まちへ、森へ。

鶴ヶ峰界隈、畠山重忠公史跡群

平安末期から鎌倉初期に活躍した、坂東武士・畠山重忠(はたけやましげただ)。重忠といえば、源平合戦・一の谷の戦い「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」で愛馬を担ぎ下りたという伝説によりその名を後世に語り継がれることとなった。

 

智・仁・勇を兼ね備えた武士の鑑・畠山重忠公の最期にまつわる史跡を巡る。

 

畠山重忠公史跡群・古道イラストマップ

 

 

相鉄(そうてつ)線鶴ヶ峰駅北口。

 

 

 

まっすぐ進むとすぐに、左から交通量の多い通り(水道道・すいどうみち)が合流する。

 

 

 

水道道をまっすぐ行くと、やがて、鎧橋(よろいばし)跡。

 

 

 

かつての親柱に付けられていた銘板が保存されている。

 

 

 

帷子川(かたびらがわ)が埋め立てられた跡が、昔からあった鶴ヶ峰公園が拡張された部分と、鎧の渡し緑道とになった。

 

駅を背にして右側が、鶴ヶ峰公園。鎧の渡しの旧河川つながりで、ついでにそちらもかつての川沿いに歩いてみる。

 

昭和52年(1977)当時の鶴ヶ峰航空写真
画像出典・国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省。文字加工はサイト管理者。

 

 

 

公園沿いの桜の古木は、もともとは川沿いの並木だった。
※桜の古木は現在では伐採されている。

 

 

 

奥に見える鶴ヶ峰稲荷は、川の形が変わって周りの雰囲気ががらりと変わった。

 

 

 

古木の桜並木を振り返る。一段低いあたりはもともとの公園で川が取り巻いていた。

 

 

 

昭和52年(1977)当時の鶴ヶ峰稲荷。稲荷に向かって左手が、かつての鶴ヶ峰公園。
画像出典・市民グラフヨコハマ第93号「こどもたちのいる風景」平成7年(1995)発行。

 

 

 

鶴ヶ峰公園は、ソメイヨシノが多い。この広場の下は、新たに掘られた帷子川の流れ。

 

 

 

稲荷手前の橋から見る、帷子川捷水路(しょうすいろ・ショートカットの意味)トンネル。鶴ヶ峰公園から鎧の渡し緑道に至る旧河川蛇行部分が、まっすぐにショートカットされた。
水路の完成は昭和63年(1988)。トンネル反対側の出口は畠山重忠公碑(厚木街道・鶴ヶ峰駅入口交差点角)の下になる。

 

 

 

なお稲荷の裏手、鶴ヶ峰公園のマンション脇からコンクリート階段を上ると国道16号バスターミナル交差点(グリーンロードふるさと尾根道ルートの起点)のあたりに出る。

 

 

一方、鎧橋跡から駅を背にした左手は、鎧の渡し緑道。平成18年(2006)に完成。

 

 

 

早咲きのヨウコウザクラ。その頃ソメイヨシノはようやく開花宣言が出たばかり。この緑道にはこのほかベニシダレなども植栽されている。

 

 

 

 

 

 

 

入口の左手、木々の生い茂る駐輪場のさらに奥は最も古い川筋の崖地。現在はコンクリートで固められている。
崖のすぐ上を相鉄線と線路沿いの路地が通っている。帷子川が大きく蛇行したその淵は大昔、屏風ヶ淵(びょうぶがふち)と呼ばれ渓谷の景観を呈していた、という。きっと、帷子川親水緑道の渓谷あたりのような雰囲気だったのだろう。

 

 

 

緑道の一番奥は、旭区役所。

 

 

 

緑道終点。

 

 

 

緑道が終わったその向こうは、道を挟んで区役所の駐車場になっている。この筋が、埋められる前の旧帷子川。

緑道と駐車場を横切るこの道は、実は鎌倉街道中の道(なかのみち)の古道である。道理で昔のままで、道幅はとても狭い。
ちょうどこの場所に川をまたぐ越場橋という橋が架かっていた。緑道終点の車止めあたりと、駐車場フェンスが途切れるあたりが橋の欄干の位置となる。いまでは跡形もない。

というわけで、かつての越場橋の傍らに「首洗い井戸」と「鎧の渡し」の標柱が立っている。
緑道出口にある案内板には「鎌倉街道が帷子川を渡る場所でした。以前は川幅も広く、武士がここを渡るときに頭に鎧をのせて渡ったと伝えられています」とある。ここが鎌倉街道中の道の渡し場「鎧の渡し」であったと思うと、感慨深い。

 

 

 

 

ここでいう鶴ヶ峰は、町名・駅周辺の鶴ヶ峰というよりは配水池(旧浄水場)のある小高い山の鶴ヶ峯をイメージしたほうがしっくりくる。

余談だが、駅のあたりを「鶴ヶ峰何丁目」、浄水場のあたりを「鶴ヶ峰本町」というのは、配水池あたりの小高い山が「吾妻鏡(あづまかがみ・鎌倉幕府による歴史書)」の時代から「鶴ヶ峯」であったことによる。

 

 

 

鎌倉街道中の道の古道に沿って緩やかに上っていくと、首塚はある。

 

 

 

七重の層塔と、供養地蔵の祠。

 

 

 

ここでいう二俣川は、相鉄線二俣川駅周辺ではなく旭区役所わきを流れる帷子川支流の二俣川。この界隈はかつて武州都筑郡二俣川村(つづきぐんふたまたがわむら)であった。
一方、二俣川駅の南、万騎が原(まきがはら)には北条氏の大軍が陣を張っていた。

 

 

 

さらに古道沿いに進むと、水道道と厚木街道の交差点(鶴ヶ峰駅入口)に出る。横断歩道の向こうに標柱が見える。

 

 

 

鶴ヶ峰・二俣川合戦の地、畠山重忠公終焉の地。

 

 

 

碑が建立されたのは昭和30年(1955)。ここ鶴ヶ峰と重忠生誕の地・埼玉県川本村(現深谷市)の有志により建てられた。

 

 

 

「さかさ矢竹」伝説の由来。

 

 

 

往時とはすっかり変わってしまったであろう古戦場跡だが、向こうに見える小高い丘はきっと昔のまま。
畠山重忠公碑が設置されているこの真下は、帷子川捷水路トンネルの出口。川の向こう岸に見える小さな公園には周辺の案内板が設置されている。
ここから厚木街道沿いに進み、フードマーケットマムの角を右に入る。

 

 

 

フードマーケットマムの角を入って右に少し進んだ先の公園に、帷子川の変遷を示した案内図がある。
この図を見ると、駅周辺の川筋の激変ぶりがよくわかる。

なお、図に示されている昭和14年(1939)は第6次市域拡張がおこなわれた年。この年に旧武蔵国都筑郡(つづきぐん。現在の青葉区・緑区・都筑区・港北区(一部)・旭区)と旧相模国鎌倉郡の北部(現在の瀬谷区・泉区・戸塚区・栄区)が横浜市に合併され、現在の横浜市域が完成した。旧都筑郡域は港北区が新設されたが旭区域のみ保土ケ谷区に編入された。

ここ帷子川の流域(現在の保土ケ谷区・旭区一帯)は、平安時代から南北朝時代にかけて榛谷荘(はんがやのしょう。榛谷御厨(みくりや))と呼ばれていた。榛谷御厨については、天王町駅から神明社、横浜ビジネスパークの頁へ。

 

 

 

畠山重忠公の図・周辺史跡の案内図。

 

厚木街道に戻り、先へ進む。

 

 

 

厚木街道沿いに上っていく。この道は車線が大きく広がったものの、駅入口交差点から鶴ヶ峰交差点までは中の道古道の道筋。
厚木街道の起点となる鶴ヶ峰交差点は五差路になっている。まず国道16号(八王子街道)を横切る横断歩道を渡る。そこから左へ延びる旧八王子街道の横断歩道を渡る。さらに歩道橋の下をくぐる狭い道を上っていく。

 

 

 

この狭い道は、鎌倉街道中の道の続き。この先で中の道は鎌倉街道上の道(かみのみち)への支道となる連絡道(鶴ヶ峯の尾根道。現ふるさと尾根道)と分かれる。

上の道へと連なっていく連絡道こそが、重忠一行が騎馬を駆って菅谷館(すがやのやかた。現埼玉県比企郡嵐山町・ひきぐんらんざんまち)からはるばると馳せ参じた道であった。現在でも町田市小野路町(おのじまち)あたりには上の道古道が往時の状態でよく保存されている。
上の道をそのまま境川沿いに南下せずに中の道への連絡道を通ったのは、推測するに上の道の続く先が鎌倉党(鎌倉氏、大庭氏、長尾氏、梶原氏など)の一員である飯田氏の支配地であったことに対し、連絡道から中の道にかけてが畠山氏も名を連ねる秩父平氏一族(小山田氏、榛谷氏)の支配地であったことも多分に関係するのではなかろうか。

 

ちなみに中の道は配水池(旧浄水場)の下あたりからR16白根(しらね)交差点付近へ下りていき、白根通り沿いのあたりを北上していたと考えられている。

 

 

 

中の道はやがて、八王子街道の旧道に突き当たる。
交差点で渡ってきた旧八王子街道と八王子街道旧道とは関係がややこしいが、八王子街道旧道の方が近代以前からの古道である。

 

 

 

右に曲がると鶴ヶ峰配水池への上り。駕籠塚(かごづか)分岐を左に分けてさらに上り、配水池正門から少し下ったあたりで「鶴ヶ峰坂」という八王子街道旧道の難所を下りていくことができる。降りたところが現在の16号白根交差点だが、交差点に斜めに交差するように八王子街道旧道は続いている。

 

先に左へ曲がって、重忠公霊堂・六ツ塚へ。

 

 

 

薬王寺(やくおうじ)入口辻の、巳待(みまち)供養地蔵(中央)。享保六(1721)巳、とある。

 

 

 

重忠公を祀る、曹洞宗東隆山薬王寺・重忠公霊堂。
昭和初期に霊堂を建てるため、近隣の今宿(いまじゅく)で火災により焼失した薬王寺をこの地に移転した。毎年6月22日には慰霊祭が執り行われている。

 

 

 

六ツ塚の解説板。元久二年(1205)の合戦の顛末が記されている。

 

この時重忠勢を迎え撃った北条方の総大将は北条義時(ほうじょうよしとき。第二代執権)。
義時は父時政(ときまさ。初代執権)の後妻である牧の方(まきのかた)が重忠を排斥しようと企てたこの戦を不条理であると考えるもやむなく総大将として北条軍を率いた。

 

鎌倉街道を南下、鶴ヶ峰に達した重忠一行は北条方の大軍を目の当たりにして、初めて謀られたことを悟る。

 

僅かばかりの供の者は「菅谷館に引き返して北条方を迎え撃つべし」と進言。仮にそのようになっていたとすれば、重忠ほか河越氏、江戸氏、小山田氏ら武蔵の秩父平氏一党は巨大勢力ゆえ、北条との全面戦争は避けられず草創期の幕府の屋台骨が揺らぐことは必定。もしかすると混乱に乗じた朝廷方の巻き返しにより鎌倉幕府はあっさり消滅していた可能性もあった。

 

しかし、重忠の選択は「武人の名誉」であった。頼朝の挙兵後、その存念を深く理解し頼朝に付き従ってきた重忠。揺るぎなき「武家の世」の実現のために歩んできた重忠の、「名誉の合戦」がここに始まった。

 

合戦ののち重忠の首を携えて鎌倉に戻った義時は時政に対して「謀反を起こそうとする者が僅か百三十余騎で、しかも万騎の大軍を前に引き返しもせず潔く討死するか。死を以て潔白を訴える重忠殿こそ鎌倉武人の鑑、その首しかと御覧(ごろう)じろ」と、時政を諌めた(かもしれない。吾妻鏡では悲しみの念に堪えない、という様に記されている)。その後、義時は時政・牧の方を北条氏ゆかりの地である伊豆に隠居させて事実上追放、鎌倉幕府は姉の政子・弟の義時による寡頭体制が固まってゆく。

 

 

 

史跡記念碑。昭和十年(1935)建立とあり、横浜貿易新報社による県下名勝史蹟四十五佳選の当選記念と記されている。

 

 

 

本堂の傍らには、重忠と郎党を祀る六ツ塚。

 

 

 

道を隔てた区画にも、六ツ塚と供養地蔵。

 

 

 

畠山霊堂建立由来碑。この地で永きにわたって塚が守られてきた。

 

ここで、案内板まで引き返して、たどって来た道の反対を行き、駕籠塚へ。

 

 

 

案内板を通り過ぎて、配水池(旧浄水場)への坂を上っていく。

 

 

 

駕籠塚への分岐を左へ。

 

 

 

 

 

 

 

重忠の内室である菊の前(きくのまえ)を祀る、駕籠塚。

 

鎌倉時代の駕籠というのは江戸時代の駕籠ほど一般的ではないのでよくわからないが、重忠と郎党が馬を駆ってきた山道のような街道をいくら駕籠とはいえ女性が、しかも重忠の急を聞いて辿ってくるのは相当に大変だったろう。菊の前はこの地で悲報に接し、自害して果てた。

 

 

 

駕籠塚は、かつては浄水場の建物辺りにあった周囲を竹で囲まれた大きな塚であったという。やがて浄水場建設に伴い現在地に移設。ひっそりと佇んでいる。

 

 

 

五大路子さんの「詠み芝居 重忠と菊の前」のリーフレット。
これまで数年おきに幾度か、区民文化センター「サンハート」で上演されている。

 

 

 

駕籠塚の前あたりからは、南に東戸塚・オーロラシティのタワー群が頭をのぞかせる。ちょうど、鎌倉街道中の道が鎌倉に向けて延びていく方角にあたる。

 

 

 

駕籠塚分岐から八王子街道旧道を上ってきた。もっとも、鶴ヶ峰坂の上に至るまでの道筋は浄水場建設によってだいぶ変わっている。

 

バスターミナル交差点からの急階段をここまで上ってきたグリーンロードふるさと尾根道ルートは、案内板通りの左ルート(駕籠塚経由)でも反対の右回りルート(配水池正門・白根公園経由)でも時間的には大差なくこの先でふるさと尾根道緑道(鶴ヶ峯の尾根。鎌倉街道上の道・中の道連絡道)に至る。

 

 

 

浄水場建設に伴って旧道の道筋は変わってしまった。しかし、もしかすると重忠一行も鶴ヶ峯に至り、木立の隙間からこの夏山の変わらぬ姿を眺めていたのかもしれない。

 

 

ふるさと尾根道ルートへ

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