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鶴見川流域、新進の気風・伝統の心。


東急東横線・大倉山駅から西の大倉山公園、東の師岡熊野神社・市民の森を巡り、獅子ケ谷横溝屋敷から市民の森を経て菊名駅まで歩く。

1.大倉山記念館、大倉山公園梅林




東急東横線大倉山(おおくらやま)駅前。標高約5m。

駅から西に向かって延びる通りは、「エルム通り」と称される。
事の発端は昭和53年(1978)、港北区総合庁舎が菊名から大倉山・大豆戸(まめど)交差点角に移転してきた頃。その当時、駅を挟んだ東西の通りを拡幅・整備する計画が持ち上がった。
折しも丘の上に建つ大倉精神文化研究所本館が市へ寄贈され、大倉山記念館となる。そこで西口側は記念館にちなんで白を基調にエーゲ海のイメージを打ち出すことを計画、改修に着手。
話題となった計画は、話を聞き及んだギリシャ政府観光局の肝いりでアテネのエルムー通りとの姉妹提携構想まで発展し、現在に至っている。
参考文献・わがまち港北。




駅前から大倉山公園への急坂を登っていく。




大倉山公園。広さは6.9ヘクタール(100m四方×6.9)。市の公園となったのは昭和59年(1984)であるが、それ以前からの歴史は長い。

昭和6年(1931)、東京横浜電鉄(現東急)が乗客誘致を目的に太尾(ふとお)駅近くに梅林を整備・公開、太尾公園と名づけられる。
昭和7年(1932)、梅林の隣接地に大倉精神文化研究所が設立され、本館が建つ。
昭和9年(1934)、駅名、公園名を大倉山駅、大倉山公園に変更。
昭和12年(1937)には3ヘクタール、約千本の規模の大梅林となった。戦時中には燃料(薪)にするため伐採され跡地は畑となる。戦後、梅林復活作業が進む。

昭和56年(1981)、市が大倉精神文化研究所本館一帯の敷地を買収、整備。昭和59年(1984)、大倉山公園(現)として開園。
昭和61年(1986)、市が梅林を買収。平成元年に大倉山公園(現)の一部となる。

平成19年(2007)には所在地の太尾町が住居表示実施により大倉山二丁目となった。




大倉山公園案内図。 拡大版。




大倉山記念館。このあたりで標高約44m。

前身は大倉精神文化研究所本館。昭和7年(1932)築。実業家・教育者である大倉邦彦(1882〜1971)により設立された、東西文化融合の研究所。
今では本館だけが残るこの研究所は、現在に至るまでに様々な歴史を重ねてきた。

東洋大の学長も務めていた大倉は、戦時中にはこの地に旧制高校の設置を目指していたが、戦局の悪化により計画は中止された。
また、海軍に徴用されて気象部が置かれていたこともあった。
終戦後の財政困難期には研究所の図書館が国会図書館の支部図書館として利用された時期もある。これらの歴史は「わがまち港北」に詳しい。

昭和56年(1981)、建物が市に寄贈される。大改修を経て昭和59年(1984)、大倉山記念館として利用開始。




本館前に広がる庭は、研究所開所当初には日本列島をかたどった植栽がなされ「地理曼荼羅(ちりまんだら)」と名付けられていた。研究所全体を世界に見立て、世界と日本、更には建物を一人の人間と見立て、三位一体を表した、とされる。




本館の設計は古典主義様式の大家、長野宇平治(ながの うへいじ。1867〜1937)。日銀本店別館をはじめとした数々の銀行建築、中華民国総統府(旧台湾総督府。基本設計)などを手がけた。

この建物の様式は設計者自身によりプレ・ヘレニック(プレ・ヘレニズム。ヘレニズム以前)と名づけられた。ひとくちにヘレニズム以前というが、より詳細にはギリシャ有史(古代ギリシャ文明)初期における神殿建築が見受けられるほか、ギリシャ先史のミュケナイ(ミケーネ文明)、クレタ島(ミノア文明)の建築様式も含まれる、という。

また、両翼を従えた建物全体の形は平等院鳳凰堂のイメージがおそらく反映している、といわれる。




玄関ポーチはギリシャ有史初期、アテネをはじめ各地にアクロポリスが築かれたころ(紀元前400年代ごろ)のギリシャ神殿風。かの有名なパルテノン神殿などのスタイル。




柱の上、三角のペディメント(破風・はふ)の妻壁(つまかべ)には、東洋で吉事の前兆(瑞兆)として現れる鳥・鳳凰のレリーフが見られる。




館内へ。




エントランスホールから階段を上がった先は、ホール(講堂)入口。玄関周りからこのあたりにかけての装飾がギリシャ先史・ミケーネ文明(紀元前1400年代ごろ)における城門や墳墓をモチーフとした、ということであろうか。

なおホール内部は団体利用が切れ目なく入っており、見学はできなかった。かつて「殿堂」と呼ばれたホール内には、柱の天井際に日本における寺社建築様式の斗供(ときょう)がみられる、という。




見上げれば、エントランスホールとなる中央館の天井は二十メートルを超える吹き抜けとなっている。塔の上部には色ガラスがはめられ黄金色の光が差し込む。




窓と並ぶ柱の下には鷲と獅子のテラコッタ(素焼き)の像。西洋において神の使いといわれる鳥獣の王者を配し、人間をじっと見守っている。

エントランスホールはかつて「心の間」と呼ばれた。この建物は全体を通して和と洋の建築形式・モチーフを時代を超えて様々に融合し、人間のあるべき心の在り方(天は見ている。常に誠の心をもたねばならない)に通じる思想を表現している。大倉は心血を注いで、この建物にとって最も重要なこの空間を創りあげた。




ギャラリー(かつては「回廊」と呼ばれた)への入口。入口手前の円柱がエーゲ海に浮かぶクレタ島・クノッソス宮殿(ミノア文明。紀元前1900年代ごろ)に見られる下細まりの様式になっている。こうして奥に行くほどに時代が遡っていく。

1867年生まれの長野が活躍した時代は、ヨーロッパの考古学者による発掘調査によってギリシャ先史時代(エーゲ文明と総称)がようやく明らかになってきた頃。長野もまた、大倉の意を受けてその持てる知見をいかんなく発揮し、自身の建築の集大成ともいうべきこの建物を設計した、とはいえまいか。




西館。喫茶室も設けられている。









記念館から梅林へ向かう。




大倉山公園梅林。
約1ヘクタール(100m四方×1)の敷地に、約200本の梅が見られる。









この梅林は元は昭和6年(1931)、東京横浜電鉄(現東急)が乗客誘致を目的に整備・公開したもの。
昭和12年(1937)には3ヘクタール、約千本の規模の大梅林となった。

戦時中には燃料(薪)にするため梅は伐採され跡地は食糧増産のため畑になった。終戦後、梅林復活作業が進む。
昭和61年(1986)、市が東急より買収。平成元年(1989)、大倉山公園(現)の一部となった。




白梅「野梅・やばい」




紅梅「唐梅・とうばい」




梅の花見シーズンには出店で賑わう梅園。









花見の梅園めぐりはこちら。




大倉山公園から師岡(もろおか)熊野神社へ向かう。
公園詰所の前から画面の道を左へ進み跨線橋を渡っていく道の方が若干近いが、もと来た道を駅へ戻る方が分かりやすい。


2.師岡熊野神社、熊野神社市民の森へ。  まち歩きトップへ戻る。