竪絵東海道)六 戸塚 山道より富士眺望」。画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

画面中央、右から左へと続く尾根道。「藤沢へ一里三十丁」とあるので戸塚宿から原宿・影取のあたりかとも思えるが、「ムサシ サガミ ノサカイ」とも記されている。そちらを重視すれば、おそらくは境木から品濃・平戸あたりの尾根筋となるここまでの何処かからの絵であろう。

 

 

 

果樹の里の向こう、超高層タワーの林立する東戸塚の市街地。そして、冠雪し始めた富士山と大山、丹沢。その右奥にはうっすらと甲斐の大菩薩連嶺の南端も見える。 パノラマ拡大版 

 

 

 

案内板まで戻り、少しばかり下っていくと「品濃坂上」の案内板が出ている。

 

 

 

案内板には、松並木だった明治初期の品濃坂の写真。

 

 

 

歩く人は市道環2を跨ぐ歩道橋へ。現代の品濃坂は幹線道路の頭上を橋渡しされた街道が続いていく。自転車ならば坂を下りてすぐの環2平戸(かんにひらど)の信号から反対側へ。

 

 

 

歩道橋を左へ下りたところ。すぐ右手に続く、旧東海道。

 

 

 

案内板も出ている。

 

 

 

品濃坂を下っていく。

 

 

 

坂を下りきり、「坂下」の陸橋をくぐる。標高22mほどまで下ってきた。この先、旧東海道は戸塚宿内まで、柏尾川(かしおがわ)およびその支流に沿って標高20m〜15mほどの低地をゆく。

 

 

 

川上川(かわかみがわ。平戸永谷川(ひらどながやがわ)・柏尾川(かしおがわ)・境川支流)に沿って、先へ。

 

 

 

東戸塚駅入口の信号。交差点の向こうへと旧街道は続く。

 

 

 

交差点にある海道橋の案内板。海道とは東海道の海道すなわち街道のことだろう。旧道ではなく国道一号の橋。

 

横断歩道を渡り川上川沿いにそのまま直進する。

 

 

 

川上川沿いと入れ替わるように、今度は平戸永谷川(柏尾川・境川支流)沿いをゆく。

 

 

 

赤関橋(あかせきばし)。右は国道一号。旧街道は緑のこんもりと生い茂る左奥へ。

 

 

 

秋葉大橋(秋葉立体)下。ここで国道一号に合流し、しばらく進む。

 

 

 

不動坂信号の手前、画面右手から大山道(おおやまみち。柏尾通り大山道)の旧道が分岐する。大山前不動の赤い屋根も見える。

 

信号まで進み、引き返して前不動へ。

 

 

 

大山前不動の小さなお堂。「従是(これより)大山道」の大きな道標が建つ。

 

お堂の周りには道標や庚申塔そして燈籠が、他所から移設されたものも含めて計六基。

 

 

 

案内板。

 

 

 

この灯籠は幕末の元治二年(1865)、松戸宿(水戸街道の宿場。水戸街道は奥州街道・日光街道の千住宿より分岐する)の商人により建立。「雨降山(あふりやま。大山の別名)」と彫られている。江戸の向こうまで「大山詣で」が広がっていたことを窺い知ることができる。

 

 

 

この道標は江戸時代中期の享保12年(1727)、江戸は神田三河町の商人により建立。

 

 

 

こちらの庚申塔(こうしんとう)は江戸前期の延宝八年(1680)、地元柏尾町の住民により建立。「見ざる、聞かざる、言わざる」が彫られた、土地の人々による庚申信仰の塔。

 

 

 

大山前不動から不動坂信号まで戻る途中、道の向こう側にそびえる常緑樹のモチノキの大木(県指定天然記念物・益田家のモチノキ)。その左側には赤く色づき始めたケヤキの大木。

 

旧道沿いには年輪を重ねた幾つもの大樹が、地域の歴史の生き証人として息づいている。
※「益田家のモチノキ」は平成29年(2017)2月の報道で許可に拠らない伐採が報じられ、現在は失われている。

 

 

 

不動坂信号を渡って少し引き返し、いちばん左の旧道を進む。

 

 

 

旧東海道・不動坂の案内板。

 

 

 

広重の「東海道五十三次(狂歌入東海道)戸塚」。ふんどし姿の飛脚が走る。画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

この絵の比定は、一番悩ましかった。近景が緩い坂、中景に建物が軒を連ね、遠景には山並み。狂歌以外には特に記載がない。戸塚の、一体どの辺りなのだろうか。

 

柏尾川(かしおがわ)の低地に宿場が広がる戸塚宿の前後で、尾根の山道となるのは江戸方の品濃坂(しなのざか)と上方の大坂(おおさか)。
品濃坂あたりから上方へ向かう先、柏尾の家並みかとも考えたのだが、そのあたりを描くとしたら浮世絵らしく右手に富士山を入れる構図にするのではないか、という気がする。ならば大坂あたりから望む戸塚宿の家並みではないか、と推測するも遠景の山が武相国境・境木(さかいぎ)の峠にしてはいくらなんでも大きすぎる。

 

松並木に挟まれた緩い坂道となるとまさしくこのあたり、不動坂あたりから箱根方面の眺めではないか、と考えたのだがどうだろうか。

 

 

旧道を先へ進むと、レンガ造りの倉庫が見える。

 

ここは「鎌倉ハム」発祥の地。現在は横浜市域のこの地は、昭和14年(1939)の横浜市への合併以前は鎌倉郡域であった。

安政六年(1859)の横浜開港以来、幕末の東海道は横浜居留地の外国人たちが自由に出歩ける遊歩区域(六郷川(多摩川)〜酒匂川)となった。攘夷派浪士と外国人とのトラブルに神経質になる幕府をよそに、外国人たちは東海道にて乗馬レジャーを盛んに行った。柏尾の地には英国人により東海道を行き交う外国人向けのささやかな旅館「シェイクスピア・イン」も、短期間ではあったが建てられた。

この地域におけるハム作りの始まりは、明治10年(1878)の頃。戸塚宿・吉田元町の茶屋の娘と結婚していた英国人ウィリアム・カーチスが下柏尾村・王子神社のあたりにて居留地外国人向けのハムを製造したのが始まり、とされる。そこで雇用されていた斉藤氏が製造法を習得、益田氏らと協同して明治20年ごろから製造を始めたのが「鎌倉ハム」の始まりとされる。
柏尾のハム製造業者は明治40年には東京に創立された「日本ハム製造会社」と合同。国内市場においてそれまでに培われた「鎌倉ハム」という商標の信頼感・競争力(goodwill)を買われてのことであった。他方で時をほぼ同じくして、やはり東京にて神奈川県下のハム製造業者であった富岡氏らを加えた「鎌倉ハム製造会社」を名乗る会社が設立されている。なお、いずれの製造会社も創立当初の会社は明治末期までに解散。それぞれの流れを汲む会社が現在に続いている。
参考・戸塚区史(平成三・1991年発行)、戸塚の歴史散歩(昭和45・1970年発行)。

 

 

 

この建物は戸塚区役所発行の旧東海道戸塚宿散策マップによると、大正7年(1918)の築。下層はレンガ造、上部はぱっと見で石造のように見える。デリケートなハム作りに適した、外気の影響を受けにくい構造ということだろうか。

 

先へと進んでいくと舞岡川(柏尾川・境川支流)沿いの交差点。

 

 

 

交差点を右折して左手に舞岡川を見ながら進んでいくと国道一号・舞岡入口の信号に突き当たる。

 

 

 

舞岡入口交差点で舞岡川に架かる国道一号の橋は五太夫橋(ごだゆうばし)。

五太夫とは小田原北条氏の家臣、石巻康敬(いしまき やすたか。やすまさ、とも)。五太夫康敬は小田原合戦の直前、北条家臣による上州・名胡桃城の奪取事件について弁明するため、五代当主北条氏直により大坂に派遣された。しかし秀吉に弁明が受け入れられるはずもなく、康敬は何らの成果もなく小田原に戻らざるを得なくなる。小田原への帰途の途中、康敬は家康に捕えられて沼津の三枚橋城に留め置かれた。
小田原合戦ののち康敬は鎌倉郡中田村(現在の泉区中田町)にて蟄居の身となったが、江戸に入府してきた家康をこの地で出迎えた、と伝わる。その後、家康により中田村の領主に任ぜられた。

 

 

 

国道一号を進むといよいよ戸塚宿。ファミレス「フォルクス」前に建つ、江戸方見付跡の碑。

 

 

3.東海道戸塚宿とかまくら道・南谷戸の大わらじへ

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