まちへ、森へ。

中世の鎌倉古道・湯坂路を歩く

2.お玉ヶ池から精進池、元箱根石仏群、東光庵旧跡へ

 

1.元箱根・箱根神社から旧街道権現坂へはこちら。

 

 

権現坂の途中で旧街道を離れて、お玉観音堂へ。

 

 

 

 

 

 

 

上がっていくと、目の前に二子山が大きくそびえる。

 

 

 

お玉観音堂は興福院の境外仏堂。

 

 

 

元禄15年(1702)、江戸の奉公先をつらさのあまり逃げ出し国元の南伊豆へ帰ろうとして、関所破りで磔の刑に処されたされた少女「お玉」を供養する。

 

お玉観音堂からお玉ヶ池へ向かう。

 

 

 

変電所の前を過ぎてゆく。

 

 

 

旧東海道(県道)を渡る。

 

 

 

道標がないと民家の私有地と思ってしまいそうなところを入っていく。

 

 

 

この一帯は「箱根の森」として整備されている。

 

 

 

広場に出た。

 

 

 

箱根の森案内図。
「箱根の森」は、「県民の森」などのように森林にふれあう目的で整備された森のひとつ。昭和61年(1986)箱根町により町制施行三十周年記念として整備された。
参考・「改定新版 箱根を歩く」(平成3・1991年神奈川新聞社発行)

 

 

 

お玉ヶ池へ下りていく。

 

 

 

 

 

 

 

池が見えてきた。

 

 

 

「お玉ヶ池」。

 

 

 

 

 

 

 

県道へ上がったところにある石碑。

奉公先を逃げるように抜け出したお玉は当然ながら通行手形を持っていなかった。そこで箱根旧街道、甘酒茶屋を過ぎたあたりで旧街道を逸れて裏山の屏風山を抜けようとする(現在もその道は国道一号から入っていく登山道が整備されている)。
しかし、そこは関所破りが頻発する山道。対策として柵が設けられていた。お玉は柵を越えることなく、捕えられた。関所破りは重罪であり、その刑は死罪である。

お玉の処刑は屏風山に踏み入る坂道のところで行われ、お玉の首はすぐ近くのこの池で洗われた。それまでこの池は「なずなヶ池」と呼ばれていたが、お玉を哀れんだ土地の人々により「お玉ヶ池」と呼ばれるようになり、旧街道の坂は「お玉坂」とよばれるようになった、という。

 

 

 

ひと気のない静かな池畔。

 

 

 

お玉ヶ池から精進池・石仏石塔群へと向かう。

 

 

 

 

 

 

 

分岐の道標に従って右へ。まっすぐ行くと「箱根の森」のふりだしに戻る。

 

 

 

山道を登っていく。

 

 

 

 

 

 

 

国道一号に出た。右は芦之湯方面、左は元箱根・芦ノ湖方面。

 

道路の向こうには保存整備記念館(ガイダンス棟。石仏群と歴史館)が見える。

 

 

 

案内板  拡大版

 

旧街道、箱根の森からここまで歩いてきたハイキングコースは「浅間山・湯坂山自然探勝歩道」と名付けられている。

 

 

 

「箱根七湯栞」湖水眺望乃図  拡大版
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。画像結合はサイト管理者。

 

芦之湯の東側(湯坂路の登山道入口)からこのあたりを経て芦ノ湖・箱根権現まで、中世の「湯坂路」は現在の国道一号と概ね重なる。その国道一号は湯坂路登山道入口の先で、近世(江戸時代)における湯本からの「七湯みち」と概ね重なっている。

現在の国道一号沿いからこの眺望図に近い眺望を得るとしたらどの辺りだろうか。
眺望図には元賽の河原より権現への道、精進池(あるいはお玉ヶ池か)、箱根旧街道、甘酒茶屋あたりの文庫山が左側に描かれているので駒ケ岳中腹あたりからの眺望とも思える。しかし、どうしたことか文庫山の手前に箱根峠(関所の西側)近くの鞍掛山が描かれており、芦ノ湖や富士山との位置関係とも併せるとターンパイクあたりの大観山からの眺望のようにも見える。

 

江戸時代の絵図や浮世絵には、目に映ったままの風景ではなく作者の印象に残った光景を一つの画面に盛り込んだ絵もよくあるので、この眺望図もそういうことであろう。

 

 

 

元箱根石仏・石塔群周辺案内図  拡大版

 

石仏・石塔群は国道一号が縦断しているが、遊歩道・地下道が整備されたおかげで車道沿いを歩かなくても巡ることが出来るようになっている。

元箱根石仏・石塔群は湯坂路が東海道であった鎌倉時代の後期、元寇の第二弾(弘安の役)ののち永仁年間の頃から集中的に造立された。
一方で、それぞれの石仏・石塔には「俗称」が付されている。それらは江戸時代中期の「塔ノ沢紀行」(正徳2・1712)あるいは七湯めぐりが盛んになった江戸時代後期の「七湯の枝折(ななゆのしおり。しちとうのしおり。七湯栞)」(文化8・1811)などにみられ、近世になって付けられた名称とされる。

参考・「箱根の石仏」(澤地弘著。平成元・1989年神奈川新聞社発行)

 

 

 

「箱根七湯栞」元賽ノ河原乃全図  拡大版
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。画像結合はサイト管理者。

 

「元」賽の河原とあるのは、江戸時代には賽の河原は芦ノ湖畔のそれを指していたのでこちらが「元」と記されていた。

 

 

 

「精進池(しょうじんがいけ。しょうじがいけ)」。

 

このあたりは中世の東海道「湯坂路」のなかでもとりわけ標高が高く深い霧の立ち込めやすい、荒涼とした地であった。現代の東海道・国道一号でも、その最高地点は石仏・石塔群から芦之湯にかけての辺りとなる。

 

 

 

ガイダンス棟。
鎌倉時代の後期にそのほとんどが造立された石仏・石塔群は長い年月の経過により劣化が進んでいたため、昭和63年(1988)より約10年の歳月を費やして大がかりな整備がなされた。

 

 

 

ガイダンス棟から眺める精進池と六道地蔵(石仏群最大の磨崖仏)の覆屋(地蔵堂)。窓ガラスにみえる梵字は地蔵を意味する「イ」。

 

元箱根石仏群には地蔵菩薩が多く見られる。地蔵菩薩は仏教における六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を輪廻し苦しむ人々を救う仏。ガイダンス棟の解説展示に見る通り、中世にこの道を行き交った人々は、ここに地獄を見たのかもしれない。

朝廷・幕府の双方に仕えた鎌倉時代の公卿・飛鳥井雅有(あすかい まさあり)の紀行文である「春の深山路(みやまじ)」には弘安三年(1280)の箱根越えの印象が次のように記されている。それは、石仏群の造立がこの地にて始まる十数年前。
「・・・又、此山には地獄とかやもありて、死人常に人に行きあいて、故郷へ言付けなどする由、数多記せり。如何なる事にか、いと不思議なり。・・・」

 

 

 

始めに、「地蔵菩薩坐像(俗称六道地蔵)」へ。

 

 

 

遊歩道の地下道は素掘り風の加工が施されている。

 

 

 

 

 

 

 

元箱根石仏群で最も大きなこの磨崖仏(まがいぶつ)は安山岩に彫られており、座高は台座を除いてもおよそ3.2m。鎌倉時代後期の正安二年(1300)と刻まれた銘文が確認されている。

 

 

 

丸彫りにも近いこの地蔵菩薩坐像は、この時代の磨崖仏としては関東で最大級のものとなる。

 

俗称の六道地蔵は銘文に「六地蔵」と刻まれていること、精進池畔が「六道の辻」に見立てられていたということ、による。

 

 

 

覆屋は、平成の発掘調査により礎石が確認された最も古い時代となる、室町時代の建物が復元された。

 

 

 

地下道から遊歩道へ戻り先へと進むと、「宝篋印塔残欠(俗称八百比丘尼の墓)」。基礎の部分に室町時代初期の観応元年(1350)と刻まれている。

 

八百比丘尼とは、若狭国(現福井県)に生まれ幼少の頃に父が釣り上げた人魚を食したところ不老長寿を得て、八百年を生きて諸国を遊歴したという伝説の女性。伝説めいた女性の終焉の地の言い伝えは、歴史ロマンを感じさせる。

 

 

 

「地蔵菩薩立像(俗称応長地蔵、火焚地蔵)」。鎌倉時代後期、応長元年(1311)の銘がある。

 

火焚地蔵と呼ばれるのは、地域の人々の身内に不幸があった時にこの地蔵の前で送り火を焚き、精進池畔で花や線香を上げ、死者の霊を死出の山(精進池の対岸の山)に送る習慣があったことによる。

 

 

 

精進池。

 

 

 

次に現れるのは、巨大な「宝篋印塔(俗称多田満仲の墓)」。

 

 

 

高さは、後から補修され本来の形式ではない頭頂部の相輪部分を除いても、3mある。銘には永仁四年(1296)の日付が刻まれており、年号が明らかなものとしては関東最古の宝篋印塔となる。

 

宝篋印塔(ほうきょういんとう)は元々は密教における経典(宝篋印陀羅尼経・ほうきょういんだらにきょう)を納めた塔。やがて武士などの墓として用いられるようになった。

 

この塔の基礎部分には関西の様式、塔身や笠には関東の様式が見られるという。おそらくは関西から関東へと形式が移行した最初の塔であろう、とされている。

また、銘には永仁四年のほかにもう一つ、正安二年(1300)の日付も刻まれている。そこには立塔供養を行ったとされる良観の名も見られる。良観とは忍性(にんしょう)の別名。忍性は鎌倉・極楽寺(真言律宗)を開いた高僧。極楽寺は鎌倉の西の入口にあたる京鎌倉往還・極楽寺切通あたりにかつて大伽藍を擁した大寺であり、幕政にも強い影響力を持った。
碑文には「鎮護国家之大願」「文永五年戊辰興国」などの文も刻まれている。文永五年(1268)は、元の使節が皇帝フビライの国書を携えて太宰府に到来した年。

 

さらには大工として大和国出身の大蔵安氏(おおくら やすうじ)の名が確認されている。安氏は鎌倉において極楽寺と並ぶ真言律宗の二大拠点のひとつであった金沢・称名寺の三重塔(現存せず)を建立した番匠(建築職人)である大蔵康氏と解されている。

なお、俗称の多田満仲(ただ みつなか)であるが、満仲は清和天皇の曾孫であり平安時代中期に活躍した源氏の祖先。源頼光(みなもとのよりみつ。らいこう)の父にあたる。息子の頼光に仕えた四天王のうちの一人が坂田公時(さかた きんとき)といわれる。これもまた、七湯めぐりの盛んだった江戸時代における紀行文に記された歴史ロマンということとなろう。

 

 

 

塔身のうち一面には種子(しゅじ。仏さまを表す梵字)ではなく仏像が浮き彫りされている。

 

 

 

先へ進むと、大きな岩に無数の仏像が彫られている。

 

 

 

「地蔵菩薩立像(俗称二十五菩薩)」永仁元年(1293)から順次彫られていった磨崖仏。彫り始めは元箱根石仏群の中では最も古い。国道を挟んだ西側のこちらには23体、東側には3体見られる。
この二十五菩薩磨崖仏は、一般に二十五菩薩と呼ばれる様々な菩薩が彫られている訳ではなく、そのほとんどは地蔵菩薩で他には阿弥陀如来、観音菩薩がそれぞれ一体彫られている。最も大きな立像で高さおよそ1mある。

 

 

 

画面下部中央、右手を曲げて掌を正面にかざし左手を垂らした印相の像がある。これが阿弥陀如来だろう。

 

 

 

 

 

 

 

地下道から東側へ。

 

 

 

振り返った岩に、東側の3体が彫られている。

 

 

 

 

 

 

 

こちらは風化が著しい。

 

 

 

遊歩道を先へと進んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

国道に面して巨大な「五輪塔(俗称曽我兄弟・虎御前の墓)」が三基。永仁三年(1295)と刻まれている。
高さは、接して建つ二基がおよそ2.5m。

 

五輪塔は密教の宇宙観を表す。石塔の上から順に「空、風、火、水、地」を表している。五輪塔も宝篋印塔のように、やがて武士などの墓として用いられるようになっていった。

 

 

 

二基の丸い塔身(水輪)には、それぞれ地蔵菩薩が彫られている。水輪に仏像を刻んだ例は極めて珍しい、という。石には「地蔵講」の銘が刻まれているが、そのような例のものとしてはこの塔は日本で最も古いとされる。

さて、曽我兄弟であるが、曽我兄弟は鎌倉時代初期(建久四・1193)の「曽我の仇討ち」で知られる。弟の曽我五郎は箱根権現に稚児(ちご。少年修行僧)として預けられていた時期もあり、先の多田満仲よりはこの地に所縁(ゆかり)がある。

 

「曽我兄弟の墓」と呼ばれるのは江戸時代の紀行文が初見となる。もう一つの有名な仇討ちである江戸時代前期「忠臣蔵」の赤穂浪士・大石内蔵助(おおいし くらのすけ)は江戸に下る際この墓に参詣し、墓石の苔を取って守り袋に忍ばせた、と伝わる。

 

ただ、江戸時代後期編纂の新編相模国風土記稿(巻之二十九 足柄下郡巻之八 早川庄 元箱根下 元賽ノ河原)ではすでに「曽我兄弟の碑というのは何の拠あるにや覚束なし」とされている。そう言ってしまっては身も蓋もないが、こちらの俗称も歌舞伎の演目として人気を博した曽我兄弟の物語にあやかった歴史ロマンであった。

 

 

石仏石塔群についての参考文献・「箱根の石仏」(澤地弘著。神奈川新聞社)「中世の箱根山」(岩崎宗純著。神奈川新聞社)「改定新版箱根を歩く」(箱根の自然と文化研究会編。神奈川新聞社)

 

 

 

芦之湯へ向けて、遊歩道を進む。国道一号最高地点(874m)は、この辺りで並行する区間の途中にある。

 

 

 

ヤマツツジ。

 

 

 

遊歩道が終わり、国道一号にでると芦之湯はすぐ。

 

 

 

案内図。

 

 

 

きのくにや。

 

 

 

松坂屋。

 

 

 

東光庵・熊野権現旧跡へ。

 

 

 

 

 

 

 

東光庵薬師堂。元の建物は明治15年(1882)に取り壊されたが、草葺の建物が平成13年(2001)に復元されている。その隣には熊野権現の祠。

 

 

 

江戸時代後期の文化・文政期(1804〜1830)には江戸から多くの文人墨客が集い、湯治の傍らで地元の文人らとともに句会や歌会、茶会などが催された。著名なところでは国学者の賀茂真淵(かものまぶち)、狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ。蜀山人)といった名も見られる。

 

 

 

屋根には傾斜面まで草が生い茂っており、侘びた風情が漂う。

 

なお棟(むね)の部分については、草を生やした棟を「芝棟(しばむね)」という。これは棟に盛った土の重さで屋根全体を押さえつつ、土が落ちないように草花を植えてあるとのこと。

 

 

 

この棟にはアヤメが咲いている。

 

 

 

板敷の間。

 

 

 

 

 

 

 

大きな宝篋印塔。東光庵に集う湯治客によって寄進された。基礎には天明五 乙巳(きのと み)年(1785)と刻まれており、世話人として芝神明宮、戸塚宿、小田原宿などの誰々といった人々の名が刻まれている。

 

 

 

奉納された二基の石灯籠。文化七年(1810)の銘がある。向かって左の灯篭には「抱き柏」の家紋、右には「三階松」の家紋と松坂屋の当主らしき名が見られる。

 

 

 

四方山人(蜀山人・大田南畝)の狂歌碑。「てる月の鏡をぬいて樽まくら 雪もこんこん花もさけさけ」

 

 

 

賀茂真淵の長歌碑。

 

 

 

芭蕉 花上の句碑。
「しばらくは花のうへなる月夜哉」

 

 

 

建碑者は大磯の「日本三大俳諧道場」鴫立庵(しぎたつあん)第九世庵主・遠藤雉啄(えんどう ちたく)。

 

 

 

釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の三尊および十六羅漢石仏群。

 

 

 

 

 

 

 

奥に山神社の石祠。

 

 

 

祠の傍らには復元成った東光庵々主・中曽根康弘元首相の句碑。「くれてなお命の限り蝉しぐれ」

 

 

 

広重画「箱根七湯図会 芦のゆ」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

 

芦之湯は古くは鎌倉時代、先に石仏群で触れた紀行文「春の深山路」において「芦の湖(うみ)の湯とて温泉もあり」と記されていた。
また「七湯めぐり」が盛んであった江戸時代の後期において、芦之湯は箱根の中で江戸から最も遠く標高の高い地の温泉あった。それでも七湯の先で箱根権現に参拝し、関所の手前で旧街道を下って江戸へ戻る周遊ルートの途上であり、その泉質も良かったことから大いに賑わった。

 

 

 

「箱根七湯栞」蘆乃湯全図  拡大版
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。画像結合はサイト管理者。

 

 

 

芦之湯を後に、鎌倉古道・湯坂路入口へ。このあたりで標高およそ850m。

 

 

 

小田原駅東口、箱根湯本駅から国道一号経由で元箱根港、箱根町を結ぶ路線バス。

 

 

 

バス停湯坂路入口。

 

 

 

下界では咲き終わったミズキの白い花も、ここではまだつぼみ。

 

 

 

湯坂路入口。

 

 

3.湯坂路(鎌倉古道)

page top