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山の鎌倉・五山寺院と七切通


5.浄光明寺、化粧坂、源氏山公園

4.寿福寺、亀ヶ谷坂はこちら。




亀ヶ谷辻(かめがやつつじ。岩船地蔵堂の建つ角)から扇川(おうぎがわ)沿いに延びる武蔵大路(むさしおおじ)を川に沿って谷戸(やと)の下流方向(寿福寺方面)へと進む。
少し進んだ先で川沿いから離れて扇谷(おうぎがやつ)の枝谷戸・泉ヶ谷(いずみがやつ。住居表示は扇ガ谷二丁目)へと入り、浄光明寺へ。




浄光明寺の門前。




真言宗・泉谷山浄光明寺(せんこくざん じょうこうみょうじ)。建長三年(1251)の創建、開基は第六代執権北条長時(ほうじょうながとき)。開山は真阿(しんあ)。

長時の父は「極楽寺殿(ごくらくじどの)」重時(しげとき)。妹が得宗家・時頼(ときより。第五代執権。金銅大仏建立に着手し、建長寺も創建した)の継室(後妻)として嫁いでおり、絶対的な実力者であった時頼とは義兄弟になる。

長時は六波羅探題(ろくはらたんだい。京の治安維持、訴訟処理、朝廷監視)に就任した父重時とともに京に上洛、幼少期から青年期までは都で過ごす。
鎌倉に戻ってからは鶴岡八幡宮・赤橋(太鼓橋)の近くに居を構え、赤橋流北条氏(赤橋氏)の祖となった。以降、赤橋氏は要職の六波羅探題に代々就任する。長時の子孫である赤橋守時(あかはし もりとき)は鎌倉幕府最後の執権(第16代)となった。
長時が執権を務めたのは実力者・時頼が病を得たことがきっかけ。時頼の子である時宗(第八代執権)が幼少であったため、執権としては言わばリリーフ(中継ぎ)であった。時頼は出家、快癒したのちは隠然と影響力を維持し続ける。やがて長時自身も病により職を辞し、七代執権政村(まさむら)へと継投策は続いていく。




山門。真言宗の準別格本山・浄光明寺も築地塀に五本の白い筋が入っており、格式は高い。

浄光明寺ははじめ浄土宗であった。鎌倉時代の中期は鎌倉にて一大勢力となった五山を始めとする臨済宗の他にも浄土宗、律宗などといった新しい仏教が鎌倉で花開く。浄光明寺と同時期の浄土宗寺院としては高徳院(鎌倉大仏)材木座・大本山光明寺などがある。
正和三年(1314)からは四宗兼学(浄土、華厳、真言、律)となった。このころに京・泉涌寺(せんにゅうじ)系になったと考えられている。本山の泉涌寺が19世紀に兼学を廃し真言宗となったのにあわせて浄光明寺も真言宗となったのだろうか。
参考「増補 鎌倉の古建築」関口欣也。

浄光明寺は赤橋流北条氏の菩提寺。執権北条氏の滅亡後も足利尊氏・直義(ただよし)兄弟、鎌倉公方(かまくらくぼう。鎌倉府の長官)足利氏と庇護は続き、寺勢は保たれた。
なお尊氏は北条時行(高時の子)による鎌倉奪還(中先代の乱)を鎮圧するために鎌倉入りしたのち、後醍醐天皇による帰京命令を無視して旧幕府将軍御所(若宮大路御所)に新たに御所を造営した。これに対して後醍醐天皇が新田義貞らに尊氏討伐を命ずると、尊氏は浄光明寺に蟄居して剃髪。苦悩の中で重い決断を下すことになる。




客殿。




不動堂。江戸時代の中期、1700年代半ばの建築だが桟唐戸(さんからど)に鎧戸(よろいど)といった中世密教寺院の意匠がみられる。




石段より上は木・土・日・祝日に限っての公開。なお雨天時は非公開。拝観時間は10時より16時だが12時台は受け付けていない。上段の平場へは右手を迂回していく。




仏殿(本堂)となる阿弥陀堂。こちらは江戸時代初期の禅宗様(ぜんしゅうよう)建築。桟唐戸に火灯窓(かとうまど)、縦の板壁の意匠。真言宗であるのに禅宗のように仏殿と称するのは、本山である泉涌寺が宋風伽藍であったため禅宗伽藍と同様の堂名となったのだろう。

かつて安置された本尊・阿弥陀三尊は現在、隣に建つ収蔵庫に移っている。
訪れた時はたまたま収蔵庫の公開日となっていて、運よく拝観受付の方の解説付きで拝観することができた。なお像を撮影することはできない。




中尊の阿弥陀如来像。
画像出典「鎌倉社寺めぐり」相沢善三著・鎌倉同人会(昭和10・1935年発行。国立国会図書館デジタルコレクション)。

この阿弥陀さまは禅宗の渡来とともに日本にもたらされた「新しい宋様(そうよう)」と呼ばれる作風の像とされる。
この像の見どころは鎌倉地方独特の技法とされる、法衣に施された「土紋(どもん)」という装飾。造立年代は像の頭部から発見された納入物により正安元年(1299)とされ、同様の像としては最古の例といわれる。なお頭部に戴く宝冠は江戸時代に被せられたもの。




画像出典「かまくら子ども風土記(上)」鎌倉市教育委員会。

この阿弥陀さまの印相(いんそう)はちょっと珍しい、説法印(せっぽういん)。阿弥陀さまやお釈迦さまが説法をするときに結ぶ印であり、両手を胸の高さにかざし親指と人差し指で輪を作る。
また阿弥陀さまがあの世に行く人々を極楽浄土から迎えに来る姿を表す来迎印(らいごういん)としての意味もある。その場合、お迎えが来る人の信心や善悪の程度によって阿弥陀さまのポーズが異なり、上品(じょうぼん)・中品・下品、上生(じょうしょう)・中生・下生の掛け合わせで九通りのポーズ(印相)があるという。ちなみにこの阿弥陀さまの印相は上品中生(じょうぼん ちゅうしょう。上から二番目のランクの人たちを迎えるポーズ)。「君たちは万事オッケーよ」と言われているようだ。

なお西洋におけるOKサインはクシャーナ朝(古代インド)カニシカ王の時代、ローマ帝国への使節に随行したバラモン出身の大乗仏教の高僧ナーガールジュナがトラヤヌス帝に謁見した際に結んだ印相が起源と言われる。
出典:民明書房「これでキミも仏教通だ」
※「民明?初耳だな」という方は必ず「民明書房」で検索してくださいね(笑)。




仏殿の前には槇(イヌマキ)の大木。




浄光明寺もまた境内を崖に囲まれ、中世の武士・僧侶の墓である「やぐら」(岩窟)が往時の状態を保ったままで幾つも残されている。




仏殿、観音堂の背後の崖には、裏山への登路が付けられている。




観音堂の裏手にも、幾つもの「やぐら」。




崖を階段状に削って設けられた登路。雨の日に拝観中止とされるのは濡れたら非常に滑りやすく危険だから、ということだろう。足元に不安がある人も拝観を控えてください、とある。




木戸を抜けて登っていく。




上段の平場に到着。




崖に掘られた、とても大きな「やぐら」。




このやぐらは尊像の上部、天蓋(てんがい)を設ける位置に円型が彫られている。また壁には天蓋を吊るすための梁でも通すのだろうか、角穴が開けられている。またやぐらの中には別室の小さなやぐらも設けられている。

祀られているのは「網引地蔵(地蔵菩薩坐像)」。漁師の網にかかって海中より引き上げられたとの伝承がある。海から神仏の本体が現れる伝承は長谷観音を始めとしてよく聞かれる。山や海の自然界における神々と仏との融合によって育まれてきた日本人の信仰心には、長い歴史がある。




小さなやぐらにも石塔が建っている。




平場から、さらに上段へと登る。




石段から見下ろす、平場と泉ヶ谷(いずみがやつ)。平地の限られた鎌倉はこうした造成により平場を確保していった。




冷泉為相(れいぜい ためすけ。1263〜1328)の墓となる宝篋印塔(ほうきょういんとう)。頂部の相輪(そうりん)部分は丈が短く後から補修されたもののようだが、相輪から下は初期の関東形式が見られる宝篋印塔となっている。
なお年代の判明する鎌倉最古の宝篋印塔は大町・安養院に建つ尊観の墓(1308)。そちらが初期の関東形式の基本となる。そして関東最古の宝篋印塔は元箱根石仏石塔群に建つ俗称多田満仲の墓(1296)。こちらは基礎部分に関西の形式が見られ、関東・関西の折衷的な塔となっている。

為相は歌人・藤原定家(ふじわらのていか)の孫。冷泉家の祖にあたる。母は紀行文「十六夜日記(いざよいにっき)」で知られる阿仏尼(あぶつに)。阿仏尼は土地の相続を巡る争いを幕府に訴え出るため京から鎌倉へとやって来た。為相も母の訴訟を助けるために鎌倉に下向。しばしば京・鎌倉を往復し、やがて鎌倉にも居を構え関東歌壇の指導者ともなった。

宝篋印塔の先には浄光明寺五輪塔(石塔)があるが、平素は立入りできない。




仏殿横の観音堂まで下りて戻ってきた。




崖には「やぐら」の他、鎌倉石の石切場の跡も残る。鎌倉石(凝灰岩)は加工しやすく、石段や敷石、石塔など様々に用いられた。




浄光明寺を後にして武蔵大路へ戻る。




丈が低くてかなり古そうな、横須賀線のガードをくぐる。




明治22年(1889)に開業した横須賀線は、明治期の土木遺構が残る。このガードのレンガ脚はイギリス積(イギリスづみ)。イギリス積とは長手(ながて。長辺)を並べた段と小口(こぐち。短辺)を並べた段を交互に積んでいく積み方。明治期の鉄道系土木遺産では割とよく見かける。




武蔵大路は化粧坂(けわいざか)への分岐で左折する。まっすぐ行くと扇ガ谷の最奥、海蔵寺。




途中、「景清の牢」と呼ばれる跡がある。

能や歌舞伎の演目でもその名を知られる平景清(たいらのかげきよ)は源平合戦の後も生き延びた。この牢は建久六年(1195)頼朝が東大寺大仏開眼供養のために上洛した際に景清が頼朝の命を狙って失敗、捕えられて鎌倉に連行され押し込められた牢という伝承がある。やぐらのような岩穴だったのだろうが、現在その形は崩れている。




坂を上り、化粧坂へ。




舗装路の行き止まりから崖に付けられた露岩の道を登っていく。




岩を削っただけの道は足元が悪く、濡れていると滑りやすい。




化粧坂は鎌倉七口(七切通)の一つ。八幡宮前・横大路(よこおおじ)から武蔵大路を経て鎌倉街道上の道(かみのみち。武蔵国府へと続く)へとつながっていく道の、鎌倉中(かまくらちゅう。鎌倉の市中)からの出口にあたる。
その名の由来は平家方の将の首に化粧して首実検をしたからとか、坂の周辺に遊女の居所があったからなどと言われるが、いずれも俗説であるという。

なお、中世の紀行文「とはずがたり」のなかで作者の二条尼が「化粧坂という山を越えて鎌倉の方を見れば」と記したくだりがある。
彼女は京鎌倉往還を歩いて江の島の岩屋に泊まり、鎌倉入りの前に極楽寺に詣でる。そして、坂を下って由比ヶ浜に出た。つまり、二条尼が歩いた切通は極楽寺坂の方であった。司馬遼太郎は「街道をゆく 四十二 三浦半島記」の一節で「おそらく彼女は極楽寺坂を上下しながら、化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまったのにちがいない」と書いている。
七切通しのなかで景観の美しさにおいては極楽寺坂が第一であったなら、その名の印象深さは化粧坂が一番であろうというのに自分としても異論はない。




短い距離ではあるが同じく鎌倉中心部近くの切通である巨福呂坂(こぶくろざか)、亀ヶ谷坂(かめがやつざか)と比べると、ここは一層古道の趣きがある。
鎌倉時代末期の新田義貞による鎌倉攻めの際、上の道(かみのみち)から鎌倉へと攻め上ってきた新田軍と北条軍との間で、鎌倉の出入口となる化粧坂は激戦が繰り広げられた。




坂を上りきると源氏山公園。




公園から振り返る、化粧坂への下り。




尾根の反対側には公園路として整備されていない急な山道の下り(七曲・ななまがり)がある。この先は「佐助ヶ谷」(さすけがやつ)に下りている。

第六代将軍宗尊親王(むねたかしんのう。最初の親王将軍)は権力闘争の渦中で解任され京に送還された。片瀬(藤沢市)の本蓮寺には宗尊親王別離の歌を刻んだ歌碑がある。吾妻鏡(あずまかがみ。鎌倉幕府の史書)によると宗尊親王は若宮大路御所北門を出て赤橋(太鼓橋)を西に行き、武蔵大路を経て佐介の亭(北条時盛邸)に入ったとされる。
そうなると親王は化粧坂を越えて、七曲を下っていったのだろうか。あるいはこの先で銭洗弁天の新参道へ通じる古道らしき道を下りていったのか。
参考「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」神谷道俊




公園案内図。

源氏山公園は昭和40年(1965)の開園。




源氏山は標高93m。山頂部が公園として造成された。




源氏山公園のシンボル、源頼朝像。頼朝の鎌倉入り(治承四・1180年)800年記念事業として建てられた。




11月下旬、紅葉もだいぶ色づいてきた。




山茶花(サザンカ)。




化粧坂上から葛原岡(くずはらがおか)、梶原、佐助ヶ谷・銭洗弁財天方面へ。

化粧坂上は鎌倉時代中期の13世紀に商業地(町屋地区)となった。九か所のうち規模が大きかったのは大町界隈であろうが、化粧坂上、亀ヶ谷辻(岩船地蔵堂あたり)あたりも幕府により商業地に指定された。




化粧坂の案内板。化粧坂は仮粧坂とも表記される。

化粧坂の先、葛原岡(くずはらがおか)は街道の町はずれということでこちらにも刑場があった。鎌倉時代末期には後醍醐天皇とともに倒幕を企てた公家・日野俊基(ひの としもと)が処刑されている(後醍醐天皇は隠岐へ島流し)。尾根を進んでいった公園のはずれには俊基の墓となる宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。




源氏山公園周辺案内図。赤文字加筆はサイト管理者。  拡大版


6.銭洗弁財天、佐助稲荷神社へ  まち歩きトップに戻る。