まちへ、森へ。

箱根の近代土木遺産と建築・庭園めぐり

2.宮ノ下から堂ヶ島渓谷遊歩道、太閤石風呂通りへ

 

1.箱根湯本駅から湯本温泉・塔之沢温泉、出山鉄橋はこちら。

 

 

箱根登山電車・宮ノ下駅(標高436m)。アルプス以北のヨーロッパにおける伝統建築様式であるハーフティンバー(構造材を外壁に出す様式)風の駅舎。

 

時刻は8時50分過ぎ。宮ノ下、堂ヶ島、底倉(そこくら)と巡っていく。

 

 

 

宮ノ下温泉街の散策案内マップ。 拡大版

 

宮ノ下温泉からは堂ヶ島渓谷を散策し、木賀(きが)温泉入口から底倉(そこくら)温泉・蛇骨渓谷(じゃこつけいこく)沿いの太閤石風呂(たいこう いわぶろ)を見に行く。

 

 

 

駅から国道一号へ下りてきて小涌谷(こわきだに)方面へ少し進むと、堂ヶ島渓谷遊歩道への入口がある。廃業してしまった晴遊閣大和屋ホテルの専用ロープウェイ看板が目印。
※堂ヶ島渓谷遊歩道は平成28年(2016)現在の状況となります。

 

渓谷に下りる前に宮ノ下のシンボル・富士屋ホテルを見に行く。

 

 

 

国道一号を進む先、富士屋ホテル食堂棟の塔屋が見える。右手にはかつての奈良屋旅館の跡に建つ、エクシブ箱根離宮。

 

 

 

左手に嶋写真館。富士屋ホテルの写真部門として、ホテルとともに歩んできた。建物は庇や窓などに昭和初期に流行したアール・デコの装飾が取り入れられている。ショーウィンドウには古写真が飾られている。

 

右手奥には富士屋ホテル建築群によく似た色合いの建物。

 

 

 

富士屋ホテルの前、その建物はカフェ・ド・モトナミ。黄土色の壁に緑青の入母屋屋根。富士屋ホテル建築群をオマージュしているのかと思いきや、元は富士屋ホテルのバス待合室だった建物。カフェに改装して利用されている。

 

右手には老舗の伝統工芸品店、山田屋。その歴史は「七湯めぐり」の江戸時代に遡る。寄棟の和風建築は築100年を超え、宮ノ下の景観を形作る大切な要素。

 

 

 

富士屋ホテル前。

 

 

 

富士屋ホテルのシンボル、花御殿(はなごてん)。鉄筋コンクリート造、昭和11年(1936)竣工。国の登録有形文化財。

 

 

 

黄土色の外壁に朱塗りの高欄(こうらん。手すり)。軒唐破風(のきからはふ)の裳階(もこし。庇)をめぐらせ入母屋千鳥破風(いりもや ちどりはふ)の緑青大屋根を載せた、優雅な姿。
玄関は堂々たる唐破風(からはふ)。一階の外壁は校倉造(あぜくらづくり)を模している。

 

 

 

食堂。鉄筋コンクリート造・木造、昭和5年(1930)竣工。国の登録有形文化財。

 

花御殿や食堂の意匠には三代目山口正造の意向が強く反映しているという。
天井画の描かれた格天井(ごうてんじょう)など和の意匠を基調にして、南洋風の装飾が施された和洋折衷の壮麗なメインダイニング「ザ・フジヤ」は二階。
富士屋ホテル公式サイト

 

 

 

本館。木造、明治24年(1891)竣工。国の登録有形文化財。

 

富士屋ホテルは明治11年(1878)、横浜の実業家山口仙之助(やまぐち せんのすけ)により創業。江戸時代よりこの地で営業していた「藤屋旅館」を買い取り、箱根で最初にホテルとして営業を始めた。
富士屋ホテルは開業以来、もう一つの老舗であった奈良屋旅館との激しい顧客獲得競争の末、外国人専用ホテルとして営業するとの協定を明治26年(1893)に結ぶ。そうした経緯もあり、西洋人に喜ばれそうな和洋折衷の東洋趣味の建築群が今に残っている。

 

参考 「箱根の近代建築 富士屋ホテル」

 

 

 

広重画「箱根七湯図会 宮ノ下」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

 

眼下に早川の渓谷を望む。描かれた宿はかつての老舗・奈良屋旅館(現在はエクシブ箱根離宮)のあたりか。
宮ノ下温泉は、伝承によれば平安時代の万寿二年(1025)に発見された。

 

 

富士屋ホテルから引き返し、堂ヶ島渓谷の入口へ。

 

 

 

国道一号から、専用ロープウェイ看板のあたりを下りていく。

 

 

 

渓谷への道。

 

 

 

この先、渓谷へと続くつづら折りの急坂を下りていく。

 

 

 

途中に小さな赤い祠。

 

 

 

渓谷遊歩道へと通じるトラス橋を見下ろす。

 

堂ヶ島渓谷遊歩道(早川渓谷遊歩道)は、「チェンバレンの散歩道」とも呼ばれる。
チェンバレンとは、明治期の日本に長期滞在したお雇い外国人のイギリス人バジル・ホール・チェンバレン。数々の日本文学論や旅行案内を執筆し、明治後期には富士屋ホテルにも逗留した。

 

 

 

案内板は「木賀35分」とあるが、あれこれ見ながらゆっくり散策すれば小一時間はかかる。

 

「木賀」と書かれているのは遊歩道の上流側出口がバス停「木賀(きが)温泉入口」となっているからか。バス停のあたりは底倉(そこくら)温泉の端でもあり、途中の道標には「底倉」と書かれているのもある。「木賀」「底倉」とも江戸時代の箱根七湯(はこねななゆ)の一つ。

 

 

 

平成28年(2016)11月現在、渓谷遊歩道への通路を残して茶色の工事用フェンスで囲われた堂ヶ島温泉。

 

かつて存在した「晴遊閣大和屋ホテル」「対星館」は同時期に廃業し、再開発の計画が進んでいる。跡形もなくなった建物の、コンクリート基礎だけが物寂しい。しかし、ここまでどうやって重機が入ったのだろう。

 

 

 

振り返れば、結構深くまで下りてきた。国道一号沿いの入口がおよそ420〜410m、谷底はこのあたりでおよそ330〜320m。

 

 

 

対星館による案内板が残っている。

 

 

 

案内板の先へと進む。

 

 

 

トラス橋に到着。

 

 

 

「夢想橋」と名づけられたこの橋は、昭和52年(1977)竣工。

 

 

 

紅葉が美しい。

 

 

 

橋から見下ろす、早川の渓流。下流の塔之沢や出山あたりよりも紅葉は早く、だいぶ色づいている。

 

 

 

この橋は、かつては対星館専用ケーブルカーの渓谷側のりばから宿へと続く道の一部でもあった。その様子は現在(2016年11月)でもまだ残っている対星館のウェブサイトで見られる。

 

ケーブルカーのりばだったあたり(橋からやや下流寄りでもう一つ橋を渡る)は現在はフェンスで遮られ通行できない。再開発の完了する頃、堂ヶ島渓谷遊歩道へのアクセスを含め、この橋はどうなっているのだろうか。

 

 

 

広重画「箱根七湯図会 堂ヶ島」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

「七湯栞」堂ヶ島部より堂ヶ島白糸乃滝図
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

早川渓谷の底に湧く温泉場、堂ヶ島温泉。各画像右手の滝は江戸時代の七湯めぐりの手引き「七湯の枝折(七湯栞)」にも記載された、白糸の滝。トラス橋の下流、左岸側に掛かっているが見に行くことはできない(地理院地図・電子国土Webを参照)。

 

「七湯栞」には堂ヶ島の湯宿五軒が記載され「大和屋」の屋号も見られる。

 

 

 

明治期の堂ヶ島温泉。山の上の建築群は宮ノ下の富士屋ホテルのようだ。とすると画面の滝らしき二筋の流れが掛かるのは早川の右岸側ということになる。
「日本之名勝(明治33・1900年発行)」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション

 

解説文には「旅舎は近江屋、大和屋、江戸屋の三戸にして、別に平松某氏の別荘あり、其庭内にある調の滝は、高さ十五丈(45m)、幅五尺(150cm)、形数条の弦を懸けたるが如く、水声また琴音と相似たるを以てこの名ありと云い伝う、別にこの地と宮ノ下との間にも、瀑布ありて、木葉隠の滝と称し、共に山中の絶勝を以て称せらる」とある。
記述に見られる「平松某氏」とは銀行家・平松甚四郎。二つの滝のうち「調の滝」はかつての対星館敷地内にあった「調べの滝」か。

 

 

 

橋から上流へと遊歩道をたどる前に、下流側へすすみ夢窓国師閑居跡を見に行く。堂ヶ島温泉は夢窓国師によって開かれたという伝承がある。

 

 

 

朱塗りのお堂が建つ、閑居跡。鎌倉〜室町期における臨済宗の高僧・夢窓疎石(むそうそせき。1275〜1351)が庵を結んだ跡、と伝わる。献燈には小田原や宮ノ下の対星館出入商の名が刻まれている。

 

 

 

鎌倉時代後期の坂東における禅の文化は質実剛健な気風が反映されたものであっただろう。禅文化が日本に導入された初期の頃の禅は、自然の奥深くに分け入って座禅を組むことで、己に対峙する。こうした思想は鎌倉・瑞泉寺の庭園にも表れているように感じられる。

 

なお対星館のサイトによれば、その屋号は夢窓国師が夜空の星に対して座禅を組む姿にちなんでつけられた、とある。一方、鎌倉瑞泉寺の庭園は岩を掘った池に映る月を前に座禅を組む、水月観の道場であった。

 

 

 

由緒が刻まれた石碑など。

 

 

 

渓谷遊歩道へ。

 

 

 

紅葉の始まった渓谷。

 

 

 

最初は桟道を歩く。

 

 

 

道はすぐに岩混じりの道となる。

 

 

 

登山道の登り始めのような道が続く。

 

 

 

つづら折りの山道で渓流を離れて登っていく。

 

 

 

 

 

 

 

遊歩道とはいえ、足元は良くない。この辺りはハイキングコースといった方がいい道。雨上がり後は乾きにくそうな道なので滑りやすい底の靴は避け、できればトレッキングシューズが望ましい。

 

 

 

木橋を渡る。

 

 

 

やや傾斜のある岩は、いい具合に削り階段状にされている。

 

 

 

 

 

 

 

水力発電所の施設が現れた。
これは東京電力の塔之沢発電所・1号開渠(かいきょ)。このあたりを流れゆく水はこの先(歩いてきた手前側)で暗渠のトンネルを延々と流れ、やがて水圧管(水路)でおよそ200mの落差を一気に落とされて早川下流にある塔之沢発電所の発電機を回す。地理院地図(電子国土Web)を参照。

 

東京電力のサイトによると、塔之沢発電所の運転開始は明治42年(1909)とあり、かなり古い。
明治20年代、湯本(ゆもと)の老舗旅館・吉池(よしいけ)のあたりで箱根初(関東初)の水力発電が始まり、湯本から塔之沢にかけての温泉場に電力が供給されるようになった。それからおよそ20年、この発電所は温泉場の発展に伴って増大した電力需要に対応したのだろう。

 

 

 

少し先を行くと水圧管が見える。こちらはすぐそこにある東京電力川久保発電所のタービンを回す水圧管。川久保発電所の運転開始は比較的新しく、昭和28年(1953)。

 

 

 

宮ノ下周辺の案内図。 拡大版

 

 

 

溢れる水が路面を濡らす。

 

 

 

まだまだ青葉のモミジ。

 

 

 

このあたりからは東京電力の管理用通路。よく舗装されており、歩きやすい。

 

 

 

 

 

 

 

再び早川沿いに下りてきた。

 

 

 

東京電力・塔之沢発電所の取水口。

 

かなり古そうな石積みの施設。関東大震災(大正12・1923)前の部分も残っているだろうか。

 

 

 

この辺りは水利使用標識によると、川久保発電所のタービンを回した水の放水口ともなっている。

 

 

 

水量豊かな滝。ここは早川と蛇骨川(じゃこつがわ)の合流点。

 

 

 

こちらの道標の表示は底倉(そこくら)。

 

 

 

吊橋(桜橋)が現れた。

 

 

 

180s(大人は三人まで)の重量制限がある橋は東電が発電所管理用に架けたもの。厚意でハイカーも利用させてもらっている。

 

 

 

堰堤(えんてい)を水量豊かに流れ落ちる、堰堤の滝。

 

渓谷沿いでは、日当たり具合によって紅葉の色付きにだいぶ差があり、青いモミジもかなり目につく。塔之沢よりだいぶ上流となる堂ヶ島渓谷あたりでも11月末くらいまで、もうしばらくは紅葉が楽しめそうだ。

 

 

 

コバルトブルーが美しい、早川の渓流。

 

 

 

 

 

 

 

吊橋を渡り対岸へ。

 

 

 

国道沿いの遊歩道入口へと登っていく。

 

 

 

しばらくの間続く、不整形な石段。

 

 

 

廃屋。東電の管理者詰所か何かだったのだろうか。

 

 

 

あと一息。

 

 

 

道路(国道138号)へと上がったところは、「木賀(きが)温泉入口」バス停側の遊歩道入口。奥へと進むと八千代橋を経てすぐに国道一号からの分岐にでる。背後が木賀温泉・仙石原(せんごくはら)方面。

 

右手の日帰り温泉「てのゆ」には「ここから底倉(そこくら)温泉」の懸垂幕が掛けられている。

 

 

 

広重画「箱根七湯図会 木賀」画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

 

早川に沿って湯宿が並ぶ。

江戸時代の箱根七湯の一つである木賀(きが)は江戸時代の七湯道(現国道一号)からは少し逸れている。

 

現在なら国道一号を上ってきてから国道138号に分岐して蛇骨渓谷を跨ぐ八千代橋を渡り、早川に沿って仙石原方面へ進めばよいが、昔は蛇骨渓谷沿いの底倉から七湯道を先へ進み、二の平(にのたいら。彫刻の森あたり)へ回り込んで木賀に入ったようだ。

 

 

 

木賀方面を背にして、早川の支流・蛇骨川(じゃこつがわ)を八千代橋で渡り、国道一号沿いに戻る。

 

現在の八千代橋は昭和42年(1967)の竣工。先代はこのすぐ上流側に大正13年(1924)に架けられた、幅員約5.5mのアーチ橋であった。
参考 「かながわの橋(かもめ文庫)」

 

 

 

橋から見下ろす蛇骨渓谷。谷底は遥か下。

 

 

 

下流側。さっき合流点を見て来たばかりなのに、ほんの少し歩いたと思ったら、えらい深さになっている。

 

 

 

太閤石風呂(たいこう いわぶろ)へ。右手前が旧橋の跡か。

 

 

 

八千代橋は蛇骨川の深い渓谷に架かるアーチ橋。

 

 

 

太閤石風呂通りを行く。

 

 

 

一筋の糸を引くように、か細く流れ落ちる対岸の滝。

 

 

 

湯宿「そこくらの湯 つたや」。日帰り入浴の案内も出ている。

 

蛇骨渓谷沿いに位置する、底倉温泉。底倉温泉は蛇骨川の河岸や河床から自然湧出する温泉を利用している。

 

 

 

遊歩道の下、あちこちで湯気が上がっている。

 

現在では小規模な温泉郷である底倉温泉だが、その源泉(蛇骨湧泉群)は箱根全体のおよそ一割にあたる35もの源泉がある。そのうちポンプによる揚湯は2か所のみで、33は自然湧出。
参考 神奈川県温泉地学研究所ウェブサイト・観測だより第64号「ワクワクはこね温泉 第7回 底倉温泉」

 

 

 

広重画「箱根七湯図会 底倉」画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

 

蛇骨川に沿って点在する湯宿。「七湯の枝折(七湯栞)」には「蔦屋」の屋号が見られる。

 

 

 

案内板。

 

案内板によると、明治期には蔦屋が焼けたため先ほど前を通ってきた「てのゆ」の位置に新たな蔦屋を建てたが、そこには源泉が無かったためここから吊橋を渡して源泉を引いたという。

 

 

太閤の滝の案内板。

 

 

 

下をのぞき込むと滝が見える。その上流、対岸に見えるのが太閤石風呂。

 

 

 

水量豊かな、太閤の滝。

 

水煙だけではなく、湯気も漂っているようにも見える。

 

 

 

太閤石風呂(たいこう いわぶろ)。現在は温泉は涸れている。
この野天風呂は、豊臣秀吉による天正18年(1590)の小田原攻めの際、将兵を労うために設けられたものとされる。

 

底倉は中世の東海道・湯坂路(ゆさかみち)の尾根上のピークである浅間山(せんげんやま。中世には前鷹巣山と呼ばれた)から尾根伝いに宮ノ下へと分岐する尾根道を下りてきたあたり。浅間山には北条方の鷹巣城(たかのすじょう)があったが秀吉の遠征軍(秀次・家康隊)に落とされ、家康が入った。
鷹巣城から底倉までは距離もそう遠くはなく、傷を癒すには格好の温泉だったのだろう。でも登って戻るのは大変そうだ。いや、西国から遠路はるばる行軍してきたのだからそのくらいはどうってことないか。

 

「温泉や兵(つわもの)どもが夢の跡」 うーん、このやらかし感。しかも季語ないし。
もう一丁。「兵の影に枯れ湯のもみじ散る」

 

 

 

時おりフワッと曇る、蛇骨渓谷。もっと寒くなれば、より一層湯気が立ち込めた感じになるのだろうか。

 

 

 

八千代橋の前身となる萬年橋と蛇骨の名のいわれが記された案内板。

 

前述のように江戸時代には底倉から木賀へは二ノ平に大回りして入っていたが、明治6年(1873)になって蛇骨渓谷を跨ぐ萬年橋が架けられた、とある。萬年橋から八千代橋と名が変わったのは、明治28年(1895)宮ノ下に御用邸が落成したことを記念して、と案内碑にある。

 

蛇骨の名は白化した温泉成分が大蛇の白骨のように見えたことによる、とある。かつては高温だったが現在は温度が低下したため残念ながら蛇骨を見ることはできない。

 

 

 

蛇骨渓谷の眺めを気軽に堪能できる、太閤石風呂通り。

 

 

 

階段を上がっていくと、上底倉(かみそこくら)バス停に至る。

 

 

 

国道一号・上底倉バス停。標高およそ460m。ここから小涌谷(こわきだに)方面へ向かう。

 

今回の七湯道(ななゆみち)めぐりは、ここまで。ここからは、明治以降に開かれた温泉場である小涌谷、強羅(ごうら)をめぐる。
なお、七湯の最後の一つ、芦之湯は国道一号最高地点(874m)の近く。宮ノ下界隈からはやや遠く、高地にある。

 

 

3.千条の滝、蓬莱園から岡田美術館庭園へ

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