まちへ、森へ。

相模横山・相模川河岸段丘の街をゆく

7.当麻山無量光寺

 

6.県立相模原公園・花菖蒲の季節はこちら。

 

 

県立相模原公園「せせらぎの園」地区から相模川河岸段丘の中段・田名原を横断して当麻山無量光寺へと向かう。

 

 

 

現在は名前が付いていない旧「フィッシングパーク下」信号を渡り、当麻方面へ。無量光寺へはここから歩いて20分ほど。

 

 

 

姥川(うばがわ。相模川水系鳩川支流)を渡る。

 

 

 

ほとんど起伏のない河岸段丘の中段(田名原、たなはら)の僅かな起伏沿いに、段丘崖「相模横山(横山丘陵)」の湧水を水源とした幾つもの小河川が流れを刻む。段丘の上段(相模原)のヘリ近くには全く川が無いのと好対照。

 

 

 

段丘を横断する県道の緩やかなうねり。

 

 

 

曹洞宗・龍淵山天應院(りゅうえんざん てんのういん)。
「新編相模国風土記稿 巻之六十八 高座郡巻之十 渋谷庄 天應院」によると開山は季雲(大永六・1526年没)。中興開基は北条氏照(滝山城・八王子城主。小田原北条氏第四代氏政の弟)の娘、貞心尼。上下溝村は貞心尼の化粧料の地だったので当所に隠棲、亡夫の菩提を弔うため当寺を中興した、とある。
「相模原市史 第一巻」によれば「なお天応院の開山は季雲永嶽となっているが、実際にはその弟子で二世の天叟順孝が、下野佐野城主に請われて開創したといわれている」とある。

 

 

 

続いて鳩川(はとがわ)を渡る。

 

 

 

 

 

 

 

原当麻(はらたいま)第一踏切を通過。

 

 

 

県道は長い下りに差し掛かった。

 

 

 

県道の長い下りは河岸段丘の中段(田名原)から下段(陽原、みなはら)のヘリへ。
横断歩道右手の側道を上がると、田名原のヘリに位置する当麻東原(たいま あずまはら)古墳のある当麻東原公園。

 

遠景の左手には相州の霊峰・大山(おおやま。1252m)、右奥には丹沢山塊の稜線(1500〜1600m。最高峰は1673mの蛭ヶ岳)、右手前には東丹沢前衛に連なる小さな山脈のうち経ヶ岳(633m)から南の稜線が見える。

 

 

 

相模原市南部・相模川河岸段丘の起伏
拡大版
画像出典:地理院地図(電子国土Web)陰影起伏図(赤文字加工はサイト管理者)

 

 

 

坂を上っていくとすぐ目の前の、当麻東原公園。

 

 

 

当麻東原古墳。
時代は古墳時代、七世紀ごろの円墳。横穴式石室からは副葬品が発見されている。その規模は高さ3m、直径16m。墳丘の裾はおそらく調査後に埋め戻されたのであろう。墳丘の周辺には幅2mの溝が巡っていた、とあり現状は頂部が見られるようになっている。
相模川が暴れ川だった古代の頃から、田名原(河岸段丘中段)あるいは陽原(河岸段丘下段)のへりの辺りには生産活動の行われた集落が存在していた。

 

 

 

墳丘の頂部。

 

 

 

古墳の背後から古道然とした急坂を下り県道に戻る。

 

 

 

無量光寺入口交差点付近。この辺りは陽原(下段)のヘリにあたる。

 

 

 

交差点から県道の右手へ入っていくと、その先の分岐に無量光寺への案内板があるので県道沿いのゆるい坂を下っていく。

 

 

 

無量光寺の門前に到着。時刻はあと10分ほどで午後3時。まずまずのペースで回れている。

 

 

 

時宗当麻山金光院無量光寺(じしゅう たいまさん こんこういん むりょうこうじ)の総門。
総門は大きな冠木門(かぶきもん)。

 

 

 

案内板。
無量光寺の境内は河岸段丘下段の陽原面のヘリに位置する。一遍が草庵を結んだ境内の丘は「亀形峰(きぎょうほう)」と呼ばれた。
当麻山無量光寺の唯一の文献といわれ江戸初期に編纂された「麻山集」によると当麻という地名は一遍が大和国(奈良県)当麻の地を慕ってその留錫(りゅうしゃく。旅の僧が滞在すること)した山を当麻山と名付け、戦国時代に小田原北条氏配下の関山氏らが新たに宿場を開いた際には山号をとって当麻宿としたなどと記されている。

当地は平安期の頃より交通の要衝として栄えており一遍にとっては東国の武州甲州上州方面への布教に便利であった、という見解がある。先に相模原公園・大山祇神社の道標(明治25年建立)にあった「木曽道」「町田道」は、古代の頃からその原型となる道が通っていた。

参考「相模原市史 第一巻」

 

 

 

参道を登ってゆく。

 

 

 

山門石段の手前に大きな「なぎの木」。

 

 

 

由来碑によると、西国を遊行してきた一遍が当麻に滞在のおり錫杖(しゃくじょう)に用いたなぎの枝を法力によって根付かせたことから「さかさ木」と呼ばれた、という伝説が残されている。

 

 

 

石段を上ると「当麻山」の扁額が掛かる山門。

 

 

 

山門は県下ではあまり例がないという腕木門(うできもん)。案内板によると17世紀初頭の築と推定されており、明治26年(1893)の大火にも焼けずに残った。

 

 

 

二脚の親柱の背後に控え柱を立てて屋根を架けた高麗門(こうらいもん)の形式となっている。

 

 

 

山門の傍らに建つ庚申塔。三猿が彫られている。

 

 

 

参道石畳の延びていった奥は、本堂跡。旧本堂は明治26年(1893)に焼失した。

 

 

 

本堂跡に向かって右手に手水と鐘楼、経堂。

 

 

 

参道を挟んで反対側には池が広がる。

 

 

 

 

 

 

 

本堂跡に建つのは、一遍上人像。

 

 

 

一遍(1239〜1289)は伊予国(愛媛県)の豪族、河野家の生まれ。

河野家は古くより代々大三島社(伊予・大山祇神社)の祝(はふり。神職)を勤めた家柄。一遍の亡くなる半年ほど前、三島神社(大三島社。大山祇神社)供僧の長寛、地頭代の平忠康らが夢想の告(示現)に基づいて一遍を招請した。これを受けて一遍は同社を参詣、桜会を行っている。

参考「相模原市史 第一巻」

 

 

 

当麻山無量光寺・本堂。現在の本堂は仮本堂となる。

 

 

 

時宗の宗紋「隅切り角に三(すみきりかくにさん)」が描かれた提灯。

 

無量光寺の起こりは弘長元年(1261)、諸国を回っていた一遍上人が相模川対岸の愛甲郡上依知(厚木市上依知)の薬師堂(現在の瑠璃光寺)に至ったところで妙見菩薩のお告げに導かれ、この地に結んだ草庵「金光院」に遡る。
一遍はその後も諸国を遊行。当麻の地にも度々入り、道場を建立している。弘安五年(1282)には鎌倉入りを試みるも、時の執権北条時宗に拒まれ片瀬の浜(藤沢市)にて踊念仏を行う。正応二年(1289)、摂津国兵庫津(神戸市兵庫区)で没した。

 

ここ当麻の道場が当麻山金光院無量光寺と号されたのは嘉元元年(1303)。諸国を遊行した弟子の真教が晩年に諸国の遊行をその弟子である三世智得に譲り、自らは二世として一遍ゆかりの当麻の地に師の遺骨を奉じ堂宇を整えた。
参考「相模原市史 第一巻」、当麻山無量光寺公式サイト、新編相模国風土記稿。

 

 

 

回廊をくぐり、本堂裏の庭園へ。

 

 

 

公式サイトに拠れば、一遍が自らを映してその姿を描き木像を刻んだという伝説から「御影の池」と呼ばれる。

 

 

 

石亀の口から放水。

 

 

 

本堂横の、お髪五輪塔。
八世良光(〜1371)の代に徳川家の祖といわれる有親・親氏の親子が来山して帰依。剃髪した髪を埋めた地に建てられた五輪塔が「お髪塚」と称された。家康の江戸入府後、無量光寺は境内不入、寺領三十石の朱印を賜っている。

 

 

 

萬霊祭場。三界萬霊(この世界のありとあらゆる霊。無縁となった仏)を祭る。

 

 

 

歴代上人を祀る御廟所。
時宗総本山は藤沢の清浄光寺(遊行寺)であるが、遊行二世真教、三世智得の廟所は当麻の無量光寺となる。
一遍は兵庫の地で没し、その廟は真光寺(神戸市兵庫区)にある。二世真教は宗祖である一遍の遺骨を分骨してこの地に奉じ、分骨は歴代上人墓地の中央正面に葬られている、という。

 

二世真教、三世智得と全国の遊行は続いたが四世真光以後は遊行回国は行われなかった。他方で真教の弟子の一人である呑海が藤沢に道場(清浄光寺)を開いて遊行四世となり、遊行上人は以降に受け継がれていく。その経緯については執権北条氏による遊行上人への諸国密偵依頼の顛末も含めて当麻の立場で残された文書、藤沢の立場で残された文書によって様々に伝わっている。

 

戦国時代初頭には三浦道寸との関わりがあった藤沢は三浦道寸が北条早雲に敗れたために没落。一方で当麻は小田原北条と良好な関係を築き繁栄。江戸時代にはそれぞれが寺勢を保ちつつも当麻と藤沢の本家争いは続いた。

 

明治五年(1872)一宗一管長の制が布かれるようになって、清浄光寺が総本山とされ無量光寺は大本山として総本山の配下となった。当麻山の側としては心中穏やかではいられなかったろう。
参考「相模原市史 第一巻」

 

 

 

数多の宝篋印塔(ほうきょういんとう)、無縫塔(むほうとう)などが建ち並ぶ。

 

 

 

公式サイトのイラストマップに載っていたベンチで囲まれた大樹は、切り株になっていた。

 

 

 

鐘楼の傍らに建つ、芭蕉句碑「世にさかる花にも念仏申しけり」。
無量光寺の公式サイトによると、俳諧にも長じた江戸後期の五十二世霊随が親交のあった俳人と共に建立したのではないか、とされている。

 

 

 

芭蕉句碑の傍らには水琴窟。

 

 

 

幾つかの石碑が並ぶ一角、案内柱の背後に建つ徳本念仏塔(とくほん ねんぶつとう。文化十四・1817年建立)。
徳本は江戸後期に念仏を広めて歩いた僧で文化十四年に無量光寺を訪れた。念仏塔は五十二世他阿上人(霊随)がその独特の書を求め建てられたもの、という。

 

 

 

永代供養等と納骨堂。
案内板によると納骨堂は北里大学医学部に献体された方々の慰霊納骨堂として昭和48年(1973)に建てられた。北里大学は昭和45年(1970)に当麻山に程近い、横浜水道相模原沈殿池の隣接地に医学部を設置している。

 

 

 

山門の脇、駐車場への道。右手の分岐が当麻山公園への小路。

 

 

 

小路を下っていく。

 

 

 

下った先に広がる草地は、当麻山公園。

 

 

 

当麻山公園は当麻山境内(亀形峰)の裾に沿って延びる谷戸(陽原面を流れる相模川水系八瀬川の支流谷戸)が公園となっている。

 

 

 

ささやかではあるが紫陽花も咲いていた。

 

 

 

ビオトープ。案内板が立っており、当麻山無量光寺とゆかりのある光明学園相模原高校の生徒たちで管理されている。

 

30分余りの滞在で無量光寺を後にして、当麻の水田へ。

 

 

8.当麻の水田から三段の滝へ

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