平成27年(2015)4月中旬、鎌倉街道・別所(べっしょ)から鶴見川源流の泉まで、鶴見川源流部の古道、谷戸を巡り歩く。
3.都立小山田緑地、鶴見川源流・泉のひろばへ
小野路から小山田への里山を歩く。都立小山田緑地(東京都町田市)は総面積およそ44ヘクタール。本園と三つの分園から成る。いずれも里山の谷戸、湧水を生かした整備がなされている。このページでは本園から梅木窪分園、大久保分園へと谷戸を遡っていく。大久保分園からは小山田緑地を離れて鶴見川本流の源流・泉の広場へ向かう。
2.小野路宿、万松寺谷戸・小野路城址・奈良ばい谷戸へはこちら。
町田市下小山田町(しもおやまだまち)・小山田緑地の本園。
小山田の地名は平安時代の荘園である小山田荘(おやまだのしょう)に由来する。小山田荘は現在の町田市域のうち、境川源流へ細長く延びる辺りを除いたほぼ全域に渡る。
平安時代末期には、武蔵を本拠とする関東の大武士団・秩父平氏(ちちぶへいし)の一族である秩父有重(ちちぶありしげ)が支配地の小山田にちなんで小山田氏を名乗った。有重は、戦国時代に武田氏の家臣となった甲斐の小山田氏の祖にあたる。
なお有重の兄である重能(しげよし)は、秩父平氏一族で最もその名を知られた武将である畠山重忠(はたけやましげただ)の父。支配地の畠山荘(現在の埼玉県深谷市)にちなんで畠山氏を名乗っている。
有重の息子たちは三郎重成(さぶろうしげなり)が支配地の稲毛荘(現在の川崎市中原区・高津区・宮前区)にちなみ稲毛氏を、四郎重朝(しろうしげとも)が支配地の榛谷御厨(はんがやみくりや。現在の横浜市保土ケ谷区・旭区)にちなみ榛谷氏をそれぞれ名乗った。
小山田緑地案内図
小山田緑地は本園と三つの分園からなり、開園面積はおよそ44ヘクタール(100m四方×44)。鶴見川源流域で幾つも枝分かれした小川の谷戸で構成されている。
本園は結道川(ゆいどうがわ)の右岸(うがん。下流に向かって右側)に派生する谷戸にあたる。
本園の東口駐車場側入口。
調整池。このあたりは「小山田の谷」と名付けられている。傍らを木道が奥に向かって長く延びていく。
イチリンソウ。すぐそばにはニリンソウの群落もある。
溜池。このあたりで標高およそ85m。
溜池から奥へ、さらに木道が延びていく。
ヤマブキ。
谷戸の最奥で尾根に上がる。
尾根には石畳の道。
みはらし広場へ。
運動広場。
尾根に向かってなだらかな丘が広がるこのあたりは「小山田の牧」と名付けられている。平安時代から鎌倉時代にかけて、小山田荘の時代には牧が設けられ良質な軍馬の産地であったと考えられている。
みはらし広場。
関東の富士見百景の碑が置かれているが、空が霞む春の午後、遠景の展望は望むべくもない。
展望図。
このあたりからは、富士山は丹沢山塊最高峰・蛭ヶ岳(ひるがたけ。1673m)の右、丹沢主脈の稜線上にちょこっと頭を見せる。
このあと、公園管理所まで下りて梅木窪分園に向かう。
本園から梅木窪(うめきくぼ)分園へ。
尾根道をゆく。
途中、尾根を外れて吊り橋へ。
吊り橋の下はうさぎ谷と名付けられている。最初に歩いた本園・小山田の谷よりもさらに上流で結道川から枝分かれする谷戸の、最奥。
再び尾根道へ。
とても小さなチゴユリ。
気持ちの良い、里山の尾根道を下っていく。
下った先は、梅木窪(うめきくぼ)分園・アサザ池。
この池は鶴見川最上流部の支流・堂谷戸川(どうやとがわ)の水で造られた池。このあたりで標高およそ100m。
水面には、移植されたアサザの葉が浮かぶ。
アサザ池を後に、大久保分園へ。
このあたりの谷戸は、「田んぼ友の会」により谷戸田が維持・管理されている。
大久保分園へは東京国際ゴルフ倶楽部の敷地を横切っていく。
大久保分園。尾根上の散策路をたどり、トンボ池へ。
大久保分園・トンボ池。
堂谷戸川よりさらに上流の支流・善治ヶ谷川(ぜんじがやとがわ)に流れ込む沢の湧水で造られた池。ここは標高およそ110m。
木道の下あたりに谷戸の絞り水がちょろちょろと滲み出ており、池へ注いでいる。
大久保分園をあとに、鶴見川本流の源流へ向かう。
なお、本流の源流に向かわない場合はゴルフ場沿いに山中分園へとさらに遡り、小田急多摩線・唐木田(からきだ)駅に出ることができる。
大久保分園からバス通りへ下りていく。
町田市営・下小山田苗圃(びょうほ)。
バス通りまで来たら右折、上小山田町(かみおやまだまち)へ。このあたりで標高およそ80m。
下小山田町・上小山田町の辺りは平安末期の小山田荘(おやまだのしょう)の時代、支配者の小山田氏(秩父平氏の一族)が大泉寺(だいせんじ)の辺りに居館を構えたとされ、古くは小山田荘すなわち現在の町田市域の中心地であった。
平安末期から鎌倉初期にかけて幕府の御家人として一大勢力を誇った秩父平氏の一族であったが、執権北条氏との権力闘争の過程で畠山氏、稲毛氏、榛谷氏は滅ぼされ小山田氏もやがて没落していく。御家人の権力闘争が収束していく過程でこの地はやがて執権北条氏の支配下に置かれていった。のちに関東管領上杉家の一族である扇谷(おうぎがやつ)上杉氏、戦国大名北条氏、徳川氏と支配者は変遷していく。
広い歩道が設けられたバス通りを、上流に向けてひたすら歩く。
小山田バス停。バス折り返し場が広くとられている。クランク状に道を曲がり、さらに上流へ。
小山田バス停を過ぎていった先、道は路肩が殆ど無くなり大変狭い。周囲の開発が始まるよりもずっと前、谷戸ふところでの集落の生活が古くから営まれてきた歴史を感じさせる。
傍らを鶴見川最上流の小川が流れ良い雰囲気だが、谷戸の奥に向かっていく地形にもかかわらず車の往来がとても多いため、歩行には神経を使う。この道は、尾根の向こうのニュータウン開発により整備された尾根幹線道路方面へ通じているため、その幅員に比して通過車両がとても多い。
画面右奥、柵で囲われた辺りが湧水。標高およそ110m。正面の尾根筋は150〜160m。
鶴見川・源流の泉(泉のひろば)。平成27年(2015)4月現在、施設改修のため当面休園となっている。
池の傍らを水路の小川が流れる。谷戸の最奥、表層を流れる沢は小川となり流れ下っていく。
鶴見川本流の源流となるこのあたりは、背後に尾根を従え放射状に延びる谷戸が集まってくる場所。地下に浸透する水を集める地形のため、湧水の水量は多い。その水量を活かした池が造られている。
この泉は尾根沿いに延びる川崎水道のトンネル工事で湧水がいっとき枯れたことがあったという。
地下に浸透して湧き出す水は、大規模な土木工事によって水脈がいともたやすく断たれてしまうことがある。小田急沿線でいえば、やはり90年代の終わりごろ鶴巻温泉でマンション開発の基礎工事と時を同じくして源泉の水位を観測する井戸の水位が急激に低下、自噴量も減少したため工事の差し止めが争われたこともあった。
この泉は回復工事を経て湧水が復活、現在は再整備のさなかにある。身近な湧水として再整備が完了されるのを待ちたい。
ここから小山田バス停に戻り神奈中バスでおよそ30分、町田バスセンター(小田急)・町田ターミナル(JR)へ。
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