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六浦から朝夷奈切通・金沢街道を一路鎌倉へ


2.十二所から金沢街道を鶴岡八幡宮・JR鎌倉駅へ

1.京急金沢八景駅から六浦、朝夷奈切通を経て十二所へ、はこちら。




朝比奈峠・朝夷奈切通を下りてきて、十二所神社バス停に出た。




バス停のあたりから、十二所神社へ。









十二所神社(じゅうにそうじんじゃ)は、元は熊野権現社(熊野十二所権現)としてこのすぐ近くの時宗光触寺(こうそくじ)境内にあった。
十二所(じゅうにそ)という地名は、この村の鎮守であった社の名が由来とされる。

江戸時代後期の天保九年(1838)には現在地に移り、明治期の神仏分離により社を管理する寺院の手を離れて現在の十二所神社となった。
神仏分離に伴い、祭神は天神七柱(あまつかみ ななはしら)、地神五柱(くにつかみ いつはしら)の十二柱とされた。




蟇股(かえるまた)の彫り物はこのあたりではちょっと珍しい、波にウサギ。
浪を駆ける兎の姿は、大国主命(おおくにぬしのみこと)と因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)の神話を想起してしまう。




木鼻(きばな)は獅子。




境内を後に、金沢街道を光触寺へ向かう。




和菓子の「鎌倉紅谷(べにや)」。ここは工場・営業所で、店舗は若宮大路・鶴岡八幡宮前にある。




街道を鎌倉方面へ進み十二所バス停のあたりで旧道に入り、光触寺へ。




門前の朱塗りの欄干は、光触寺橋。




時宗岩蔵山(がんぞうざん)長春院光触寺(こうそくじ)の山門。

光触寺の前身は鎌倉時代の初期・健保三年(1215)に比企ヶ谷(ひきがやつ)で創建された岩蔵寺。
鎌倉時代の後期である弘安二年(1279)この地に移り、それまでの真言宗から一遍上人(いっぺんしょうにん。時宗の祖)により時宗の寺へと改宗された。時代的には元寇を迎え撃った第八代執権北条時宗(ほうじょう ときむね)が臨済宗円覚寺を創建したころとほぼ同時期。




石碑には「頬焼阿弥陀(ほおやけのあみだ)」「宝暦十(1760)」「覚阿(かくあ。中興の祖)」などと刻まれている。




案内板。
頬焼阿弥陀の伝承のほか、六浦(金沢)から鎌倉へやってきた塩売りのお供えが帰りにはなくなっていたという塩嘗地蔵(しおなめじぞう)の伝承が記されている。この寺は六浦道(むつらみち。金沢道)の別称「塩の道」との所縁も深い。




緑青に覆われた銅葺の、本堂。




バス通りに戻り、先へ進む。




明石橋の交差点。左に鎌倉逗子ハイランドへの道を分ける。滑川沿いの道をゆくと、明王院の門前。




明王院の総門は、冠木門(かぶきもん)。武家の館のようなこの門を構える寺院は鎌倉市内のほか横浜市南西部の旧鎌倉郡域(戸塚区・瀬谷区・泉区・栄区・港南区の一部)でも結構目にする。




案内板。
明王院は、源氏将軍が三代で途絶えたのち京都から迎えられた四代将軍藤原頼経(ふじわらよりつね。摂家将軍)によって、嘉禎元年(かていがんねん・1235)に創建。

なお、頼経とその子頼嗣(よりつぐ)は反北条の御家人に担がれて権力闘争の渦中に置かれ、やがて鎌倉から京へ追放される。
次の六代将軍は皇族の宗尊親王(むねたかしんのう。親王将軍)が京より迎えられた。その際に供をして鎌倉入りした上杉重房(うえすぎしげふさ。上杉氏の祖・藤原氏の一族)の子孫が、やがて室町時代に関東管領(かんとうかんれい。鎌倉公方(かまくらくぼう。鎌倉府長官)の補佐役)山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)として権勢をふるうこととなる。

茅葺の本堂は風情ある佇まいだが境内は撮影禁止ということで、残念だが先へ行く。




金沢街道を浄妙寺の門前へ。




臨済宗稲荷山(とうかざん)浄妙寺(じょうみょうじ。臨済宗建長寺派。鎌倉五山第五位)の総門。




解説板。
浄妙寺の歴史は鎌倉幕府の開府(1192)よりも古い。鎌倉幕府の有力御家人、足利義兼(あしかがよしかね。八幡太郎・源義家の曾孫、足利氏第二代当主。室町幕府初代将軍足利尊氏の先祖)により文治四年(1188)に創建。

初めは真言宗の寺であったが1200年代の後半、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう。建長寺の開祖)の弟子が禅刹に改めた。
鎌倉時代の末期には足利貞氏(あしかがさだうじ。足利尊氏の父)により中興。貞氏は「浄妙寺殿」と呼ばれた。

室町時代以降、鎌倉公方(かまくらくぼう。鎌倉府の長官)の御所が鎌倉幕府時代の若宮大路御所から浄妙寺のすぐそばに移転。大伽藍を擁した浄妙寺は、権力闘争の渦のなか度々の戦火に見舞われる。




境内へ。拝観は有料。




緑青の銅葺・寄棟造(よせむねづくり)の、ふっくらとした「むくり屋根」をもつ本堂。茅葺であった屋根を銅板で包んだそうだ。




禅宗寺院ではあるが、本堂の造りは反りの入った屋根をかける禅宗様(ぜんしゅうよう)ではない。
ふっくらとした屋根といい、白壁に濡縁を廻らせたその意匠は和様(わよう)を思わせる。仏殿というよりは方丈(ほうじょう。僧侶の住居)のような印象。




本堂に向かって左手の、枯山水(かれさんすい)庭園。背後の茶室「喜泉庵(きせんあん)」で抹茶を頂きながら正面から鑑賞することもできる。




この庭は平成三年(1991)、京都の庭師によって作庭。




かつては僧侶が会して茶を服したという喜泉庵。鎌倉らしい、濃い緑を従えた白砂の枯山水として現代に甦った。




境内の奥まった高台には、大正末・昭和初期頃の洋館を改装したというカフェ・レストラン「石窯ガーデンテラス」とイングリッシュガーデンが設けられている。明治以降、富裕層が次々に邸宅を構えた近代鎌倉の遺産もまた、鎌倉の顔のひとつ。




境内を後にする。




「竹の寺」報国寺へ。




報国寺の門前。




臨済宗功臣山(こうしんざん)報国寺(ほうこくじ。臨済宗建長寺派)の山門。




解説板。
報国寺は鎌倉幕府が滅亡し(1333)後醍醐天皇による建武の新政が始まったころである建武元年(1334)、足利家時(あしかがいえとき。足利尊氏の祖父)により開かれた。




参道脇の、枯山水。




本堂へ。




蟇股には龍、木鼻には獅子。




本堂脇には、有名な「竹の庭」の拝観受付(有料)がある。庭の奥の茶席では抹茶を頂きながら竹林を鑑賞することもできる。




孟宗竹の、見事な竹林。




各所に石仏、石塔がさりげなく配されている。














庭の奥まったところに、茶席。









竹林の背後に見られる、やぐら(中世鎌倉の墓所)。この寺を開いた足利家時のほか、足利義久の墓と伝わる石塔がある。

足利義久(あしかがよしひさ)は室町時代の第四代鎌倉公方(かまくらくぼう。鎌倉府長官)である足利持氏(あしかがもちうじ。1398〜1439。最後の鎌倉公方)の嫡男。




宝篋印塔(ほうきょういんとう)と五輪塔。

鎌倉公方は代々に渡り、我こそが鎌倉幕府の継承者であるとして京都の室町幕府将軍家としばしば対立した。
鎌倉公方の御所は鎌倉幕府時代の中心部(若宮大路御所)を離れて六浦湊に通じる金沢街道沿いの浄明寺(地名は浄妙寺ではなく浄明寺と表記する)界隈に置かれている。これは戦乱への備え、退路の確保のためであったとする見解もある。




五輪塔が数基。

義久の父である四代持氏は京都の幕府方と対決姿勢を鮮明にするも、幕府方に組した関東管領上杉氏に制圧され自害(永享の乱)。
子の義久は報国寺に逃れたがいずれ討手が迫り来ると悟り、自害して果てた。享年僅かに十歳(或いは十四歳)であった、という。




なお、持氏の自害後鎌倉公方はいったん途絶えるも、のちに京の幕府により五代目就任が許される。しかしやはり幕府と対立(享徳の乱)。
五代目は下総(しもうさ)の古河に逃れ古河公方(こがくぼう)を名乗り鎌倉府は消滅する。

その後も鎌倉では関東管領をつとめる上杉家における一族(山内上杉家・やまのうちうえすぎけ、扇谷上杉家・おうぎがやつうえすぎけ)の覇権争いが繰り広げられる。
一方、京の幕府は新たに長官を送り込もうとするも鎌倉入りはできなかった(伊豆の堀越公方・ほりこしくぼう、ほりごえくぼう)。

のちに堀越公方は伊勢宗瑞(いせそうずい。のちの後北条氏初代北条早雲)によって追放され宗瑞は小田原を拠点に鎌倉にも進出、玉縄城(たまなわじょう)を築く。こうして世は戦国の世となっていく。




中庭の枯山水。









鐘楼脇の、五輪塔群。




五輪塔の由来および追悼歌を刻んだ、石碑。
「いさをしも 槍も刃も 埋れて 梢に寒し 松風の音 華の世を 所業つたなく 散る君に 香一片を 焚きておろがむ」

鎌倉時代末期の元弘三年(1333)、鎌倉幕府追討の軍勢を率いた有力御家人の新田義貞(にった よしさだ)勢と執権北条勢との合戦が由比ヶ浜でも繰り広げられた。ここに合戦の死者とみられる無縁の遺骨を由比ヶ浜より改葬した、と記されている。




杉本寺へ。




門前の石段。




案内板。
天台宗大蔵山(だいぞうざん)杉本寺(すぎもとでら)。寺の縁起によれば鎌倉幕府開府(1192)のはるか前、奈良時代の天平六年(734)に行基(ぎょうき)が開いたと伝わる鎌倉最古の寺。

また杉本寺は坂東三十三箇所観音霊場の第一番札所でもある。坂東三十三箇所観音霊場は、源頼朝の観音信仰が篤かったことも相まって鎌倉時代の初期に西国三十三箇所に倣って行われたのがその起こり、とされる。




観音霊場巡りの千社札(せんじゃふだ)がびっしりと貼られた仁王門の奥に、石段が延びる。




阿形(あぎょう)の仁王像。




吽形(うんぎょう)の仁王像。仁王像は運慶の作、と伝わる。




本堂へ通じる、苔むす石段。




やわらかい鎌倉石(かまくらいし)の石段は摩耗が激しく、通行はできない。
参拝者は向かって左手の石段をゆく。




本堂。天台宗(密教)の仏堂であるが、独特の雰囲気、得も言われぬ趣きがある。

縦にはめられた板張の外壁に堂正面の桟唐戸(さんからど)といったあたりは禅宗様(ぜんしゅうよう)の雰囲気であるが、釣鐘型の火灯窓(かとうまど)ではなく真四角の直線的な連子窓(れんじまど)をあしらっているあたりが和様(わよう)の雰囲気をもつ。
近世・近代以降の折衷様式の仏堂では白壁(和様)に火灯窓(禅宗様)といったスタイルは至るところでごく普通に見られるが、このお堂のように縦の板壁(禅宗様)に連子窓(和様)という逆のパターンはちょっと珍しい。なお和様・禅宗様の仏堂の特徴については三溪園・古建築公開を参照。




屋根は分厚い茅葺の宝形屋根(ほうぎょうやね)。なお堂内(御本尊)は撮影禁止と掲示されている。




参道脇の、弁財天。




祠の傍らに、やぐら。




境内の高所から見下ろす、山に挟まれた金沢街道界隈。

このあと杉本寺の門前、犬懸橋(いぬかけばし)のあたりから釈迦堂口切通(しゃかどうぐちきりどおし)の手前まで、現況を確かめに行く。




釈迦堂口切通は、鎌倉中心部から朝夷奈切通(あさいなきりどおし)を経て六浦津(むつらのつ。六浦の港)までを結ぶ六浦道(むつらみち。金沢街道)と、鎌倉中心部から大町大路(おおまちおおじ)・名越切通(なごえきりどおし)を経て三浦方面を結ぶ道とを、ショートカットして結ぶ切り通し。

鎌倉中心部から外部へと通じる鎌倉七口(かまくらななくち。七切通)ではないが、岩を穿った隧道の得も言われぬ雰囲気は鎌倉の象徴の一つでもあった。




上杉朝宗(ともむね)・氏憲(うじのり。のちの禅秀(ぜんしゅう)。生年不詳〜1417)邸阯の碑。

両名は室町時代、関東管領(鎌倉公方の補佐役)をつとめた犬懸上杉家(いぬかけうえすぎけ)の人。犬懸とはこのあたり(犬懸ガ谷。いぬかけがやつ)の地名。

禅秀は第四代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)から関東管領職を更迭されると、持氏・山内上杉家憲基(のりもと)との対立が先鋭化した。
兵を起こした禅秀は一度は鎌倉から持氏・憲基を敗走させ鎌倉を制圧。禅秀方・持氏方それぞれを関東及びその周辺各地の武士団が支持し、小田原・伊豆から駿河まで逃れた持氏に対して、また武蔵・上野(こうずけ)の各地でも戦が勃発する。
やがて持氏・憲基が京の幕府の後ろ盾を得ることで形勢は逆転。禅秀は持氏を支持する武蔵の江戸氏・豊島氏らに対して相武国境の世谷原(せやのはら)にて決戦(横浜市瀬谷区・瀬谷市民の森付近が古戦場址とされる)に臨むも形勢を覆すことはできずに敗走、ついに鎌倉雪ノ下で自害。犬懸上杉氏は滅んだ(上杉禅秀の乱)。




犬懸上杉邸阯の石碑が建つこの道は「田楽辻子(でんがくずし)」と呼ばれた小路。

現在の宝戒寺(ほうかいじ)は元は鎌倉幕府の執権北条氏邸があったが、そこからそう遠くはないこの界隈は鎌倉時代末期、第14代執権北条高時(ほうじょうたかとき。最後の得宗当主)お抱えの田楽師が集まり住んでいた、とされる。
高時は北条得宗家出身としては最後の執権(第15代は分家の金沢貞顕(かねさわさだあき。称名寺・金沢文庫を完成させた)が就いている)。若くしてその座についたこともあって実権を掌握できず、田楽や闘犬に興じることで憂さを晴らす日々であったと後世に記されている。









釈迦堂ガ谷(しゃかどうがやつ)の碑。

釈迦堂ガ谷という地名、釈迦堂口切通という名、いずれもその由来は「釈迦堂」に求められる。
釈迦堂は鎌倉幕府第三代執権北条泰時(ほうじょうやすとき)が父である第二代執権北条義時(ほうじょうよしとき)を弔うために鎌倉時代初期の嘉禄元年(1225)に建てた、とされる仏堂。




釈迦堂口切通は有名な隧道部分からそこに至る切通まで、崩落の危険があるゆえ通行止めになって久しい。金沢街道の側からは近づいて外観を眺めることもできない。
いつでも行けたはずがいつの間にか機会を失してしまった。そんなことを繰り返している自分が、あまりに口惜しい。

なお、大町大路側からの釈迦堂口切通は、こちら。

このあと、金沢街道へ戻る。




岐れ道(わかれみち)。鎌倉宮(かまくらぐう。大塔宮・おおとうのみや、だいとうのみや)あるいは瑞泉寺(ずいせんじ)を経て鎌倉背後の尾根・天園(てんえん)ハイキングコースに至る。




筋替橋(すじかえばし)の石碑。金沢街道(六浦道)の鎌倉側起点はこのあたり、とされる。ここから道筋は大きく南へとカーブし、小町大路となる。

筋替橋の界隈は、鎌倉の商人が商売のできる場所を指定された触書(文永二年・1265)における「須地賀江橋」の地。




宝戒寺(ほうかいじ)の門前。小町大路はまっすぐ続き、若宮大路に並行してやがて材木座海岸に至る。

宝戒寺には鎌倉時代、執権北条氏邸があった。鎌倉幕府滅亡後の建武二年(1335)、第14代執権北条高時の霊を慰めるため、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建立させた。




宝戒寺の門前を右折して横小路(吾妻鏡(あずまかがみ)では「横大路」)を行き、鶴岡八幡宮・三の鳥居前へ。




鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)三の鳥居前のスクランブル交差点。鎌倉街道上(かみ)の道、中(なか)の道、下(しも)の道の起点。この地が中世における東国の主要街道の起点であった。




武門の守護神・八幡神を祀る鶴岡八幡宮は古都鎌倉の中枢。観光客でごった返す、お盆休み。




鎌倉広域案内図。  案内図拡大版




三の鳥居から、由比ヶ浜(ゆいがはま)・材木座(ざいもくざ)の海に向かって若宮大路(わかみやおおじ)が延びていく。




三の鳥居から二の鳥居までに設けられている、段蔓(だんかずら)。




二の鳥居。段蔓の道幅が、三の鳥居あたりより少し広がっている。




二の鳥居から段蔓を見る。




若宮大路の鎌倉駅入口スクランブル交差点から、JR鎌倉駅へ。




JR鎌倉駅。


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