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旧東海道、戸塚から藤沢へ


令和二年(2020)10月下旬の週末、旧東海道を戸塚から藤沢へと歩く。

1.戸塚宿界隈、先人たちの縁



JR戸塚駅西口。

JR戸塚駅から小田急江ノ島線藤沢本町駅まで、長丁場の今回のまち歩き。途中で旧住友家俣野別邸や時宗総本山清浄光寺(遊行寺)にも立ち寄っていく。そこで朝早く、戸塚駅を8時40分ごろに出発。
まず初めに駅から徒歩10分程の旧ウィトリッヒ邸へ。駅へ戻ってからは清源院、富塚古墳などをめぐっていく。




歩行者デッキの先端まで進む。




住宅展示場を過ぎてカトリック戸塚教会、ひまわり幼稚園の案内板を左に入る。




突き当りのマンションを右折。




カトリック戸塚教会前。




「この先行き止まり」の看板まで来たら、行き止まりの方向へ。




急坂を登っていく。




旧ウィトリッヒ邸(非公開)。




建物は昭和8年(1933)頃の築。L字型の寄棟造(よせむねづくり)の建物中央、玄関上部に設けられたひときわ大きなドーマーウィンドウ(屋根窓)が印象的。門前の道からは分かりにくいが、寄棟の向こう側は上空から見た目には大きな塔屋のような造りになっている。

竣工当時の主であったアーノルド・ウィトリッヒ氏(昭和58年没)は晩年、戸塚区俣野町(国道1号原宿交差点近く)の山林を「故郷スイスの山に似ている」と買い求めて移り住んでいる(山林はウィトリッヒ氏亡き後に妻の津田ひ亭(ひで)氏から市に寄付され、「ウィトリッヒの森」と名付けられて「市民の森」の一つとして管理されている)。したがってこの邸宅はそれ以前の住まいということになろう。

旧東海道戸塚宿〜藤沢宿辺りは横浜の開港場あるいは東京から適度な距離に広がる田園風景が人々を惹きつけ、明治〜昭和初期頃までにカントリーライフを求める外国人や財界人の邸宅が多く建てられた。その殆どは失われてしまったが、この建物は現存する希少な建築。




駅まで戻ってきたら歩行者デッキへ上がらずにそのまま進み、旧東海道を右折。先に見える歩道橋で反対側へと渡る。




歩道橋から清源院(せいげんいん)が見える。

旧東海道の「開かずの踏切」を解消するためのアンダーパス建設に伴って新たに開かれた道路沿いに、大きなコンクリート擁壁が築造されている。古い地図を参照すると清源院のかつての参道はこちら側から延びていた。




浄土宗南向山清源院の山門。寺号は長林寺。

江戸後期編纂の「新編相模国風土記稿 巻之百九 鎌倉郡之三十一 山之内庄 清源院」によると、その開山は元和元年(1615)、開基となったのは清源院尼。清源院尼は徳川家康の側室だった於万(おまん。於満)の方。
この地は元は長林某(安達藤九郎盛長の一族と伝わる)が草創した獅子王山林長寺という一寺であったが、戦国期に廃絶。一方で於万の方はその任を辞したのち鎌倉郡岡津村(泉区岡津町)にて草庵を営んでいた(現在の西林寺。枝垂桜の古木が有名)が、家康亡き後に菩提を弔うために当地に移住して白譽(小石川伝通院三世)を戒師として尼となり、清源院と号して当院の開基となった。




本堂。入母屋造に流れ向拝の屋根を架けて、近世以降の折衷様式によく用いられる火灯窓(かとうまど)ではなく連子窓(れんじまど)のような四角い窓を設けている。和様に拠った造りのお堂は平成28年(2016)に落成したばかり。




大棟(おおむね)には徳川の御紋「三つ葉葵」。




南向山の扁額。蟇股(かえるまた)にはよくある龍ではなく、花の彫り物。これは桔梗であろうか。




右に芭蕉の句碑と解説。
句碑は戸塚ゆかりの俳人(文政〜嘉永年間に大磯の俳諧道場・鴫立庵(しぎたつあん)庵主に師事した露繍という人)により建てられ、「奥の細道」に見られる次の一文と句が刻まれている。
『「栗という文字は西の木と書いて西方(西方浄土)にたより(便り。良縁)あり」と。行基菩薩は一生杖にも柱にもこの木を用いたとかいうことだ。「世の人の見つけぬ花や軒のくり」』
ただ「奥の細道」で芭蕉は「栗という文字は〜」のくだりを行基によるものとしたが、これは芭蕉の勘違いで正しくは法然によるものということらしい。とはいえ浄土宗の開祖は法然だから、清源院の地でこのくだりを碑にしたのは丁度良かった。

隣りには真新しい毘沙門天の石仏。
清源院は近年始まった「戸塚宿七福神めぐり」の寺のひとつ。七福神巡りの始まりを機に安置されたのだろう。




右に心中句碑。
句碑の句は文久三年(1863)に起きた宿場の遊女(飯盛女)と旅籠(あるいは薬屋)の倅が井戸に身を投げ心中した事件を詠んだ句であるという。「井にうかぶ番(つが)いの果や秋の蝶」。

中央には「朝日堂」と刻まれた碑。
清源院には「鎌倉郡三十三箇所観音霊場」二十二番札所となる朝日堂(本尊は十一面観世音菩薩像)があった。こちらは「明和四(1767)丁亥(ひのとい)法譽了音信士 九月二十八日」と刻まれている。

左には庚申塔(こうしんとう)。塔身には青面金剛(しょうめんこんごう)、台座に三猿が彫られている。庚申塔には申(さる)の字にかけて三猿が彫られているものも多い。
縦に左半分が削れてしまっている年号は「元禄九(1696)丙子(ひのえね)年」と読める。




梵鐘。昭和四十年十二月、総本山知恩院門主量譽信宏、などと刻まれている。「新編相模」によると同書編纂当時に清源院にあった梵鐘は安永三年(1775)の鋳造だった。




清源院を後にして旧東海道へ。バスセンター横を通過。




澤辺本陣跡。
澤辺家は戸塚宿の開設に力を尽くした。旧東海道でも戸塚宿の前後の区間は徳川の治世となってから街道として整えられた道。戸塚郷は藤沢宿、保土ヶ谷宿のはざまで宿場の開設が立ち遅れていた




八坂神社。




由来の案内によると八坂神社は戦国時代の元亀三年(1572)、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)を勧請したのが始まり。やがて荒廃してしまったが元禄元年(1688)に御真体が地中から掘り起こされて再興した。八坂社と改められたのは明治初年。




中央に「御真体出現地」の碑。




夏に行われる無形民俗文化財の「お札まき」。

続いて富塚古墳へ。




冨塚八幡宮。

源頼義が前九年の役で康平五年(1062)に戦功を得たことを守護神に感謝して延久四年(1072)に創建したのが始まり。




「富塚古墳(とみづかこふん)」に関する案内は八幡宮境内の由緒案内板に載っている。




社殿へ。




拝殿。




社殿背後の社叢林が富塚古墳。




富塚古墳へは鳥居の手前、神社隣りのオーディオ工房の脇から路地を入っていく。




こちらには案内は一切ない。









登っていくと、右手に広場。一帯は富塚八幡緑地として整備されている。




秋の山野草、ホトトギスが咲いていた。




さらに登っていった先は、立ち入りが制限された古墳の墳丘になっている。




墳丘の北隣りの平場には園路が付けられている。




隣りの平場から見る円墳の墳丘。

富塚古墳は小型の前方後円墳。八幡宮境内の案内板にあるようにこの古墳は富属彦命(とつぎひこのみこと。相模国造・弟武彦命の二世孫にあたる県主)の古墳と伝わっており、富塚と称されたことが戸塚の地名の由来となっている。
長らく調査の入らなかった富塚古墳だが、平成22年(2010)に冨塚八幡宮の協力のもと横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターによる測量調査が入った。調査期間中に埋蔵物を発見することはできなかったそうだが江戸時代以降は宿場町として多くの人口を抱えた戸塚のこと、きっと早いうちから色々と掘り起こされてしまったのだろう、という想像が頭をめぐる。
参考「埋文よこはま23」「かながわの神社」




西の眺めがいい。大山(1252m)から丹沢山(たんざわさん。1567m)、丹沢三ッ峰が見える。




イスとテーブルが設けられた平場。




古墳から再び八幡宮境内へ。




途中の稲荷社。前方後円墳を構成する極小さな前方墳は後円墳の南東側にくっついており、この社の奥の高みの辺りがそれにあたるようだ。




八幡宮境内の芭蕉句碑「鎌倉を生きて出でけむ初松魚(かつお)」
案内板には鎌倉で水揚げされた初鰹は戸塚を経由して江戸へ運ばれたとある。吉田の大橋のたもとから分かれる「かまくらみち(吉田道)」からであろう。戸塚にもゆかりがあるといえるこの句の碑が戸塚の俳人により嘉永二年(1849)に建てられた。

冨塚八幡宮を後にして、旧東海道を先へと進む。




上方見附跡。戸塚宿の西の端。




戸塚宿を後にするとすぐに始まる、大坂(おおさか)。


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