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伊豆山神社から日金山・十国峠へ、鎌倉将軍家の足跡


平成30年(2018)4月最初の週末、熱海・伊豆山(いずさん)温泉へ。古湯「走り湯」のある伊豆山浜から伊豆山神社本殿、本宮へと登る。本宮からは岩戸山(いわとやま)へ登り、日金山(ひがねさん)、十国峠と巡って湯河原温泉へ下山する。

1.JR熱海駅から伊豆山浜・走り湯へ




JR熱海駅前、午後3時ごろ。

東伊豆の玄関口・熱海駅は東海道線で神奈川県から静岡県に入って最初の駅。この駅まではJR東日本のSuica、関東民鉄のPASMOでも改札を通過できる。




駅前からは、土産物店が軒を連ね観光客で賑わう二つのアーケード街(仲見世、平和通り)が延びている。




熱海市街の案内板。伊豆山温泉は駅前から中心部とは反対方向(図の左側)へ、歩いて30分ほど。伊豆山温泉のあたりは図には載っていない。




駅前から左手のスロープへ上がり、バスターミナルの横を通って交番前からその先へ進む。




バスターミナル横を抜けていく。




交番の先、通りを道なりに足川(あしかわ)交差点まで下っていくと海が見えてきた。




足川バス停、足川交差点。交差点から先は国道135号線。




眼下に広がる相模湾。風がものすごく強い。帽子が吹き飛ばされそうだ。




右手に伊豆半島、沖合に初島(はつしま)。




左手には真鶴(まなづる)半島が細く延びている。




しばらく進んでいくと、「秋戸郷(あきとのごう)跡」の碑が立つ。ここはホテル水葉亭の所有地内。




秋戸郷は北条政子がしばし匿われた場所。




案内板。

治承四年(1180)、伊豆にて打倒平家の旗揚げをした源頼朝は石橋山合戦で平家方の相模豪族・大庭景親(おおば かげちか)の大軍に大敗。土肥椙山(どいすぎやま。現湯河原町)の山中で逃避行を続け、辛くも真鶴から安房(あわ。現千葉県南部)へと小船で脱出する。

その際、平家方に追われる身となった政子は伊豆山権現別当であった覚淵(かくえん)の計らいによりここ秋戸郷に身を潜めることとなった。

流人として蛭ヶ小島(伊豆韮山)に流され、平治の乱(1159)で平家に討たれた源氏一族の菩提を弔うべく読経三昧の生活を送っていた高貴な都人の頼朝。その生活の糧は京で頼朝の乳母だった比企禅尼(ひきのぜんに。幕府草創期の重臣・比企義員(ひきよしかず)の養母)を始めとして伊豆山権現からも支援を受けていた。挙兵の際、頼朝は伊豆山権現に経典を奉納している。都から遠く離れた流刑の地で、頼朝は伊豆山権現に信仰心を深く寄せていた。




水葉亭。




伊豆山浜。海岸線まで急峻な崖が迫っている。奥に真鶴半島。

国道が切通で開削されている現代とは異なって、往時は案内板にある通り秋戸郷は浜の方からしか入れないような地形だった。




「走り湯」へ下りていく車道分岐。




走り湯は「熱海ビーチライン(自動車専用道)」のすぐ脇、伊豆山温泉のホテルが立ち並ぶあたりにある。

ここは通過し、この先の逢初地蔵堂へ。




逢初橋(あいぞめばし)バス停。赤い欄干が逢初橋。

逢初橋には政子と頼朝にまつわる歴史ロマンがあるが、この橋は国道開通以降の新しい橋。古い橋は後ほど観に行く。




「伊豆山温泉 偕楽園」の看板を目印に、狭い急坂を下りていく。




坂の途中に建つ、逢初地蔵堂。









由来記。

逢初地蔵堂は北条政子による建立と伝わる。地蔵が祀られたのは元暦元年(1184)。

きっかけとなったのは政子と頼朝の間に生まれた最初の子、大姫(おおひめ)の病気平癒を願ってのこと。その話は頼朝の挙兵に遡る。
各地で打倒平家の旗揚げをした源氏の一族には頼朝の他に木曽義仲がいた。やがて義仲と頼朝は対立し、和睦のために義仲の子・義高が大姫の許嫁として頼朝の下に預けられる。幼い大姫は義高を兄のように慕った。
ところが義仲が頼朝に討たれると事態は急変。頼朝は義高が「父の仇」として刃を向けることを恐れ、側近が逃がした義高を捜し出して首をはねてしまう。この悲劇が大姫の病の元となった。一切を口にしなくなり日に日に衰弱する大姫の姿にうろたえた政子が延命祈願のため延命地蔵尊を奉じたのが、治承四年(1180)に母子が身を潜めた所縁のあるこの地であった。
延命地蔵の伝承はもう一つ、鎌倉・扇ガ谷の岩船地蔵堂に伝わっている。また政子と頼朝が大姫の病気平癒祈願のために出向いたのが日向薬師(ひなたやくし。神奈川県伊勢原市)であった。




地蔵堂の先を左折し「走り湯」へ。




左手に伊豆山神社本殿へと続く参道階段。




右手の参道階段を「走り湯」へと下りていく。




強風にあおられ白浪の打ち寄せる伊豆山浜。




ジグザクの下り。




赤い鳥居は走湯神社(はしりゆじんじゃ、そうとうじんじゃ)。走湯神社は伊豆山神社の境外社であり、走り湯源泉を守護する。




その脇を奥へと進むと、「走り湯」の洞窟がある。画面右手は走り湯の足湯。




走り湯。

その歴史は奈良時代に遡り、日本三大古泉とされる。この横穴式源泉は元々は湧出した温泉が走り飛ぶように海岸に流れていたという。
案内碑によるといったんは源泉の多掘の影響で枯渇したが増掘によって復活した、とある。




洞窟内は高温サウナのような蒸気がものすごい。




奥にはゴンゴンと熱湯を噴き出す湧出口があり眼鏡が一瞬で曇ってしまう。とてもではないがカメラを持ち込むことなどできない。




注意書き。「やけどの危険があるので触らないで」とあるが、言われなくても「触ったら明らかにヤバそう」な高温だ。




海を眺めつつ浸かることのできる、「走り湯」の足湯。




参道を降りた下にも案内板がある。




案内板には「伊豆の国名は走り湯の湯出(ゆづ)に由来するとも伝わる」とある。伊豆山神社は近世まで「伊豆山権現」「走湯権現」などと呼ばれた。

走り湯は鎌倉時代には源頼朝、江戸時代には徳川家康も入湯しており「出世の湯」とも呼ばれる。
鎌倉の三代将軍源実朝は「二所詣(にしょもうで。将軍家による箱根権現、伊豆山権現への参詣)」の際に立ち寄った走り湯を、
「伊豆の国山の南に出ずる湯のはやきは神のしるしなりけり」と詠んでいる(金槐和歌集)。




参道階段の一角には役小角の石像が置かれている。




役小角(えんのおづの。役行者)の石像。

修験道の祖、役行者は文武三年(699)弟子の讒言により伊豆大島に流された。走り湯はその頃に役行者により発見されたと伝わる。




白浪打ち寄せる午后の伊豆山浜を眺めつつ、今宵の宿へ。


2.伊豆山浜から八百三十七段を般若院、伊豆山神社へ。  まち歩きトップに戻る。