まちへ、森へ。

鶴見川源流域、小野路から小山田へ

平成27年(2015)4月中旬、鎌倉街道・別所(べっしょ)から鶴見川源流の泉まで、鶴見川源流域の古道、谷戸を巡り歩く。

 

1.布田道・関屋の切通、鎌倉街道上の道古道、一本杉公園古民家へ

 

 

小田急線鶴川(つるかわ)駅・5番のりばから神奈中(かなちゅう)バス(桜24「聖蹟桜ヶ丘駅行」または多04「多摩センター行」)でおよそ15分、町田市の別所(べっしょ)バス停。このあたりで標高73m。

 

鎌倉街道上の道(かみのみち)古道の近くを、現在の鎌倉街道が通っている。

 

 

 

鎌倉街道・別所信号のあたりから旧道に入るとすぐに広がる、里山の風景。

 

この道は布田道(ふだみち)。反対方向は別所信号あたりから小田急多摩線・黒川(くろかわ)駅の方へ延びている。
かつては小野路宿(おのじしゅく)と甲州街道布田五宿(現調布市)とを結んだ。幕末期には近藤勇ら後に新選組の隊士となる剣士たちがこの道を小野路へ通っていった。

 

 

 

里山の農道が延びていく。

 

 

 

二又の道を、左へ。

 

 

 

 

 

 

 

道の途中、右手(画面の左側)には谷戸に沿って奥(恵泉女学園大の方面)へ向かう道が延びている。

 

 

 

切通(きりどおし)への道案内。

 

 

 

 

 

 

 

関屋(せきや)の切通に到着。
硬く締まった赤土を切り崩した切り通しがとても良い状態で維持されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

味わいのある案内板。「いにしへには行き交う人々賑やかなりて候へど、いまはいと静かなりて候」。

 

 

 

切通から左手に上がる道。

 

 

 

その奥は竹林になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

切通から鎌倉街道上の道(かみのみち)古道へ向かう。

 

 

 

突き当り。左は小野路宿へ。右は鎌倉街道古道を経て一本杉公園へ。

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉古道(一本杉公園方面)へ。

 

 

 

舗装路の左わきから古道が延びている。

 

 

 

鎌倉街道上の道(かみのみち)古道。推定ではあるが、おそらくこの道がそうであろう、とされている。

 

 

 

堀のように掘られた状態の道が良好な状態で保たれている。古道然とした、よい雰囲気。

 

 

 

鎌倉と武蔵国府(府中)、秩父、上野(こうずけ)国府とを結び、御家人らが「いざ、鎌倉」と通いし、いにしえの道。

 

 

 

鎌倉時代の初頭、ここを悲運の武将・畠山重忠とその郎党百三十余騎が、北条時政らの策略を知る由もなく武蔵国比企郡・菅谷館(すがややかた)から鎌倉へ向けて騎馬で駆け抜けていったかと思うと、万感極まるものがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

堀のような道が終わり、よくある山道になってきた。

 

 

 

舗装路に出て、先を少し行く。

 

 

 

左に入ると、一本杉公園。

 

このあたりは多摩市南野。多摩ニュータウンの開発が始まる前は町田市小野路町の一部であった。分水嶺となる尾根を越えれば鶴見川流域から多摩川の流域となる。

 

 

 

一本杉公園。

 

 

 

万葉歌碑。
「赤駒を山野(やまの)に放(はが)し捕りかにて 多摩の横山徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ」

 

宇遅部黒女(うぢべのくろめ)が防人(さきもり)として旅立つ夫の椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)を見送る際に詠んだ歌。黒女は豊島郡(としまぐん。現在の23区北中部)の人。府中を経て多摩の横山まで、別れを惜しみに足を運んだのだろうか。

 

 

 

「多摩よこやまの道」案内板  案内図拡大版

 

 

 

鎌倉古道案内図  案内図拡大版

 

江戸時代のお江戸日本橋が五街道の起点ならば、鎌倉・鶴岡八幡宮は中世における東国の街道の起点であった。京鎌倉往還、上総三浦鎌倉道は古代(律令国家時代)の古東海道にあたる。

 

中世の鎌倉街道は研究が進んでいるものの、その多くは文献からの推定によらざるを得ない。それゆえ、代表的な鎌倉街道である上の道(かみのみち)・中の道(なかのみち)・下の道(しものみち)の道筋についても諸説がある。

 

上の道については、通説ではこの図中の町田〜鎌倉間は上の道とされる。野津田(のづた。本町田)〜二俣川(ふたまたがわ。鶴ヶ峰)間は上の道と中の道の連絡路とされる。先に触れた、畠山重忠が嵐山(らんざん。菅谷館)から鎌倉に向けて最後に通った道である。

 

 

 

園内の古民家へ。
現在はニュータウンとなっている多摩市内の各地から二棟の古民家が現在地に移築。二棟ともに移築にあたり茅葺が銅板葺に改修されている。

 

 

 

旧加藤家住宅。江戸時代後期・18世紀後半の建築と推定され、もとは多摩市落合に建っていた。

 

 

 

案内板。

 

 

 

「だいどころ」(土間・どま)の上に、太い梁。

 

 

 

土間の竈(かまど)。

 

 

 

「ざしき」(広間)の囲炉裏。蓋がされている。

 

 

 

「おく」(でい、座敷)。畳床(たたみどこ)の床(とこ)、天袋(てんぶくろ)のある床脇(とこわき)を設け、画面手前には茶事で用いる炉が切られている。

 

明治以降の古民家のような洗練された造りは、移築・市民利用に供するにあたり新たに設けられたもの。

 

 

 

天井は竿縁天井(さおぶちてんじょう)だが、構造材である太い梁を見せるように張られている。元々は天井は張られていなかったのかもしれない。

 

 

 

広縁も市民利用に向けての改修にあたり、南側と西側を結ぶ形にされた。

 

 

 

もう一棟、旧有山家住宅。江戸時代前期・18世紀初頭の建築と推定され、もとは多摩市乞田(こった。現豊ヶ丘)に建っていた。

 

こちらは建物がほぼ当初のままの状態で保たれている。

 

 

 

案内図。

 

 

 

「風呂場」。板で囲われておらず開放的。

 

 

 

「どま」の頭上。

 

 

 

「どま」の竈(かまど)。石をくり貫いて大まかに形を整えただけの、より素朴なかたちが復元されている。

 

 

 

「ざしき」(広間)。床(ゆか)が板張ではなく竹簀子(たけすのこ)になっているのがとても珍しい。

 

 

 

「おく」(でい、座敷)。引き戸の裏側は「なんど」(納戸)。

 

右奥に押入れのような引き戸が見えるが、奥行きはさほどない。平面図には「置戸(おきど) 棚」と記されている。おそらくは床(とこ)の原型とされる押板(おしいた)が床・床脇へと少しずつ姿を変えていく、その途上のものだろう。

 

 

 

畳の座敷にも天井板は張られておらず、素朴な構造が印象的。

 

 

 

中世〜近世初頭における南関東の農家の古民家はこうだったのだろう、と思わせる造り。現状でも市指定文化財であるが、もしも茅葺のまま移築保存されていたならば国の重文にも匹敵するのではないだろうか。

 

 

 

古民家を後に、野球場のエリアへ。

 

 

 

車道下のトンネルをくぐる。

 

 

 

 

 

 

 

一本杉の名の由来。

 

 

 

一本杉公園の案内図。

 

 

 

古民家側のエリアに戻る。

 

 

 

一本杉公園を後に、小野路宿(おのじしゅく)へ向かう。

 

 

 

道の途中、下っていく坂道に沿って竹林が広がる。

 

 

 

坂の途中のピアノカフェ&ギャラリー「ショパン」。

 

 

 

小野路宿の通りに出た。

 

 

 

小野路宿。

 

 

2.小野路宿、万松寺谷戸・小野路城址・奈良ばい谷戸へ

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