平成27年(2015)11月下旬、東海道保土ヶ谷宿の上方見付(かみがた みつけ)付近より先、上方(京)方面を戸塚宿内(江戸方見付〜上方見付)まで、自転車を押しながら歩く。
保土ヶ谷宿の側は武蔵国、江戸湾へ注ぐ帷子川水系。一方で戸塚宿側は相模国、相模湾へ注ぐ柏尾川流域(境川水系)。両水系を隔てる尾根は、境木(さかいぎ)の峠で越えてゆく。
1.保土ケ谷二丁目・東海道旧道から権太坂を経て境木地蔵尊へ
このページでは保土ヶ谷宿の西のはずれ・保土ケ谷二丁目から旧道を歩き権太坂、境木立場(横浜市保土ケ谷区)へ。境木立場から戸塚宿方面は相模国となる。道中、浮世絵と実際の風景を比定しながら歩く。
相鉄線天王町駅・旧帷子橋跡からの旧東海道保土ヶ谷宿・古東海道歩きはこちら。
旧東海道・国道一号の保土ヶ谷宿沿い。道路沿いに植えられた松が少しずつ育っている。横浜横須賀道路(横横)・保土ヶ谷バイパス狩場(かりば)インターの標識には「首都高へは行けません」とあるが小さくて目立たない。
保土ケ谷二丁目の信号。ここから旧東海道は国道一号を離れていく。このあたりは標高およそ10m。
横断歩道を渡る。
横断歩道を渡った先の、案内板。
旧道沿いに進むと、右手に日蓮宗妙秀山樹源寺(じゅげんじ)の山門。
樹源寺は寛永年間(1624〜1645)の開山。この地には鎌倉時代には真言宗の東方山医王寺という寺があったが、戦火により薬師堂を残して焼失していた。
ゑびすや軽部商店の前を通過。
朝霞楼芳幾「末広五十三次 程ヶ谷」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション
幕末開港期ともなると、大名行列を見物する異人さんが描かれていたりもする。
元町(もとまち)ガード。
このあたりは現在に残る宿場町の道筋(新町・しんまち。元町ガード付近〜軽部本陣跡〜旧芝生村追分)が慶安元年(1648)に整備される前の、慶長6年(1601)の宿駅指定時における保土ヶ谷の宿場(元町)であったとされる。
なお、江戸方の古東海道・帷子(かたびら)あたりは中世の鎌倉街道下の道(しものみち)以来の集落でありそちらは「古町(ふるまち)」という。
左へ進んでいく。
少し進むと、元町橋交番前信号の手前で右手に入っていく上り坂がある。ここが江戸を出発した旅人にとって旧東海道における最初の難所、権太坂(ごんたざか)の始まり。標高およそ20m。
権太坂を登っていく。旧道の権太坂は現在の国道一号権太坂(箱根駅伝のルート)よりも急坂。
昭和初期の権太坂。
画像出典・保土ヶ谷区制五十周年記念誌「保土ケ谷ものがたり」(昭和52・1977年発行)
坂の途中に見られる、権太坂改修記念碑。昭和三十年(1955)市長平沼亮三、と刻まれている。
平沼家は明暦年間(1655〜1658)頃から保土ヶ谷・岩間町に在住し、代々九兵衛を名乗り酒造業などを営んでいた。幕末の平沼新田(塩田)の開発でも知られ、亮三は平沼家の当主。墓所は戸部・願成寺。
案内板。
周磨作「東海道名所之内 権太坂」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション
坂を上りきって少し進むと、西に富士山、大山、丹沢の展望が開ける。
北斎の「富嶽三十六景 保土ヶ谷 境木(さかいぎ)」
画像出典・保土ヶ谷区郷土史(上)
境木中学校前のバス折り返し場。標高およそ70mまで登ってきた。
シャッターに描かれた広重の「五十三次名所図会(竪絵東海道) 程ヶ谷 境木立場(さかいぎ たてば)鎌倉山遠望」
案内板。境木立場跡・境木地蔵尊へと進んでいく。
なお、反対方向には投込塚の碑がある。江戸時代の権太坂は一番坂、二番坂が屈曲しながら続く相当の難所であったという。境木から戸塚方面は焼餅坂から品濃坂へと続きこれまた難所。当時は木賃宿に泊まりながら、ろくに飲まず食わずで旅を続ける人もあったのだろう。道中で行き倒れたまま亡くなった旅人を葬って供養した塚があった。そのことを後世に伝えるべく、碑が建立された。
まもなく境木。
境木立場跡の案内板。
立場とは宿場間に設けられた馬子や人足の休憩場。ここまでの権太坂、そしてここからの焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、富士の眺望も良いこの立場は旅人の格好の休息地として牡丹餅を出す茶屋も出され、大層にぎわった。
広重「東海道五十三次(狂歌入東海道) 保土ヶ谷 境木立場」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション
広重の五十三次で最も有名な「保永堂版」の保土ヶ谷は新町(神奈川宿寄り)の帷子橋(かたびらばし)が題材。一方で「狂歌入東海道」と呼ばれるこちらのシリーズは境木立場を題材としている。帷子橋と境木立場は保土ヶ谷宿の画題としてしばしば採り上げられた。
立場跡側から見る境木地蔵尊。地蔵尊前がこのあたりの最高地点、標高およそ72m。
境木の地名は、この地が武蔵国(保土ヶ谷側)と相模国(戸塚側)の境の地であったことに由来する、とされる。東海道をゆく旅人はこの峠で武蔵国・江戸湾に別れを告げ、相模国へと入っていく。
地蔵堂。地蔵由来碑によると地蔵堂は岩間町(いわまちょう。保土ヶ谷宿)見光寺の境外仏堂となっているようだ。
境木地蔵には、次のような伝承がある。
むかし、相模国腰越の浜(鎌倉)に地蔵が漂着。土地のある漁師の夢枕に現れ「俺は江戸の方へ行きたい。牛車に乗せて運んでくれ。もしその車が動かなくなったらそこへ置いていって結構。運んでくれたらこの浦を守り、大漁を叶えよう」と告げた。漁師が他の村人に尋ねると「いや、わしもその夢を見た」という者が続々と現れた。そこで漁師たちは地蔵を牛車に乗せ江戸へ運ぶことにした。すると途中、この地で牛車が動かなくなった。漁師たちは「お告げの通りここにおられたいのだろう」と地蔵をこの地に安置し帰っていった。
不意に地蔵を置かれた境木の村人であったが、地蔵を引き取ったところ今度は村人の夢枕で「どんなものでもよいから堂を建ててくれ」とのお告げがあった。そこで村人が地蔵堂を建てたところ、境木の地は見る見るうちににぎやかになり商家も繁昌、茶屋が軒を並べるようになったという。
「野毛山の時の鐘」の案内碑。
横浜の開港後に多くの人々からの要望があった時を告げる鐘は、幕末開港期に横浜町の総年寄を務めていた保土ヶ谷宿の名士苅部(軽部)清兵衛らが建設を命じられた。入札を経て本町(ほんちょう)の伊豆屋惣蔵が建設の一切を請け負い、鐘楼は現在の成田山別院の裏手あたりに明治元年(1868)に竣工した。鐘は音色の関係で幾度か取り替えられ、最終的にここ境木地蔵尊の鐘が設置された。以来、鐘は関東大震災(大正12・1923)で焼失するまで野毛山の地で時を告げ続けた、とされる。
初期の横浜(開港場)は、保土ヶ谷宿本陣の当主、神奈川宿本陣の当主、旧横浜村の名主といった人々が町政に重きを為していた。
野毛山の時の鐘
画像出典・「ものがたり西区の今昔」
野毛の山から見下ろす開港場(関内)。右手なかほどに横浜停車場(現桜木町駅)らしき建物が見え、開港場を隔てた右奥は山手の輪郭がはっきりと分かる。
境木地蔵尊側から見る立場跡。
境木地蔵尊バス停の傍らには江戸時代に建てられていたという国境を示す傍示杭(ぼうじぐい)が再現されている。
保土ヶ谷宿〜戸塚宿は二里九丁(町)とされるが、ここ境木からは戸塚宿まで一里九丁とある。三十六丁=一里なので、およそ5q。
東海道は画面右奥の焼餅坂へと続いていく。
焼餅坂上から振り返る境木地蔵尊と傍示杭。
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