1.下永谷から本郷台(駅西側の道標)まで
鎌倉古道・中の道(なかのみち)古道を鎌倉に向けて歩くまち歩き。このページでは市営地下鉄ブルーライン・下永谷駅(横浜市港南区)からJR根岸線・本郷台駅(横浜市栄区)西側の道標までを歩く。
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鎌倉街道中の道古道歩き

令和六年(2024)6月中旬の週末。例年であれば梅雨のさなかのこの時期、この年は全国的に梅雨入りが遅れ南関東もその気配がない。梅雨明けの猛暑がやって来る前に、まち歩きへ。
今回は中世における鎌倉街道のひとつ、鎌倉街道・中の道(なかのみち)古道を下永谷(しもながや。港南区)から北鎌倉まで、旧跡に立ち寄りながらおよそ11kmを歩く。

 

1.下永谷から本郷台(駅西側の道標)まで

 

このページでは市営地下鉄ブルーライン・下永谷駅(横浜市港南区)から日限地蔵尊、笹山城址へ。日限台から舞岡公園の南、下倉田(横浜市戸塚区)の尾根道をたどり、見晴橋へ。見晴橋から小菅ケ谷小学校、本郷台を経てJR根岸線・本郷台駅の西側の道標(追上道標。横浜市栄区)までを歩く。

 

中の道古道歩き・上柏尾(戸塚区)から下永谷まではこちら

 

 

横浜市営地下鉄ブルーライン・下永谷(しもながや)駅から舞岡上郷(まいおか かみごう)線・下永谷駅入口信号へ向かう途中の丁字路。時刻は朝9時45分ごろ。
坂を登っていった先、特養ホーム芙蓉苑の敷地角まで下永谷市民の森方面から尾根伝いに鎌倉街道・中の道(なかのみち)古道が続き、舞岡上郷線で尾根が切れている。

 

 

 

下永谷駅入口信号。この先で芙蓉苑の敷地角から消滅している中の道古道の道すじに復帰し、鎌倉に向かって歩く。

 

 

 

スポーツ公園前バス停。

 

 

 

右手の狭い道に入って、登っていく。

 

 

 

サンヴェール日限山(ひぎりやま)の敷地角辺りの合流で古道の道すじに復帰し、左手へ。

地理院地図(電子国土Web)の1945〜50年の空中写真に照らし合わせてみると、右手から合流してくる道を右手に進んでいった先の行き止まり(角)から墓地沿いの崖地を経て、舞岡上郷線を跨いだ芙蓉苑敷地の角までが古道の道すじとなっているようだ。

 

 

 

マンションの向こうに日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)境内の寺林が見える。

 

 

 

舞岡第四公園の角で造成されたニュータウンの街路に出る。ここで日限地蔵尊に寄り道。

 

 

 

街路を左折。

 

 

 

高みに送電線鉄塔が二本立っている。そこは笹山城跡であり、今回の古道歩きのポイントのひとつ。

 

 

 

日限地蔵前信号を左折して進んでいき、日限地蔵尊への参道へ。

 

 

 

高野山真言宗・八木山福徳院(やぎさん ふくとくいん)「日限地蔵尊」本堂。

 

 

 

本堂の手前に建つ、日限地蔵尊碑(横濱貿易新報社 県下名勝史蹟四十五佳選当選記念。昭和十・1935年建碑)。

 

「日本三体之一」と刻まれているのは日本三体地蔵のひとつということで、他の二つは信州諏訪(長野県岡谷市・平福寺)と山梨県(場所不明)にあるそうだ。とは言え、日本三○○というのは各地でそれぞれが名乗っているので、これもその一つということだろう。
参考「港南の歴史と文化」

 

 

 

参道を挟んで反対側の、日限地蔵由来碑(昭和二十二・1947年、開山二世により建碑)。
日限地蔵尊の創建は慶応元年(1865)。日限地蔵由来碑には沿革が刻まれており、「港南の歴史と文化」にその一部が引用されている。

それによると当地で営農を生業としていた飯島勘次郎が晩年の数年来にわたり持病の癪(しゃく)で病床に呻吟(しんぎん。うめき苦しむ)していたところ、伊豆三島の僧(長岡寺隠土荘誉上人代別当凄心庵和尚)が勘次郎宅に錫杖(しゃくじょう)を留めた(滞在した)。その折に僧は伊豆三島・蓮馨寺(れんけいじ)の日限地蔵尊を信仰すれば快癒するであろうと教示。勘次郎は信心したところ全快したため、御仏の加護と感涙。病に苦しむ人々のためにと思い立って三島まで出向いて御分体を戴く。御分体は伊豆より船出、相模灘を越えて屏風ケ浦・森町(現横浜市磯子区)に安着。そこから馬で日野路を越えて八木の地にお迎えすることとなった。

 

その当時、当地は人里離れた風光明媚な丘陵の高所にあって深山幽谷のたたずまいを思わせる閑寂の地であった。福徳院の開創は慶応元年7月24日。毎月「4」の付く日の命日には弁当持参で参拝する参詣の人々で賑わったという(地蔵菩薩の縁日は毎月24日とされている。特に旧暦7月24日の縁日を地蔵盆という)。
参考「港南の歴史と文化」

先の長野県岡谷市・平福寺の公式サイトを参照すると、平福寺に祀られている日限地蔵尊も伊豆三島・蓮馨寺の日限地蔵尊の御分体とのこと。

 

 

 

由来碑を建碑した第二世法道の尊像。

 

 

 

日限地蔵前交差点まで戻り、笹山城跡へ。

 

 

 

日限山二丁目公園の脇から駐車場へと登っていく。下段は隣接する店舗などとも提携しているタイムズの駐車場。上はマンションの駐車場になっていた。

 

 

 

マンションに囲まれた、送電線鉄塔の建つ高み。笹山城の跡とは言うものの遺構は残っていない。地理院地図(電子国土Web)の1987〜90の空中写真ではマンション建設前の小山が残っている。それにしても規模は大きくない。

鎌倉古道の沿線に位置する高台は急ぎ移動するにあたっては利便性のよい立地なので、おそらくは小田原北条氏の支城を繋ぐ狼煙(のろし)リレーのための狼煙台を備えた情報連絡用の城だったのではないだろうか。

 

 

 

公園を後にして、しばしの街路歩き。日限山・南舞岡のニュータウン街路を概ね区界に沿って歩く。

 

 

 

日限山小入口信号を過ぎてしばらく進んでいくと、港南プラザ前。角にはユーコープ日限山店。舞岡公園駐車場の案内看板も出ている。交差点を右折して進む。

 

 

 

南舞岡小学校前信号を過ぎていくと、京急ニュータウンバス停。奥に舞岡公園の緑がこんもりと茂っている。この先で古道の道すじに復帰。

 

 

 

舞岡公園南側の道を進んでいく。

 

 

 

駐輪場を過ぎて、橋をくぐり。

 

 

 

中の道古道の道すじは三叉路の右を行く。左の道は小菅ケ谷北公園へと下っていく道。

 

 

 

直進していた古道の筋は、迂回するように広い道路をまたぐ陸橋に付け替えられた。

 

 

 

陸橋の手前に庚申塔(こうしんとう)が移設されている。

 

 

 

元文二年(1737)と刻まれた庚申塔。

 

 

 

「庚申供養」と文字で刻まれた庚申塔ではあるが、三猿は結構細かな彫りになっている。

 

訪れたときは新鮮な生花が活けられていた。地域で大切にされているのだろう。

 

 

 

詳細な案内板。庚申塔はスダジイの古木に抱き込まれるように建っていたという。そのスダジイはこのすぐ背後、舞岡公園の「南の丘」に移植されている、とある。

 

 

 

あの奥の木がそうだね?

 

 

 

弘明寺道(ぐみょうじみち)の道標。反対側には鎌倉道(かまくらみち)が刻まれている。
これから先、中の道古道の道すじの道標に頻繁に登場する「ぐめうじミち(ぐみょうじみち)」は、「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」によると先に通ってきた日限山あたりで鎌倉街道中の道から分かれて弘明寺に向かう道。同書によれば弘明寺への道は日限山小学校の北側あたりに中の道から弘明寺への分岐道があった、とされる。

先ほど訪れた笹山城跡の送電線鉄塔が建つ高み、現在ではロワレール日限山やグランドメゾン上永谷といったマンションが建っている辺りは地理院地図(シームレス最新写真)で鉄塔に中心十字線を重ねると標高81.7mあるいは81.8mと表示される。これを昭和初期の地形図(スタンフォード大学の地理空間情報サイト)に照らすと、82と標高が記された地点に重なる。
そのピークのすぐ西側を南北に破線が延びる(鎌倉街道中の道。北は日限地蔵尊下から現在の下永谷市民の森に続いている)。そして82m地点のすぐ南側を東に分岐する破線が尾根伝いに通っている。これが弘明寺道ということになる。
現在の丸山台、上永谷駅のあたり(旧永野村天矢、丸山あたりの尾根)は宅地造成により古道の痕跡はない。駅近くの馬洗橋(うまあらいはし)あたりから市立南高校あたりに抜け、餅井坂(もちいざか)を経て弘明寺に至る。

 

合理的な推測をするならば、この弘明寺道は舞岡公園の南側から野庭を経て弘明寺に至る古来からの鎌倉街道下の道(しものみち)すなわち朝比奈切通の開削より前からの下の道とは別に何らかの目的を持って開かれた道ということになろう。そのヒントのひとつが笹山城跡ではないだろうか。
小田原北条の時代、小田原と江戸(重要な支城である江戸城があった)を結ぶ往還は藤沢から鎌倉北部を経て中の道、古くからの下の道を抜けて弘明寺から帷子(かたびら)、神奈川へと通じていた。その途中、狼煙台の砦に好適な地が街道筋のすぐ近くにあるならそちらを経由するバイパスを造っておくことにも当然考えられる。

 

 

 

戸塚ふたば幼稚園下を通過。

 

 

 

尾根から南東、三浦丘陵が連なる眺め。

 

 

 

地理院地図の空中写真を見ると、1960年代ごろまでは眼下にうねる里山(そしてその足元には谷戸を縫うように延びていく谷戸田)が見渡す限り続いていたはず。緑の海の中、昔の人はよく道に迷わなかったものだ。
逆を言えば、そうだからこそ水系の流域ごとに形成された集落の相互で、あえて交流する必要もなかったのだろう。日常的に尾根を越えて行き来する必要性はなかったはずだ。

 

 

 

尾根道が続く。
左下の道はこの先で鋭角に分岐し、本郷台の街路を本郷台赤坂公園、小菅ケ谷北公園へと下っていく道。

 

 

 

下倉田第二公園を通過。

 

 

 

車の通り抜けができない狭い道へ。送電線鉄塔が建つあたりから、道は緩やかに下っていく。

 

 

 

この緩やかな下り坂が一説によれば「すりこばち坂(摺小鉢坂)」である、とされる。この先、古道の筋は環状3号を空中で跨いでいくが小菅ケ谷小学校の北隣りに建っている送電線鉄塔の辺りには「花立」道標と呼ばれる「ぐみょうじみち」の道標があったという(現在は撤去されていて確認することはできない)。古道の筋は現在は本郷台のニュータウン造成により消滅しているが、それは長光寺まで緩やかに下っていた。この長い坂を「すりこばち坂」とする説がある。

なお鎌倉古道「すりこばち坂」は場所が特定されておらず、二つの説がある。もうひとつの説は先ほど通ってきた舞岡公園の南側から小菅ケ谷北公園の駐車場・利用拠点ゾーン(BBQ広場)の横へと下っていく坂のあたり。車道が造成される前の坂(中の道古道)は途中で鎌倉街道下の道古道(朝比奈切通が開削される前からの下の道)が分岐(合流)していた。下の道古道側の丘陵の尾根から谷へと下る急坂が「すりこばち坂」ではないか、とされる。坂を下った先は平坦な旧道が長光寺門前(滝の分・たきのわけ)に通じている。
なお「中の道」から分岐する「下の道」古道は舞岡公園の南側の丘陵に上がって日限山と野庭町に挟まれ住居表示未実施地区の上永谷町を通り(「七里堀」と称される道)、丸山台から馬洗橋〜餅井坂〜弘明寺へと向かう。

参考文献
 「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」
 「栄の歴史」
 「港南の歴史と文化」
インターネット上の各種記述情報
 横浜市栄区さんぽ「鎌倉道中ノ道(新橋から舞岡公園)と長光寺」
 栄歴史双六探訪笠間地区行程表
 鎌倉古道下道(しもつみち)

 

 

 

鎌倉街道中の道古道概念図(戸塚区秋葉三叉路から栄区新橋まで)
拡大版はこちらの画像へ

 

 

 

この先、環状3号の建設(昭和末期から平成初期)により尾根は途切れる。

 

 

 

環状3号をまたぐ陸橋「見晴橋」へ迂回。

 

 

 

深く切り下げられた環状3号は現代の切り通し。小山台から日野南へ、空に向かって延びていく。

 

 

 

西は戸塚区。このときは山の遠景はかなり霞んでしまっていた。6月中旬という季節柄、仕方ない。

 

 

 

相州の霊峰・大山(おおやま。1252m)は何とか確認できた。富士山はタイミングが良ければ橋の反対側のたもとから見えるようだ。

 

 

 

見晴橋から古道の道すじに戻り、振り返り見る。向こう側は環状3号で途切れた尾根筋。

 

 

 

中の道古道を、小菅ケ谷小学校方面へ。左手の奥には送電線鉄塔が建つ。

 

 

 

左手に校舎が見えてくる。手前左の擁壁の上に送電線鉄塔が建っている。この近隣に「花立」道標があったようだ。古道は小菅ヶ谷小学校の角辺りから本郷台のニュータウン街路造成で消えている。

話は関係ないのだけど、本郷台と小菅ケ谷は、地域の各種施設の名前がひっくり返っているところが多い。古くは鎌倉郡本郷村大字小菅ケ谷だったのが昭和の合併で横浜市戸塚区小菅ケ谷町となり、平成の住居表示で小菅ケ谷町の一部が本郷台〇丁目となっている。その間に色々な施設が出来ているので、広域的な旧地名を採用したり後から地域の名前あるいは区名が元々と変わってしまったりでややこしくなるのは横浜市内の施設名あるあるだと思う。それは横浜市に限ったことではないのだけれど。

 

 

 

校地沿いに進んでいった角を左へ、右へとクランク状に折れて右奥へ進んでいく。

 

 

 

街路を進む。

 

 

 

横断歩道・信号のある十字路を直進。ずっと進んだ先を、道なりに右折。

 

 

 

道なりに右折して進んでいった先で、左手に長光寺に下っていく狭くて急な、滑り止めの輪が刻まれた坂道を分ける。この辺りは旧道の道すじを一瞬、感じられる。

 

 

 

次の斜め十字路を左折する。

 

 

 

左折した先に、本郷台小学校。

 

 

 

本郷台小学校の裏手沿いを進む。

 

 

 

校地の並びに「本郷台滝の前公園」という小さな公園がある。この辺りは長光寺の門前あたりに「滝の分(たきのわけ)」という地名の信号もあり、近くを小さな滝が流れていたという。
参考
「栄区郷土史ハンドブック」

 

 

 

不整形な三叉路を左に入る道で、古道の道すじに復帰。

 

 

 

JR根岸線・本郷台駅入口に通じる道路(すずかけ通り)を横断。

 

 

 

古道の道すじを進む。

 

 

 

本郷台ゴルフセンター進入路付近。二又の合流付近に庚申塔・道標が建っている。

 

 

 

「従是(これより)ぐミやうじ道(ぐみょうじみち)」道標。「栄の歴史」で執筆担当の方々が「追上道標」と称している道標はこの道標のようだ。「追上(おいあげ)」とは「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」によると長光寺北側のわずかな上り坂をそう呼ぶ、としている。

先ほど舞岡公園南側の道標でも見た「ぐめうじミち(ぐみょうじみち)」は、「旧鎌倉街道探索の旅 中道編」によると日限山のあたりで鎌倉街道中の道から分かれて弘明寺(ぐみょうじ)に向かう道。
先ほどの繰り返しになるが、弘明寺への道は日限山小学校の北側あたりに中の道から弘明寺への分岐道があったというが丸山台、上永谷駅のあたり(旧永野村天矢、丸山あたりの尾根)は造成により古道の痕跡はない。駅近くの馬洗橋(うまあらいはし)あたりから市立南高校あたりに抜け、餅井坂(もちいざか)を経て弘明寺に至る。

 

 

 

ここから弘明寺道分岐・日限地蔵尊までは、ここまで歩いてきた尾根筋の鎌倉古道のほかにもう一つ、谷筋の古道がある(画像の右の道。なお右の道を100mあまり進み、栄第一水再生センター前の信号を右折して300mほど進むと本郷台駅入口に至る)。

 

谷筋の古道は「探索の旅」によると室町時代の高僧、道興准后(どうこうじゅごう。聖護院門跡・しょうごいんもんぜき)が記した「廻国雑記(かいこくざっき)」にみられる道で、廻国雑記には「すりこばち坂」「もちゐ坂」といった記述が現れる。「探索の旅」は『鋭角に分岐する旧街道には、室町時代以降にできた道が多い』としている。

他方で、ここからの道を「中の道」から分岐する「下の道」と考える見解もある。すなわちここからの古道の成立年代を朝比奈切通の開削による下の道よりも古い時代と考える。

 

ここから二又に分かれる谷筋の古道(画面右手の奥に延びていく道)を長光寺の門前まで進んでいく。長光寺は「栄区郷土史ハンドブック」によると薬師如来を祀ったお堂のあたりが「花立」と呼ばれている。これは徳川家康が当地で鷹狩りを行った際、逃げてしまった鷹が戻ってくるように薬師如来に祈ったところ鷹が戻ってきたことを喜んで薬師如来に野の花を手折って供えたという伝承による。
長光寺門前からは「滝の分」信号で旧道に入る。環状3号をくぐって、一説に「摺小鉢(すりこばち)坂」あるいは「花立坂」と呼ばれた坂に向かって緩く登る。小菅ケ谷北公園自然観察ゾーン入口を過ぎると舞岡公園の南側に出る。
車道を進み、舞岡公園けやき広場の付近で尾根筋の鎌倉街道中の道古道に合流する。そのあたりが造成される前、中の道から分岐した下の道が丘陵に上がる急坂を「すりこばち坂」と呼んだようだ。舞岡公園から先は中の道古道の尾根筋とは別に上永谷町(住居表示未実施地区)の「七里堀」古道、馬洗橋(上永谷駅そば)、市立南高校、餅井坂を経て弘明寺にむかう古道の道筋(中の道から分岐していく下の道)があった。

参考文献
「鎌倉街道探索の旅中道編」
「栄区郷土史ハンドブック」
「港南の歴史と文化」

 

 

 

鎌倉街道中の道古道概念図(戸塚区秋葉三叉路から栄区新橋まで)
拡大版はこちらの画像へ

 

 

2.本郷台(駅西側の道標)から大船(青木神社入口)へ

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