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相模横山・相模川河岸段丘の街をゆく


令和三年(2021)六月上旬。5月下旬にお隣の静岡県までが梅雨入りし、関東でも記録な早さでの梅雨入りが予想されたこの年。一転して梅雨入りは延び延びとなり、雨の少ない6月上旬となった。例年よりも開花が早まった紫陽花、花菖蒲の花見がてら相模川流域の街を歩く。

スタートはJR相模線・上溝駅。横山丘陵・照手姫伝承地から道保川公園、相模原沈殿池・県立相模原公園・相模原麻溝公園と歩き、河岸段丘の中段を横断して下段へと下り時宗当麻山無量光寺、当麻の水田、三段の滝から下溝駅へと巡る。

1.相模横山・照手姫伝承の地



JR相模線・上溝(かみみぞ)駅(相模原市中央区)。時刻は朝の9時ごろ。

大正10年(1921)に茅ヶ崎〜寒川でスタートした旧相模鉄道は昭和6年(1931)に厚木〜橋本の延伸が完成し、当駅は相模横山駅の名で開業した。開業当初から築堤の上に駅が設けられて道路をまたぐ橋梁が架けられていたのは横山下が当時計画されていた相武電鉄との交差地点であったため。ただ相武電鉄側は資金繰りが苦しく、橋梁と交差する路盤を掘り下げる工事の着手に難色を示した挙句に事業が破綻。そのあおりで当駅の設置工事は遅れに遅れた。
参考「相鉄線物語」

中世以降、旧相模原町(昭和16〜29。1941〜1954)の時代まで地域全体における行政・商業の中心地だった上溝地区。その玄関口となった駅は、平成13年(2001)までに築堤が削られ駅前ロータリーが整備されて相模線で唯一の高架駅に改築された。




横山丘陵緑地へは駅前の「てるて通り」を西に進み、ダイエーの角を右折して入っていく。




「上溝ジョイフルホーム そよ風」の正面側に回り込み、緑地(日金沢下地区)の入口へ。




森はドクダミの花盛り。




少しばかりの木段の起伏。




緑地をいったん抜けて日金沢橋(ひかねざわばし)へ。




散策路の随所に設置されている「てるて姫の里ロマン探訪の小路」の案内板。




橋のたもとには高野旅館の案内看板と道祖神などの石塔。




橋の欄干(下流側)には照手姫の「水くみレリーフ」が設置されている。




反対側に渡り、緑地の続きへ。




横山丘陵緑地(日金沢上地区)の案内板。

高さ20m前後の段丘崖(だんきゅうがい)に沿って延々と続く斜面緑地は古くは「相模横山」と呼ばれ、崖下の湧水は相模川水系の支流の水源となっている。ここの崖下を流れる姥川(うばがわ)は相模川水系鳩川(はとがわ)の支流。




眺望の場(展望デッキ)。




照手姫ゆかりの「鏡の泉」へ下っていく。




川沿いまで下りたところが鏡の泉。伝承によると姫はこうした泉に身を映し、紅かねつけてその装いを整えた。




段丘崖の所々からこうして水が湧き、水源の一つとなっている。

湧水からは姥川沿いに先へと進むこともできるが、上の散策路へと登っていく。




散策路を進んでいくと車道に出た。ここは相模川の左岸(下流に向かって左の岸)沿いに概ね三段に亘って広がる河岸段丘の上段にあたる相模原と中段の田名原(たなはら)とを結ぶ往来「せどむら坂」。




坂の名は坂下の集落「せどむら」に由来するという。




日金沢上地区入口の標柱。先の案内板は「うえ」、こちらは「かみ」。地域ではどちらも用いられているのだろうか。




坂を下っていくと、柵で塞がれた二つの横穴。何らかの遺跡のようでもあり、防空壕跡にも見える。




川沿いをたどってくる道が合流。




坂下の石塔。道祖神や地神塔に並んでひときわ大きな改修記念碑が建っている。「明治二十八年四月」と刻まれており、その頃に急峻だった坂の改修が行われたようだ。元の坂の状態が分からないのだが先ほどの横穴はその後に掘られたものだろうか。




横山緑地(姥沢地区)の入口。こちらは二か所の入口のうち案内板が立っている側。




市の公式サイトで配布されているイラストマップの案内板。




照手姫伝説伝承地の案内板。こちらのふりがな「ひがんさわ」は古来の読み方なのだろう。

歌舞伎の演目として江戸時代には大変な人気を誇った「小栗判官・照手姫」の伝説は日本各地に伝わる。県内でも藤沢市・横浜市戸塚区(俣野)旧相模湖町(美女谷)が伝承地として知られている。




奥へと進んだ先に建つあずまや。




あずまやの傍らには「照手姫伝説伝承地」の碑と榎(エノキ)の記念植樹の案内板。
碑の文面には「姥沢幻想」画 吉川啓示とあり、てるて姫の里イラストマップに「姥沢幻想の碑」と記されているのはこの碑。




その絵に描かれているのは姥沢に湧き出でる清冽な水の流れと畔の茅葺の屋、佇む姫と乳母。
先の日金沢の地名は照手姫の乳母・日野金子が住んでいたから名付けられたといい、姥沢は照手姫がその清水で産湯を使い美女となったという伝説がある。
参考「日本の民俗 14 神奈川」




更に奥へと木道を進む。




照手姫遺跡の碑。
相模原に伝わる伝説では、照手姫は相模の土豪である横山将監(よこやましょうげん)某の娘とされる。室町中期を舞台とする小栗判官の物語では敵方であった小栗満重と夫婦の契りを交わしたことが父の怒りに触れ相模川に投げ込まれてしまう。

横山氏といえば古代・中世の関東では武蔵国多摩郡横山庄(八王子)を本拠とした平安・鎌倉期の武士団、横山党の一族。横山党は敏達天皇を祖とし小野篁(おののたかむら)を先祖に持つ。
その嫡流をたどっていくと孝(隆)泰の代に武蔵守を拝命。子の義孝(隆)は多摩横山(八王子)に居住。孫の資孝(隆)は小野牧(軍馬の産地)の別当職に就く。曾孫の経兼は前九年の役(1056〜62)で源頼義・義家に付き従っている。
経兼より後を見ると、その子は孝(隆)兼。下の子の盛(成)経は糟屋庄(伊勢原)を所領。弟方の甥である光兼の流れは愛甲庄(厚木)を領するようになる。孫の時重の代では時重の弟の孝遠が境川流域の粟飯原(藍原、相原。相模原、町田)に分家。経孝(隆)は同じく境川流域の小山(相模原、町田)に分家。曾孫の時広は奥州合戦(1189)で源頼朝に付き従っている。

時広より後を見ると、下の子の広季が田名(相模原)に分家。ここに来て、姥川の流れる河岸段丘中段の田名原と横山党との関係が見られるようになる。ただ、広季と子の時季は和田合戦(1213)で縁戚の和田義盛に与して北条義時方と戦い、共に討死している。所領は没収され他の御家人に与えられたであろう。もっとも和田合戦により横山党が大打撃を受けたとはいえ、粟飯原氏など横山党の一族は南北朝期においてもその名を歴史に刻む。
参考「相模武士 全系譜とその史蹟 四 海老名党・横山党」「相模原市史 第一巻」

照手姫伝説の舞台は室町中期、関東では室町幕府の地方機関・鎌倉府の鎌倉公方が関東十国を支配していた時代。また照手姫伝説は先に見たように県内各地に伝わっている。史実はさておき遠き世の歴史ロマンに思いをはせるのも、まち歩きの愉しみ。




大きく育った榎。




清々しき、照手姫伝説の森。

せどむら坂まで引き返し、榎神社に向かう。




段丘崖に付けられた道を登っていく。




大沢踏切を渡り、右へ。




河岸段丘の中段(田名原)を走ってきたJR相模線は、上溝駅の手前から高架(旧築堤)でかさ上げされて段丘の上段(相模原)のヘリを走っている。




突き当りのえのき公園で左手に入っていく。




大木の立つ榎神社の参道。




榎神社には照手姫が祀られている。




案内板。御神木である榎の初代は、照手姫がさした杖が根付いた「逆さ榎」であったという伝承がある。




小さな社殿の傍らにそびえる、大きな榎。




二代目となるこの木は「かながわの名木100選」に指定されている。




榎神社の先へ進むと、県道を挟んで横山公園が広がっている。




樹林広場側の入口。




出合いの広場。




樹林広場に立ち並ぶ、落葉針葉樹のメタセコイア(あけぼのすぎ)。




横山公園は広さおよそ14ヘクタール(100m四方×14)の運動公園。




樹林広場中央のあずまや・藤棚そばに県園芸試験場相模原分場跡地の碑がある。




案内碑によると平成7年(1995)3月で試験場は平塚に移転。その跡地が横山公園の樹林広場として整備された。試験場時代の実績の一つとして、ほうき性ハナモモ「照手シリーズ」の育成と種苗登録がある。




プール・第2駐車場側の出入口から歩いて5分足らずの升屋酒店へ、お店が開店してすぐの時間(午前10時すぎ)にスケジュールを合わせて伺う。




升屋酒店。県内の銘柄では「相模灘(旧津久井町根小屋の久保田酒造)」「いずみ橋(海老名市下今泉の泉橋酒造)」「丹沢山(山北町山北の川西屋酒造店)」を取り扱っている。

こちらのお店は相模原の酒販店による地酒「てるて姫」の企画・販売に参画されていたのだが、店の方に尋ねてみるとやめてしまわれたとのこと。うーむ、残念。




商品棚の上に「てるて姫」の酒瓶が飾られていたので、お願いして一枚撮らせていただいた。
というわけで今回購入の酒は相模原にちなんで「相模灘 純米吟醸」。これもまた、旨いんだ。




酒店から再び横山公園へ。




スロープ側の入口から展望広場に向かう。




あずまやのある展望広場。「てるて姫の里 ロマン探訪の小路イラストマップ」には「上溝城跡」とあるのだが、城の遺構は保存されていない。案内板の類も一切ない。神奈川中世城郭図鑑に記載はなく、日本城郭大系6千葉・神奈川でも本編での扱いが無く「その他の城郭一覧」で「上溝堀之内」として「堀の内、中丸、丸崎、加地子の地名が残る」とあるのみ。
伝承をまとめた当地域の地誌などに拠れば、上溝城は「正応年間(1288〜1292)に横山五郎大夫が丸山という地の西南に城を築いた」といわれる。
参考「市内に伝わる中世武士 上溝・下溝地区の「横溝五郎」の伝承について」相模原市立博物館研究報告 第25集




芭蕉の句碑「陽炎や柴胡の原の薄くもり」。建碑は昭和57年(1982)。




もう一つの句碑には「かげろうやさいこの原のうすくもり」の句と解説文が刻まれている。

柴胡(さいこ)とはかつての相模原、河岸段丘上段(相模原)が「さいこヶ原」と呼ばれた原野だった頃に自生していたというノゼリ。横山公園の地は上段のヘリにあたることもあってか、往時をしのび句碑が建立されたのだろう。

随分前に相模の地酒の参考書として手に入れた「かながわの酒」に、現在は廃業してしまった相模原市新戸の蔵元「豊国酒造」が醸していた大吟醸「さいこの花」という銘柄の話が載っていた。残念ながら私が相州の地酒を漁り始めた頃にはすでに無くなっていたので、私にとっては幻の酒となってしまった。




公園のテニスコートの脇を抜けていく。




その先は上溝中学校の校地沿いに設けられた散策路。




散策路に植樹されたハナモモの木。




「照手シリーズ」についての案内板。




散策路からは上溝駅そばのダイエー、その奥には大山が見える。
上段が広大な原野だった頃から、中段(田名原)に広がる上溝は平塚と八王子を結ぶ街道沿いに発展した地域だった。




上溝中学校の外門付近まで下りてきた。




駅前の歩道橋へ。




上溝駅東口。1時間半ほどでここまで戻ってきた。




上溝駅前から段丘崖の横山丘陵緑地に沿って、道保川公園へと向かう。


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