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箱根の近代土木遺産と建築・庭園めぐり


平成28年(2016)11月下旬に差し掛かる時期、紅葉シーズンを迎えた箱根のまちを歩き、谷を歩く。
今回の箱根めぐりでは、一日乗車券「トコトコきっぷ」を利用する。この切符で小田原駅〜箱根湯本駅〜強羅駅の登山鉄道全線と強羅駅〜早雲山駅のケーブルカーが乗り降り自由となる。
「トコトコきっぷ」は「箱根フリーパス」のような磁気キップではないので、小田急小田原駅の窓口で購入。

なお、この年の南関東は11月に気温の低い日が多かったため、横浜の丘陵など平野部でも紅葉の始まりが例年より一週間ほど早く、日当たりのよい場所では11月23日頃には見頃を迎えた。箱根も例年よりは若干紅葉が早まっていたのではないだろうか。


1.箱根湯本駅から湯本温泉・塔之沢温泉、登山電車の車窓




11月18日、朝の7時過ぎ。
箱根登山鉄道の始発駅である小田原駅(標高14m)は、小田急線小田原駅ホームに同居する。そのホーム端頭に設置されている、土木学会選奨土木遺産の認定プレート。


箱根登山鉄道は平成19年(2007)、その全線が土木学会から土木遺産に認定された。

箱根登山鉄道は、明治中期までに先行した小田原〜箱根湯本間に続いて明治45・大正元年(1912)箱根湯本(はこねゆもと)〜強羅(ごうら)間の敷設工事を開始。6年半の歳月を経て大正8年(1919)に開業した。
途中3か所で進行方向を逆にするスイッチバックが設けられ、最大で80‰(80パーミル。1000分の80)の急勾配や半径30mの急カーブをグイグイと登っていく。これらの勾配や曲線は、後に制定された軌道建設規程の基準をはるかに上回る数値。
80パーミルというとピンとこないが、例えて言うなら大都市の地下鉄でひと駅(およそ1q)進むうちに80mの高層ビルの高さを登るような角度の区間がある、ということ。




朝7時30分、箱根湯本駅(標高96m)に到着。ここで小田急型の車両は終わり、ここから強羅駅までは登山電車に乗り換える区間。
ホームに登山電車の旧型車両が停まっている。空色と黄色の塗装は昭和20年代の旧塗装が復元されたもの、とのこと。

今回はタイトなスケジュール。とはいえ、箱根登山電車沿線は電車・バスとも交通至便なので乗り継ぎの心配はほとんどない。まずは湯本から駅を出て塔ノ沢駅まで、国道一号沿いを歩く。




箱根湯本駅を出発した線路は、早速急勾配に差し掛かる。




上り電車が下りてきた。登山電車は山登り(強羅行)が「下り」、山下り(箱根湯本行)が「上り」と、ちょっとややこしい。どこかの家電量販店の「不思議な不思議な池袋〜東が西武で西、東武」みたいだ。

もしも山を下りるつもりで上下線が同じホームの途中駅で待っていて、アナウンスで「上り電車が参ります」とやられたら混乱しそう(実際のところは、彫刻の森駅では「湯本行が参ります」みたいな感じだった)。




国道一号、箱根湯本の温泉街。正面に湯坂山(ゆさかやま)。中世までの東海道・湯坂路(ゆさかみち)が尾根筋を通っていた。




広重画「七湯方角略図」。  拡大版  画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション 

手前の三枚橋(さんまいばし)を渡ると江戸時代の東海道である箱根旧街道(箱根八里)。三枚橋を渡らずにまっすぐ進み、次の橋(旧旭日橋)を渡ると湯本。現在の東海道(国道一号)は、江戸時代には裏街道の七湯道(ななゆみち)であった。

箱根七湯(はこねななゆ)は湯本(ゆもと)、塔之沢(とうのさわ)、堂ヶ島(どうがしま)、宮ノ下(みやのした)、底倉(そこくら)、木賀(きが)、芦之湯(あしのゆ)の七湯。現在は「箱根二十湯」といわれるなか、箱根で最も古い温泉郷。

時代が幕末から明治へと移る中、明治前半の交通手段は未だに徒歩や駕籠あるいは外国人向けに椅子をくくりつけたチェア駕籠、乗馬が主であった。

小田原から湯本までは、福住旅館の当主・福住正兄(ふくずみ まさえ)らにより明治8年(1875)から数年がかりで人力車の通れる道路を建設。明治21年(1888)には小田原馬車鉄道が湯本まで乗り入れ、明治33年(1900)には全線電化により小田原電鉄となる(後の箱根登山鉄道)。
しかし湯本から先は、明治20年(1887)までに富士屋ホテル創業者・山口仙之助により宮ノ下まで道路拡幅が完成したものの依然として幅員が充分とは言えず、道は険しいまま。小回りの利かない馬車は到底入ることが出来ず、せいぜい人力車までという旧態然とした交通手段に拠っていた。
更に芦之湯村、箱根村の出願によって宮ノ下から芦之湯、芦ノ湖畔までの道路が完成したのは明治37年(1904)。

こうして開かれていった旧七湯道は明治41年(1908)、国道一号となる。
他方、湯本〜強羅の登山電車は前述のとおり大正8年(1919)の開通を待たねばならない。

参考 「かながわの橋(かもめ文庫)」 「神奈川の東海道(上)」 「箱根登山鉄道125年のあゆみ」




国道一号沿いに進むと現れる、旭日橋(あさひばし)跡の碑。




碑に見る旧旭日橋の古写真。明治18年(1885)に開通した箱根で最初の西洋式の橋、とある。案内文には吊り橋とあるが、残っている写真は木の板を張ったトラス橋。人力車も渡るこの橋は、川に対してほぼ直角に架けられている。
対岸の右手には福住旅館(ふくずみりょかん。萬翠楼福住・ばんすいろう ふくずみ)の金泉楼(きんせんろう)・萬翠楼(ばんすいろう)が見える。

旧旭日橋は新道の開通に伴い明治26年(1893)、現在の旭橋の位置に移された。




福住旅館金泉楼・萬翠楼。福住旅館(萬翠楼福住)の創業は寛永二年(1625)。

金泉楼は明治10年(1877)竣工。萬翠楼は明治11年(1878)竣工。いずれも木骨石造壁で建てられ、明治初期に全国各地に見られた擬洋風建築の様式となっている。
擬洋風建築とは明治初期の大工が日本の伝統的な木造建築の骨組みをベースにして外装に西洋建築の意匠を取り入れて建てた、文明開化期の建築。
当時の当主は福住正兄(ふくずみ まさえ)。若き日に小田原の農聖・二宮尊徳の元で学んだ正兄は箱根屈指の旧家・福住家に養子として迎えられ、湯本の発展に尽くした。なお小田原城内に建立された報徳二宮神社は正兄が発起人となってる。

公式サイトに見る客室は趣向を凝らした数寄屋風書院。花鳥風月の天井画が描かれた格天井(ごうてんじょう)の間など、細部にわたり手が込んでいる。一方、共用部分には螺旋階段といった洋風の意匠が見られる。

金泉楼・萬翠楼は営業中の宿泊可能な旅館建築としては全国で唯一、国指定重文となっている(平成28・2016年11月現在)。




金泉楼。三階部分のアーチ窓がちらりと見える。




萬翠楼。紅葉が落葉する頃には一、二階部分の意匠が早川越しに確認できそう。明治期の写真に見られる陸屋根(りくやね)は、現在では寄棟(よせむね)になっている。




広重画「箱根七湯図会(はこねななゆ ずえ) 湯本」画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

早川(はやかわ。右奥へと続く)とその支流の須雲川(すくもがわ)の合流点あたりであろうか。とすれば、手前は江戸時代の箱根旧街道、奥の橋は旧旭日橋の辺りであり、その先が七湯道となる。旧旭日橋を渡った右手が福住旅館。




旭橋(あさひばし)。昭和8年(1933)竣工の鉄筋コンクリート製アーチ橋。道を滑らかな線形にすべく、川に対して斜めに架けられている。親柱には洋風の丸いグローブ型照明が見られる。




関東大震災(大正12・1923)の後に築造されたこの橋は、自動車交通の時代を迎えた近代箱根路を象徴する土木遺産。




美しいアーチを描く橋。この先の函嶺洞門、千歳橋とともに箱根温泉街の入口のシンボルとなっている。




続いて函嶺洞門(かんれい どうもん)。昭和6年(1931)竣工。

箱根国道は関東大震災(大正12・1923)により随所で大崩落を起こした。この崖下も、それまでの防護工では功を奏さないためロックシェード(シェルター)の方式が採用された。その構造は、採光のために「開腹隧道」の形式が採られた。
参考 (社)土木学会 土木図書館デジタルアーカイブ 戦前雑誌コレクション「土木建築工事画報」第7巻第4号(昭和6年4月発行)。

函嶺洞門は幅員が狭いため、平成26年(2014)から迂回路が設けられており現在は通行できない。




中国の王宮をイメージしたというその美しいフォルムは、箱根の温泉場を訪れる当時の西洋人客を意識したもの。長年の間、箱根駅伝のチェックポイントとしてその姿が中継映像で親しまれてきた。

函嶺洞門を過ぎたあたりから塔之沢温泉に入っていく。




続いて千歳橋(ちとせばし)。昭和5年(1930)竣工。




こちらの親柱の照明は和風の燈籠となっている。

平成17年(2005)に土木学会の土木遺産に認定された千歳橋、函嶺洞門、旭橋は平成27年(2015)に「国道一号箱根湯本道路施設」として一括して国指定重文となった。
神奈川県下では旧横浜船渠の一号・二号ドックとならぶ国指定重文土木遺産。




千歳橋から早川の渓谷を見下ろす。11月下旬に差し掛かったばかりのこの時期、日陰になりがちな渓谷の谷底あたりの紅葉はまだ「色づき始め」といったところ。




福住楼(ふくずみろう)。明治20年(1887)〜昭和初期にかけての建築。国の登録有形文化財。

福住楼の歴史は江戸時代に遡るが、元は塔之沢の他所で営業していた「福住喜平治」という旅館であった。そちらは明治23年(1893)に経営者が澤村高俊(熊本藩細川氏の家臣)に変わっている。他方、現在地の福住楼主屋は別の経営者による「玉の湯」という旅館であったが、明治40年(1907)頃から澤村との共同経営となり、明治43年(1910)に福住楼となった。
参考 「箱根の近代建築 旅館建築」




玄関部分の立派な唐破風(からはふ)。現在の玄関周りは明治20年当時のもの。壁は白いタイルが張られた洋風の外観。

国道一号に面した間口は小さく見えるが、早川沿いに延びてゆく建物の奥行きは非常に深い。
公式サイトに見る館内は、各部屋ごとの欄間(らんま)、書院障子の組子(くみこ)、床脇(とこわき)などにたいへん手の込んだ意匠が見られる数寄屋風書院建築となっている。また、夏を大家族で過ごした大広間や、紅葉の大丸風呂など、小田急ロマンスカー歴代CMの舞台としても印象深い。




玉の緒橋からの早川。




玉の緒橋のたもと、一の湯(いちのゆ)本館。明治40年(1907)頃の築。国の登録有形文化財。

一の湯本館は木造4階建の堂々たる旅館。一の湯の創業は江戸時代初期の寛永七年(1630)。創業者の小川知頼以来、15代にわたり創業家による経営が続けられてきた。
参考 「箱根の近代建築 旅館建築」

公式サイトで見られる最上階の大広間「神山」は格天井(ごうてんじょう)に欄間といった和風の意匠にシャンデリアなど洋風の意匠がミックスされている。現在では床は畳敷きから板張りに改装されダイニングとして利用されている。




道路を挟んだ向かいには、環翠楼(かんすいろう)。大正8年(1919)改修。国の登録有形文化財。

国道一号に面した北棟は木造4階建。道路からは3階建に見えるが、地下一階が早川に面した隣りの棟の一階と繋がる、複雑な造りになっている。
江戸時代の七湯めぐりの手引き「七湯の枝折(七湯栞)」によればその頃より「元湯」と称した、塔之沢温泉の老舗。創業は慶長19年(1614)。
「環翠楼」の名は明治23年(1890)から。当時「鈴木楼」と呼ばれていた旅館に伊藤博文が宿泊、当主に贈られた漢詩の中から環翠楼の三文字が旅館名に採用された。
参考 「箱根の近代建築 旅館建築」




隣りの南棟。こちらは大正8年(1919)築。

御殿のような、堂々たる入母屋千鳥破風(いりもや ちどりはふ)の屋根が目を引く。
公式サイトに見るこちらの見どころは、四階にある書院造の大広間「神代閣」。格式の高い「二重折上げ格天井(にじゅう おりあげ ごうてんじょう)」が用いられている。大寺院や御殿で用いられるその様式は、県内の伝統建築ではなかなかお目にかかれない。




広重画「箱根七湯図会 塔乃澤」画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

これはおそらく玉の緒橋から先の絵。橋を渡った右手が一の湯、左が元湯(環翠楼)。




広重「東海道五十三対 箱根 塔乃澤湯治場の図」画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。


ここで少し引き返して、塔ノ沢駅への急坂を上っていく。




福住楼。建物は早川に沿ってさらに奥へと延びていく。




環翠楼。上から見ると、より一層の迫力がある。




塔ノ沢駅(標高153m)に到着。塔ノ沢駅は無人駅。




駅舎に接しているのは強羅方面ホーム。

ホーム両端はそれぞれトンネルとなっており、山峡の駅といった風情。向かい側の湯本方面ホーム奥には深沢銭洗弁天・火伏観音がある。




湯本方面ホームへは、平成5年(1993)に三両化に対応して拡幅されたトンネル上の階段から移動する。




階段上から見下ろす。




階段の上は塔ノ峰・明星ヶ岳ハイキングコース(登山道)の登山口ともなっている。駅構内が登山口ということになる。




強羅方面側のトンネル(大ケ嶽隧道)。古そうな石積み、アーチ部分がレンガ造りのこちらは開業当時(1919)のままか、あるいは関東大震災(1923)後に修復されたのか。




トンネル内部。急勾配の線路が出山(でやま)方面に登っていくのが見える。




反対側の「塔の峰隧道」はトンネル内の明かりが下っている。




火伏観音(ひぶせ かんのん)。




深沢銭洗弁天(ふかざわ ぜにあらい べんてん)。観音も弁天も、ともにホームからしか参拝できない。とはいえ、無人駅なので参拝目的だけでも自由に出入りできる。

この弁天様は箱根湯本観光協会のサイトによると大正15年(1926)、塔之沢に度々宿泊していた実業家により建立された。




お堂の奥へ。




奥には岩穴の祠。




意外と奥行き感のある、境内。




お堂の下は湧水があり、池になっている。




湯本方面の電車がやって来た。箱根登山電車とか江ノ電とか、こういった距離感・雰囲気が何とも言えず、いい。




強羅方面ホームにある、塔之沢温泉の案内板。大ヶ嶽隧道の側の道は宿を訪れる観光客が通れるような道ではないのか、消されている。

ここで強羅方面の電車最後尾に乗り、宮ノ下駅へ向かう。塔ノ沢駅〜大平台駅〜宮ノ下駅は、最も箱根登山電車の魅力を味わえる区間。




最後尾から眺める、早川橋梁(出山鉄橋)。
出山鉄橋(でやまてっきょう)は通称だが、こちらの方が通りがいい。早川橋梁だと河口近くの東海道本線のそれみたいだ。




鉄橋を渡りきった。

この鉄橋は、元は明治21年(1888)に製造された東海道本線の天竜川橋梁(明治22年全線開通)。架け替えで撤去されたものが箱根登山鉄道の建設時に移設された。前身まで含めれば、現役では日本で二番目に古い鉄道鉄橋となる。
参考 (社)日本橋梁建設協会>出版物>100年橋梁。

開業当初から架かるこの鉄橋は関東大震災(大正12・1923)にも耐えた。全線が土木遺産に認定された箱根登山鉄道のなかで、出山鉄橋は国の登録有形文化財となっている。




最初のスイッチバック、出山信号場(標高222m)に停車する最後尾車両から眺める出山鉄橋。鉄橋は深さ43mの谷に架かる。手前には旅館専用の吊り橋。

紅葉の見頃となるには、強羅あたりが見頃になったばかりのこの時期では、さすがにちょっと早い。

スイッチバックにより、最後尾は今度は先頭となって先へと進む。




二度目のスイッチバックとなる大平台(おおひらだい)駅(標高337m)。登山電車で唯一、下車可能なスイッチバック。大平台駅は、国道一号大平台ヘアピンカーブのちょうどピンの口に挟まるような位置にある。

最新鋭の、窓ガラスが大きな新型車両が停まっている。




待機していた湯本方面への電車が先に出ていく。運転士さんと車掌さんが入れ替わっている間に最後尾車両に戻り、出発待ち。




三度目のスイッチバック、上大平台(かみおおひらだい)信号場。標高346m。カーブが急だ。

大平台駅の出発時に再び最後尾となった車両は、上大平台信号場でもういちど先頭となって、そのまま強羅駅まで進む。




急カーブの橋梁を渡る。




宮ノ下駅(標高436m)で下車。乗ってきた電車を見送り。




構内踏切の向こうに、宮ノ下駅の駅舎。アルプス以北のヨーロッパにおける伝統建築である、ハーフティンバー(構造材を外壁に出す様式)風の建物。


2.宮ノ下から堂ヶ島渓谷遊歩道、太閤石風呂通りへ。  まち歩きトップに戻る。  四季だより歳時記トップへ。