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三浦半島・修験の道、都への道。


3.名越切通・大町口から鎌倉大町へ

2.新逗子駅から名越切通・まんだら堂やぐら群へはこちら




横須賀線下り・名越トンネル出口のあたりを見下ろす。このあたりは三浦道(みうらみち)・名越切通(なごえきりどおし)の鎌倉側入口である大町口(おおまちぐち)。




傍らには庚申塔(こうしんとう)と、首のない地蔵像。庚申塔には「寛政十二(1800)庚申(かのえ さる)」と彫られている。




踏切を渡り、その先へ。




再び踏切を渡る。そのさきは鎌倉時代における大町大路(おおまちおおじ)の道筋となる。

大町大路は武家の都鎌倉における大通りの一つ。海岸線に並行し、小町大路や若宮大路などと交差する道。さらに遡ればこの道は律令国家時代の古東海道、すなわち鎌倉から横須賀の走水(はしりみず)を経て上総(かずさ)へ渡る道筋ではないか、とも推測されている。




交番のある分岐を右に入っていく。バス通りから分かれ安国論寺の門前を経て釈迦堂口切通への分岐となる名越四ツ角の信号手前まで、この旧道は大町大路の旧来の道筋とされる。




額田記念病院の角、妙法寺への門前となる石柱が立つ四つ辻。左は旧道(大町大路)の続き。手前右の角が安国論寺の門前。

大町大路の界隈は日蓮ゆかりの寺院が多い。これから数か所を巡っていく。時刻は午後3時過ぎ。拝観終了の時刻まで、あまり間がない。




日蓮宗妙法山(みょうほうざん)安国論寺(あんこくろんじ)。拝観は有料。




山門。




安国論寺の開山は建長5年(1253)、日蓮によると伝わる。
この地は、房州(千葉県)にて新しい教えを開いた日蓮が、鎌倉に入り最初に小庵(草庵)を営んだ地とされる。「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」を執筆したのも、この地の御法窟(ごほうくつ)である、と伝わる。




参道を奥へ。




美しく苔むす前庭。




本堂(祖師堂)。この建物は昭和36年(1961)の火災以降の再建。




日朗上人御荼毘所。

日朗(にちろう)は日蓮の第一の弟子。小庵を営んだ日蓮の後をうけ、この地に安国論窟寺を開いたのが寺としての始まりとされる。

日朗は比企ガ谷(ひきがやつ)の妙本寺にて、日蓮亡き後の教団運営、弟子の育成に尽力。元応2年(1320)に七十八歳で亡くなる際、「自分の亡骸は日蓮聖人に従って出家した松葉ガ谷(まつばがやつ)の地にて荼毘に付してほしい」と遺言した。




御小庵。日蓮の小庵(草庵)が焼き討ち(松葉ガ谷法難)されたのち、その跡に日蓮の支援者により建てられたのが始まり。現在の建物は江戸前期の元禄年間(1688〜1704)、尾張徳川家の寄進により再建されたもの。この奥に立正安国論執筆の地・岩屋の御法窟がある。




蟇股(かえるまた)の龍は見事な彫り物。木鼻(きばな)は獅子鼻、獏鼻。




熊王殿。日蓮に仕えた熊王丸と熊王丸が信仰した稲荷を祀る。脇の石段は富士見台へ通じる登路。




安国論寺を後に、大町大路の旧道筋を離れて妙法寺へ。




日蓮宗楞厳山(りょうごんざん)妙法寺。拝観は有料。




妙法寺にも、日蓮が最初に草庵を営んだとする伝承がある。したがって開山はこちらも建長5年(1253)とされる。

中興は当山の第五世、日叡(にちえい)。日叡は、鎌倉幕府滅亡後の建武年間に鎌倉にて非業の最期を遂げた護良親王(もりながしんのう。1308〜1335)の遺児。それまでこの地にあった本国寺(日蓮の法華堂が元)が京に移転した後、延文2年(1357)に寺を妙法寺として再興した。




本堂。江戸後期、文政10年(1827)に肥後細川家の寄進により築。




唐破風の向拝(こうはい)の下、蟇股や木鼻あたりの彫り物はとても精緻。




朱塗りの仁王門。江戸末期の築。茅葺であった屋根は近年、銅板葺に改修された。

法妙寺は徳川十一代将軍家斉(いえなり)もしばしば参拝に訪れた。




石段が奥へと続いていく。




美しく苔むす石段。妙法寺は苔寺としても知られる。途中の石段を通行止めにすることで、苔は美しく保たれている。両脇のシダ、シャガの緑もまた、閑寂の境内を一層趣き深いものにしている。

この上には、脇の石段を登っていく。




法華堂。江戸後期の文化9年(1812)、水戸徳川家の寄進により築。




向拝周りの彫り物。




組物(くみもの)の尾垂木(おだるき)は、角を滑らかに面取りしている。軒下が通常見られる平行垂木でないのは、屋根が茅葺から銅板葺に改修されたということも関係しているのだろうか。




日叡上人お手植えのそてつ。樹齢600年を数える、という。




石段は上から眺めても美しい。




鐘楼。




さらに上へ。




妙法寺における、松葉ガ谷御小庵趾。
日蓮は松葉ガ谷の法難ののち、草庵を移転しながら教えを説いたとも考えられるので、各所に旧蹟が残る。




妙法寺を後にし、釈迦堂口切通へ向かう。




滑川支流の逆川(さかさがわ)沿いに行く。




左へカーブし、谷戸の奥へ。




釈迦堂口切通(しゃかどうぐちきりどおし)の隧道。

大町大路と六浦道(むつらみち。金沢街道)とを結ぶ道が切通となったところに設けられた、巨大な岩の門。鎌倉から外部へ至る道の切通(鎌倉七口・かまくらななくち)ではないにもかかわらず、その迫力満点な様は鎌倉の切通のうちで最もその姿を知られているといってもいい。




釈迦堂口切通は崩落の危険から通行止めとなって久しいため、草木が伸び放題になっている。せめてきれいに刈り払われていればよいのだが、廃れた感じがちょっと物悲しい。




切通しの一部が俗に洞門といわれる隧道になっている、釈迦堂口切通。画像出典・かまくら子ども風土記(上)。

下を潜れた頃に一度くらい通っておけばよかったのだが今となっては仕方がない。木の根が張っていくと、岩盤に亀裂が入り崩落を進めてしまう心配もある。名越切通界隈で施工されているような補強工事は、ここでは技術的に難しいのだろうか。

ここから大町大路・名越四ツ角の信号まで戻る。




大町大路沿いに少し進むと、祇園山(ぎおんざん)安養院。拝観は有料。

ここは浄土宗。鎌倉最古の宝篋印塔を見に、立ち寄っていく。




この地にもともと建っていたのは浄土宗の善導寺(ぜんどうじ)。

のち、北条政子が頼朝の冥福を祈り長谷(はせ)に建てた長楽寺が鎌倉時代の末期に戦火で焼けたことをきっかけにこの地に移転、善導寺は長楽寺と改められ政子の法名である安養院が院号となる。

安養院はその後延宝八年(1680)に火災で全焼したため、比企ガ谷(ひきがやつ)の田代寺(たしろじ)の観音堂を移して再興した。




本堂。昭和初期の再築。




本堂を回り込んだ裏手にある、宝篋印塔(ほうきょういんとう)。善導寺を開山した尊観のものと伝わる。




年代が判明するものとしては鎌倉で最も古いとされ、「徳治三年(1308)」と刻まれている、という。

なお、関東で最古とされる宝篋印塔は元箱根石仏・石塔群にある俗称多田満仲の墓(永仁四・1296年)




大町大路を進む。




大町四ツ角(おおまち よつかど)。大町大路と小町大路が交差する。

この界隈は町屋(まちや)御免地区といって幕府が商売を許可した辺りであって、鎌倉時代に最も賑わったところ。鎌倉七座(かまくらしちざ)と呼ばれる座、すなわち米座、炭座、相物座(あいものざ。魚の干物)などが開き、商家が軒を連ねた。




四ツ角から小町大路沿いに海側に少し行った先にある、町屋址の碑。このあたりが中世には鎌倉随一の繁華街であったことを偲ばせる。

四ツ角からは大町大路を離れ、小町大路沿いに北上。




滑川(なめりかわ)に架かる夷堂橋(えびすどうばし)。正面には本覚寺夷堂が見える。手前を右折し、妙本寺へ。




妙本寺の総門。傍らの八角堂は、比企谷(ひきがやつ)幼稚園。これで幼稚園の建物とは、すごい幼稚園だ。幼稚園の敷地はもとは妙本寺の塔頭(たっちゅう)であった大円坊があったところ。




日蓮宗長興山妙本寺。文応元年(1260)の創建とされ、開山は日蓮の第一の弟子である日朗(にちろう)。

比企ガ谷(ひきがやつ)一帯に広大な寺域を有する妙本寺は、元は鎌倉時代初期の有力御家人である比企能員(ひきよしかず)の屋敷であった。




総門の先に参道が延びていく。




境内案内図。日蓮宗寺院の寺紋は宗紋である「井桁(いげた)に橘(たちばな)」の紋が多いが、妙本寺の寺紋は源氏の象徴でもある笹竜胆(ささりんどう)。




冠木門(かぶきもん)の、方丈門(ほうじょうもん)。




本堂。




朱塗りの山門、二天門(にてんもん)。天保年間(1830〜1844)の築。




欄間(らんま)には極彩色(ごくさいしき)の飛龍。木鼻(きばな)は獅子鼻。




向かって右には持国天(じこくてん)。




向かって左には多聞天(たもんてん。毘沙門天)。




二天門の奥には、堂々たる祖師堂(そしどう)。こちらも天保年間の築。




向拝の下、蟇股・木鼻の彫り物。


比企氏は武州比企郡を基盤とする豪族。能員の養母である比企の禅尼(ひきのぜんに)は、京に在ったころ源頼朝の乳母となった。頼朝が伊豆に流されていた頃には長期に渡り生活の糧の支援もした。
やがて挙兵した頼朝が鎌倉入りすると、比企氏は比企ガ谷の所領を与えられる。北条政子が万寿(のちの二代将軍頼家)を出産する際には比企の禅尼はその屋敷で政子の世話をした。

頼家は能員の妻を乳母とし、能員の娘(若狭の局・わかさのつぼね)を妻に迎えた。そして二人の間には一幡(いちまん)が生まれ、能員は将軍頼家の義父として、また一幡の祖父として権勢をふるった。




祖師堂の脇に、比企氏一族の墓である供養塔がある。


二代将軍頼家が病に伏すと、幕府内では次期将軍をめぐって一幡を推す比企氏と千幡(せんまん。頼家の弟・後の実朝)を推す北条氏との間に対立が生じる。
一幡に実権を譲らせようと頼家に働きかけた能員に対して、北条時政は事を謀り能員を私邸に誘き出して謀殺してしまう。比企氏一族は一幡を擁して北条氏と対決するが敗れ、比企氏は滅亡してしまった。


一族のうちたった一人、能員の末子で難を逃れた二歳の男児はのちに京で学者となり、比企大学三郎能本(よしもと)となる。能本は鎌倉に戻ることを許されたのち、日蓮の弟子になった。そして比企一族の霊を弔うために建立したのが妙本寺の始まり、といわれる。




妙本寺を後に、夷堂橋に戻る。




夷堂橋の碑。碑文には、滑川の呼び名がその場所によって次々と変わっていくことが記されている。

この橋を境に北は武家屋敷の小町、南は商業地の大町となった。鎌倉随一の商業地であった大町の始まりに、商売の神様であるえびす様が祀られていたことになる。

ひとくちに「武家の古都」鎌倉というが、山ノ内や金沢街道沿いをはじめとした鎌倉の北部は武家の町が広がり、寺院は支配階級たる武家の信仰を集めた禅宗の臨済宗が多く見られる。

他方で大町といった鎌倉南部に広がる庶民の商業の町では、民衆の信仰を集めた日蓮宗の寺院がとても多い。

日蓮は「南無阿弥陀仏」と唱えて極楽往生する浄土の教えなど旧来の仏教を激しく非難したため、権力者や旧仏教徒からは弾圧・迫害を受けた。しかし、それまでの密教や浄土思想といった旧勢力の仏教に救いを感じられなかった民衆はやがて日蓮の教えを支持するようになり、日蓮宗は広く受け入れられていったのだろう。




日蓮宗妙厳山(みょうごんざん)本覚寺の山門。




本覚寺は永享8年(1436)、天台宗の夷堂(えびすどう)を日蓮宗に改め創建された。




本堂。大正8年(1919)の築。平成27年(2015)4月現在、屋根葺の大改修が行われている。




寺務所。改修期間中、本尊は仮本堂に移されている。

本覚寺には当山の第二世日朝(にっちょう)により、日蓮宗総本山・身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ。山梨県南巨摩郡身延町)から日蓮の遺骨が分骨された。そのゆえ東身延(ひがしみのぶ)と呼ばれる。




夷堂(えびすどう)。この建物は昭和56年(1981)の再建。

夷堂はもともとは、幕府の裏鬼門にあたるこの地に源頼朝が幕府の守り神として七福神の一つ夷神を祀ったことに始まる。文永11年(1274)には佐渡に流されていた日蓮が許されて鎌倉に戻り、それからしばらくの間夷堂に滞在したといわれる。




本覚寺から若宮大路へ。既に夕方五時も近い。駆け足であったが、今回はこれまでにしてJR鎌倉駅へ。


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