まちへ、森へ。

異文化との邂逅、浦賀・久里浜

平成29年(2017)5月の下旬、京急・浦賀駅から東浦賀・西浦賀をめぐり浦賀から吉井を経て久里浜までを歩く。

 

1.浦賀駅から乗誓寺界隈、東叶神社・浦賀城址へ

 

 

朝9時半ごろ、京急・浦賀(うらが)駅からスタート。東浦賀は乗誓寺などの寺社から東叶神社(ひがしかのうじんじゃ)・浦賀城址を巡る。

 

京浜急行はイメージとしては三崎口行がメインで浦賀行は支線のようであるが、本線は浦賀行。
浦賀駅は京急の前身となる湘南電気鉄道の終点として、戦前の昭和5年(1930)に開業した。JR横須賀駅が軍港への乗り入れ路線として明治22年(1889)に開業していることを思えば、古くからの港町であった浦賀への鉄道乗り入れはだいぶ遅れを取ってしまった感がある。

 

なお開業当時の起点だった黄金町駅(横浜市)から先はいずれ初代横浜駅(現桜木町駅)方面に乗り入れる計画だったが、関東大震災(大正12・1923)を経て横浜駅は現在地に移転したため日ノ出町駅へカーブして現在の横浜駅へ乗り入れる形となった。一方で品川からの京浜電気鉄道も昭和5年(1930)に終点の神奈川駅(横浜市)から現在の横浜駅に乗り入れ、やがて両線が一体となって現在の京浜急行となった。

 

 

 

駅前に残る、浦賀ドック(旧住友重機浦賀造船所)の建物。まずは浦賀の原点、東浦賀から巡っていく。

 

 

 

幅が狭く奥行きの深い、浦賀湾。崖が迫っている。

 

 

 

対岸にも山が迫る。

 

 

 

コンビニ前の信号を左へと進む。

 

 

 

浄土真宗東教山乗誓寺(じょうせいじ)。

 

寺伝によれば、乗誓寺は曽我祐成(そが すけなり)の子である了源により平塚にて開山。曽我祐成は鎌倉時代初期の「曽我の仇討ち」で知られる曽我兄弟の兄の方。
京で応仁の乱、鎌倉で享徳の乱が勃発し世相の乱れた室町時代の中期、乗誓寺は東海道沿いの平塚から浦賀の地に移転してきた。江戸時代以降は多くの武士、文人が乗誓寺を訪れ交流が盛んに行われた。明治初頭には地域における教育の場(郷学校)も開かれている。

 

 

 

なお、由緒の案内に見られる巨大な五輪塔(伝曽我兄弟墓)は箱根・芦之湯付近の東海道古道(湯坂道)沿い、元箱根石仏石塔群に建つ。

 

 

 

蓮如(れんにょ)御手植えのイチョウ。
蓮如(1415〜1499)は鎌倉仏教六宗派の一つ浄土真宗の開祖である親鸞(しんらん)から数えて八代目。当時衰微していた本願寺の中興の祖となった。
現在でこそ浄土真宗最大宗派(本願寺派)の本山である本願寺であるが、戦乱に明け暮れた室町中期における本願寺は一末寺にすぎず、比叡山延暦寺から度々の圧力を受けつつ細々と存続していた時代があった。乗誓寺が東海道沿いの平塚から浦賀に移転したのも比叡山衆徒に攻め入られるのを避けてのこと、とある。

なお小田原北条氏と一向宗(浄土真宗)との関係というと、北条氏により領国内における一向宗の禁圧がなされていた時代があったとされる。
確かに初期の段階では本願寺と連携していた室町幕府の管領細川政元(ほそかわまさもと。1466〜1507)と伊勢宗瑞(北条早雲)との関係の変化、あるいは第二代北条氏綱の後妻の実家が法華宗の有力な庇護者であったこと、といった外的要因により禁圧政策が採られていたとされる。
しかし第三代氏康の頃には長尾景虎(上杉謙信)による関東侵攻を牽制する意味で一向宗との協力関係が模索された。こうしてみると、一向宗の禁圧政策はかなり早い時期から形骸化していたと評価されている。

参考「新横須賀市史 通史編 自然・原始・古代・中世」

 

 

 

境内に広がる日本庭園の上部に建つ鐘撞堂。鐘撞堂のあたりまで登っていく。

 

 

 

美しい庭園を見下ろす。

 

 

 

鐘撞堂付近からの浦賀港の眺め。

狭く深く入り込んだ入江であった浦賀は、天然の良港として古くから湊が開かれた。
戦国時代には小田原北条氏第三代北条氏康(ほうじょううじやす)により浦賀城が築かれ北条水軍の拠点となった。

 

戦国時代も終わりを告げようとしていた天正年間(1590年代)以降、家康が江戸に入府した後の浦賀は抵抗勢力であった里見氏に対峙する拠点として重要視された。家康は今川氏・武田氏の旧臣であった伊勢出身の向井政綱(むかいまさつな)を配置。向井氏は水軍を率いる「海賊衆」であり、のちに「船奉行」となる。

 

江戸時代初頭、浦賀の地は長崎・平戸などとともに貿易港として重きを為していく。向井政綱・忠勝(ただかつ。左近将監)父子は船奉行として家康の外交政策で重要な役割を果たした。そして、その時代に三浦按針(みうらあんじん)が家康の外交顧問として活躍することとなった。浦賀には慶長13年(1608)スペイン船が来航、按針はスペインとの通商を企てた家康とスペイン使節との仲立ちをした。
大坂冬の陣が始まる前年(慶長18・1613)に浦賀を訪れたイギリス東インド会社のイギリス人ジョン・セーリスは「浦賀は停泊には甚だよい港で、そこにはロンドンの前のテムズ河における如く、船が安全に停泊することが出来る。・・・浦賀が本州にあり、そして江戸からわずかに14,5リーグしか隔たっていない関係上・・・(生肉が少なく食糧事情はよくないが)他のすべての点において平戸を捨てて浦賀を選ぶべきである」(セーリス日本渡航記)と述べている。
しかし家康の死去後、キリスト教禁教の流れのなかで平戸の商館以外の拠点は閉鎖された。こうして浦賀の近世初頭における貿易港としての役割は終焉を迎えた。やがて按針も平戸にて死去。そののち平戸のイギリス商館も閉鎖され、スペインとの国交も断絶。貿易は長崎・出島に限定されていく。

 

貿易港としては終焉を迎えた浦賀ではあったが、享保五年(1720)には下田番所の廃止により新たに西浦賀に浦賀番所・浦賀奉行所が置かれた。浦賀は江戸湾の入口として海防(海からの江戸防衛)や物流(廻船改め。積荷の検査・掌握)を奉行が取り仕切り、多数の廻船問屋が軒を連ねる三浦半島最大の街となった。

 

さらに時は流れて嘉永六年(1853)浦賀沖にペリーが来航、浦賀奉行所は応接の接点となる。浦賀には幕末、幕府による大船建造の解禁にあわせて造船所(修復場)が設けられた。嘉永七年(1854)には幕府にとって初めてとなる洋式軍艦(鳳凰丸)の建造が浦賀でなされる。日本初となるドライドックも建造され、安政6年(1859)には遣米使節に随行した咸臨丸の修理も行われた。

 

参考「新横須賀市史 通史編 近世」ほか。

 

 

 

乗誓寺を後にし、旧道を先へと進む。

 

 

 

東耀稲荷(とうよういなり)大明神。創建は天明二年(1782)。古くは裏手の顕正寺に建っていたといい、その名は顕正寺の山号「東燿山」から採ったものとされる。

 

 

 

拝殿。小振りながらも細部にわたって凝った造りとなっている。

 

 

 

屋根に載る飾り瓦は漁業・商売の神様、恵比寿さま。わざわざ釣竿を持たせているあたり、心を込めた管理がなされているようだ。

 

 

 

こちらは商売の神様、大黒さま。

 

 

 

蟇股(かえるまた)にはお稲荷さんらしくキツネの彫り物。

 

 

 

拝殿の格天井(ごうてんじょう。格子状の天井)には見事な龍の彫り物が施されている。天井の形式としては格式の高い格天井は、身分制度が厳しかった江戸時代までは古民家など庶民の住宅建築に用いられることはまずない。一般庶民が目にすることができるのはこうした寺社建築に用いられたもの。
小さなお堂ながら手の込んだ見事な装飾で飾られた東耀稲荷は、お堂を寄進した東浦賀の干鰯問屋(ほしかどんや。干鰯は江戸時代の肥料として全国で重宝された)の隆盛ぶりを現在に伝えている。

 

 

 

旧道を先へと進むと、浄土宗永昌山専福寺(せんぷくじ)。棟に載った金色に輝く鴟尾(しび)が印象的。このお寺には俳人小林一茶が訪れた記録がある。

 

 

 

続いて浄土宗浦賀山東林寺(とうりんじ)。手前の三浦稲荷の奥に建つ。

 

境内には幕末の浦賀を語るうえで欠かせない人物、浦賀奉行所の与力(よりき)であった中島三郎助(なかじま さぶろうすけ)の墓がある。
三郎助は黒船来航の際いちばん最初にペリーの船に乗り込んだ人物。その後すぐに幕府最初の洋式軍艦「鳳凰丸」建造の中心的役割を果たした。オランダ人教官による長崎海軍伝習に参加し、のちに江戸築地に設けられた軍艦操練所の教授方も務めた。幕末から明治へと移りゆく激動の時代のなかで三郎助は新政府に対して徹底抗戦、五稜郭の戦いで戦死した。このあとで訪ねる西浦賀の愛宕山公園には三郎助の招魂碑が建立されている。

 

しかし、残念ながらこちらでは散策、歴史探訪する人の境内への立ち入りを禁じる告知がなされている。
お寺さんの側にとっても決して本意ではなかろうが、腹に据えかねるよくよくのことがあったのだろう。訪問される方々に本堂で手を合わせ「お邪魔させていただきます」というささやかな気持ちの一つもあればお互いに円満だったのだろうが。

 

 

 

東林寺本堂への石段の右脇に立つ鳥居はこの辺りの地域稲荷である三浦稲荷の鳥居。

 

 

 

拝殿の蟇股(かえるまた)は、こちらもキツネの彫り物。

 

 

 

「三浦稲荷社」の扁額。

 

近代になって編纂された地誌によると、東林寺の坂下あたりにアンジンヤシキと称する一画がありそこに浦賀における三浦按針の屋敷が建っていたとされる。

 

三浦稲荷の「三浦」の名は浦賀における一町内の地域稲荷の名としてはあまりに広域なので、あるいは按針屋敷の「三浦」にちなんでつけられたのだろうか。

 

三浦按針(みうらあんじん)はイギリス人で本名はウィリアム・アダムズ。アダムズは慶長5年(1600)オランダ船リーフデ号で豊後国(現大分県)臼杵(うすき)に漂着。これに興味をもった徳川家康が引見するため、アダムズは大坂に送られた。「関ヶ原」の前夜となるその頃、大坂城の主である秀吉は既に死去。石田三成は五奉行から退かされて佐和山城(さわやまじょう。滋賀県)に蟄居していた。
大坂城に入って政務を取り仕切り権力を手中にしつつあった五大老筆頭の家康は上杉景勝攻め(会津征伐)のため大坂から江戸に向かうこととなり、アダムズも家康の求めで江戸に向かう。リーフデ号は堺、浦賀と回航された。江戸での謁見後、アダムズは家康に外交顧問として重用されることとなり、三浦按針の名が与えられた。
リーフデ号の水先案内人(按針)であったアダムスは造船や航海術に詳しく、スペイン語にも通じた。また当然ながら西洋の政治・宗教事情にも詳しかった。家康の命に応えて遠洋航海のできる船を建造したアダムズは家康の気に入るところとなり、知行地として与えられた逸見(へみ。横須賀市)の屋敷に日本人妻と子を住まわせたほか、江戸と浦賀にも屋敷を構えた。西逸見の按針塚(県立塚山公園)には按針と妻の供養塔が建つ。
昭和56年(1981)に日本でも民放で放送されたアメリカのTVドラマ「SHOGUN」(YouTubeへリンク)は人物像や出来事、時系列が脚色されたフィクションではあるが三浦按針の波乱万丈の人生をモデルとしている。

 

江戸時代の直前期となる天正18年(1590)に家康が江戸に入府してきた当時、浦賀の中心となって既に開けていたのは小田原北条氏が築いた浦賀城とその山すそに築かれたであろう根小屋(ねごや。居住区)のあたりと考えられる。したがって按針が家康の命により浦賀に屋敷を構えるとすれば、やはり浦賀城下の一角であるこのあたりのどこかということになろう。
法幢寺墓地から東林寺にかけての山腹には石の段があって、近代になって編纂された地誌に照らすとおそらくそれは按針の勧請によるキリスト教の「社宮司」という小祠の跡ではないかとされている。

 

なおアダムズが日本の船大工を使って建造した船「サン・ヴェナべンツーラ号」(120t)は慶長15年(1610)スペイン領アカプルコ(メキシコ)に向けて出港。船には慶長13年(1608)に浦賀に来航したスペイン使節アロンソ・ムニョスが家康の国書を携えさせて乗船したほか、ロドリゴ・デ・ビベロ(スペイン領フィリピン前総督。退任してフィリピンからメキシコへ向かう途中遭難して御宿(おんじゅく。現千葉県)に漂着、保護されていた)も乗っていた。

 

ビベロを無事送り届けた返礼として、慶長16年(1611)にスペイン使節セバスチャン・ビスカイノがスペイン国王の返書を携えて浦賀に来航した。このときビスカイノの案内役となったのが先に触れた、船奉行である向井政綱・忠勝父子。ビスカイノは「金銀島探検報告」のなかで向井氏の接待にたいへん好印象をもったと記している。向井氏もまた浦賀の歴史を語るうえで欠かせない。
ただ、通商に関する合意が得られずに家康とビスカイノとの関係は微妙なものとなった。ここにはキリスト教(カトリック)布教を目論むスペインとプロテスタント信徒であったアダムズとの凄まじい駆け引きが垣間見える。
ビスカイノは帰国に際して仙台藩主・伊達政宗を頼ることになるが、乗ってきた船が破損していたため大型船を建造することになった。その際に向井氏は船大工を提供した。こうして建造されたのが「サン・ファン・バチスタ号」。政宗はこの船で慶長18年(1613)に遣欧使節を送ることになる。

 

時にペリー来航、咸臨丸の出航から遡ることおよそ250年。この国では既にこのような出来事が繰り広げられていた。

参考「新横須賀市史 通史編 近世」

 

三浦稲荷から叶神社へ向かう。

 

 

 

井戸。開国により横浜に開港場が開かれた安政六年(1859)の翌年となる万延元年(1860)のさく井(さくせい)とある。

 

 

 

旧道を進む。

 

 

 

鳥居が見えてきた。

 

 

 

叶神社(かのうじんじゃ。東叶神社)。

 

地誌などの記録によると、叶神社は浦賀が東浦賀と西浦賀に分割されたのに伴い対岸の叶神社(西叶神社)を分祀したとされる。その時期は概ね江戸時代前期。

 

 

 

境内からは鳥居越しに浦賀の海が広がる。

 

浦賀はもちろん水深のある湾であるが、この眺めはどこか大河を思わせる。慶長年間に浦賀に来航したジョン・セーリスが「テムズ河の如く」と表現したのも何となく分かる。

 

 

 

このお社は散策で訪れる人もずいぶんと目に付く。その人たちの多くが鳥居で一礼して境内へと歩みを進めていく。
何気ない日常の一コマにあっても日本人の神仏を敬う気持ちは決して廃れていない。

 

 

 

拝殿。

 

 

 

境内の裏山(城山)は叶神社が勧請されて以来、明神山と称された。
拝殿脇から山頂へと続く石段は200段を超える。

 

 

 

途中の踊場に建つ、勝海舟断食の碑。

 

 

 

山頂には奥の宮が祀られている。

 

 

 

山頂一帯は浦賀城の曲輪(くるわ。城の区画)の跡となる。

 

浦賀城は小田原北条第三代となる北条氏康(ほうじょううじやす)が築城したとされる。
ただ、その歴史については城下の発展に伴って建立されたはずの諸寺院の開山が氏康の時代よりもかなり古いことから、戦国時代初期に新井城の合戦にて三浦道寸が北条早雲に攻め滅ぼされる前から三浦水軍の拠点として城は既に築かれていたのではないかとする見解も有力のようだ。となれば三代氏康は北条氏の築城技術を以て古くは旧勢力の拠点であった関東各地の城と同様に浦賀城を大改修した、ということになろう。

 

浦賀城は小田原城の支城である玉縄城(たまなわじょう。鎌倉市)の、あるいは三崎城(行政面は玉縄城の管轄下にあった。家臣団の三浦衆は当初は小田原城直属とされた)の配下の城として、安房(あわ。現千葉県)の里見氏水軍に対峙する北条水軍の拠点となった
各種記録によると浦賀の地には玉縄衆に属する家臣、三浦衆に属する家臣らが日常的に配置され、領国の相模一円から船方役をつとめる船が動員されていた。
なお氏康の子である氏規(うじのり。宗家四代氏政の弟)が三崎城主に就任してからは、三崎城は玉縄城の管轄から離れ三崎城主が三浦一帯を治めるようになる。軍団の三浦衆は三崎城に属することとなった。

 

参考「新横須賀市史 通史編 自然・原始・古代・中世」

 

 

 

浦賀船渠(うらがせんきょ)殉職者の碑。

 

 

 

碑の向こう側には展望が広がる。 

 

 

 

浦賀城址の案内板。

 

 

 

眼下に広がる海。対岸は里見氏の領国、房総半島。右手には燈明堂の磯(燈明崎)が見える。

 

 

 

この後で訪れる燈明堂は、江戸時代の灯台。近年になって復元された小さな堂が緑の中に見える。
近代になって洋式灯台が造られるようになるまで、燈明堂はその明かりを灯し続けた。

 

 

 

勝海舟断食の跡。幕末の万延元年(1860)、咸臨丸による渡米を控えた勝海舟は境内の井戸で身を清め、奥之院に籠って断食修行を行ったとされる。

 

 

 

山を下りていく。城址一帯を覆う自然林は常緑広葉樹のスダジイやタブノキなどで形成され、「叶神社の社叢林」として県の天然記念物となっている。

 

 

 

途中の踊場に見られる、ブラフ積(ブラフづみ)。
ブラフ積は安政の横浜開港(1859)後に用いられ始めた西洋式の石積み。長く切った石の長辺と短辺を交互に見せる積み方で、レンガのフランス積に相当する。この積み方は横浜山手(ブラフ)が新たな居留地となった明治期から大正期、昭和前期の長きに渡り各地で用いられてきた。
ここの石垣はいつごろ積まれたものだろうか。

 

 

 

叶神社を後にして「浦賀の渡し」で対岸の西浦賀へ。

 

 

 

浦賀古道の散策案内。 拡大版

 

 

 

海沿いを歩いていく。

 

 

 

渡船場。
江戸時代には廻船問屋が軒を連ね大いに賑わった浦賀の街。東浦賀の干鰯問屋が土地を供出させられることに抵抗したことにより奉行所は西浦賀に置かれることとなったが、東浦賀のこの界隈にも旅籠が数件あった。

 

 

 

桟橋へ。

 

 

 

渡船が対岸に見える。

 

 

 

乗船の合図をすると、渡船「愛宕丸」がこちらにやって来た。

 

 

2.浦賀の渡船から浦賀ドック、西叶神社、愛宕山公園へ

page top