まちへ、森へ。

山の鎌倉・五山寺院と七切通

6.銭洗弁財天、佐助稲荷神社

 

5.浄光明寺、化粧坂、源氏山公園はこちら。

 

 

源氏山公園周辺案内図。赤文字加筆はサイト管理者。  拡大版

 

源氏山公園は源氏山の山頂部に整備された公園。公園内の尾根近くを古道・鎌倉街道上の道(かみのみち)と化粧坂(けわいざか)の切通が通っている。

 

銭洗弁天(ぜにあらいべんてん)は源氏山の中腹。佐助稲荷(さすけいなり)は源氏山から佐助ヶ谷(さすけがやつ)を囲むように伸びていった尾根(大仏ハイキングコース)の先、尾根筋から少し下がった中腹にある。
源氏山から佐助稲荷は大仏ハイキングコースをたどる道も雰囲気がいいが、足元のよくない山道ゆえトレッキングシューズなどで足ごしらえした方がいい。そうでなければ佐助ヶ谷へと下りていった方が無難。

 

 

 

案内板辺りから左に分かれて進んできた道筋は梶原への道。そして画面は、その次に現れる分岐。まっすぐ進んでいった梶原方面の先は「鎌倉街道上の道(かまくらかいどうかみのみち)」へと続く。

 

分岐を左へ曲がると、佐助ヶ谷(さつけがやつ。住居表示は佐助一丁目、二丁目)へと下りていく急な下り坂。銭洗弁天はその途中にある。

 

 

 

急坂を下っていく。

 

 

 

途中の崖にもあちらこちらに「やぐら」(中世の武士・僧侶の墓となった岩穴)が見られる。公園路は古道を活かして整備されているのだろう。

 

 

 

かなり下っていくと、山の中腹に現れる銭洗弁天の鳥居。

 

 

 

鳥居の先は崖を穿った隧道(トンネル)になっている。

 

 

 

案内板。

 

銭洗弁財天(ぜにあらいべんざいてん)は宇賀福神社(うがふくじんじゃ。本社)の奥宮。文治元年(1185)、頼朝の夢に現れた宇賀福神の「おつげ」により、湧水で神仏の供養を行ったのがその起こり。神仏の供養により人々に信仰心が宿り世の中が平和に治まっていくように、との願いが込められた。

 

そうはいっても、今ではお金を洗いに来る多数の参拝者で賑わう弁天様として世に知られている。

銭を清めるようになったのは権勢を誇った実力者・五代執権北条時頼(ほうじょう ときより)の頃から。頼朝の信心に倣って参詣、そのとき持っていた銭を洗い清めた。清められた銭は「福銭」として一家繁栄・子孫長久をもたらすとされた。
折しも宋との貿易船から大量の宋銭がもたらされ貨幣経済が坂東の世にも浸透しようとしていた頃である。時頼の行為を人々が倣ったことで、この霊水は銭洗水として広く知られるようになっていった。時頼は貨幣経済という新たな価値観を世に広く浸透させるために神仏の力を借りようとしたのだろうか。

 

 

 

鳥居をくぐりトンネルを抜けていく。神秘的な別世界へと誘う雰囲気に満ちたこのトンネルは、新たな参道として昭和33年(1958)に開通したもの。古来の表参道は本社前の参道を南に佐助ヶ谷へと下っていく小径の参道。

 

 

 

境内に入ると奉納された鳥居が列をなしている。

 

 

 

境内案内図。

 

 

 

下之水神宮。一条の滝の流れはか細い。

 

 

 

社務所の左奥が本社(宇賀福神社)。その左手に奥宮(銭洗弁財天)の岩窟。参拝者はまず社務所で賽銭を納めてお清め用のざるをお預かりする。

 

 

 

岩窟の奥宮で銭を洗う前に本社に参拝する人々。とにかく順番待ちの行列がすごい。紅葉シーズン初めの週末だからということもあろうが、まるで初詣か何かというような混雑ぶりだ。

 

 

 

銭洗弁天を後にして、再びトンネル側から源氏山を佐助ヶ谷へと下っていく。鎌倉駅西口から銭洗弁天に向かう人は、この急坂を息を弾ませながら登ってくることになる。

 

 

 

道標で右折して、佐助稲荷へ。辻には石標も立っている。

 

 

 

佐助稲荷は佐助ヶ谷(さすけがやつ)の最奥に祀られている。

 

 

 

佐助稲荷神社下社(さすけいなりじんじゃ しもしゃ)。

 

頼朝は伊豆・蛭ヶ小島に流されていた時代、その官位「右兵衛佐(うひょうえのすけ)」にちなんで北条時政など周りの人たちからは「佐殿(すけどの)」と呼ばれていた。
蛭ヶ小島の時代に頼朝の枕元に「隠れ里の稲荷」と名乗る老翁が現れて平家討伐の挙兵を促した。頼朝は平家を滅ぼしたのちに稲荷神の加護への感謝を表すため隠れ里を探し当てさせ、畠山重忠に命じてこの地に社殿を造営した。佐助稲荷の名は「佐殿を助けた稲荷」として名付けられた、とされる。

 

 

案内板に見るように、佐助稲荷の祀られた佐助ヶ谷は「隠里」とも称した。

 

そして、この隠れ里について興味深い見解がある。
全国の隠れ里伝説に見られるように、古来「隠れ里」は祈祷師や修験者など特別な能力を持った人々の集落であった。頼朝の御家人となった梶原景時の先祖代々の支配下であるこの地の人々は、隠密裏の行動によって頼朝を助けていた可能性が大いにあるという。

 

頼朝は伊豆にて挙兵後、石橋山の合戦にて一敗地にまみれ窮地に追い込まれながらも辛うじて海上を安房(千葉県)へと逃れていく。箱根山中でその頼朝を助けたのが修験者による山岳信仰の霊場・箱根権現の第十九世別当、行実(ぎょうじつ)であった。おそらく頼朝は合戦を通じて修験者集団が操る法力の絶大な力を痛感したに違いない。
そうしたこともあり梶原景時から紹介された隠れ里の人々を頼朝は大いに頼り、また景時も頼朝の信頼を勝ち得た、というのだ。景時が他の御家人たちから疎まれていたのも景時が配下の者を使って裏の情報を頼朝に提供していたからではないか、などと尽きぬ興味に引っ張られつつ話は展開する。
参考「鎌倉謎とき散歩」湯本和夫。

 

佐助稲荷はその由来からすれば読みは「すけすけ」となりそうだが字面のとおりに「さすけ」と読む。そして佐助といえば広く一般に知られるのは忍者「猿飛佐助(さるとび さすけ)」。忍者の里も「隠れ里」。猿飛佐助の佐助という名はここ佐助稲荷に着想を得たのだろうか、とも思えてくる。もちろん知る由もないが。

 

 

 

佐助稲荷神社の石標が建つ参道。

 

 

 

奉納された朱塗りの鳥居のトンネル。

 

 

 

トンネルは続いていく。

 

 

 

昼なお暗き境内の鳥居トンネルは、さながら隠れ里の異境へと誘う入口の雰囲気に満ちている。

 

 

 

石段を上がると拝殿。

 

 

 

森閑とした境内。

 

佐助稲荷神社は「出世稲荷」としてその信仰が関東一円に広がっていった。

 

 

 

境内図。

 

 

 

拝殿の奥へ、さらに石段(男坂)を登っていく。

 

 

 

本殿。

 

 

 

奥の院。こちらは「お塚」と呼ばれ石祠が祀られている。

 

 

 

奥の院の先は足元の悪い山道の登り。殊に下りとなるとまち歩きの靴ではかなり歩きにくそうであり、できればトレッキングシューズの方がいい。この上は「葛原岡(くずはらがおか)・大仏ハイキングコース」の尾根に通じている。ハイキングコースをたどると大仏から江ノ電・長谷駅、あるいは源氏山公園〜浄智寺からJR・北鎌倉駅へと出ることができる。

 

 

 

拝殿に戻るまわり道(女坂)にも奉納されたと思しき石祠が多数ある。

 

 

 

佐助稲荷を後にして、鎌倉駅へ。

 

 

 

鳥居のトンネルを戻っていく。

 

 

 

 

 

 

 

佐助一丁目の信号で左折し、バス通りへ。

 

 

 

まっすぐ進めば鎌倉駅西口。

 

 

 

最後に鎌倉駅の手前から今小路(いまこうじ)に入り、御成小学校の正門を見に行く。

 

 

 

御成小学校(おなりしょうがっこう)正門は立派な冠木門(かぶきもん)。ちなみにこのような立派な冠木門の校門は玉縄城(たまなわじょう)近くの植木小学校にも見られる。さすが鎌倉市。

 

御成小学校の校地には明治から昭和初期にかけて鎌倉御用邸があった。現在の冠木門は建て替えの際に御用邸時代の門のデザインを受け継いだもの。
昭和の後期、小学校の改築にあたって発掘調査が行われた。その結果、最も古いもので天平年間(奈良時代初期)の木簡が出土。この地は律令国家時代の鎌倉郡衙(かまくらぐんが。役所)跡であったと推定されている(今小路西遺跡・いまこうじにしいせき)。そして中世には御家人や北条得宗家の屋敷、近代には御用邸と歴史が重層的に重なっていった。

 

 

 

JR鎌倉駅西口・江ノ電鎌倉駅に到着。

page top