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星谷観音巡礼街道から座間湧水群へ

〜坂東三十三箇所観音霊場から信玄公まぼろしの新都構想、そして軍都〜


令和元年(2019)11月末日、神奈川県・座間(ざま)のまち歩きへ。

相鉄(そうてつ)線さがみ野駅から坂東観音霊場の巡礼街道をたどって星谷寺(しょうこくじ。星谷観音・ほしのや かんのん)、座間谷戸山(やとやま)公園へ。続いて在日米軍キャンプ座間に隣接する富士山(ふじやま)公園、座間公園を巡り、座間公園・座間神社からは崖線の湧水群を探訪、小田急線座間駅へ戻る。

1.星谷観音巡礼街道から星谷観音




相鉄線大和(やまと)駅ホーム。長年に渡り工事が続けられてきた相鉄・JR直通線が、この日(11月30日)からいよいよ運行を開始。相鉄線内にJR埼京線の通勤型車両が入ってくるようになった。




相鉄線さがみ野駅前。時刻は午前10時ちょっと前。




さがみ野駅入口信号を過ぎて左折、西に向かって一直線の道。正面にはうっすらと雪をまとい始めた丹沢山塊がそびえている。




突き当りの県道で左折して進んだ先の信号を渡り、巡礼街道(巡礼坂)へ。ここから先(北方面)は古道の道筋が現在も残っているが、県道から南側は開発により旧来の道筋は消滅している。




山並みを眺めつつ巡礼坂を下っていく。




坂を下りきると巡礼坂の新しい道標が立っている。目久尻川(めくじりがわ。相模川支流)を巡礼橋で渡る。




橋のすぐそばに建つ、龍蔵神社。案内碑によると明治期の他社への合祀と分祀を経て現在地に遷座したのは昭和59年(1984)。昔は龍蔵大権現と称して巡礼坂上にあった、とある。




巡礼橋から見上げる、巡礼大橋。




目久尻川右岸(うがん。下流に向かって右側)側から古道が登って行く道筋は、橋脚の脇にコンクリート階段が付けられている。




巡礼大橋と同じ高さまで登っていく。




西原交差点付近。旧道は上州屋からオートバックスまで歩くことができないので、国道246号・西原交差点を渡る。




オートバックスの傍らに旧道の続き。




座間立野台(たつのだい)コミュニティセンター。




センターのフェンスに掲示された巡礼街道案内板。

坂東三十三箇所観音霊場は必ずしも札所の順番通りに巡られていたわけではない。ここ巡礼街道は第十四番札所の弘明寺(ぐみょうじ。横浜市南区)から第八番札所の星谷寺に向かう巡礼者が歩いていた。




立野台信号付近で再び県道に合流。




ユーコープ・ハーモス座間を通過。




立野台小学校前信号。左へ逸れていく。




右手には座間市水道部・第一配水場。

座間市の水道水はおよそ85%が地下水。ポンプでくみ上げられた地下水と県企業庁からの受水分をブレンドして配水している。




「わかされ」の標柱。ここで「巡礼街道」の右手から「ほしのや道」が合流する。




山なみを眺めながら、緩やかな下り。右手の森は座間谷戸山公園。




県立座間谷戸山公園の南入口に到着。ここまでさがみの駅からおよそ45分。ここで座間谷戸山公園をぐるっと一巡りし、南入口へ戻ってくる




南入口に立つ「巡礼街道とほしのや道」の標柱。

古道は森の奥へと続いてゆき、三峰台を経て星谷寺へと向かう。




「ほしのや道(巡礼街道)」の古道。この区間は里山に残された風情豊かな、いにしえの道。




三峰台。頂上に三峰神社があることから付いた名。




三峰神社。




「三峰坂」を下ってゆく。所々に丸木の段差がある。




坂を下りきったところに建つ「星の谷の庚申塔」、ちょっと傾いた無縫塔(卵塔)、馬頭観音。




庚申塔には「右 東京 横浜 下り あつぎ 大山」と彫られている。反対の面には「明治八(1875)乙亥(きのと い)年」とある。明治の世になったとはいえ、当時の世の中はまだまだ幕末期の延長上にある。




車道を左へと進み、小田急線の踏切を渡る。




星谷寺(しょうこくじ)前。




坂東三十三箇所観音霊場の第八番札所となる真言宗大覚寺派・妙法山星谷寺(しょうこくじ。星の谷観音・ほしのや かんのん)。創建は奈良時代、開山は行基と伝わる。

元の観音堂は谷戸山公園の「伝説の丘」(本堂山)に建っていた。




参道の仁王像と、左手に鐘楼。

坂東三十三箇所観音霊場は、観音信仰の篤かった源頼朝により西国三十三箇所に倣って開かれた観音霊場。第一番札所の鎌倉・杉本寺からスタートする札所巡りは、順番通りであれば第七番札所の光明寺(平塚市南金目)から星谷寺を経て第九番札所の慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町)へと続いていく。

多摩の小野路(東京都町田市)散策の際、萬松寺門前の六地蔵あたりで「星谷道」の道標を見掛けたことがあるが、江戸時代における観音霊場巡りは庶民のレジャーとして人気が高く、札所への道標も各所に整備された。




県内最古、関東以北でも二番目に古い梵鐘。鋳造は鎌倉時代の前期となる嘉禄三年(1227)。国指定重文となっている。




銘文に見られる「源朝臣信綱」は源実朝に仕えた御家人・佐々木信綱。一族は近江(滋賀県)あたりを拝領し、頼朝に仕えた叔父の盛綱は鎌倉腰越(こしごえ)に小動神社(こゆるぎ じんじゃ)を勧請した。




この梵鐘は、通常は二つある撞座(つきざ)が一つしかなく、撞木(しゅもく)の裏側に撞座がない。




大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)。建立は宝暦十三(1763)。形式としては時代が下った江戸期のものとなる。この様な巨大な宝篋印塔が奉納されるのだから、往時の観音霊場巡りはさぞ隆盛を極めたのであろう。

なお関東で最も古い宝篋印塔は元箱根石仏石塔群に建つ巨大なもの(俗称多田満仲の墓。永仁四・1296建立)。宝篋印塔が関西から伝わってきたばかりの頃であり、関西と関東の様式が混在している。
関東様式のごく初期のものは鎌倉大町・安養院の北条政子供養塔(徳治三・1308年建立)や鎌倉泉ヶ谷・浄光明寺の冷泉為相(れいぜいためすけ)の墓などに見られる。




本堂。宝形屋根(ほうぎょうやね)の棟に屋根の掛かった箱棟(はこむね)を乗せている。


実は星谷(ほしのや)の地は武田信玄が全国統一後の新都「新鎌倉」構想を描いた、理想の地であった。その出典は「甲陽軍鑑末書」。

「甲陽軍鑑」は長い間、歴史資料としては価値の低い後世(江戸時代)の創作であるとされてきた。しかしながら国語学者・酒井憲二氏による国語学的観点からの版本研究の成果として「甲陽軍鑑大成」全七巻(1994〜98)が世に示されたことにより、戦国史学者の間でも再評価がなされるようになった。
NHK「歴史秘話ヒストリア」で紹介されていたのは、酒井氏による複数の版本・写本の比較研究だった。その言葉使いの変化を戦国期の宣教師が編纂した日葡(日本語・ポルトガル語)辞典の単語と照らし合わせながら最も古い時代の写本を特定するという、気の遠くなるような作業である。それによって現存する最古の写本が書かれたのは使われている言葉からして江戸時代では有り得ず、戦国後期の頃に書かれたものであることに相違ないという結論に至った。
この国語学者による国語的観点からの戦国期史料の分析は戦国史学者の間に多大な衝撃を与え甲陽軍鑑研究に新境地をもたらした、という。




大銀杏の黄葉が美しい参道。


「甲陽軍鑑末書 下巻之下 第二十七本目」では日本国を統一してからの仕置きについて、十七条にまとめられている。

その第十一条は「信玄公が常在する御座城は相州ほしのやに名地が有る。ここに馬場美濃守による縄張の普請を以て築城し新鎌倉と名付ける。甲府は隠居所とする」とある。続けて「新鎌倉には日本国における大身(富貴な氏族)、小身の屋敷を割り、京・堺の商人を集める」とする。
第十二条では「天台宗・真言宗・仏心宗関山派(臨済宗妙心寺派)、仏心宗徹翁派(臨済宗大徳寺派)の寺院を各五ヶ寺建立する」とする。さらに儒教の講学の場として「足利儒家(足利学校)の寺院を一か所、都の外記殿(清原家)の談義の屋形を一か所設ける」とする。戦国後期には大徳寺派、妙心寺派は旧権力の衰退とともに衰えを見せた京都五山・鎌倉五山の各派に代わって主流派となっていた。

信玄の国家構想では諸国の絵図を情報の収集・把握の要として用いていた。毛利の領国である中国地方から北日本の奥・会津まで、その数は四十か国ほどにも及んだ。

甲陽軍鑑末書上巻には居城にふさわしい条件に関する一連の記述がある。条件として信玄は「繁昌」「堅固」の両立を重視した。「繁昌」とは風水的な地形的要素のようであり、北に高く南に低い、南北に長く、東西に河川があり南に河川か海のある地と説明されている。そして、その地が「堅固」であればなおよい、とする。
続く記述によると、山城国(京都)は両条件を備えている。甲府は新羅三郎(しんらさぶろう、源義光。源義家の弟であり足柄峠「笛の調べ」の伝説でも知られる)以来武田氏(甲斐源氏)が代々栄えた「繁昌」の地であるが山本寛助の評として甲府は高い山が近い点で「無堅固」とされた。相州鎌倉も「繁昌」の地であるが御城の地方(地形)が悪い、とされた。

そうして各地に使者を派遣し収集した情報の中で周防国の山口、長門国の萩、武蔵国の江戸などが名地と評価された。そして相模国の「ほしのや」が日本一の名地とされた。


信玄は小田原出兵(永禄12・1569)から甲斐へ帰国する途上、相模川の西岸を通過している。そして金田(神奈川県厚木市)の地で馬場美濃守と共に、使者が事前に報告していた「ほしのや」を眺め「堅固、繁昌ともに整った地」と褒めた。ただ北条氏との三増合戦(みませ かっせん。神奈川県愛川町)が繰り広げられる直前であり、飲料水の確保などを調べるための見分をすることは叶わなかった。




相模川西岸の金田から「ほしのや」を眺めた視線の先、対岸の座間市新田宿(しんでんじゅく)あたりから見る「ほしのや」。相模川の河岸段丘の崖が連なり、その上に台地が広がっている。画像は例年8月中旬に開催される「座間ひまわりまつり」からの一枚。

あの台地の上に、もしかすると信玄が夢見た「新鎌倉」が壮大な城下町となって現れていたのかもしれない。

星谷観音の東には谷戸山(県立座間谷戸山公園)があり湧水の水源地がある。段丘の崖線は随所に水が湧き、広大な台地はその全域が地下水の涵養域になっている。先に触れたように座間市は現在でもその水道水のおよそ85%が地下水で賄われている。
もしも馬場美濃守による見分がなされていたならば、信玄は「飲料の湧き水が潤沢に湧いております。井戸も至るところで確保できます」という報告を受けたであろう。

現在、谷戸山公園の北には台地上のおよそ230ヘクタール(100m四方×230)にも及ぶ広大な敷地に展開する在日米軍キャンプ座間・在日アメリカ陸軍座間司令部(リトルペンタゴン)がある。その前身となるのは旧陸軍士官学校。東京・市ヶ谷からの士官学校の移転の際、座間の豊富な地下水は移転候補地の比較検討の際に有力な目の付け所の一つとなった。




新羅三郎義光に連なる名門・甲斐源氏の流れをくむ信玄は京への上洛を果たしたのちも都に留まらずに鎌倉の存在する関東・相模を重く見て「ほしのや」に「新鎌倉」を建設する国家構想をもっていた。京には上洛中の御在所として「あきの山」(秋の山。京都市東山区粟田口華頂町。京への東の入口)に築城する構想であった。

もしも信玄が病に倒れることなくあと十年長生きしていたのであれば(そして信玄の好敵手であった「相模の虎」北条氏康が史実通りに病で生涯を閉じていたのであれば)、信玄は若輩の北条氏政を攻め滅ぼすか配下に組み入れることで関東を手中にし、さらには信長を滅ぼして天下を統一、「安土・桃山時代」ならぬ「星谷(新鎌倉)時代」が到来していたかもしれない。

これはまさに戦国史上屈指の歴史ロマンではあるまいか。

参考『「甲陽軍鑑」の史料論‐武田信玄の国家構想』(黒田日出男著)


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