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山の鎌倉・五山寺院と七切通


4.寿福寺、亀ヶ谷坂

3.臨済宗大本山建長寺、巨福呂坂はこちら。




八幡宮前・横大路(よこおおじ)の角、鉄の井(くろがねのい)あたりから武蔵大路(むさしおおじ)を進んでゆく。

武蔵大路は八幡宮前から扇ガ谷(おうぎがやつ)、化粧坂(けわいざか)を経て鎌倉街道上の道(かまくらかいどう かみのみち)へと通じていく道。上の道を進んだ先が武蔵国府(東京都府中市)となるので、この道は鎌倉中(かまくらちゅう。鎌倉の市中)では武蔵大路と呼ばれる。

なお武蔵大路は化粧坂の手前、岩船地蔵堂の辻で亀ヶ谷坂(かめがやつざか)に分岐する。そちらは亀ヶ谷坂切通を経て山ノ内路に合流、鎌倉街道中の道(なかのみち)へと続いていく。

今回は扇ガ谷・寿福寺から泉ケ谷(いずみがやつ)・浄光明寺へと回るが、浄光明寺の拝観時間に合わせるため先に亀ヶ谷坂を往復する。戻って浄光明寺を拝観した後は化粧坂へと進み、源氏山公園へ向かう。




武蔵大路から分かれてすぐの横須賀線踏切を渡ると、寿福寺はすぐそこ。




寿福寺に向かう前、踏切を渡った左手の八坂大神へ寄っていく。




八坂大神(やさかだいじん)。

扇ガ谷の鎮守となるこの社は建久三年(1192)、相馬師常(そうま もろつね)が京・八坂神社を勧請して建立した。昔は相馬天王と呼ばれていたというが、明治期に八坂大神と改められた。

相馬師常は平安末期〜鎌倉初期の御家人。頼朝の重臣・千葉常胤(ちば つねたね)の次男で下総国(現千葉県)相馬を所領とし相馬氏を名乗る。頼朝の挙兵に呼応して戦功を挙げ、この付近に鎌倉における屋敷を拝領した。




八坂大神と寿福寺門前との間に、源氏山の由来碑が立つ。それによると源氏山は初め武庫山(むこやま)といい、亀谷山とも称された、とある。

この一帯は現在「扇ガ谷」と呼ばれるが、それは室町時代に関東管領を務めたこともある扇谷上杉氏(おうぎがやつ うえすぎし)が屋敷を構え「扇谷殿(おうぎがやつどの)」と呼ばれたことによる。元々「扇谷」は英勝寺あたりの限られた地域(谷戸)の呼び名であって、鎌倉時代には一帯は「亀谷(かめがやつ)」と呼ばれていたが、いつしか「扇谷」に取って代わられた。

「亀谷(かめがやつ)」の名は「鶴岡(つるがおか)」の名と対になっているともいわれる。鶴と亀、山(岡)と谷。このめでたい取り合わせは、この界隈が鶴岡八幡宮と並び初期の鎌倉幕府にとって非常に大切な場所であったことが窺える。現在において亀ヶ谷の名を残すのは切通。その造成は鎌倉時代のことなので「亀ヶ谷坂」と呼ばれる。また「亀谷山」は寿福寺の山号「きこくざん」としても残っている。

一方、源氏山の呼び名は平安中期、源氏中興の祖・源義家(八幡太郎)が奥州合戦に出征したおりにこの山に旗を立てたという故事に由来する。あるいは異説としてちょうど寿福寺のあたりに源義朝(頼朝の父)が邸宅を構えたことによる、という説もある。




朱塗りの寿福寺総門。鎌倉の復興期、江戸時代初期に再建された。門前には非常に古びた鎌倉石の層塔が建つ。




臨済宗建長寺派、亀谷山寿福寺(きこくざん じゅふくじ)。鎌倉五山第三位。開基は北条政子、開山は臨済宗の開祖、栄西。

寿福寺の開山は正治二年(1200)。政子が頼朝の菩提を弔うために創建し、鎌倉五山の禅刹としては最も古い(第五位の浄妙寺はこれより創建が古いが、当初は真言宗であり禅刹に改められたのはずっと後)。

開山の栄西は天台密教の権威者でもあり、当初寿福寺は天台・禅の兼学であった。
また栄西は日本で最初に茶を服する文化を宋からもたらしたことでも知られる。栄西が著した「喫茶養生記」は寺宝として鎌倉国宝館に寄託されている。
病弱な実朝のことで悩んでいた政子に対し、栄西は宋から持ち帰った喫茶療法を勧める。元気になった実朝を見て政子は栄西に全幅の信頼を寄せるようになった。「禅って何だ?」という時代、権力者の信頼を勝ち得たのは案外こうしたことによるのかもしれない。




山号の由来である「亀谷」は「鶴岡」と対。境内の地は頼朝の父、義朝の屋敷地。背後の山は源氏中興の祖・義家の旗立て山の伝承がある。そして開基の政子と開山の栄西。
寿福寺は武家の都・鎌倉のルーツをこれでもかと詰め込んだような、非常に由緒ある古刹である。


なお五山の序列は鎌倉時代の北条貞時、建武の新政の後醍醐天皇、室町幕府の足利尊氏に足利義満と、時の権力者によって幾度の変遷を経ながら定まっていった(詳細は円覚寺のページを参照)。

室町幕府三代将軍・足利義満により最終的に定まった五山の序列は鎌倉五山の第一位が北条執権政治の絶頂期にあった第五代執権・北条時頼の建長寺。第二位は蒙古襲来の国難に対処した第八代執権・北条時宗の円覚寺。そして第三位が尼将軍・北条政子による鎌倉禅刹のルーツ、寿福寺。第四位が執権北条一門による浄智寺。第五位は鎌倉中期に禅院に改められた浄妙寺。
ちなみに京都五山は第一位が室町幕府初代将軍・足利尊氏の天龍寺。第二位は絶頂期の三代将軍・足利義満の相国寺(しょうこくじ)。そして第三位が京における禅刹のルーツ、鎌倉幕府二代将軍・源頼家が開基となった建仁寺(開山は栄西。当初は天台・真言・禅の兼学)。第四位が公家の創建による東福寺(当初は三宗兼学)。第五位が鎌倉中期に禅院に改められた万寿寺。

序列の付け方はどこか似ている。そして、義満により南禅寺(開基は亀山法皇。元寇時の上皇)が「五山之上」として鎌倉・京の一位の上に置かれたのは、武家政治の中枢が鎌倉から京に移ったときの権力者による序列なのだから当然といえば当然といえよう。




総門から山門へ、参道を進んでいく。木立に囲まれた中を敷石が端正にすっと延びていく、趣のある参道。




山門。




山門越しの、寿福寺仏殿。山門から先は、普段は立ち入ることができない。




大棟(おおむね)にあしらわれた寺紋は源氏の家紋でもある「笹竜胆(ささりんどう)」。

建長寺、円覚寺の寺紋は執権北条氏の家紋「三つ鱗(みつうろこ)」であったが、先に触れたように寿福寺は源氏との所縁が深い。
平安時代の後期に関東に入った源義朝は鎌倉の屋敷をこの地に構えた。義朝は平治の乱(1159)で清盛に敗れた末に家人の裏切りによって命を落とす。
時は流れて治承四年(1180)、伊豆にて挙兵した頼朝は紆余曲折を経てついに鎌倉入りを果たす。その際頼朝は真っ先にこの地に足を運び、父のゆかりの地であるここに館を構えようとした。
しかし館と併せて幕府諸機関を整えるには土地が狭く、すでに岡崎義実(おかざきよしざね。源氏の旧臣・三浦義明の弟。平塚・岡崎郷を所領とした)が義朝を弔うための堂を建立していたこともあったため、大倉の地に館を構えたとされる。




山門の前から迂回して、北条政子、源実朝の墓所に参っていく。そちらは常時参拝できる。




開山以降、源氏将軍の時代から執権北条の時代そして鎌倉公方足利の時代へと進むにつれて極められていった五山寺院の栄華も、今は昔。現在の寿福寺はひそやかなお寺。

江戸時代初期の鎌倉社寺復興が一段落した時期、水戸の徳川光圀が延宝二年(1674)に鎌倉を探訪した。そのときの「鎌倉日記」には「昔の跡とて今も猶実に五山とおぼしきは円覚・建長の二寺のみ」と記されている。




案内に従って、さらに迂回する。




墓地への参道を進み、右に折れて谷戸(やと)の奥へと進んでいく。

鎌倉時代、平地の少ない鎌倉に在って谷戸の平場に墓地を造ることは認められず、崖に岩穴を穿って武士や僧侶の墓とした。これを「やぐら」という。この墓地も中世の頃は伽藍の諸堂が立ち並んでいたのだろう。




中世のやぐら、そしておそらくは近世以降の宝篋印塔(ほうきょういんとう)、さらには十字架。時代を超えて人々が眠る。




奥の崖に数基のやぐらが掘られている。




北条政子の墓。




政子の五輪塔(ごりんとう)。




少し離れて、源実朝の墓。




実朝の五輪塔。

吾妻鏡(あずまかがみ。鎌倉幕府の史書)によれば政子、実朝の亡骸は頼朝の創建による鎌倉三大寺の一つであった勝長寿院(しょうちょうじゅいん。大御堂・おおみどう)に埋葬された。ちなみに三大寺の他の二つは発掘調査・基壇整備が最近完了した永福寺(ようふくじ)、当時は神仏混淆だった鶴岡八幡宮寺。
勝長寿院は頼朝が父・義朝の菩提を弔うために建立した、源氏の菩提寺。壮大な堂が並び立ち、その壮麗な伽藍は京の都にも聞こえていた。「東関紀行」や「とはずがたり」といった、都の人が記した13世紀の紀行文には「大御堂へ参拝に行ってきた」といった記述がみられる。新田義貞による鎌倉攻めの際、鎌倉入りした義貞は大御堂を本営としている。

そうした隆盛を誇った勝長寿院ではあったが16世紀、戦国の世の頃にはすっかり廃れた。先に触れた水戸光圀の「鎌倉日記」によると勝長寿院跡は畠に七堂伽藍の礎石を残すのみだった。
現在は金沢街道(古道の六浦道)・大御堂橋の信号から南に入った住宅地の片隅にぽつんと立つ由来碑が、華やかなりし往時を伝えるのみとなっている。


寿福寺の政子・実朝の墓はいつのころか、失われた勝長寿院の霊堂に代わって政子ゆかりのこの地に整備されたのだろう。なお、政子の供養塔はこのほか大町の安養院にも見ることができる。




墓地から引き返して山門前まで、来た道へと折れて戻らずにまっすぐに進んでいくと、途中に源氏山公園への登り口がある。こちらは足元のよくない山道。




そして、岩を穿った洞門(トンネル)。




仏殿の横あたりまで戻ってきた。画面右をまっすぐ進むと来た道、左が戻って来た道で先ほどのトンネル、源氏山公園登り口に通じる。




寿福寺門前から横須賀線の踏切を渡り、扇川(おうぎがわ。滑川・なめりかわ支流)沿いに武蔵大路を進んで亀ヶ谷坂(かめがやつざか)へ向かう。

先に浄光明寺を拝観しようかとも思ったが昼の12時台に重なってしまったため(12〜13時は休憩時間で拝観を受け付けていない)、先に亀ヶ谷坂を往復してくることにする。




扇川にはホタルの幼虫の餌であるカワニナが生息する、とある。運が良ければホタルを見ることもできるらしい。




武蔵大路から亀ヶ谷坂への分岐の角に建つ、岩船地蔵堂。この八角堂は扇谷(おうぎがやつ)の谷戸最奥に建つ海蔵寺の境外仏堂。

この堂は頼朝の長女・大姫(おおひめ)を供養する堂との言い伝えがあり、本尊地蔵菩薩は大姫の守り本尊とされる。

大姫(1178〜1197)は頼朝と政子の間に生まれた最初の子。伊豆の時代に授かった女の子は頼朝の鎌倉入り後、政子とともに父頼朝との感激の再会を果たす。当時源氏一族は打倒平家を掲げ各地で挙兵。そうしたなかで頼朝と木曽義仲との間には対立が生じ、義仲の子・義高が大姫のもとに許嫁として、いわば人質として送られることで和解することとなった。
幼い大姫は義高を兄のように慕い、二人は仲の良い兄妹の如く育っていく。しかし元暦元年(1184)、頼朝により義仲が討たれたことが悲劇の始まりとなった。
頼朝は義高が長じて父の仇として自らに刃を向けることを怖れ、側近が逃がした義高に追手を差し向けて首をはねてしまう。時に義高十二歳。このむごい仕打ちに激しくショックを受けた大姫は病床に付し、日に日に衰弱。一命は取り留めたものの重い鬱に陥り、心を固く閉ざしてしまう。政子にもなじられ憔悴した頼朝は大姫の快癒を願って日向薬師(伊勢原市)へと参詣、神仏にすがったりもした。しかしかつての大姫が戻ってくることは二度となく、二十歳になるかならないかといった若さで大姫はこの世を去った。

この辻の前を、頼朝と政子は沈痛な面持ちで化粧坂を越えて日向薬師へと向かったのであろうか。




亀ヶ谷坂へ。




坂を上がっていく。




案内板。

亀ヶ谷坂(かめがやつざか)が切通で開削された時期は分かっていないが他の七切通と同様、1200年代の中ごろと考えられている。鎌倉街道中の道(なかのみち)に通じる山道としては巨福呂坂(こぶくろざか)切通よりも先に開削されていたようだ。

現在の坂は他の切通と同様、後世になって更に切り下げられ(掘り下げられ)鎌倉時代の坂よりは勾配が緩い。
亀ヶ谷坂の名の由来の一つとして、建長寺の池(おそらく放生池)の亀が「たまには外界を見てみたい」とこの坂を上っていったところ余りの急坂にひっくり返りそうになって引き返していった「亀返り坂」が転じて亀ヶ谷坂となった、というちょっと微笑ましい由来もある。




舗装路となった現在も両側が崖地として往時の姿を残している。




ほどなくして、道は下りに。




山ノ内路に合流するのは、先ほど建長寺を拝観する前に通ってきた尊氏ゆかりの長寿寺の角。ここで引き返し、往復する。




山ノ内界隈から扇ガ谷へと抜けるこの切通しは、道行く観光客がとても多い。舗装路で歩きやすく距離も長くはない。それでいて切通の雰囲気はよく残っており周辺には著名な寺社も多い。七切通のなかではおそらく一番歩かれているのではないだろうか。

岩船地蔵堂から扇川沿いの武蔵大路を戻り、川沿いからの分かれ道を左へ入っていくと泉ヶ谷(いずみがやつ。住居表示は扇ガ谷二丁目)。浄光明寺へ向かう。


5.浄光明寺、化粧坂、源氏山公園へ  まち歩きトップに戻る。