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旧東海道保土ヶ谷宿界隈から狩場の丘へ


相鉄(そうてつ)線天王町(てんのうちょう)駅から大門通り(だいもんどおり)・古東海道・旧東海道を歩き、権太坂(ごんたざか。新道)から狩場(かりば)の丘三園(横浜市児童遊園地・こども植物園、英連邦戦死者墓地)を巡って回るウォーキング。ロングコースゆえ足回りは歩きやすいものを。

1.天王町駅から大門通り沿線、神明社・横浜ビジネスパーク(YBP)




旧東海道に架かっていた、旧帷子橋(かたびらばし)跡。相鉄線天王町駅前の公園にモニュメントとして整備されている。

神奈川宿方面(駅)を背に、戸塚宿方面を向いて見る旧帷子橋跡。




案内板。




地図の上部が戸塚宿方面。駅のあたりを流れていた旧帷子川に直角に交わるように橋が架けられた。そのため旧東海道(新町)は一直線ではなく屈折しており、地図下部の神奈川宿方面は現在の環状一号とは重ならない。
旧川筋(グレーの線)は、下流側(左側)はもう少し街道に沿って曲がっている。




昭和36年(1961)の帷子川と帷子橋。上が戸塚宿方面、下が神奈川宿方面。新旧の川筋が併存している。
画像出典 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 




こちらは初代歌川(安藤)広重「東海道五十三次之内 保土ヶ谷 新町橋」(保永堂版)に描かれた旧帷子橋。

川の曲がり具合から、神奈川宿方面の眺めと思われる。とすれば、遠景の小山は神奈川台(台町)ということになろう。




旧帷子橋。 画像出典・保土ケ谷区史(平成9年(1997)保土ケ谷区史編集部会編)

こちらは橋の手前(戸塚宿側)から見た内陸側(上流側)の眺めであろうか。




立祥(二代広重)作「東海道五十三駅 程ヶ谷かたびら橋」。画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

上の写真と遠くの山並みが同じように見える。




駅前に設置された保土ヶ谷宿周辺散策案内図。 案内図拡大版




旧東海道(環状1号)。保土ヶ谷宿(新町)は江戸時代前期(慶安元年・1648)、現在でいう都市計画により造られた宿場町。岩間(いわま)・神戸(ごうど)・帷子(かたびら)・保土ケ谷(ほどがや)の四町から成った。矩折れ(かねおれ。L字型)に整然と整備され、本陣が要の位置にあった。




車止めは大名行列の侍をイメージしたデザインになっている。




後ろ姿。太刀まで携えており芸が細かい。背中の紋は横浜市章(ハマ菱)。




大門通り(だいもんどおり)交差点。環状1号線(旧東海道)と大門通り(かつての相州道)が交わる。

この交差点は、保土ヶ谷宿と戸部村(現西区藤棚町ほか)・野毛浦(現西区野毛町)を結ぶ保土ヶ谷道(ほどがやみち)の起点でもあった。保土ヶ谷道は宿場周辺の村人が助郷(すけごう)など所用のために宿場と行き来するための道。保土ヶ谷道についてはこちら




大門通りを神明社(しんめいしゃ)方面へ。右手の超高層ビルは横浜ビジネスパーク(YBP)・NRIタワー。




相州道と古東海道の辻にある、庚申塔(こうしんとう)。古東海道は旧東海道が江戸時代に整備されるまでの道筋。相州道は仏向(ぶっこう)・坂本(さかもと)・三反田(さんたんだ)から二俣川(ふたまたがわ)の村々を経て厚木方面あるいは大山道方面へ続く。

庚申(こうしん)とは、江戸時代に盛んだった十干十二支の庚申(かのえさる)に因んだ民間信仰。









左手に神明社の鳥居、右手にNRIタワー。新旧のコラボ。




神明社は武蔵国(むさしのくに)榛谷(はんがや)御厨(みくりや)の総鎮守としての歴史を持つ。

御厨とは神社の荘園のこと。この一帯は平安時代に秩父氏(ちちぶし。畠山重忠(はたけやましげただ)など武蔵国を本拠とした秩父平氏)の一族が開発・支配していたと考えられ、平安時代後期の保安(ほうあん)三年(1122)、国司の徴税を避けるために伊勢神宮に寄進された荘園(榛谷荘)となった。榛谷荘は現在の保土ケ谷区(武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)の一部)・旭区(武蔵国都筑郡(つづきぐん)の一部)一帯に及んでいたと考えられている。
平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけては小山田四郎重朝(おやまだしろうしげとも。秩父平氏の一族)が治め、重朝は支配地にちなんで榛谷氏を名乗った。

領主であった榛谷重朝は元久(げんきゅう)二年(1205)、北条時政(ほうじょうときまさ。初代執権)・牧の方(まきのかた)らによる畠山重忠の謀殺(鶴ヶ峰・二俣川合戦。畠山重忠公史跡群を参照)に一族が加担した咎で、北条義時(よしとき。第二代執権)の側にあった三浦義村(みうらよしむら)に討ち滅ぼされる。のちにこの地は幕府に没収され事実上執権北条氏(しっけんほうじょうし。鎌倉北条氏)の支配下に置かれた。
榛谷御厨の名は記録上は鎌倉幕府滅亡後の南北朝期まで確認することができ、戦国時代以降は小田原に本拠を置く後北条氏(ごほうじょうし。小田原北条氏)の支配下に置かれてゆく。

元々このあたりを含めた帷子川(かたびらがわ)の下流域は海が入り込んだ入江であり、神明社も嘉禄(かろく)元年(1225)この地に遷座した当初は背後の小山(神戸山。ごうどやま)の山頂にあった。江戸時代初期(元和5年。1619年)、現在地に社殿が造営され今に至っている。




神明社由緒。




参道。これだけ見るとすぐ隣が近代的ビル群のビジネスパークとは思えない。




拝殿。




神楽殿(かぐらでん)。









社殿は神明造(しんめいづくり)。平成10年(1998)、「平成の大造営」により境内の建物が一新された。




祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)。千木(ちぎ)の先端が水平にそがれるのは、俗説的には女神を祀ることを示すなどといわれる。



















神明社を後に、先を行く。




ビール坂下(びーるざかした)。昔このあたりにはビール工場(のちにガラス瓶工場)があった。右奥はYBPのレストランコート「プレッツォ」。




YBPに隣接する横浜市保土ケ谷スポーツセンターの並びに建つ、保土ケ谷小学校。正面入口の雰囲気が公立小学校らしからぬ、市街地の大学キャンパスか何かのよう。保土ヶ谷のシンボルである東海道五十三次・保土ヶ谷宿(帷子橋)のモザイク画が正面を飾っている。
この校地は平成12年(2000)から。それまではJR保土ヶ谷駅のすぐ近く、月見台にあった。




横浜ビジネスパーク(YBP)へ。




オープンスペースにある、ベリーニの丘。ミラノ出身のイタリア人デザイナー、マリオ・ベリーニが手掛けた。




ベリーニの丘内部の回廊。









水のホール。




最高高さ100mのNRIタワー、70.7mのイーストタワー、58.9mのウエストタワーが水のホールを囲むようにそびえている(数字は公式資料より)。




横浜ビジネスパークは、明治後期以降昭和の終わりころまで帷子川流域に立ち並んでいた工場群のひとつである、大日本麦酒(現サッポロビール・アサヒビール)のち日本硝子の工場だった跡地が再開発されたことにより、平成3年(1991)に誕生した。
野村不動産による再開発事業は当時、民間企業単独としては最大級のプロジェクトといわれた。現在、キーテナントとして野村総合研究所(NRI)が入居する。

ちなみに帷子川(かたびらがわ)の対岸、天王町サティや保土ケ谷区総合庁舎など官庁街の一帯は、戦前まで遡れば富士紡績の巨大紡績工場(空襲で焼失)があった。戦後は進駐軍に接収され昭和30年(1955)まで軍用車両置場(モータープール)として利用されていた、という。




神明社鳥居のそばに建つ、耕地整理竣工記念碑。大正7年(1918)建立。帷子川流域一帯で明治36年(1903)を皮切に順次始まった耕地整理は昔からの農地の区画を整え直して生産力を上げるのが当初の目的であったが、道路や水路の整備された区画は結果的には後の工場誘致につながった。




古東海道と相州道(大門通り)の辻から、古東海道(古町)へ。


2.古東海道・旧東海道・権太坂(新道)へ  まち歩きトップへ戻る