まちへ、森へ。

伊豆山神社から日金山・十国峠へ、鎌倉将軍家の足跡

2.伊豆山浜から八百三十七段を般若院、伊豆山神社へ

 

伊豆山浜から837段の参道階段を登り、伊豆山神社本殿へ。階段の途中で参道を逸れて旧伊豆山別当・般若院にも寄っていく。

 

1.JR熱海駅から伊豆山浜・走り湯へはこちら。

 

 

伊豆山浜に建つ伊豆山温泉「ニューさがみや」から、相模灘の日の出。

 

 

 

時刻は朝5時半ごろ。「明日は山歩きだから」ということもあって深酒もせず、スッキリと爽やかな目覚め。

 

 

 

真鶴(まなづる)半島。その先端には景勝・三ツ石。

 

 

 

三ツ石。

 

 

 

伊豆半島・東伊豆。「西の空に日の出?」その正体はガラスに映り込んだ朝日。

 

 

 

天気は快晴。しかし前日に引き続き、風が強い。

 

 

 

伊豆山浜。海岸線を「熱海ビーチライン(自動車専用道)」が通っている。

 

 

 

目の前には漁港の伊豆山港。

 

「ニューさがみや」の前身は、江戸時代創業の「相模屋旅館」。

 

 

 

隣りの「うみのホテル中田屋」の玄関わきには「伊能忠敬測量隊御一行宿泊の宿」という記念碑(杭)が立っている。

 

「走り湯」源泉に恵まれ、相模灘を一望する景勝地の熱海・伊豆山温泉は江戸時代の頃から賑わっていた。

 

 

 

伊豆山浜から伊豆山神社への参道「権現坂」。ここが起点となる。

 

時刻は朝10時10分過ぎ。日帰りの早朝始動なら8時15分頃に熱海駅を出発できることを思うと一時間くらいスタートが遅いが、今回は宿泊を伴ったのでこんな時間。

 

 

 

伊豆山神社参道の案内板。

 

伊豆山浜から本殿までは、837段の階段がある。

 

 

 

「参道いまむかし」の案内板。

 

今回のまち歩き、山歩きは伊豆山浜(標高0m、と言いたいところだが8.5m)をスタートしてまずは伊豆山神社本殿(標高167m)へ。参道階段の途中からは古道へと逸れて旧逢初橋、般若院なども巡る。
本殿からは本宮(標高392m)へ、「子恋の森」参拝路を登っていく。さらに本宮から岩戸山(734m)、十国峠・日金山(771m)と歩き、「日金道」参拝路を湯河原温泉の落合橋(標高92m)へと下る。

 

 

 

始めは16段+αで伊豆山神社の境外社、走湯神社(はしりゆじんじゃ、そうとうじんじゃ)へ。

 

 

 

走湯神社は走り湯源泉を守護する。

 

 

 

本殿を目指す。

 

 

 

ジグザクの階段を上がっていく。

 

 

 

 

 

 

 

早くも100段。

 

 

 

 

 

 

 

奥の階段を上がると国道。

 

 

 

国道まで来ると、もう220段も登っている。国道を挟んだ前後は急階段。

 

 

 

往時は石段だった参道は、現在では歩きやすいコンクリート階段。しかも踊場が多いので、そんなにきつい感じはしない。

 

 

 

東海道線を見下ろす。

 

 

 

「撮らせてね」言うたら「やだよ」だと。ネコマスターへの道のりは石段登りより険しい。

 

 

 

参道の途中には奉納された休憩台もある。

 

 

 

4月最初の週末だが、もう八重桜が満開。この春は開花が早い。

 

 

 

参道のこと、伊豆山神社のことが記された案内板。

 

前日に歩いた秋戸郷(あきとのごう)のところでも触れたが、頼朝が流人として伊豆に流されていた頃から伊豆山権現は頼朝を生活面で支援した。治承四年(1180)の挙兵の際、頼朝は政子を通じて経典を伊豆山権現に奉納している。
石橋山の合戦で頼朝が大敗すると伊豆山権現は身の危険にさらされた政子を匿う。土肥椙山(現湯河原町)の山中で懸命の逃避行を続けていた頼朝は箱根権現の修験者が支援した。
のちに脱出先の安房から鎌倉に入り平家打倒・幕府開府の大願を果たした頼朝は、当然のことながら伊豆山権現と箱根権現を篤く崇敬する。鎌倉から両社への「二所詣(にしょもうで)」(後に三嶋明神を加えた三所詣)は頼朝以降、歴代鎌倉将軍によって続いていく。

 

鎌倉時代以降も東国の武門の篤い信仰を集めた伊豆山権現であったが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に北条氏に与した伊豆山権現は秀吉による焼き討ちに遭い、栄華を誇った数多の堂宇は烏有に帰した。神仏をも怖れぬ所業は秀吉も信長と同様であった。
江戸時代以降、徳川家康は修験者集団の山岳信仰に対する統制を図っていく。焼き討ちにあった伊豆山権現は高野山の僧が別当(社務・寺務を管理する寺、僧)般若院として管理、復興にあたる。

一方で修験者は戦闘集団という側面もあったため、一般論として家康は寺社統制の一環で修験者を山から下ろさせる政策を取っている。例えば相模の大山では高野山の学僧が別当八大坊を束ねる学頭として大山に入り、山を下ろさせられた修験者は山麓で御師(おし)となって大山信仰を広める原動力となった。

 

 

 

市道「伊豆山神社前」バス停に到着。ここまでで648段、あと200段弱。

 

電車・バスを利用する参拝者は熱海駅からここまでバスで来ることもできる。

 

 

 

本殿まで登る前にバス通りを左手へ進み、旧伊豆山権現別当・般若院へ向かう。

 

 

 

「仲道入口」バス停付近で狭い道へと入っていく。

 

 

 

坂を下る。正面奥、中腹に般若院が見える。

 

 

 

分岐は下りていかずに正面へ。分岐付近には地蔵像。

 

 

 

横道地蔵。
小さな像の台座には「ひかねみち左」と刻まれているようだ。日金山の土沢側参道への道しるべだったのだろう。
大きな像の台座には「文化五年(1808)」「三界萬霊(さんがいばんれい)」と刻まれている。三界萬霊とは無縁仏。無縁仏を供養する石仏石塔に刻まれている。

 

この道はおそらく小田原方面より伊豆山権現を経て土沢(とさわ。熱海市)から日金山(ひがねさん。十国峠)へと通じる旧道。日金山からは湯河原温泉へ下っていく参詣道のほか、北の尾根伝いに鞍掛山(くらかけやま。箱根外輪山)を経て箱根宿・芦川へと向かう道もあった。

鎌倉将軍家の「二所詣(箱根権現から伊豆山権現へ)」の経路は、研究成果としては湯坂路(ゆさかみち。中世の東海道箱根路)を登り箱根権現から芦川、鞍掛山へと進み日金山からは岩戸山の尾根伝いに伊豆山権現に向かうルートが二所詣の道ではないかとされている。途中の日金山(十国峠)には三代将軍実朝の歌碑がある。
とはいえ、日金山から伊豆山権現へ、こちらの道を通った可能性はないだろうか。

 

 

 

先へ進んでいくと般若院へ上がる手前に小さな石橋が架かっている。

 

 

 

この石橋は「逢初橋(あいぞめばし)」。
※逢初橋の架かる逢初川は令和三年(2021)7月の土石流災害で被災。現状は復旧の途上にある。

 

 

 

逢初橋の由来。
北条時政が政子のために設けた平兼隆(たいらのかねたか。居所の伊豆山木郷にちなんで山木兼隆と称する)との婚礼を政子は嫌い逃げ出す。その時伊豆山の坊にいた頼朝が知らせを受けてこの地で再会を果たした、というロマンスが伝わる。

ただ、兼隆が伊豆に赴任してきたのは治承三年(1179)。頼朝と政子の間に長女・大姫が生まれたのは治承二年(1178)。このロマンスはあくまで歴史ロマンということになる。とはいえ政子と頼朝がこの地で逢瀬を重ねていたかもしれない、という事実は否定できない。そんなことは史実にはない、というのも野暮というものだ。

 

 

 

バス通りに上がると「般若院前」バス停。境内裏手の駐車場からは本堂に出られるが、正面へ回る。

 

 

 

相模湾、初島(はつしま)を眺めつつ道を下る。

 

 

 

右手に入ると般若院への参道石段がある。

 

 

 

真言宗・走湯山(そうとうざん。はしりゆさん)般若院(はんにゃいん)は中世以降の長きにわたり、伊豆山権現の別当(管理職の長)を務めてきた。
先に伊豆山神社参道石段の案内板で見てきたとおり、戦国末期の小田原攻めで秀吉の焼き討ちにより壊滅したのちに家康によって復興し、その頃から般若院と号している。

 

明治中期の地誌「増訂豆州志稿 巻之十一 仏刹三賀茂郡」では走湯山般若院を「古は密厳院東明寺と云う」とする。「創立年代不詳」だが「弘仁年間(810〜824)に空海この地に留錫(りゅうしゃく)し」「桓舜を中興開山と称す(桓舜は天喜五年(1057)没)」と記されている。「古来伊豆権現の別当」だったが「明治維新の初め別当職を解き同村成就坊を併せて境内に移転す」とある。

 

 

 

般若院の本堂。

 

 

 

「走湯山」の扁額。

 

なお般若院は熱海ではここだけという弱酸性の源泉を持つ。宿泊した「ニューさがみや」には源泉として「走り湯」と「般若の湯」が引かれていた。頼朝政子の逢初橋にちなんだ「逢初の湯」という貸切風呂もあったな。

 

 

 

大師堂。弘法大師・空海を祀る。

 

 

 

「弘法大師」の扁額。

 

 

 

苔むした五輪塔が並ぶ。

 

 

 

駐車場脇の五輪塔。

 

 

 

「当坊開山代々先師等」と刻まれた碑。この一角は歴代住職の五輪塔だろうか。

 

ここまで来た道を戻り、再び伊豆山神社参道階段へ。

 

 

 

再び伊豆山神社前バス停付近。

 

 

 

案内板。

 

ここまで来れば本殿まであと少し。ここからは手すりのない石段。バスで来た場合には石段ではなく裏参道を使う手もある。

 

 

 

石段へ。

 

 

 

登っていく右手に祖霊社。

 

祖霊社は伊豆山権現に仕えた氏人の祖霊(先祖の御霊・みたま)を祀る。

 

 

 

続いて役小角社(えんのおづぬしゃ。足立権現社・あしだてごんげんしゃ)。

 

 

 

役小角(えんのおづの。えんのおづぬ)は修験道の祖。弟子の讒言により都から伊豆大島へと流されたが、術を駆使して伊豆山権現に飛来し修行を重ねたという伝説がある。
その健脚ぶりにあやかり、足腰に効くということで役小角社は足立権現とも称する。なお伊豆山浜の「走り湯」源泉は伊豆にいた役小角が発見したという伝承があり、走り湯付近には解説板が掲げられている。
「神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)」の諡号(しごう)が贈られたのは役小角の没後千百年以上を経た後世(寛政十一・1799)のこととなる。

 

 

 

結明神社(むすぶ みょうじんしゃ)。
こちらは里宮。本社は伊豆山神社本宮へ登る山道の途中にある。

 

 

 

案内板によると、祀られているのは日精・月精という男女の縁結びの神。景行天皇三十一年(101)、久地良山(日金山)の大杉から出生した一女一男が後に日精・月精と号して夫婦となり日金山に仕え「伊豆権現氏人之祖」となったという。

 

 

 

837段を登り切って、本殿に到着。標高167m。
時刻は11時10分ごろ。途中で般若院にも寄った(往復30分)ので、1時間かかった。

 

 

3.伊豆山神社と子恋の森へ

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