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藤沢大和自転車道(境川サイクリングロード)を江の島へ


2.江の島

1.境川サイクリングロードを江の島へ、はこちら。




国道134号・江の島入口。




国道のアンダーパス。小田急、江ノ電、湘南モノレールで江の島にやって来た観光客は、このスロープをくぐって江の島へ。




江島神社の龍燈籠。




人道橋の「江の島弁天橋」を進む。




大混雑の江島神社参道。

大型連休ゆえ覚悟はしていたが駐輪場も大混雑。複数の駐輪場をあちこち廻り、やっとのことで自転車を停めて島内巡りへ。




青銅の鳥居。文政四年(1821)の再建。




岩本楼。
岩本楼の前身は江戸時代の岩本院。

江戸時代、江の島弁財天は下之宮、上之宮、本宮(岩屋、山上の旅所・たびしょ)の三か所に祀られていた。それぞれを管理した別当(べっとう。社寺務を管理する職)は下之坊、上之坊、岩本院の各寺院。これら別当や島内の御師(おし)たちが江戸で弁財天信仰を広める活動をした結果、江戸各地に江の島弁財天参拝のための「講」が組織されていった。
琵琶を携えた弁財天は芸能の神様でもあったので、商人や職人といった町衆による講の他、箏や三味線の師匠あるいは歌舞伎役者といった芸能関係者による参拝も盛んに行われている。

三か所のお宮は六年ごとに交互に開帳を行っていた。また本宮は四月から十月までの約半年間、神宮を「岩屋」から山上の「旅所」に移して例祭を行っていた。このほかにも江戸への出開帳が行われている。江戸後期の文化六年(1809)に行われた三社総開帳では、例年にも増して爆発的な人出があったという。
参考「神奈川の東海道(下)」




朱の鳥居。




瑞心門。下層部に白い漆喰のアーチを用いた「竜宮造(りゅうぐうづくり)」の楼門。




左手には有料エスカレーターの「エスカー」のりば。三つ乗り継いでいくと、石段を上ることなく山頂まで登ることができる。




歩いて登る人、エスカーを利用する人、楽しみ方はいろいろ。




瑞心門の天井。




格天井(ごうてんじょう)には牡丹が描かれている。




正面に石造の弁財天を眺めつつ、登っていく。









頂部の尖った「江の島弁財天道標」の石柱と、「福石」。

江戸時代に江戸庶民の間で爆発的に流行した「江の島詣で」。この道標は江戸時代前期に管を用いた鍼の技術「管鍼法」を考案した杉山検校(すぎやまけんぎょう)が江の島への参詣路となる「江の島道」に設置した道標の一つとなる。

目が見えなかった杉山和一(検校)は江の島の地で管鍼法を考案するきっかけを得た、とされる。「検校」は主に鍼師や筝曲家といった人々が就任する、全盲の人が就く官職の最高位。管鍼法の考案は和一が検校の地位に上り詰めるきっかけとなったため、彼は江の島弁財天を篤く信仰した。
恩返しの意味を込めて検校が東海道藤沢宿から分岐する江の島道に設置した道標は全盲の参詣者にも触って分かりやすいように文字の彫を深くして頂部を尖らせた、とされる。




さらに登っていくと、最初の社殿。




江島神社「辺津宮(へつみや)」。江戸時代における「下之宮」にあたる。

新たに天皇陛下が即位され令和の世が始まったばかりのこの時は、境内が慶祝ムードにあふれていた。

江島神社に伝わる「江島縁起」によると、江島神社は欽明天皇十三年(552)、勅により岩屋に三女神(多紀理比売命、市寸島比売命、田寸津比売命)を祀ったのが始まりとされる。
その後寿永元年(1182)に源頼朝が文覚(もんがく)上人に命じて諸社殿を建立し、併せて弁財天を勧請した。以来、神仏習合の時代を通して江島神社は「江の島弁財天」と呼ばれ、人々の信仰を集めてきた。
参考「かながわの神社」

辺津宮は三社の中ではいちばん時代が新しく、建永元年(1206)鎌倉三代将軍・源実朝による創建。




豊国画「名勝八景 江島晴嵐」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション




拡大図。三層塔が描かれている。




「新編相模風土記巻百十六鎌倉郡三十八江島」より「下宮図」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション

神仏習合の江戸時代まで、江の島弁財天には杉山検校が寄進したという三層塔が建っていた。しかし、明治期の廃仏毀釈により塔は破却されてしまった。




八角堂の、奉安殿。ここには武人の信仰を集めた「八臂(はっぴ)弁財天」と芸能人の信仰を集めた「妙音弁財天(裸弁財天)」が安置されている。
江島神社公式サイトを参照。

八臂弁財天はこの3月、めでたく国指定重要文化財となった。大型連休の間は東京の国立博物館に出張中だった。江戸出開帳の現代版だ。




頂上に向けて進む。




「花の名所(中津宮広場)」。




再び「エスカー」のりば。左側の石段を上っていく。




石段の踊場から眺める、腰越(こしごえ)の浜と小動(こゆるぎ)岬・腰越漁港、七里ヶ浜。腰越には江の島弁財天と対をなす龍口明神(りゅうこうみょうじん)が祀られた。
真っ平らな埋立地と江の島ヨットハーバーは昭和39年(1964)の東京オリンピックに合わせて造成されたもの。




七里ヶ浜から稲村ヶ崎。その奥には由比ヶ浜・材木座海岸が隠れ、そして三浦半島。




どんどん登る。




江の島神社「中津宮」。江戸時代の「上之宮」にあたる。

こちらは平安前期の仁寿三年(853)に慈覚大師により創建。




当代(七代目)尾上菊五郎、(五代目)尾上菊之助親子の手形。




鮮やかな朱塗りに極彩色(ごくさいしき)の彫り物が華やかな社殿。




社殿は手前から拝殿、幣殿、本殿と並ぶ権現造。奥には水琴窟の庭が整えられている。




三たび「エスカー」のりばを通過。




このあたりから参道には再び飲食店などが軒を連ねる。




江の島の山頂に到着。正面には展望灯台の「江の島シーキャンドル」。

巷で「キューピーの頭」とか言われていた先代の灯台が平成15年(2003)に建て替えられてから、かれこれ15年以上が経過した。




山頂から岩屋への参道「御岩屋道」を下りていく。




沿道には磯料理の食事処が並ぶ。連休中はどこも大混雑。




シーキャンドル。




断崖絶壁が忽然と現れた。




「山二つ」と呼ばれるこの断崖は海食洞が大崩落を起こして出現した、ともいわれる。




案内板。




人の流れが途絶えることなく続く参道。




江の島名物・海苔羊羹の中村屋羊羹店は明治35年(1902)創業。




海苔羊羹。ほんのりと薫る、磯の香り。




シーキャンドルをバックに、江之島亭。
「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」(1982年、第29作)でマドンナのかがりさん(いしだあゆみ)が寂しげな表情で夕暮れの海を見つめていた、あの店。

鎌倉のあじさい寺(極楽寺坂の成就院)で待っています」と寅さんに付文(つけぶみ)して迎えた念願の鎌倉デート(とらやのおばちゃんは「(葛飾区鎌倉じゃなくて)鎌倉幕府の鎌倉かい?」とか言っていた)。しかし、浮き立つ思いとは裏腹に柴又での寅さんは旅先での粋な寅さんとは全く別の人のようだった。作中では寅さんに無理やりお供させられた満男少年が土産物店で亀を買ってきたことをきっかけに、かがりさんが寅さん達と浦島太郎の話をするシーンがある。そこでは、かがりさんが郷里の丹後・伊根(いね)にある浦嶋神社の話を二人にしている。

江島神社・奥津宮もまた浦島太郎伝説と縁があるようで、古びた石灯籠には竜宮の乙姫、亀に乗った浦島太郎の彫り物が見られる。拝殿天井には江戸琳派・酒井抱一(さかいほういつ)により描かれた「八方睨みの亀」の複製(実物は社務所に保管)が見られる。
江島神社公式サイトを参照。

ちなみに東海道・神奈川宿(横浜市神奈川区)の浦島寺(観福寺・かんぷくじ)にも浦島太郎伝説はさまざまに伝わっていた。観福寺は幕末に廃寺となったため、石造物の「亀の台座」は同じく神奈川宿の慶運寺に移されている。また、酒井抱一は西浦賀・東福寺(横須賀市)にも大きな亀の絵馬を残している。




江島神社「奥津宮」に到着。江戸時代には「旅所(たびしょ)」と称した。それは岩屋(本宮)の本尊弁財天が四月から十月の間だけ山上に遷座していたことからくる呼び方。現在では本尊は常時こちらに祀られている。




奥津宮の社殿は本殿手前の唐門(からもん)が拝殿となっており、ここで参拝する。この奥に入母屋造の社殿(本殿)が建っている。




隣りは龍宮(わだつみのみや)。その創建は平成五年(1993)と新しい。

江島神社の公式サイトによるとここは岩屋本宮の真上にあたる、とのこと。




奥津宮から岩屋へ。




人波は途切れることなく続いていく。




そこかしこから漂う「磯の香り」が、鼻をくすぐる。




稚児ヶ淵(ちごがふち)に到着。














岩屋へ向かう。




岩屋の前は長蛇の列。入口への歩道橋の手すりは台風による被災からの仮復旧にとどまっている。




じりじりと動く列で待つこと20分余り。拝観料を納め、ようやく入洞。




「江島縁起」によれば古くは大和時代(飛鳥時代)における修験道の祖・役行者(えんのぎょうじゃ。役小角・えんのおづの)も入洞したという、岩屋。

鎌倉時代の後期には二条尼が紀行文「とはずがたり」のなかで「京から京鎌倉往還を歩いてきて鎌倉入りする前に江の島の岩屋に泊まり、極楽寺に詣でた」といった内容を記した。




順路は第一岩屋(奥行152m)、第二岩屋(奥行56m)と続く。




洞内の池には明治の歌人、与謝野晶子の歌碑。
「沖つ風吹けばまたたく蝋の灯に志づく散るなり江の島の洞」









洞内には様々な石造尊像が奉納されている。「岩屋詣で」の盛ん成りし江戸の昔を偲ばせる。




二股に分かれたところには八臂弁財天(はっぴ べんざいてん)坐像。




この地にも首のない地蔵菩薩像が見られる。




侵食された岩を日蓮の寝姿になぞらえた「日蓮上人の寝姿石」。

郷里の安房(千葉県)にて日蓮宗を興した日蓮は浦賀水道を渡って鎌倉入りし、辻説法を開始。鎌倉入りの前には荒れる海で遭難しかけて猿島(横須賀市)の洞窟で一時を過ごしたという伝承もある。
日蓮は他宗派や幕府を激しく非難したことで数々の法難を受けた。鎌倉では草庵を襲撃された松葉ヶ谷(まつばがやつ)の法難、あわや処刑されかけた龍口(たつのくち)の法難がある。
波乱万丈の人生を送った日蓮だが、鎌倉時代の一大商業地であった大町界隈には日蓮宗の寺院も多い。鎌倉の庶民からは絶大な支持があったのであろう。江戸時代には有力大名家による寺院への寄進も多く見られるようになった。
中世の頃から京鎌倉往還を行き来する人々が立ち寄って滞在したという本宮岩屋。この寝姿石も、日蓮がここで一時を過ごしたかもしれないという、遥か昔からの歴史ロマンを感じさせる。




第一岩屋の最奥。

洞窟は富士の鳴沢氷穴(なるさわひょうけつ。富士北麓、富士五湖・西湖の南)に続く、という伝説がある。
一方で東丹沢の塩川滝(しおかわだき。愛甲郡愛川町)上流・滝沢にもまた、江の島の洞窟と繋がっているという伝説がある。

「新編相模国風土記稿巻之五十八愛甲郡之五毛利庄半原村」瀑布の項(塩川滝)には「塩川滝或は塩釜滝と云う。・・・山間より出で十町許(ばかり。なお一町は60間、180cm×60)にして字(あざ)江ノ島淵〔広さ三間許。深さ七十尋(ひろ。一尋は六尺・180cm)にして猶底に至らず。水脈江ノ島に通じ、四月巳(み)の日には潮さし入る故に塩川、江ノ島淵等の名ありと云う〕に至り・・」とある。

塩川滝の周辺は相州の修験者の行場であった。ヤマトタケル東征伝説のころに寺院が開山されたという東丹沢・八菅山(はすげさん)には大宝二年(702)に役行者(役小角)が来山した、という伝承が残る。時は役行者が讒言により伊豆大島に流されていた頃となる(但し通説における没年よりも後)。役行者はその法力を駆使して伊豆大島から富士山、伊豆山・走り湯、箱根、そして江の島、さらには丹沢など周辺各地を飛び回り、修験道場を開いていったとされる。こうした修験道のつながりで見ると、江の島と東丹沢、さらには富士との縁がおぼろげに見えてくる。
参考「かながわの滝」「中世都市鎌倉のはずれの風景」「丹沢の行者道を歩く」

こうした伝説をベースとして見ると、鎌倉入りした頼朝が文覚上人に命じて江の島弁財天の伽藍を整備したのも、頼朝が修験者の力を重く見ていたことの表れの一つとなろう。平家打倒を掲げるも石橋山の合戦に大敗し湯河原の山中をさまよった頼朝は、頼朝を助けた箱根権現の修験者の力を痛感した。梶原景時を重用したのも景時が法力を操る集団を配下(鎌倉隠里。佐助谷・さすけがやつ周辺)に持っていたことが大きい、という見方がある。




二股のもう一方の奥には石祠が安置され「江島神社発祥の場所」の案内がある。先に見たように、往時は奥津宮の弁財天がここに祀られていた。
現在でこそ尊像は山上の奥津宮に移されているが、ここは紛れもなく江島明神のルーツとなる。




第一岩屋を引き返して第二岩屋に向かう。









第二岩屋への通路。









第二岩屋の奥。手前には「天女と五頭龍(ごずりゅう)の伝説」(江島縁起)の案内板。

数々の悪行を悔い改め天女(弁財天)との契りを結んだ五頭龍は後に山に化身。安心した人々は腰越の地に龍口明神社(りゅうこう みょうじんしゃ)を建てて龍を祀った。




龍の像。




第二岩屋は洞内が複線になっている。




拝観を終え、第二岩屋出入口へ。崖下には岩畳(海食台、波食台)が広がる。




亀石。
浦島太郎伝説よろしく、沖へ向かって出ていく亀のような岩。




第一岩屋出入口の前まで戻り、岩畳に下りてみる。

三浦半島先端の城ヶ島がそうであったのと同様、江の島もまた関東大震災(大正12・1923)により岩畳が大きく隆起している。

百年ほど前まで、この岩畳は海の中だった。当時は潮の満ちる時分ともなると海食洞に波が迫り洞内を濡らしていたであろうから、岩屋の本宮は季節毎に山上の旅所に遷座した。




「日本之名勝」(明治33年刊)より「江の島洞窟」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

震災前の岩屋。海が洞窟のすぐそこまで迫っており、入口への桟橋も簡素な造り。




初代広重画「六十余州名所図会 相模 江之島岩屋ノ口」
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

波打ち際の磯伝いに岩屋に向かう。岩屋口への道にはしめ縄もかけられている。




初代広重画「相州江乃島弁財天開帳詣 本宮岩屋の図」。
画像出典・国立国会図書館デジタルコレクション。

役行者の修験道の時代、頼朝による社殿整備の時代。そして鎌倉中期には中世の大動脈・京鎌倉往還を行き交う人々が旅すがら岩屋に立ち寄った。そうした時代を幾つも重ねて迎えた江戸時代、江の島弁財天は「江の島詣で」によって隆盛を極める。

先に見たように、記録に残る江戸時代後期の江の島詣は大変な賑いだった。本宮岩屋の開帳時の賑わいを描いたこの絵もまんざら誇張ではなさそう。昔も今も変わることなく、江の島には人々を惹きつける何かがある。




「稚児ヶ淵」は押し寄せる人波で大賑わい。




その賑わいとは裏腹に、稚児ヶ淵の名の由来となった稚児と修行僧の悲恋伝説は物悲しいものがある。




稚児ヶ淵から江の島弁天橋(境川河口)まで戻る「遊覧船べんてん丸」は山の登り下りを避けたい観光客に人気。しかし、のりばには乗船待ちの長蛇の列。




松尾芭蕉の句碑「疑ふな潮の花も浦の春」。側面には「寛政九丁巳(ひのとみ)年(1797)三月 京師 獨樂(以下は写真では判別できなかった)」造立と刻まれている。
案内板によるとこの句自体は二見ヶ浦(三重県)での作となる。建碑された時は既に芭蕉の没後百年近く経っている。




服部南郭(はっとり なんかく)の詩碑。こちらは案内板によると文化二年(1805)の建立。
南郭は京都に生まれ江戸にて儒学者の荻生徂徠に学び、江の島には幾度も来遊し江の島に因んだ詩を残した、とある。




帰りは「山二つ」の手前で中村屋羊羹店の角を曲がっていくと、幾分は楽。




脇道に入っていく。









なにやら雲行きが怪しくなってきた。




境川河口の片瀬漁港。














参道はいよいよ大混雑に拍車がかかり、身動き一つ取るのもままならない。時おり遠く雷鳴が響き「やばい、これはくるな」と飛び交う声。

果して、帰りは藤沢大和自転車道の引地川沿いで雨が降り始め、境川サイクリングロードを遡るころには雷鳴に怯えつつ本降りの中でひたすらペダルを踏む羽目になった。
なお、この日は丹沢の稜線で落雷が発生。表丹沢の鍋割山(なべわりやま。1273m)付近では雷の側撃により樹の下で登山者が亡くなるという痛ましい事故も起きている。


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