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相模横山・相模川河岸段丘の街をゆく


3.道保川公園から相模原沈殿池へ

2.道保川公園はこちら。



道保川(どうほがわ)公園の南側入口(管理事務所側入口)からすぐの、道保川公園信号。ここから古山(こやま)の十二天神社を経て相模原沈殿池へ。時刻は午前11時30分過ぎ。




道保川も先に歩いてきた姥川(うばがわ)と同様に、河岸段丘中段の田名原(たなはら)で崖下の湧水を集めて流れる川。相模横山(さがみよこやま。段丘崖の横山丘陵緑地)が延々と続く。




小山造園先の信号を左手に入る。




正面に横山丘陵を見ながら道保川に架かる一関橋(いちのせきばし)を渡る。




斜面緑地を上がっていく車道の手前で、分岐から旧道に入って十二天神社に立ち寄り。




山車(だし)格納庫。十二天神社の山車は毎年7月の例大祭で見られるようだ。




参道入口は民家の板塀沿いに進んだ先。




十二天神社。




鳥居に掛けられた、立派なしめ縄。




拝殿と神楽殿。

十二天神社は県神社庁公式サイトや新編相模国風土記稿でも情報が少ない。私設サイト「猫の足あと」様の文献情報(さがみはら風土記稿)によると、創建は不詳であるが江戸前期の寛文二年(1662)にこの地を検地した久世大和守広之が村人との相談のうえで湧水のすぐ脇にあった小さな祠を高所に移すことを提言、現在の境内地となったとされる。明治30年代には古山地区の畑中に鎮座していた八坂神社と日枝神社が十二天神社に合祀された。神楽殿はその時に移設された両社の拝殿を利用したもの、とある。

十二天神社は小栗判官・照手姫伝説にもゆかりがあるという記述が各種サイト・ブログに見られる。市の公式サイトでは下溝(しもみぞ)の古山地区とその周辺に伝承が残されている、とある。そこで可能な限りで資料にあたってみたところ、次のような記述があった。以下「日本の民俗 神奈川」(全47巻の第14巻。和田正洲著。第一法規。昭和49年発行)より引用。
「下溝にも小栗判官の伝説がある。下古山に一二の塚があったが、持ち主の暮らしが苦しくなり塚石だけ残して開墾した。ところが持ち主に不吉なことばかり起こった。一二の塚はそれでもなおつぶされていったが、その開いた畑をもっていた人たちにもよくないことばかり続いた。それで易者にみてもらったところ、それは塚石を粗末にしたからだとのことで、塚石をもとに納めて、お祓いをし、やっと祟りはなくなった。この一二の塚は小栗判官・照手姫とその家来の墓という。またこの地に馬屋くぼというところがあり、横山弾正が鬼鹿毛(おにかげ)という荒馬を飼っていたところという。弾正は照手の心を奪った小栗が憎らしく、鬼鹿毛に乗ってみせよといった。小栗はこの荒馬を乗りこなしてきたので仕方なく照手とめあわせたという。十二天社のそばの馬場坂は判官が鬼鹿毛を乗りこなしたところと伝える」。

下古山は河岸段丘の中段。現在はバス停にその名を残している。安政5年(1858)の「古山十二天社文書 壱号」には下溝の古山に伝わる小栗照手姫伝説が記されている。




境内の石仏石塔と石碑。




銀杏の大木。

境内からは背後の坂に上がる道はないので、分岐まで戻る。




斜面緑地の坂を上がっていく。




坂を登った突き当りは河岸段丘の上段。擁壁の上は下溝古山公園。




斜面緑地を斜めに突っ切るように造成された車道を下っていく。




あさみぞホームを過ぎたあたり、青看板手前の分岐を左折。




再び段丘の上段へと上っていく。




青空にポツンと、輸送機らしき機影。




上った先は横浜市水道局・相模原沈殿池の敷地。




右折して敷地沿いに進んでゆく。




この辺りは市街化著しい河岸段丘の上段(相模原)にあって、昭和の中期ごろまで見られた往時の姿を残している。奥に見える照明塔は相模原ギオンスタジアム(相模原麻溝公園競技場)のそれ。




西には大山の雄姿。




ダム提の陸橋をくぐり県道に出ると、右手に記念碑。




「柴胡が原陸橋命名碑」と名付けられた記念碑(昭和53・1978年建碑)には芭蕉の「陽炎や柴胡の糸のうす曇」の句が刻まれている。この句の碑は先に巡った横山公園の展望広場にも建てられていた。

古くから街道沿いに集落が発展した河岸段丘中段の田名原(たなはら)に対し、段丘の上段に広がる相模原の台地は地下水脈が深いゆえに水が得にくかったことから、江戸期全般に渡って順次開墾された境川流域の畑のほかは広大な原野だった。そこには柴胡(さいこ)というノゼリが一面に群生し「柴胡が原」と呼ばれていたという。
昭和初期以降は陸軍施設の進出により軍都として開発が始まるも、敗戦後は米軍による軍施設の接収もあってか周辺地域の開発はそれほど急激には進まなかった。

碑の案内文には「柴胡が原」は渡辺崋山が江戸後期の天保年間(1831〜1845)に記した「游相日記(ゆうそうにっき)」や下九沢小泉家の芭蕉句碑(文政12・1829年頃建碑)にも見られる、とある。また柴胡の根は解熱剤として用いられ、江戸末期には横山下の下溝村などでは冬期に野に出て柴胡を掘り生活の資に供した、といった内容が記されている。




碑の隣りでは三島柴胡(ミシマサイコ)が育てられている。傍らの胸像は座間美都治(ざま みつじ。教育者、相模原の郷土史家)。




三島柴胡の解説板。




6月の上旬、黄色く色づいて間もなく開花しそうな柴胡の花。




記念碑の反対側、行き止まりの歩道を少しばかり進んでみる。




歩道から見る、相模原沈殿池の土堰堤(どえんてい。アースダム)。




記念碑のそば、県立相模原公園前バス停の脇からアースダムに上がる。




アースダムの天端(てんば)。




ダム提を見下ろす。




沈殿池とはいえ、その水面はかなり広い。




池の向こうには北里大学病院の高層棟。

相模原沈殿池は横浜市水道局の施設。昭和27年(1952)に完成した。
横浜市水道局の水源は5系統に分かれている。そのうち道志川(どうしがわ)系統は、明治20年(1887)に完成した日本初の近代水道である三井(みい)用水取入所(旧津久井町三井、相模川・道志川合流点付近)〜川井接合井(横浜市旭区)〜野毛山(のげやま)浄水場(横浜市西区)の、いわゆる横浜水道の流れをくむ。
明治30年代の第1回拡張工事により取入口は三井からより高所の青山(旧津久井町青山、道志川)に変更。青山沈殿池(旧)、川井浄水場が新設されていく。その後も明治末〜大正の第2回拡張工事により鮑子(あびこ)取入所(旧津久井町青山)、西谷(にしや)浄水場(横浜市保土ケ谷区)などが新設された。

他方、相模原沈殿池は相模湖系統に属する。相模湖系統は戦前期に計画されるも中断、昭和20年代に完成を見た第4回拡張工事による。津久井発電所の水槽(県企業庁管轄の沼本ダムから送水された水を受ける)に付属する津久井分水池から川井接合井、大貫谷戸(おおぬきやと)・梅田谷戸・鶴ケ峰の三つの鋼構水路橋(緑色に塗られたトレッスル橋)を経て西谷浄水場へと送水された。




相模原沈殿池は当初は現在地ではなく田名(たな)に40,000立方メートルの鉄筋コンクリート池が計画されていた。しかし戦前の導水隧道工事変更に伴って沈殿池位置を隧道末端の現在地に変更、鉄筋コンクリート池の容量も64,400立方メートルに増やされた。
戦時中の計画中断を経て昭和22年(1947)に相模湖が完成すると、濁度の状況から沈殿池の容量不足が判明。より大規模な沈殿池を建設する必要が生じたが、戦後のインフレもあって鉄筋コンクリート造の沈殿池建設は難しくなった。そのため、現在のような土堰堤(アースダム)の貯水池が建設された。
その規模は湛水面積120,000平方メートル(12ヘクタール)。総貯水量883,000立方メートル、有効貯水量700,000立方メートル。これは本系統1日配水量の300,000立方メートルに対し、2日分を超える量。

参考「横浜水道130年史 第1章」(PDF)




ダム提の向こうには都県道相模原町田線(鎌倉街道)の「柴胡が原陸橋」、その奥の森は県立相模原公園。

このあたりの県道が地図に「フィッシングパーク通り」と表記されているのは、県立相模原公園「せせらぎの園」地区が「神奈川県フィッシングパーク」だった頃の名残り。勿論、上水道の沈殿池で釣りができるわけではない。




天端から西を眺めれば、大山が大きく見える。




水面の彼方に延びる丹沢山塊の尾根。




通過車両に注意しながら道路を渡って、県立相模原公園・サルスベリゲートへ。時刻は道保川公園を出発してからちょうど一時間の、12時30分過ぎ。


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