まちへ、森へ。

伊勢原日向から厚木七沢へ

2.日向薬師から日向山、七沢温泉へ

 

1.伊勢原日向のヒガンバナ群生地はこちら。

 

 

小田急・伊勢原駅北口発日向薬師行の終点、日向薬師バス停の折り返し場。時刻は午前10時15分ごろ。彼岸花の季節には臨時の観光案内所も設けられている。

 

ここから日向薬師、日向山、大釜弁財天の滝と弁天岩の岩壁、中世の城跡となる見城山(見城台)、七沢温泉と巡っていく。

 

 

 

日向神社(ひなたじんじゃ)。古くは白髭神社(しろひげじんじゃ)と呼ばれた。

 

社伝によるとその創建は8世紀の頃。日向薬師を開いた行基に協力を惜しまなかった渡来人の高麗王若光(こまおうじゃっこう)を称えて日向薬師の守護神として創建されたとされる。

若光は奈良時代を記した朝廷の歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」にその名が見られる人物。高句麗が百済、新羅に攻め滅ぼされた際に日本に亡命し東国開発の勅命(ちょくめい。天皇の命令)を受け相模国大磯に上陸、武蔵国高麗郡を開発したとされる。その際にこの地にも縁を持ったのだろう。

参考「かながわの神社」

 

 

 

 

かつては茅葺屋根であった社殿。その様は日向薬師が大寺であったころの名残りの一宇として風情を添えていた。屋根は平成25年(2013)に銅板葺に葺き替えられている。

 

 

 

日向薬師への案内図。

 

 

 

参道沿いの石仏。

 

 

 

日向薬師から順礼峠(七沢森林公園内)を経て飯山観音への道は「関東ふれあいの道・順礼峠のみち」として案内されている。

 

 

 

埋もれた石の欄干。仁王門橋と刻まれている。

 

 

 

本堂への長い登りの始まり。この辺りで標高およそ155m。

 

 

 

衣裳場(いしば。いしょうば)の案内板。

日向薬師には鎌倉初期の建久5年(1194)、源頼朝が娘・大姫(おおひめ)の病気平癒を願って参詣した(その顛末は鎌倉・亀ヶ谷坂の辻に建つ岩船地蔵堂を参照。そこにはちょっと悲しい物語がある)。衣裳場は頼朝がここで白装束に着替えたとされるところからこのように呼ばれる。

 

吾妻鏡(幕府の史書)によると、その行列には頼朝の元で幕府草創期を支えた重臣たちの錚々たる面子が連なっていた。頼朝あるいは御家人行列が通っていった日陰道(ひかげみち)は現在でも古道の雰囲気が良く残っている。
頼朝の死後も、北条政子は幾度か日向薬師に参詣している。

 

 

 

仁王門。

 

 

 

 

 

 

 

金剛力士像。先代は火災で焼失し、天保四年(1833)に鎌倉扇谷(おうぎがやつ)の仏師により再彫された。

 

 

 

仁王門をくぐると、岩肌を削って段を付けた参道が続く。

 

 

 

 

 

 

 

更には石積みの石段。森閑とした境内。

 

 

 

石段を淡々と登っていく。

 

 

 

参道の至るところに見られる石仏。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まもなく本殿。

 

 

 

日向薬師の本堂に到着。標高およそ225m。

 

真言宗日向山宝城坊(ひなたさん ほうじょうぼう)、通称日向薬師。古くは日向山霊山寺(りょうせんじ)と称した。

 

霊山寺は奈良時代の霊亀二年(716)行基による創建とされ、堂宇の建ち並ぶ大寺であった。「吾妻鏡」(鎌倉幕府の史書)には「是行基菩薩建立、薬師如来霊場也」と記されている。

 

宝城坊は日向十二坊と呼ばれた僧坊の一つだったが、明治期の廃仏毀釈により宝城坊だけが残った。

 

 

 

本尊薬師如来像、十二神将像などの案内板。

 

 

 

本堂。およそ350年ぶりとなった数年越しの大修理により、平成28年(2016)の秋に装いを新たにしたばかり。

 

 

 

本堂は霊山寺の本堂を引き継いでおり建築年代は江戸前期の万治三年(1660)。部材の一部はそれ以前の古材が再利用されており、宝城坊公式サイトによれば康暦二年(1380)の履歴も確認されている。

 

 

 

向拝(こうはい。せり出した屋根)周り。目にも鮮やかな朱塗りが甦った。

 

 

 

木鼻(きばな)の獅子鼻・象鼻に蟇股(かえるまた)の龍。

 

 

 

鐘堂。茅葺は平成24年(2012)に葺き替えられている。鐘堂には宝暦13年(1763)の棟札が確認されている。銅鐘には室町初期の暦応三年(1340)の銘文が見られるという。

 

 

 

鐘堂の傍らにそびえる、「宝城坊の二本杉」。足利基氏(あしかが もとうじ)の「幡かけの杉」の伝承がある。
基氏は室町時代前期に東国を支配した鎌倉公方(鎌倉府の長官)の初代。

 

 

 

虚空蔵菩薩。樹のうろの中に納められている。
元は日向山へ向かう急な山道(現在は通行止)の途中にある奥之院に納められていた。

 

 

 

かなり古びた石塔。基礎部分は関西形式の宝篋印塔(ほうきょういんとう)風であり傘は宝塔(ほうとう)風になっている。色々な様式を取り混ぜており江戸時代以降のものだろうか。隣りの新しそうな宝篋印塔がむしろ初期の(鎌倉時代後期の)関東形式をよく再現している。

 

 

 

午前11時、日向薬師を出発し日向山へ向かう。

 

 

 

薬師林道に合流し、参拝者用駐車場へ。

 

 

 

駐車場からは本堂裏手の宝物殿に下りる道もある。

 

 

 

駐車場の奥から登山道へ。

 

 

 

なだらかな山道。

 

 

 

周辺の案内板。

 

この先、日向山山頂への急登となる登山道は通行止になっているようで案内板でも塗り消されている。つい最近までの登山ガイドブックには載っていたが、スニーカー姿のハイカーにはちょっと危ないということか。山頂へは等高線に沿ってなだらかな山道を迂回して登っていく。

 

 

 

苔むす岩肌の山道。

 

 

 

赤土のローム層はすっかり剥げて、東丹沢における地質の基盤となる凝灰岩が露出している。

 

 

 

日向山へは30分余り。

 

 

 

 

 

 

 

急角度を折り返すように登っていく。

 

 

 

梅の木尾根分岐に到着。「クマ出没注意」の看板が立っている。

 

 

 

日向山へ。

 

 

 

 

 

 

 

明るい尾根道。

 

 

 

午前11時40分、日向山(ひなたやま。404m)山頂に到着。

 

日向山の名は、日のよく当たる山であることからそのように呼ばれたと伝わる。あるいは、大山(雨降山)との関連で「ひむけ」すなわち荒ぶる神を鎮静する地として名付けられているという説も提唱された。
参考「かながわ山紀行」

 

 

 

弁天様が祀られていたという、山頂の石祠。「天明八(1788)戊辰三月 別当開厳建立」と刻まれている。

 

弁天様は水辺に祀られることの多い「水の神様」であるが、「ナイスの森」の案内板によると昔は弁天池に囲まれ一定の水量が保たれていたという。

 

 

 

山頂から東の眺め。薄曇りの日ではあったがここでも何とかランドマークタワーが確認できないか、目を凝らしてみる。

 

 

 

ぼんやりと、微かなシルエットながらタワーを確認。

 

 

 

12時過ぎ、日向山を出発。七曲峠へ向かう。

 

 

 

10分ほどで七曲峠に到着。標高およそ320m。

 

 

 

峠の石祠。

 

 

 

中世の城跡である見城台(みじょうだい。見城山)に向かう前に、大沢川(玉川源流、相模川支流)の側に下りて大釜弁財天と弁天岩を観に行く。

 

なお亀石の方面へ下ると薬師林道に合流し、林道歩きを経て七沢温泉に至る。

 

 

 

七曲峠から大釜弁財天への道はつづら折りの急傾斜であるが、よく整備されており歩きやすい。

 

 

 

下り始めてすぐ、眼下に大沢林道が見えてくる。

 

 

 

林道に下りたあたりは標高およそ250m。

 

 

 

少しばかり林道を下っていく。

 

 

 

鳥居が見えた。

 

 

 

大釜弁財天(おおがま べんざいてん)。その昔、雨乞の信仰があった。

 

 

 

鎖が張られ鉄板が渡された先、大岩に囲われた岩屋には弁財天が祀られている。

 

 

 

大釜弁財天の滝は、小さなナメ滝の段瀑。

 

 

 

滝壺は激流でえぐられた凝灰岩が御釜のようになっている。

 

 

 

水量豊かな滝が白龍の如くうねり流れ下っていく。

 

 

 

岩屋の弁天様。

 

 

 

岩屋の奥からも水がちょろちょろと湧いている。

 

 

 

岩屋の前に渡された鉄板の上からは水流が間近に感じられる。

 

 

 

 

 

 

 

渓流を見下ろしながら林道をもう少し下り、弁天岩へ。

 

 

 

林道から眺める弁天岩(滑岩)。行政(厚木市)の観光マップでは「滑岩(なめりいわ)」と記されているが山岳界ではかなり古くから「広沢寺(こうたくじ)の弁天岩」と呼ばれている。登山地図の定番「山と高原地図 丹沢」(昭文社)でも表記は「弁天岩」。

 

 

 

ロッククライミングのゲレンデとなっている滑らかで巨大な凝灰岩の一枚岩。日曜日のこの日、多数のクライマーが岩を登っていた。

 

 

 

来た道を引き返し、七曲峠に戻る。

 

 

 

七曲峠から見城へ。

 

 

 

 

 

 

 

大きな岩が目立ち始めるともうすぐ山頂。

 

 

 

午後1時10分ごろ、見城台(みじょうだい。見城山。375m)の山頂に到着。

 

 

 

 

 

 

 

案内板。

 

見城台は七沢城(ななさわじょう)の出城となる砦であった。主郭(現在は七沢リハビリテーション病院脳血管センター)からは温泉場の谷を隔てて距離があり、独立した砦の様相を呈している。

 

七沢城が文献に登場するのは室町中期の宝徳二年(1450)ごろ。鎌倉公方足利氏と関東管領山内(やまのうち)上杉氏との間で合戦が起こり(江の島・七里ヶ浜合戦)、七沢城はその流れのなかで上杉方家臣により築かれた。

その後七沢城は扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の支配に取って代わられたが、長享二年(1488)には攻め寄せてきた山内上杉氏との間で城下において合戦が繰り広げられている(実蒔原の合戦)。
これらの合戦は、鎌倉公方足利・山内上杉・扇谷上杉が三つ巴となって覇権争いを繰り広げ鎌倉を長い戦乱に陥れた享徳の乱(1454〜1482)の前後となる。

 

戦国時代の1500年代には小田原北条氏の城となった記録はないようだ。扇谷上杉氏が北条氏綱(うじつな。宗家第二代)との抗争に敗れ没落していく中で廃城となったのだろう。

 

参考「神奈川中世城郭図鑑」

 

 

 

山頂から玉川(相模川支流)を隔てて七沢森林公園の里山あたりを見下ろす。森林公園の尾根道は180〜190mくらいあるが、ここから見下ろすと随分低く感じる。

 

 

 

七沢森林公園の「おおやま広場」越しに日産先進技術開発センター(旧青山学院厚木キャンパス)や富士通研究所が見える。

 

 

 

七沢リハビリテーション病院の建つあたりが七沢城址。

 

 

 

木の根元に設置された三枚の道標。

 

 

 

七沢温泉に下りていくには広沢寺(こうたくじ)駐車場方面と示された東の尾根へと進むか、来た道を七曲峠まで戻り亀石へ下って薬師林道に出るか、いずれでもよい。

 

 

 

神奈川中世城郭図鑑のコピーを頼りに城郭の遺構らしき跡をうろうろと探してみる。

 

こちらは東の尾根伝いに広沢寺温泉・七沢温泉へと下る道。

 

 

 

こちらは大釜弁財天・亀石・日向山方面(七曲峠)へ下る、今来た道。

 

 

 

東の尾根の側から山頂を見ると、どうやら「虎口」(こぐち。城の区画となる曲輪(くるわ)への出入口)の跡らしき地形が見られる。

 

 

 

午後1時40分ごろ、見城台から東の尾根経由で七沢温泉へ下山開始。

 

 

 

 

 

 

 

少し進むと、山頂から見るよりもはっきりと七沢城址(七沢リハビリ病院)が見える。

 

 

 

白い病院の建つあたりが七沢城址の主郭。

 

こうしてみると見城台は七沢城にとってかなりの遠方を見渡すことのできる物見台の役目を果たしたことが分かる。
ただ、七沢城は戦国時代の大軍で攻められたらどのくらい持ちこたえられるだろうか。それに交通の面でも背後が急峻な山岳地帯へと連なっていくこの地よりは相模川、中津川沿いの街道に沿って拠点を配置したほうが機能的ではある。だからこそ小田原北条の時代には利用されなかったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジグザグの急傾斜が続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石祠。

 

 

 

「文政十四夭卯正月十七日 施主林蔵」と刻まれている。

 

調べてみると文政十四年という年は存在しない。旧暦の文政13(1831)年庚寅(かのえとら)は12月9日で終わり翌日から天保元年庚寅12月10日となる。天保元年は12月30日までという短い期間で終わり、翌日は天保2(1831)年辛卯(かのとう)正月1日となる。
したがって、旧年中に日付を彫っておいたところ元号が変わってしまったがそのまま設置した、というのが真相のようだ。

昭和から平成に変わった時も昭和63年(1988)12月31日から昭和64年(1989)1月1日となり昭和64年1月7日の昭和天皇崩御により平成元年1月8日となった。だから旧年中に印刷された1989年のカレンダーは「昭和64年」となっていた。もしも昭和天皇の崩御が年末であったらこの石祠と同じことが起こってしまったことになる。

 

 

 

 

 

 

 

広沢寺(こうたくじ)温泉・七沢温泉分岐に到着。七沢温泉方面へと進む。

 

 

 

だいぶ下ってきた。

 

 

 

シカ除けフェンスの手前に広がる、ツリークロスアドベンチャー。林間の高所に張られたターザンロープ(ワイヤー)を腰に装着したハーネスと命綱で繋がった滑車で滑空するジップスライドが、ここ東丹沢山麓でも楽しめる。

 

 

 

 

 

 

 

シカ除けフェンスの扉。前に通った人の鍵(フック)の掛け方がよくなくて、受け部分でないところに無理に押し込まれていた。開閉は慌てずにゆっくりとお願いしたい。

 

 

 

午後2時20分ごろ、七沢温泉(ななさわおんせん)に到着。

 

「東丹沢七沢温泉郷」は広沢寺温泉、かぶと湯温泉(ともに一軒宿)と七沢温泉の総称。総じてアルカリ性の強い、なめらかな美肌の湯として知られる。

 

 

 

下りでおよそ40分かかったのだから、見城への登りは1時間近く見ないときつい。

 

 

 

下りてきた目の前は福元館。案内板にはプロレタリア作家の小林多喜二が逗留したとある。

 

 

 

七沢温泉バス停と中屋旅館。
県道の温泉入口から七沢温泉まで入ってくるバスは「厚38厚木バスセンター〜広沢寺温泉(七沢温泉経由)」だが本数は非常に少ない。

 

 

 

庭園露天風呂の案内。

 

 

 

秋の七草、萩の花。

 

 

 

元湯玉川館。「民話の里」七沢温泉の元湯は、民芸調の館内。

 

 

 

元湯玉川館の内湯は壁から天井まで総檜、漆塗の湯船で雰囲気がとてもいい。画像出典・元湯玉川館パンフレット。

 

立ち寄り湯も営業(公式サイトで要確認)しており私個人的には非常にお薦めだが、今回は七沢森林公園まで巡り歩くので立ち寄り湯には寄らず。

 

 

 

最奥から県道の温泉入口へと下っていく沿道にも宿が点在する。ここは福松。

 

 

 

盛楽苑の角、七沢荘への案内が立つあたりまで下りてくると七沢城跡バス停。

 

 

 

七沢城址の案内板。病院玄関への進入路を入っていった先に城址碑がある。

 

 

 

県道の七沢温泉入口バス停。ここまで来ると厚木バスセンターまたは伊勢原駅北口〜七沢など、バスの本数が多い。

 

すぐ前の黄金井酒店「てがるや」で山土産の地酒を購入。

 

 

 

酒店の隣りが黄金井酒造。日曜は休業日で閉門していた。

 

黄金井酒造は県内では規模が大きい酒蔵。焼酎や地ビールも造っている。

 

 

 

盛升(さかります)純米吟醸。日本酒度は+の低め、酸度はやや高め。ソフトなやや辛口の口あたりといった印象。穏やかな吟醸香がいい。
盛升は県内に販路を広げており、横浜市内でも純米あたりであれば購入できるスーパーがある。

 

 

3.県立七沢森林公園へ

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