まちへ、森へ。

六浦から朝夷奈切通・金沢街道を一路鎌倉へ

平成26年(2014)のお盆休みの頃、京急・金沢八景駅を起点に六浦(むつうら)から朝夷奈切通(あさいなきりどおし)・金沢街道(六浦道。むつらみち)を経て鶴岡八幡宮・JR鎌倉駅まで、中世鎌倉の古道をたどる。

 

1.金沢八景駅から六浦、朝夷奈切通を経て十二所へ

 

 

横浜市金沢区・京急金沢八景駅前から国道16号を六浦(むつうら)方面へ。この先で六浦交差点を右折、京急ガード下をくぐって環状4号に入っていく。

 

現在では六浦(むつうら)と表記・発音される地名は、鎌倉時代中期ごろから大正の頃までは六浦(むつら)と呼ばれていた、という。さらに、鎌倉時代中期ごろまでは六連(むつら)と表記されることが一般的であった、とされる。

 

 

 

環状4号沿いに少し行った先に建つ、日蓮宗六浦山(ろっぽさん)上行寺(じょうぎょうじ)。鎌倉時代中期、建長六年(1254)の創建。元は真言宗の寺であった。
通りから茅葺の山門が見える。そのあたりは日蓮の時代、船着き場があったといわれるところ。その昔、現在の道路の南側は平潟湾(ひらかたわん)の入江だった。

 

江戸時代に景勝地として人気を博した金沢八景は「八景根元地」能見堂(のうけんどう)からのものと「八景一覧地」金龍院九覧亭(きんりゅういん きゅうらんてい)からのものが知られているが、両者は「内川暮雪(うちかわの ぼせつ)」の地の比定が異なっていた。

 

九覧亭からのものは内川は平潟湾とされている。時代が明治以降に下ってくると、「内川暮雪」は能見堂からの内川(瀬戸ノ内海)が泥亀新田(でいきしんでん)として埋め立てられたため、近代以降の観光案内では九覧亭からのものが採用されるケースが目立つ。

 

 

 

六国峠ハイキングコースの能見堂跡付近に掲げられている、江戸時代初期の六浦・金沢の海岸線(画像の赤黄枠加工はサイト管理者)。
案内図拡大版

 

 

 

上行寺の先へ少し進むと道路沿いに大きな「やぐら(中世の墓所)」の岩穴が見える。上行寺の界隈には多くのやぐら群がある。その一部は開発により消失し、のち復元されている。

 

 

 

浄土宗常見山(じょうけんざん)無量院光伝寺(こうでんじ)。戦国時代、天正元年(1573)の創建。

 

 

 

市指定名木古木の、ビャクシン。樹齢540年(平成23年・2011資料より)。寺よりも古くからこの地にそびえてきた。
古木然とした樹皮の風合いが、味わい深い。

 

 

 

本堂。ビャクシンの枝が覆う。

 

 

 

侍従川(じじゅうがわ)が注ぐ平潟湾(ひらかたわん)は明治以降の埋め立てが進むまでは、光伝寺の門前あたりまでが入江だった。
入江は鎌倉時代には六浦津(むつらのつ。六浦湊・むつらみなと)として栄えた地域。

 

古都鎌倉の港は材木座(ざいもくざ)海岸の沖に防波堤となる和賀江島(わかえじま)の築かれた和賀江津(わかえのつ)があった。しかし外洋に面した和賀江津は波風も荒かった。それゆえ、おだやかな内海で外航船が容易に停泊できる六浦津は重要な外港であった。

 

記録の上では幾多の足跡を残す六浦津は、近代以降現代にいたるまでの埋め立てにより、その物的な痕跡を見ることはできない。

 

 

 

侍従川。朝比奈峠の尾根を背に、短い距離を東京湾へ流れ注ぐ。

 

 

 

大道(だいどう)バス停。この道は、かつては鎌倉の都と六浦の港とを結ぶ、六浦道(むつらみち。江戸時代以降は金沢道。六浦側から見れば鎌倉道)であった。
当時としては道幅が広かったので大道と呼ばれた。

 

 

 

鼻欠地蔵(はなかけじぞう)。崖に掘られた磨崖仏(まがいぶつ)であるが、すっかり風化している。

 

 

 

いつ彫られたかは不明だが、少なくとも新編鎌倉志(貞享二年(1685)徳川光圀(とくがわみつくに。水戸黄門)の命により編纂)が編纂・刊行された時には存在していた。案内板の江戸名所図会には、仏さまの輪郭がはっきりと描かれている。

 

 

 

幾らも歩いていないが、侍従川の水量がすっかり少なくなった。

 

 

 

現在は環状4号の一部となっている六浦道。

 

江戸時代の六浦は塩田による製塩がおこなわれた。製塩自体は中世・室町時代初期の南北朝時代まで記録を遡ることができる。
それゆえ、この道は鎌倉で商われる塩を運ぶ「塩の道」ともいわれた。

 

 

 

朝夷奈切通への案内。

 

 

 

現在の通りから旧道へ入っていく。

 

 

 

少し行くと、しめ縄が廻らされた榧(カヤ。モミの仲間)の大木が立っている。樹齢530年(市名木古木2011資料)というこの古木は、低い位置から大きく枝を広げている。

 

 

 

峠への登り口。

 

 

 

朝夷奈切通(あさいなきりどおし。朝比奈切通・あさひなきりどおし)の由来碑。

 

鎌倉時代の前期である仁治(にんじ)二年(1241)、第三代執権北条泰時(ほうじょうやすとき)が工事を指揮しそれまであった山道が改修・整備された。
朝夷奈切通には朝比奈側の小切通(こきりどおし)と市境の峠付近の大切通(おおきりどおし)の二つの切り通しがある。この古道は世にいう鎌倉七口(ななくち。七切通)のうち、最も往時の姿をとどめている。

 

 

 

峠への登り始めに建つ、庚申(こうしん)供養塔や道禄神(どうろくじん。道祖神)塔など。
石碑のひとつには江戸時代の前期、延宝(1673〜1681)の文字が見られる。道の開通以降、峠道や切通の保全・改修にあたったのは地元の村人であった。

 

現在の朝比奈一帯は、昔は相模国鎌倉郡峠村(かまくらぐんとうげむら)といった。明治期の久良岐郡(くらきぐん)への編入を経たのち、朝比奈町と呼ばれるようになったのは横浜市への編入(昭和11年・1936)以降のこと。

 

 

 

頭上を横浜横須賀道路が覆う。

 

 

 

崖をそっと跨ぐように施工されている。

 

 

 

両側が切り立った崖の、小切通がすぐに現れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お盆休みのこの時期にあちこちでみられる小さな白い花は、ヤブミョウガ。

 

 

 

杉木立の中をゆく。

 

 

 

熊野神社への分岐。熊野神社は鎌倉の鬼門の守り神として祀られた、とも切通工事の無事を願って勧請された、ともいわれる。

 

 

 

由緒が記された、案内板。

 

 

 

 

 

 

 

苔むす岩が、古(いにしえ)へといざなう。古道は朝比奈峠を越え、横浜市域(朝比奈)から鎌倉市域(十二所・じゅうにそ)へと入ってゆく。

 

 

 

 

 

 

 

朝比奈峠付近の、大切通。

 

 

 

 

やぐらのような、大きな岩穴。

 

 

 

反対側の崖も、大きく切り出されている。

 

 

 

磨崖仏。いつごろ彫られたものだろうか。

 

※こちらの磨崖仏は金沢歴史ガイドの方からの伝聞情報として、おそらく昭和の頃に横須賀在住の人により彫られたのではないか、ということだそうだ。気付いた時にはすでに彫り上がっていたのでそのままにしてある、とのこと。情報を寄せてくださったK.S様、有難うございました。

 

 

 

峠道の普請の際に立てられた供養塔。

 

 

 

供養塔がもう一つ。こちらには江戸時代中期、安永九年(1780)と彫られている。

 

鎌倉時代から室町時代にかけて政治・経済・軍事上の幹線道であった六浦道は、江戸時代には江戸近郊の景勝地である金沢八景、鎌倉、江の島を結ぶ観光道路として機能した。
切通の道は江戸時代から明治時代にかけても整備が重ねられた。道の勾配は歩き易いように次第に掘り下げられ、切通の崖は鎌倉時代のそれよりも深くなっていく。
なお、こうした経緯は三浦半島から鎌倉に至る三浦道(みうらみち)に設けられた名越切通(なごえきりどおし。逗子市)の現地案内板にも詳しい。

 

 

 

環状4号線朝比奈から鎌倉市十二所に至るバス通りの新道が開通したのは昭和31年(1956)。朝比奈峠を越える古道はそう遠くない昔まで、身近な道路として機能したことになる。
先のやぐらのような大きな岩穴も磨崖仏も、道の掘り下げが進んだ江戸時代以降のものであろうか。

 

 

 

道はやがてどこからか湧き出でた水で路面を濡らす。ここは太刀洗川(たちあらいがわ。相模湾に注ぐ滑川(なめりかわ)の支流)の源流域。朝比奈峠の尾根が、東京湾側と相模湾側に雨水を分ける分水嶺となる。

 

 

 

路肩を流れ下っていく、湧水。

 

 

 

古道には至るところに石仏が見られる。
これは浄誉向入(じょうよこうにゅう)の供養塔。向入は江戸時代前期の延宝年間(1673〜1681)に切通の改修を発願した。

 

 

 

 

 

 

 

流れの幅が次第に広くなっていく。

 

 

 

八月も半ばのこの時期、玉紫陽花(タマアジサイ)が咲き始めた。

 

 

 

玉のような、タマアジサイの蕾。

 

 

 

三郎の滝まで来た。傍らには石碑が建っている。

 

 

 

三郎とは朝比奈三郎義秀(あさひなさぶろうよしひで。鎌倉時代初期の有力御家人・和田義盛の三男)にちなんだ名。
朝夷奈切通は豪傑の義秀が一夜にして切り開いた、という伝説が残る。

 

朝比奈(朝夷奈)三郎義秀は和田義盛と巴御前(ともえごぜん。元は木曽義仲の側室であった)との間に生まれた。安房国(あわのくに。現千葉県南部)朝夷郡(あさいなぐん)の義盛領で育ったことから「朝夷奈」を名乗る。
三浦一族の分家である和田義盛はその父義宗が鎌倉の杉本に本拠を置いている。義盛の代ではおそらく六浦界隈にも根を下ろしていたと考えられている。

 

義秀は本来の朝夷奈三郎とも、一般的に朝比奈三郎とも表記されている。
切通しの呼び方については、横浜市編入後の現在の地名が朝比奈と表記されることから(地名は変遷するものであるし、そもそも地名が朝夷奈と呼ばれた時代はなく峠の名は朝夷奈峠とは言われない)、「朝夷奈切通」「朝比奈切通」どちらが正しいということではないようだ。江戸時代後期編纂の「新編相模国風土記稿」では「巻之九十八鎌倉郡巻之三十・山之内庄峠村」のなかで「朝比奈切通」と書かれている。ここでは国指定文化財等データベースの表記に従っておいた。

 

 

 

三郎の滝から十二所(じゅうにそ)果樹園への分岐を左に分け、先に進む。

 

 

 

 

 

 

 

滑川を跨ぐ泉橋。太刀洗川と滑川が合流する。

 

 

 

泉橋で来た道を振り返る。

 

 

 

 

 

 

 

先へ進むと、頭上の崖上に馬頭観音などの石碑が見える。近代以降、道の勾配が緩く掘り下げられて切通しとなり近世までの石碑が頭上に残った、ということだろう。

 

 

 

金沢街道のバス通りに合流。十二所神社バス停はすぐそこ。

 

 

2.十二所神社、光触寺、浄妙寺へ

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