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星谷観音巡礼街道から座間湧水群へ

〜坂東三十三箇所観音霊場から信玄公まぼろしの新都構想、そして軍都〜


2.星谷観音から富士山公園、座間公園

1.星谷観音巡礼街道から星谷観音へはこちら。

星谷観音からは在日アメリカ陸軍キャンプ座間に隣接する公園に残されている旧陸軍士官学校関連の史跡などをめぐっていく。




星谷観音から富士山公園へ。




小田急の線路沿いに進む。




小田急のガード下をくぐり、左へ入る。




斜めに交差する道を左へ。




ブランコのある小さな公園の角を左に入っていく。




小田急と県道のトンネルをくぐる。




富士山(ふじやま)公園に到着。




「浅間坂(せんげんざか)」と彫られた標柱が立っている。

かつてこの里山の山上には富士浅間(ふじ せんげん)信仰のお社である浅間神社が祀られていた。神社は明治42年(1909)に座間神社に合祀されている。

座間の地からは富士山は大山、丹沢の陰に隠れて見えない。相州・武州各地の浅間神社は、遥かに富士を見やる地のお社もあれば、見えないからこそのお社もある。




樹林を登る園路。




富士山公園は在日米軍キャンプ座間に隣接する小さな森がそのまま公園となっている。




この公園もキャンプ座間も、元は陸軍士官学校(陸士)の敷地だった。

陸軍士官学校・演習場は昭和12年(1937)、東京市ヶ谷の陸士をこの地に移転するために陸軍が地元農家の生活の支えであった農地を半ば強制的に買収し整備された。その際、市ヶ谷の陸軍士官学校が「市ヶ谷台」と呼び習わされたことに倣い座間の陸軍士官学校は昭和天皇から「相武台」の名称を賜った。「相武台」の名は現在でも行政上の地名や駅名などに受け継がれている。
参考「座間市史 5 通史編(下)」




富士山公園の最高所。標高およそ86m。




ここには陸軍士官学校時代の遥拝所(ようはいじょ)方位盤が残っている。削られてしまったのか、後からコンクリートで埋めたような跡もある。




西。台北(台湾)、高知、熊□(熊本か)、広島、京城(現韓国ソウル)。




新京(満州。現中国長春)、高田。




北。青森、旭川。明治は明治神宮か。




東。千葉。




解説板。

陸軍士官学校の時代、校地の高台となるこの地は遥拝所となり宮城(きゅうじょう。皇居)、明治神宮、伊勢神宮などの方角に向かって拝礼するための方位盤が設けられた。
刻まれている都市名は外地の中心都市のほか、陸軍の師団などの大拠点があった都市のようだ。




英文付きの案内板。




現在、遥拝所方位盤はこの地の歴史を今に伝える数少ない史跡となった。そして、この場所が旧浅間神社の跡となる。




行幸道路の側に下りていく。




県道(行幸道路)側の公園入口。




昭和天皇が陸軍士官学校の卒業式に御臨席することは慣行となっており、この道路は昭和天皇が陸士に行幸するための道として整備された。陛下は私鉄は使わず八王子駅を経由して橋本を通過、原町田(町田)に到着してから道路を通って士官学校まで行幸された。




行幸道路を歩いて座間公園へ向かう。在日米軍キャンプ座間のメインゲート(正門)付近。




いつものことだが、米軍基地ではゲートから敷地内方向にカメラを向けることはできない。




トンネル(相模原隧道)。




座間神社入口信号。




交差点の角には座間公園への登り口(中央口)と案内板がある。




公園の案内板。案内板の道路を挟んだ向かい側の入口から公園に上がる。




市営プールのあるこのエリアは在日アメリカ陸軍座間司令部(リトルペンタゴン)に隣接する。

第二次大戦の終戦後、陸軍士官学校跡に進駐した米軍はしばらくの間補充部隊を置き、朝鮮戦争(昭和25年・1950)の勃発する前年には高射砲部隊が置かれた。
いざ戦争が始まると座間は陸軍の後方・兵站基地となる。昭和26年(1951)のサンフランシスコ講和条約によって日本が独立を回復するのと引き換えに、日米安全保障条約の締結によりキャンプ座間は「無期限使用」施設となった。その後、再編されたアメリカ極東陸軍司令部が横浜から座間に移転することとなり、昭和28年(1953)に国防総省の建物を模した司令部庁舎(当時の通称は「ペンタゴン」)の完成をみる。
参考「座間市史5通史編(下)」




はためく日章旗と星条旗。




西に丹沢・大山を一望する。




フェンスの向こうはアメリカ。




公園内に建つ、旧陸軍士官学校軍馬功労碑(昭和14・1939年建立)。座間公園と富士山公園は、現在でもこうして陸軍士官学校の名残りを留めている。

座間公園には「陸」の文字が刻まれた陸軍境界標も残っているらしいが、探し切れなかった。ちなみに海軍のそれは富岡総合公園(横浜市金沢区)で見たことがある。




英文付きの案内板。




座間神社へ。




本殿。

座間神社の創建については諸説ある。古くは欽明天皇の御代(539〜571)ともいい、鎌倉時代初期に源頼朝が創建したという説もある。鎌倉末期の正和二年(1313)に至り信州の飯綱権現(いいづな ごんげん)を勧請して再建された、ともされる。
参考「かながわの神社」

飯綱権現は武門の信仰が篤かった神。東海道・神奈川では源頼朝が飯綱大権現(現在の大綱金刀比羅神社)を祀り、戦国時代の北条氏は飯縄大権現を祀る高尾山薬王院を庇護した。ここ座間神社にもこの地を拝領した内藤修理亮清成(ないとう しゅりのすけ きよなり。戦国末期〜江戸初期の徳川家臣)が参拝した記録がある。

神仏習合の飯縄(飯綱)信仰は明治の世に至るとそのままで存続することは叶わず、明治九年(1876)には祭神が日本武尊とされ社号が座間神社と改められた。




神社会館の「すいめい」。境内に面するのは3Fに相当する「会席料理すいめい亭」の玄関。




「すいめい」の前に立つ、御神木の椎(しい)。推定樹齢は三百年。




神社では珍しい、鐘楼。




石段を降りると座間神社の鳥居。




座間神社の「御神水(泉水)」へ。神社会館「すいめい」駐車スペースの脇から入っていく。




御神水の案内板。




自由に水を汲むことができるこの湧水は、現在では機械を通して汲み上げられている。座間市発行の「湧水ざまップ」には掲載されていないが、座間市観光協会のパンフレット「ようこそ座間へ」には掲載されている。

座間神社の公式サイトによると、御神水には神社建立の由来となった伝説がある。
欽明天皇の御代(539〜571)、座間に悪疫が流行。村人が苦しんでいたとき、飯綱権現の化身である白衣の老人が現れこの湧水を使うよう告げる。お告げに従った村人が水を汲んで飲み水とすると悪疫は治まった。そこで村人が感謝のしるしとして飯綱権現を祀ったのが座間神社のはじまり、とされる。大昔には崖線から湧き出していたのかもしれない。


かつて、座間神社のすぐ近く(相模原市南区新戸(しんど)、日枝神社の川向こうあたり)に「豊国酒造(とよくにしゅぞう)」という酒造所があった。その主力銘柄は「士鑑桜(しかんざくら)」。その名は陸軍士官学校にちなみ、武士の鑑と桜を重ねあわせて命名されたという。
新酒の仕込みの始まる季節には、ここ御神水からのお水取りも行われていたのであろうか。そのむかし相模原町と座間町及び周辺の村々は合併と分離をくり返し、現在の行政区分となっている。相模原の南部と座間は一体的な文化圏を形成していた時代が長かったろう。
他には大吟醸「さいこの花」という銘柄も造られていた。「さいこ」とは相模原にむかし自生していたというノゼリ。

豊国酒造は私が山歩きと同時に神奈川県内の蔵元を巡るための参考書として手に入れた「かながわの酒」(相原精次著。1995年発行)には掲載されていたのだが、「かながわの地酒」(山成健治著。1998年発行)には載っていない。酒蔵巡りを始めた時点では残念ながらすでに廃業されてしまった後だった。返すがえすも、惜しいことをした。


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