まちへ、森へ。

鶴見川源流域、小野路から小山田へ

2.小野路宿、万松寺谷戸・小野路城址・奈良ばい谷戸へ

 

1.布田道・関屋の切り通し、鎌倉街道上の道古道、一本杉公園古民家へはこちら。 

 

 

小野路宿(おのじしゅく)。江戸期における脇往還の宿場町。
府中から小野路を経て矢倉沢往還(やぐらざわおうかん。大山街道。現在の国道246号)へ至る街道などが通っていた。

 

小野路は、室町期には既に小野路街道の宿駅の機能を有していた。詳しくは小野神社で後述。
なお鎌倉時代まで遡れば、先ほど通った鎌倉街道上の道(かみのみち)古道が鎌倉から府中を経由して秩父へ向かう街道として小野路の地を通っていた。

 

小野路宿通りは近時、交通量の増加に対応するための拡幅事業により道幅が広がった。その際、往時の様子を極力留めるべく再整備がなされている。

 

 

 

中宿バス停の辺りに高札場を模した案内板がある。

 

 

 

小野路の歴史・案内板  案内図拡大版

 

 

 

小島資料館。当地の旧家・小島家はのちに新選組局長として名を馳せた近藤勇らとの交流が深かったこともあって、新選組に関する資料が大変充実しているとのこと。開館日がかなり限られている。

 

 

 

こちらの板塀は年月を重ねた感じがいい。拡幅に伴って新たに整備された板塀も、いずれ味わいを増していくだろう。

小島家は江戸時代後期、好学の士を代々輩出。国学、漢学を始めとした学問を講じ文芸を嗜んだ。幕末期には撃剣道場を開き、近藤勇ほか後に新選組隊士となる剣士が撃剣指南に通った。勇は嘉永5年(1852)から文久2年(1862)までの間に計29回、出稽古に赴いている。一方で小島家当主は近藤らに学問を講じた。

 

幕末期、幕府はそれまでの通りに兵農分離政策を徹底し、天領では農民が剣術を稽古することを厳しく取り締まろうとした。小島家にも農民による剣道稽古を禁ずる安政7年3月(1860)の文書が残っている。
そうした時代にあっても、村の有力者階級では剣術を修業する者が続出、各地に道場が開かれ師を招いての稽古が盛んに行われた。近藤勇の天然理心流は家元・門人とも多摩出身者が多く、武州多摩郡に根差した流派であった。
近藤勇らが新選組隊士として京に向かった文久3年(1863)以降、多摩の村々は天然理心流の家元を失うことになるが、撃剣の芽は後の農兵隊の土台となっていく。

 

その農兵隊であるが、幕府はそのような時代の潮流にあっても代官による農兵取立ての建議を悉く退けてきた。しかし開国の流れの中、いよいよ幕府としても軍制改革を余儀なくされるに至り、ついに文久3年(1863)、関東・東海・甲信地方の代官支配地に農兵取立てが令される。小野路や下小山田(しもおやまだ)でも農兵隊が組織された。

 

なお、農兵隊編成を建議した代官の江川太郎左衛門は関東・東海・甲信地方における天領(幕府直轄地)の村々を支配した伊豆韮山(にらやま)の世襲代官。その支配地は武州・相州・豆州・駿州・甲州の26万石に及んだ。

参考文献・町田市史上巻(昭和49・1974発行)

 

 

 

小野神社前交差点へ。

 

 

 

交差点の角にある、小野路宿里山交流館。宿場景観再生事業の一環で平成25年(2013)に開館した。

 

ここはかつての旅籠「角屋(かどや)」の屋敷地。関東大震災(大正12・1923年)でそれまでの建物が倒壊したのち、近隣より移築あるいは再築された建物を改修・利用している。

 

 

 

中央の主屋(二階建の部分)は震災後に近隣から曳家(ひきや)されたもの。

 

 

 

奥に見える主屋の平屋部分は大正14年(1925)築。内部は大幅に改修されて交流スペースになっており、小野路の歴史に関するさまざまなパネルが掲示されている。食事処もある。

 

 

 

主屋に隣接する土蔵は昭和4年(1929)築。展示スペースになっている。

 

 

 

味噌蔵も昭和4年(1929)築。

 

 

 

長屋門は昭和4年前後に建てられた。

 

 

 

里山交流館の隣り、小野神社へ。

 

 

 

小野神社。小野路町の鎮守。

小野路の地名は多摩郡小野郷(現府中市)への道筋という意味に考えられている。小野神社は、小野郷との関わりで式内社(しきないしゃ)小野神社が当地に勧請されたのが始まりといわれ、小野路村誌によれば元慶8年(884)の勧請、とある。

参考文献・町田市史上巻

 

なお、小野路の地名の由来は高札風案内板にもあったようにいくつか説があるようだが、市史の記述はそのうちの一つ。

 

 

 

小野神社の由来。こちらの案内板には、天禄年間(970〜973)小野篁(おののたかむら)の子孫が篁の霊を祀ったのが起こり、と記されている。

 

 

 

唐破風(からはふ)の向拝(こうはい)、蟇股(かえるまた)には龍の彫刻。彫り物としてはなかなか細かい細工。

 

 

 

木鼻(きばな)には獅子。

 

 

 

拝殿正面の扉にも彫り物が施されている。

 

 

 

宮鐘。現在のものは昭和59年(1984)の復元。

 

元のものは先に見た小野神社の由来案内板にも記されている通り、神奈川県逗子市沼間(ぬまま。JR東逗子のあたり)の海宝院(かいほういん)に現存する。

当地から流出したのは室町中期の文明年間(1469〜1486)。扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と山内(やまのうち)上杉氏の小山田城・小野路城を巡る攻防の際、山内上杉方に陣鐘として持ち去られ、のちに海宝院に寄進された、と伝わる。

 

その鐘には「応永10年(1403)小野路の僧正珎が寄進を募り鋳造し奉納」「往来の人に時を知らせ」「道路の患難を免れさせ」「宿客に暁を報じ路人時を知る」といった旨が刻まれている。このことから、当時すでに小野路が宿場であったことが分かる。
参考・町田市史上巻

 

なお、曹洞宗長谷山海宝院の開創は天正18年(1590)。海宝院への寄進に至るまでには後北条、徳川など幾人かの手を経ている。
参考・三浦半島の古刹めぐり(松浦豊著)

 

 

 

小野神社を後に、万松寺谷戸へ。

 

 

 

旧道へ入っていく。

 

 

 

入ってすぐ、直進してもよいが右の坂を上っていく。

 

 

 

 

 

 

 

少し入っていくだけで、里道らしい雰囲気に。

 

 

 

しばらく進んだ先に、六地蔵。もう一体加わり七体になっている。
この奥は萬松寺の山門。ということは、このあたりは旧来の寺の参道。

 

 

 

六地蔵の右手には尾根に上がっていく道。尾根をたどる前に、谷戸を散策する。

 

 

 

万松寺谷戸(ばんしょうじやと)。字(あざな)は万松寺谷(ばんしょうじやと)。
この谷戸は鶴見川上流の支流・小野路川沿いに派生する、スケールの大きな谷戸。

 

 

 

案内図   案内図拡大版

 

一帯は図師(ずし)小野路歴史環境保全地域に指定されている。その面積はおよそ37ヘクタール(100m四方×37)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

谷戸の奥は随分広々としており、起伏もある。

 

 

 

棚田状に整備された、谷戸田(やとだ)。

 

谷戸から六地蔵まで戻る。その手前、萬松寺に立ち寄っていく。

 

 

 

臨済宗建長寺派・小野山萬松寺(ばんしょうじ)。

 

 

 

山門をくぐると本堂前に石庭。禅宗寺院らしくきれいに整えられた枯山水の砂紋が美しい。

 

 

 

創建は不詳であるが開山の僧宗興は室町時代前期の永徳2年(1382)に没した、と伝わっている。

 

 

 

再び六地蔵。向かっていちばん左は、あるいは地蔵菩薩ではなく他の仏さまなのだろうか。
背後には小野山萬松禅寺と刻まれた碑もある。

 

 

 

「左 大山道 星谷道」と彫られた道標。文化四(1807)丁卯(ひのと う)とある。星谷道(ほしのやみち)とは座間・星谷観音(坂東三十三箇所観音霊場・八番札所)への道。
元から萬松寺の門前であるこの場所に置かれていたようでもあるし、あるいは江戸期に小野路街道の道筋に置かれたものが移設されたのかもしれない。

 

ここから尾根道へ。

 

 

 

掘り下げられた道は古道の如き雰囲気。森にはときおりキジの「ケン、ケーン」という鳴き声も響く。

 

 

 

道標のある十字路。ベンチなどを備えた休憩ひろばがある。

 

 

 

休憩ひろばからの眺望。空気が澄んでいればランドマークタワーまで見えるそうだ。

 

十字路の道標には「順路」が指し示されている。山と高原地図詳細コースガイド「多摩丘陵」(昭文社)のルートとは異なるようだが、そちらをたどってみる。

 

 

 

右手の山道をゆく。

 

 

 

舗装路に出た。道標が立っている。奈良ばい谷戸と示された、左へ。

 

 

 

 

 

 

 

分岐に出た。

 

 

 

どうやら奈良ばい分岐のようだ。小野路城址に寄るつもりだったのに大回りになってしまった。

 

 

 

小野路城址へ。

 

 

 

案内板  地図部分拡大版

 

このあたりは「図師小野路歴史環境保全地域」として通行できる散策路が決められているため、枝道に立ち入らないように注意したい。

 

 

 

道を左へ上がると小野路城址。

 

 

 

小野路城址に到着。ここは平安時代の末期、のちに鎌倉幕府の御家人となる小山田氏(秩父平氏の一族)が小山田城(小山田氏の居館。現大泉寺)の支城として築いたと伝わる。

 

室町時代には関東管領を務めた上杉氏一族の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏、山内(やまのうち)上杉氏の覇権争いの舞台となった。文明9年(1477)、山内上杉氏の重臣である長尾景春の攻撃により落城した、とされている。

 

戦国時代は後北条氏の支城となった記録はないようだ。そのまま廃城になったのだろう。

 

 

 

郭(くるわ。曲輪)と思われる平場(ひらば)には鳥居と小さな社がひっそりと建っている。

 

 

 

平場をあとに、来た道を引き返して奈良ばい分岐へ戻る。

 

 

 

奈良ばい分岐。奈良ばい谷戸へは道標の小山田方面へ進む。

 

 

 

 

 

 

 

奈良ばい谷戸。
小野路川よりさらに上流の支流・結道川(ゆいどうがわ)の左岸(さがん。下流に向かって左)に派生する谷戸の一つ。

 

 

 

 

 

 

 

とても長閑(のどか)な、大きくのびやかな奥行きのある谷戸。

 

 

 

棚田状の谷戸田が造られている。荒地であった谷戸を、行政と市民(まちだ結の里)の協働で保全・管理しているそうだ。

 

 

 

奈良ばい谷戸から車道を左折、小山田緑地へ向かう。

 

 

 

小山田緑地に到着。

 

 

3.都立小山田緑地、鶴見川源流・泉のひろばへ

page top