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龍の口(片瀬・腰越)から極楽寺坂、大仏坂を経て深沢へ。


平成27年(2015)の9月上旬、まだまだ夏色の濃い武家の古都鎌倉。その西の果て、京鎌倉往還方面からの入口となる龍の口(片瀬・腰越)から極楽寺切通し(中世鎌倉の市中の西側入口)へ。極楽寺坂の下・長谷からは大仏切通しを抜けて再び鎌倉の外、上の道古道方面へ。中世鎌倉の古道の跡をたどって歩く。

1.片瀬江ノ島駅から江の島参詣道界隈、龍口寺へ。



まち歩きの始まりは小田急江ノ島線・片瀬江ノ島(かたせえのしま)駅。竜宮城を模した駅舎は昭和4年(1929)の開業当時からのもの。




駅前から、境川の河口に架かる人道橋の弁天橋を渡る。多摩丘陵の最奥・草戸山(くさとやま。364m)の大地沢(おおちざわ)を源とする境川(片瀬川)。中世には固瀬河と呼ばれていたという。

河口には、国道134号・片瀬橋も架かっている。




弁天橋を渡り左折、洲鼻通り(すばなどおり)をゆく。砂州の鼻へ通じるこの通りは江戸の昔、東海道藤沢宿(遊行寺あたり。現在は県道)からの江の島参詣道として大いに賑わった。




明治末期から参道の途中に店を構える「玉屋本店」。江の島土産として人気の「のりようかん」が名物。




続いて江ノ電・江ノ島駅。明治35年(1902)開業の同駅は、江の島界隈の駅では最も古い。
鉄道を蒸気機関車が走っていた当時、電車線は都市内交通(路面電車)のほか、観光地への足となる路線が引かれた。県内では明治32年(1889)の大師電鉄(現京急大師線)、明治33年(1900)の小田原電鉄(現箱根登山鉄道の箱根湯本まで)に次ぐのが江ノ島電鉄となる。

踏切を渡った向こうには湘南モノレール・湘南江の島駅(昭和46・1971年開業)も見える。




江の島参詣道を先へ進むと、寛文年間(1661〜1672)造立の庚申供養塔。参詣道には土地の人々の庚申信仰の石塔から旅の人向けの道標まで、至るところに石造物が建っている。




復元された、「西行(さいぎょう)の戻り松(見返り松)」。傍らには頭の尖った江の島弁財天道標が建つ。

西行(1118〜1190)とは、源平が台頭した平安時代末期の僧。出家前の俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)。義清は源平に並ぶ武家の棟梁・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の系譜に連なり、京の都で鳥羽上皇に仕えた北面の武士(ほくめんのぶし)であった。




この地には、鎌倉へ向かう西行が道すがら何気なく語りかけた童から、なんと和歌の上句で返答をされて「え、えっ?!」と驚きのあまり思わず道を引き返してしまった、という伝承が残る。あわてる西行、何とも微笑ましい。




一方、道標は江の島にて鍼の技術を考案したとされる杉山検校(すぎやま けんぎょう。1610〜1694)がのちに寄進した道標の一つ。江の島参詣道では多数のそれが残っている。頭の尖った独特の形のこの道標に「西行のもとり松」と刻まれている。一説には、盲人の江の島参詣者にも触って分かりやすい形にしたといわれる。

ここから、一遍上人地蔵堂跡へ向かう。




片瀬市民センターを過ぎて角を左折し、しばらく行くと枝振りのよい松が見える。きっと西行の伝承にちなんで育てられたのではないか、とさえ思わせてしまうその松は、人目を引く立派な姿。




先を進んだ角地に設けられた小さな公園。そこが一遍上人地蔵堂跡。




ここ片瀬界隈においては日蓮上人の「龍ノ口(たつのくち)法難」があまりにも有名であるが、この一遍上人の故事も忘れてはならない。




鎌倉仏教の開祖六人衆(浄土の法然・禅の栄西・浄土の親鸞・禅の道元・法華の日蓮・浄土の一遍)のトリを飾る、時宗(じしゅう)開祖・踊念仏の一遍上人(1239〜1289)。




鎌倉時代を代表する絵巻「一遍聖絵(いっぺんひじりえ。一遍上人絵伝)」全12巻より、第六巻「片瀬の浜の地蔵堂」。

迫害を受けつつも鎌倉の市中(鎌倉中)で教えを説き続けた日蓮上人に対し、一遍上人は、鎌倉街道中の道(なかのみち)から鎌倉へと通じる巨福呂坂(こぶくろざか。七口・ななくちの一つ)から鎌倉入りしようとするも、八代執権北条時宗(ほうじょう ときむね)に拒絶され鎌倉の市中に入ることすら許されなかった。片瀬で数か月滞在し念仏を行ったのち、一遍は京へ向かう。

一遍の頃から数十年を経た鎌倉時代末期の正中二年(1325)、この地からそう遠くはない地に清浄光寺(しょうじょうこうじ。遊行寺・ゆぎょうじ)が開かれた。

全国を遊行した一遍が鎌倉界隈で唯一、ほんのいっときだけの縁をもったこの地からそう遠くはない地に、時宗総本山となった遊行寺が開かれたことになる。これには、そうなるべき何らかのご縁というものを感ぜずにはいられない。

道を引き返し、本蓮寺へ向かう。




本蓮寺の門前にも西行の伝承にちなんだ戻り松が植えられている。




冠木門(かぶきもん)の総門。その傍らには鎌倉殿(源頼朝)が馬を繋ぎ止めたという伝承にちなんだ「駒繋の松」の案内立札が立つ。戦前までは樹齢数百年の老木があったという。

日蓮宗龍口山(りゅうこうざん)本蓮寺(ほんれんじ)。寺伝によれば創建は推古天皇三年(595)。元暦年間(1184〜1185)には源頼朝が再建、真言宗源立寿寺(げんりゅうじゅじ)と称した。日秀の再建により日蓮宗となったのは鎌倉時代後期の嘉元二年(1304)。

山号の龍口山は、龍口寺の輪番八箇寺の一つであることを示す。龍口寺には明治19年(1886)までは住持(じゅうじ)が置かれず、片瀬や腰越の輪番八箇寺が寺務にあたっていた。




山門。その形式は、薬医門(やくいもん)。




薬医門は本柱(ほんばしら)と交差する梁から桁が外側に突き出しており、屋根が前にせり出した印象になる。




本堂の向拝(こうはい)周り、蟇股(かえるまた)には見応えある彫り物が施されている。昇る旭日(日輪)に向かって合掌、題目を唱える日蓮上人の故事にちなんだ情景。




本堂に向かって右手前には、宗尊親王(むねたかしんのう。1242〜1274)の歌碑。

「帰り来て 又見ん事も 固瀬河 濁れる水の すまぬ世なれば」。

宗尊親王(後嵯峨天皇の皇子)は鎌倉幕府第六代将軍(1252〜1266在位)。源氏将軍三代が途絶えたのち、四代五代の藤原摂家将軍に続いて、執権北条氏が待望した親王将軍として、京より鎌倉に迎えられた。

清和源氏(河内源氏)や桓武平氏(伊勢平氏)のように武家の棟梁としての権威をもたない伊豆の小豪族であった北条氏は、幕府の権威の正当性を裏打ちするためにも、みずからは政権No.2として権力をふるいNo.1には武家政権の権威づけの象徴としての親王将軍が何としても欲しかった。「親王さまにおかれましては日がな一日、和歌なぞ詠んでくだされば」ということである。が、結局は宗尊親王も権力闘争の渦中に置かれた。

この歌は、京に送還されることになった親王がここ本蓮寺(当時は源立寿寺)において行われた別離の歌会で詠んだ、とされる。
片瀬の地は、鎌倉の西の果て。この地を後にするにあたりこの歌を詠んだということは、どろどろの権力闘争で澄むことのない鎌倉に、もう二度と戻ることのない別れを告げる、ということでもある。

続いて常立寺へ。




日蓮宗龍口山常立寺(じょうりゅうじ)。元は真言宗回向山(えこうざん)利生寺(りしょうじ)と称していた。日蓮宗となったのは室町時代から戦国の世となっていく永正年間(1504〜1521)。こちらも龍口寺輪番八箇寺の一つ。




山門。




本堂。
真言宗時代の回向山という山号は、龍ノ口(たつのくち)の刑場で処刑された者の供養がこの地でなされたことによる。




大きな石碑が建つ、元使塚。




石碑のもとには、供養塔と伝わる五輪塔。

文永の役(1274。世にいう元寇の第一弾)ののち、元(げん)の皇帝フビライは、なおも服従・朝貢(ちょうこう)を勧告する使者を日本に派遣。鎌倉幕府第八代執権北条時宗は元には屈せぬという断固たる姿勢を示し、鎌倉に護送されてきた使者の杜世忠ら五人を龍ノ口刑場で斬首に処した。
杜世忠は己の定めを儚んで辞世の漢詩を残し、龍ノ口の露と消えていった。そして歴史は二度目の元寇(弘安の役。1281)へとつながっていく。

常立寺を後に、龍口寺へ向かう。




二又の道。頭上には湘南モノレール・湘南江の島駅。ここにも道標が建つ。

江戸時代に江戸庶民に大流行した、江の島詣で。幾多の石造物は、往時をしのばせる。この短い距離の間に、道標の数が半端ではない。我も我もと、造立する人が絶えなかったのだろう。




東海道藤沢宿から江の島詣でにやって来た人々は、ここから右を行けば洲鼻通りを経て江の島へ至る。

左へ行くと龍口寺(りゅうこうじ)門前。そこから先は腰越・七里ヶ浜(海岸)を経て鎌倉の市中(鎌倉中)へと向かうこととなる。時代を鎌倉時代まで遡ると、その道筋は中世における東西の二大政治都市・京と鎌倉とを結んでいた京鎌倉往還であった。

京鎌倉往還は鎌倉の市中を出発し西の極楽寺坂から七里ヶ浜を経て龍の口(たつのくち。腰越、片瀬)へ。境川(片瀬川・固瀬河)を渡り砥上ヶ原(とがみがはら。現在の鵠沼・くげぬま)を通過、八部(はっぺ。球場に名が残っている)あたりで引地川(ひきじがわ)を渡る。その先は餅塚(現在の城南。大庭城・おおばじょうの南)、菱沼を経て東海道を西へ。箱根の山中では鎌倉古道・湯坂路(ゆさかみち)を通過し、はるか京へと道は続く。
参考・「中世都市鎌倉のはずれの風景」清田義英著。




現代の東海道線沿線から江の島へと向かう交通手段の一つ、湘南モノレール。JR大船駅から出発するモノレールはアップダウンあり、トンネルありの路線で、アトラクションのような楽しさ。




京鎌倉往還は、旧道の先で拡幅された広い通り(国道467号の終点)となる。




鎌倉方面へ少し進むと龍口明神社(りゅうこうみょうじんしゃ)旧境内の鳥居が建つ。




龍口明神社の創建は欽明天皇13年(552)と伝わる。その由来は江の島信仰の沿革を伝える「江島縁起」に見られる。

江島縁起の原本は平安時代の永承二年(1047)、叡山の僧・皇慶が著したとされるが現代には伝わっていない。現代には根本縁起の真名本(漢文)「江島縁起」一巻(江島神社蔵)を始め、室町期の絵巻など仮名文の写本が数種伝わっている。参考・「中世都市鎌倉のはずれの風景」




旧社殿の蟇股(かえるまた)に見られる、龍の彫り物。

縁起によると、腰越(こしごえ)を河口とする神戸川(ごうどがわ)の流域である津村(現鎌倉市津・鎌倉市腰越など)の奥、深沢(ふかさわ)の湖には古来より五頭龍(ごずりゅう)が住んでおり、田畑を荒らし子どもを食うなど様々な悪事を働くことで人々に恐れられていた。

欽明天皇十三年(552)、突如大地が鳴動。上空に紫雲に乗った天女(弁財天)が現れ、時を同じくして出現した江の島に舞い降りる。天女に心を奪われた五頭龍は天女に求婚。しかし天女は「慈悲の心なきお前とどうして夫婦となれようか」とにべもなく断った。深く反省し改心した五頭龍は悪事を働かないと誓い、ようやく天女に受け入れられる。やがて五頭龍は山に化身、安心した人々は龍を祀り神社を建てた、という。

龍の口という地名は境川、神戸川の河口あたりが龍の頭部の口にあたることに由来すると伝わる。
古来から文化的に一体であったこの界隈は現在、一帯が藤沢市片瀬となり旧境内だけが鎌倉市津の飛び地となっている。

古来から津村の人々の鎮守であった龍口明神社。しかし戦後の開発が進み街は大きく拡大。人口も急増し、新たに住民となった津の人たちにとってこの飛び地は不自然な区割りであり、氏子として神社を維持するにも不便だったのだろう。現在では龍口明神社はモノレール西鎌倉駅近くの新境内(津・腰越の入り組んだ地区、「龍の胴のあたり」とされる)に遷座している。新たな開発地で土地も確保し易かったのではないだろうか。




移転先の明神社にある、天女と五頭龍の絵馬。画像出典・かまくら子ども風土記(中)




明神社の鳥居の並びに石碑が建っている。この地が龍ノ口刑場(たつのくちけいじょう)とされる。

古来、刑場は都市のはずれの主要街道沿いに設けられてきた。それはやはり、見せしめのため。京でいえば六条河原や三条河原。江戸でいえば鈴ヶ森や小塚原。近代国家となる前の最終期であれば、幕末の開港都市横浜では開港場から東海道へと連絡した新道の横浜道(よこはまみち)野毛切通しの外側となる戸部(とべ)。

この地は鎌倉時代、市中(鎌倉中)の西の出口となる極楽寺切通しから京鎌倉往還を進み鎌倉の外へと通じた、西のはずれにあたる。ちなみに鎌倉では南東のはずれ、三浦道(みうらみち)を進んだ名越(なごえ)切通しの先、田越川(たごえがわ)あたりにも刑場があったという。

龍ノ口の地名が刑場として現れるのは日蓮上人の「龍ノ口法難」の頃からであるが、それ以前から「固瀬」「腰越」の地において多くの人々が首級をさらされ、あるいは刑場の露と消えていった。

主だったところでは、まず大庭景親(おおば かげちか)。石橋山の合戦での敗北から再起を果たした源頼朝に対し、頼朝に服従することなく平家方として最後まで戦った大庭景親は治承四年(1180)、頼朝についた兄景義(かげよし)の助命嘆願もむなしく固瀬の地で処刑された。
文治五年(1189)には義経の首実検が腰越にておこなわれ、建暦三年(1213)には和田合戦で北条と対決し敗れた和田義盛(わだ よしもり)一党の首級が固瀬にさらされた。
先に常立寺で見た元の使者は建治元年(1275)龍ノ口で処刑されている。

そうしたなか、日蓮にまつわる伝承はいささか趣を異にする。
日蓮は元の国書に直面した幕府に対し、様々な国難が生ずるのは法華経に依らずに真言や禅、浄土(念仏)、戒律といった他の仏教(邪法)を信ずるところにあると非難。これがそれらの仏教とかかわりが深かった政権への批判ととらえられ、厳しく弾圧されてきた。

文永八年(1271)、日蓮は松葉ヶ谷の小庵にて捕えられ表向きには佐渡に流罪となった。ところが佐渡へ向けて鎌倉を出発したのは裁決の出た日の夜遅く。その日の深夜に龍ノ口でひそかに処刑されるところであった。
ところがいざ刑を執行せんとするその時、突如江の島の方角に現れた満月の如き光り物に執行人の目が眩み、恐れおののくなか処刑は中止。日蓮は当初の通り佐渡への流罪となった。参考・「中世都市鎌倉のはずれの風景」。

光り物の伝承が史実に即したものか否かはさておき、処刑されようとした日蓮が助命されて流罪となったのは事実である。




日蓮宗寂光山龍口寺。創建は、南北朝時代の延元二年(1337)。日蓮にとって最大の法難となったこの地を霊跡として後世に伝えるため、弟子の日法が草庵を結んだのが起こりとされる。

例年9月11日から三日間行われる「龍口法難会(ほうなんえ)」に向けて、諸堂に献灯が取り付けられている。




仁王門をくぐり石段を登っていくと、山門(元治元年・1864築)。




山門を飾る、数々の精緻な彫刻が目を惹きつける。




上人荒行の図か。




中国の故事「史記」の「留候世家(りゅうこうせいか)」より、漢の皇帝「劉邦」の天才軍師「張良」が、その若き日に老人「黄石公」から兵法書を授かるまでの一場面。
彫られているのは、裸足で馬に乗る老人に対して、「張良」が拾い上げた老人の沓を差し出すところ。沓を落とした老人の「おい小僧、取って来い」という理不尽な言に対して怒りを覚えるも、できることを誠実にと対処した張良がのちに老人から「お前は見込みがある」と兵法書を授かり名軍師として功成り名遂げるという、示唆に富んだ故事。
何かを為すにあたり打算を以て事をはかるものではない。だからといって天分を超えるものが得られるわけでもない。宗旨の枠を超えて、信仰心を大切にしつつ俗世の人の道を生きるとはいかなることなのかを考えさせられる。




本堂(天保三年・1832築)。右奥に見える五重塔は、鎌倉周辺のみならず県内でも唯一となる木造五重塔(明治43年・1910築)。




本堂に向かって右手の大書院。昭和初期、信州松代(まつしろ)の養蚕御殿を移築した。




本堂。









五重塔。




日本の寺院における仏舎利塔は、永い時を経て寺院の、更には日本のシンボルの一つ、といった役回りとなった。




境内の高台にある、仏舎利塔(ストゥーパ)。白亜の塔は「シャンティ・ストゥーパ(平和の塔)」と呼ばれる。そういえば、むかし修学旅行で奈良の薬師寺に行ったとき、お坊さんが「ストゥーパ → トゥーパ → トウ(塔)となったのですよ」みたいな説明をしてくれたことを思い出した。




本堂に向かって左手にある、御霊窟。日蓮が処刑の夜に閉じ込められていた、という伝承がある。




龍口寺の門前。藤沢を出発した江ノ電が「江ノ島駅」を出てすぐ、いよいよ道路上を走り始める区間。


2.龍口寺から小動岬、満福寺を経て鎌倉高校前駅、極楽寺駅へ。  まち歩きトップに戻る。