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横浜開港場からみなとみらい、新旧水際線あるき


4.新港パークから臨港パーク〜高島水際線公園

3.新港埠頭・新港プロムナードからハンマーヘッドパークはこちら。



新港埠頭・ハンマーヘッドテラスから見る「新港(しんこう)パーク」(カップヌードルミュージアムパーク)の水際線。
新港パーク一帯は港湾荷役の役割を終えた新港埠頭が平成の時代に再開発される際に「みなとみらい21新港地区」として新たに埋め立てられたエリア。新港パークのオープンは平成13年(2001)。21世紀の幕開けと共にその歩みは始まった。




弧を描いて延びゆく、パークの水際線。親水性の高い階段護岸になっている。

水際線の先に見える白い橋は、みなとみらい新港地区と中央地区の水際線の歩行者動線を確保するために架けられた人道橋の「女神橋(めがみばし)」。




「女神橋」を渡る。
女神橋は「桁下の高さが足りない」と、ひと悶着あって令和二年度末(2021年3月)に全面開通したばかり。




シーバス・遊覧船のりばの「ぷかりさん橋」。




女神橋のたもとに建っているミニ灯台は航路標識だろうか。




ぷかりさん橋、新港埠頭ハンマーヘッドクレーン、ベイブリッジ。




こちらも緩く弧を描く、臨港パークの水際。こちらも階段護岸。




瑞穂埠頭の発電風車「ハマウィング」を背景に、シーバスがゆく。




パシフィコ横浜・国立大ホール。




大ホールの前に建つ「御製の碑」。

「魚の住む海保ちたる横浜の港につどひ真鯛放てり」
平成17年(2005)11月「第25回全国豊かな海づくり大会」がパシフィコ横浜にて開催されたおり、ご臨席された天皇陛下(当時)が詠まれた歌。




あいにくの空模様。




みなとみらい最大の緑地、臨港パーク。臨港パークの先行オープンは平成元年(1989)。横浜博覧会(YES'89)が開催された年であり、気が付くともう三十年を超えている。




かなり大きな錨のオブジェ。案内板はない。みなとみらい21埋立地の造成の際に出てきたのだろうか。中央地区の陸地寄りは、かつて三菱重工横浜造船所(旧横浜船渠会社)そして高島埠頭だった。




オブジェの眼前に広がる海。




「潮入りの池」へ。




訪問時の池は、満潮までもうしばらく時間があった。




反り橋の上から。横浜博覧会の開催時からすでにオープンしていたこの池は、再整備により姿を変えている。
市街地で潮の満ち引きを感じられる水辺というコンセプトでオープンしたこの池は、年月の経過とともに生じた事故の危険防止・設備の老朽化といった課題への対処として、円形部分は砂地となっている。




港に向かって開ける「潮入りの池」水路。正面にベイブリッジ。

臨港パークは今後、先端の未整備部分(海に向かって左側)に藻場・浅場、人工海浜などを整備する方向で計画が進んでいる。




反り橋下からの潮入りの池の眺めは、ここならではの味わい。




臨港パークから高島水際線公園へ、21街区の脇を抜けていく。




右手(21街区)には京急リムジンバスの駐車場と遊覧ヘリコプタークルージングの臨時ヘリポート。いずれも暫定利用としての性格が色濃い。
21街区は公共性の高い役割を担う街区。その水際線はみなとみらい1号耐震岸壁、2号耐震岸壁となっており災害時には緊急物資輸送の拠点になる。




「ザ・カハラ ホテル&リゾート横浜」のクリスタルな外観。




国土交通省関東地方整備局の桟橋に停泊している航路調査船「べいさーち」。




「高島中央公園北」交差点。ここ数年で周囲にオフィスビルが随分と増えてきた。ここで交差点を右折。




高島水際線公園へ。




62街区の都市基盤整備が進む。




みなとみらいの残り少なくなった更地のひとつ、62街区。ベルジャヤ(マレーシア)・丸紅・大和ハウスによる複合施設(ホテル・水族館・店舗)の進出が予定されている。




更地の奥に見える「みなとみらい橋」を渡った先は、横浜市の中央卸売市場。

これまでの行政の着実な企業誘致努力により、事業所の集積が進んできた。その努力は、いずれ大きな果実となって実を結ぶ。




こちらは工事が進む音楽アリーナ「K−アリーナ」(ケン・コーポレーション)。




街に活気をもたらす、およそ2万席規模の集客施設が誕生する。




「高島水際線(たかしま すいさいせん)公園」に到着。




JR貨物線を挟んで「芝生広場」のエリアと「潮入りの池」エリアに分かれており両エリアは跨線橋で結ばれている。




跨線橋の手前に錨のオブジェ。




この錨は「みなとみらい21」の造成工事の際に発見されたもので高島埠頭があった名残をとどめるモニュメントとして展示している、とある。




貨物線の跨線橋へ。




東高島駅・鶴見駅方面。川は帷子川(かたびらがわ)河口付近。川を挟んだ対岸に広がるのは「ヨコハマポートサイド地区」。

高島駅(貨物駅。平成7・1995年廃止)から北東に延びる貨物線(高島線。高島駅〜鶴見駅)が完成したのは大正6年(1917)。現在も根岸駅に隣接する石油ターミナルからの貨車の長い車列が定期的に走っている。




旧高島駅・桜木町駅方面。線路は浅い位置で地下化されて桜木町駅へ向かう。

K-アリーナの工事が進む街区(暫定利用当時はマリノスタウンのグラウンド)の向こうに広がっていた貨物線の高島駅は大正4年(1915)に開業した。それ以前から桜木町駅(初代横浜駅)に隣接した荷扱所(貨物取扱施設)では港からの貨物の取扱量が増大し、その荷捌きのバックアップのために貨物線が高島の荷扱所まで延長されていた。その貨物線の両端に「東横浜駅」(初代横浜駅に隣接した貨物駅)と「高島駅」(貨物駅)が設けられた。
なお初代横浜駅までは既に新港埠頭の荷扱所(旧横浜港駅辺り)から明治44年(1911)に臨港線(貨物線。一部は現在の汽車道となる)が開通していた。そして高島駅の開業に伴い、高島駅から東海道本線に連絡する高島〜保土ヶ谷駅間の貨物線(赤レンガの二代目横浜駅前を高架で横切る線。現在は廃線)が設けられた。

現代の大黒、本牧、南本牧埠頭におけるコンテナ船・ガントリークレーン・高速道路+トレーラー輸送による港湾物流の時代より以前、横浜経済の命運を賭けた港湾物流の近代化は新港埠頭(係船岸壁埠頭)・ハンマーヘッドクレーン・鉄道貨物輸送(横浜港駅・東横浜駅・高島駅)のセットによって大正前期にひとまず完成を見た。
そうした時代の栄華の跡はその一部が観光施設となって、一部はこうしてひっそりと、昔日の記憶を心に刻む。

参考「市民グラフヨコハマNo.42横浜の鉄道」「横濱Vol.35横浜の鉄道」「都市の記憶−横浜の土木遺産」




「潮入りの池」手前、線路沿いの植え込みの中に車輪のオブジェ。
こちらの車輪もみなとみらいの造成中に発見され、高島操車場の名残をとどめるモニュメントとして展示されている。




「潮入りの池」へ。




ヨシの生い茂る干潟には潮が満ちていた。




「生態護岸」へ。




こちらも干潟に潮が満ちている。垂直だった護岸は再整備により生き物の生息環境が多様化した。




高島水際線公園が完成したのは平成23年(2011)。帷子川河口の汽水域(海水と淡水が混じる領域)という特性を生かした整備を目指して、検討が重ねられてきた。




対岸のポートサイド地区。あちらの護岸は先行して整備され「ポートサイド公園」となっている。




「横浜港導水堤(よこはまこう どうすいてい)」遺構を活用したモニュメント。

明治24〜25年(1891〜92)、帷子川から横浜港に流入する土砂が港に堆積するのを防ぐために堤防が築かれた。それまでの港湾工事では盛土の表面に石を積む工法が取られたが、導水堤は国内の工事では初めてとなる「袋詰めコンクリート」(セメントを詰めた麻袋)が石の代わりに用いられた。

この導水堤(馴導堤・じゅんどうてい)計画を立案したのは「横浜水道」生みの親、ヘンリー・スペンサー・パーマー。第一次築港工事の一環で鉄桟橋(大さん橋)、北水堤・東水堤とともに築造された。




案内板。赤文字加工はサイト管理者。

横浜都市発展記念館ウェブサイトに掲載されている古地図「市区改正横浜実測新図」(明治41・1908)を見ると、帷子川河口(万里橋付近)と防波堤北水堤の西端との間に堤防が記されている。そこに名称の記載はないが、その堤防が「横浜港導水堤」であろう。




展示されている「袋詰めコンクリート」は「みなとみらい21」の造成工事中に発見された。




高島水際線公園から横浜駅方面への「水際線プロムナード」を経て「ポートサイド地区」へ向かう。


5.みなとみらい・高島水際線公園からポートサイド地区  まち歩きトップに戻る